Ep52: 【座標固定※ボンス】
占拠されたとは思えないほどに、アドネの広場はとても静かだった。
石畳の中央に噴水がある。平時であれば子どもが走り回り、行商人が声を張り、鳩が群れる場所だった。今は全員建物の奥に押し込められている。息を殺して、窓の隙間から外を覗いている者もいるかもしれなかった。
ゼルはその広場の中央に、浮遊していた。
外套が風もないのに揺れている。隣にルーラがいた。緑のツインテールの髪が肩のあたりで揺れている。小さな体が石畳の上に影を落としていた。
「……来ますね」
ルーラが小声で言った。
「ああ」
ゼルは答えた。視線は広場の入口へ向けたままだ。遠くから足音が聞こえていた。一人や二人ではない。整然としていた。乱れがない訓練された者たちの足音だった。
「ゼル様」
「何だ」
「私、ここにいていいですか」
ゼルは少しだけ、視線をルーラへ向けた。
「好きにしろ」
「……はい」
ルーラは頷いた。震えていた。だが足は動かなかった。
最初に現れたのはジェドルドだった。青い外套が朝の光を受けている。前回と違うのは、鎧を着ていないことだ。身軽な戦闘服。剣は腰に一本だけ。その代わり全身から魔力が溢れていた。制御された無駄のない魔力の奔流。
続いてガルド。両手には大剣を構えていて、重傷から戻ったとは思えない安定した足取り。
ライラ。右腕に白い包帯。それでも左手に剣を持ち、目が鋭い。
ボンス。相変わらず真っ黒のサングラスをかけているが、今日は前と同じ羊皮紙ではなく、真っ黒の薄っぺらい紙を持っていた。だが、その紙が魔道具だということを、ゼルは見逃さなかった。そしてボンスは珍しく口を閉じていた。
エリア。回復魔法使いとして派遣されたエリアは、Sランク冒険者と並び、モジモジした態度を取っていた。
そして——ネネ。一番後ろにいた。束ねてあるピンクの髪を揺らし、瞳がまっすぐゼルを見つめる。魔力の気配がほとんどない。封じているのか、あるいは——
ゼルは目を細めた。
あの女だけが違う。他の四人の魔力は見え、形があり方向がある。だがネネの魔力だけは最小限の奔流。内側に閉じ込められている。
器の大きさは溢れた時にしか分からない。
だとすれば、あの女は——
「始めよう」
ジェドルドが腰に差してある刀を抜いた。
次の瞬間、五人が同時に動いた。
ガルドが地面を蹴る。大剣に魔力を纏わせ、一直線にゼルへ向かう。
ゼルは驚いた。
速い。前より明らかに速い。速度に魔力を全振りしている。当たれば終わりという捨て身の踏み込みだ。
同時に、ライラが左手を広げた。
「スター・サジェタ」
88本の光の矢が生成された。角度がバラバラだ。正面や斜め上、あらゆる方向から同時に構えられた。
ボンスは黒い用紙に素早くペンを走らせる。
「書ける! 今なら——」
ゼルは怪訝な顔をしながらボンスの用紙へ斬撃を飛ばした。
「終わりだな」
「そうはさせねぇ!」
ガルドがボンスへ飛ぶ斬撃を前に刀を振った。本来なら貫通するはずだった。だが——
「『嵐刃!』」
風魔法で纏った大剣は斬撃と交わろうとする。
チっ……やっぱりか。
ガルドは心の中で舌打ちをした。予想外のことはやはり起こらず、大剣は簡単に斬撃で断裂した。そしてガルドがニヤリと笑うとボンスを用紙ごと蹴り飛ばした。
「時間稼ぎだァ! 一気に書き終えろォボンス!」
ボンスの魔術は、対象との距離20メートル内で書き終えなければいけないという制限と、対象との壁など遮る物があってはならないという制限があった。
また、魔法陣を書く時とてつもない集中が必要なため、逃げながら書くなど不可能。
だがガルドがくれた一瞬の時間により、ボンスの術式は完成した。
ボンスは地面に黒い用紙を叩きつけ、中心に手をおいた。
「座標固定——装填!」
黒い用紙から、しだいに魔法陣が広がっていく。ゼルの足元を中心に、半径五メートルの空間を固定しようとする術式。
半径三メートル——
半径四メートル——
半径五——になる瞬間、ゼルはボンスの術式が展開される前に右手を静かに持ち上げた。そしてゼルの周りに光が走った。鏡のような何かが出現したのだ。大きさは様々、手のひら程度のものから人の背丈ほどのものまで。それが十数枚、ゼルを中心とした空間に、角度も位置も全て異なる形で浮かんでいる。
半径五メートル——準備が終わった。
「展開!!」
魔法陣は激しい音を立てながら、地面から生えた鎖を伸ばす。
これは……?
ゼルは斬撃を放つ。普通ならそれだけで鎖は断裂するはずだった。
「……魔法が放てない!」
まさか……!
半径五メートル以内の物体は、どんな理由があろうと魔法が放てなくなる。ボンスの魔術は世界で最も高等とされる技だ。当たれば無敵、ハンデが大きい代わりにメリットが莫大。
ボンスがサングラス越しでもわかる、満面の笑みを浮かべていた。
「よし! 魔術が効いた、攻めるぞ!」
ガルドの風を纏った大剣がゼルへ投擲される。ライラの光の矢がゼルへと向かった。
「「行ける!」」
全員が勝ちを確信した。
「いや、甘い」
魔術発動前に『門』を出しておいて正解だったな。俺の門は既に展開済みの門であり、新たな魔法の「発動」ではないため封じきれない。門を動かせなくとも攻撃は分散させられる。
「——なんで」
ライラの光の矢が88本同時に鏡へ吸収され、異なる方向からライラ自身に向かって返ってきた。光を光で相殺しようとする。48本は消せたが、残りの約32本がライラの全身を弾いた。ゼルの体へ刺さったのはたったの八本。
「ぐぁっ」
鎧が光を受けて弾ける。吹き飛ばされながら着地した。
「なんで、どういうこと」
ライラは歯を食いしばり眉を潜めた。その瞬間、鏡に吸い込まれたガルドの大剣が別の角度から、ライラの背へ向かって飛び出てきた。
「——後ろ!」
声が間に合わなかった。
刃がライラの背を貫いた。
「ライラ!」
ガルドがライラへ急いで駆け寄ろうとする。
だがその瞬間、ライラの後ろからエリアが現れた。
「構わないでガルドさん! あなたはゼルだけを見て!」
エリアの手から白い光が漏れ出てくる。そして頬の傷をゆっくりなぞる。
命をかけてもいい。だから……
「ライラさん、絶対に魔王を殺して!」
白い光が段々と強くなっていく。
「白壊!」
みるみると頬の傷は深くなっていくが、ライラの傷は癒えていく。
「これは」
ジェドルドがゼルを見たまま言った。彼だけが動いていなかった。なのに……。
「テレポートとは、単なる非物体魔法ではない。これは鏡のようなものだ。真実をそのまま返す魔法」
ゼルの開発した新しい技。門を高密度に収縮させ、視界すらもテレポートさせる。
ジェドルドは汗を拭った。
魔力が桁違いだ。あの数のテレポートを同時に、しかも全部計算した上で——瞬時に配置している。
「なるほど。空間魔法の極致というのは、こういうことか」
「理解が早いな」
「事実を言っただけだ」
ジェドルドが踏み込む。魔力が剣を伝って溜まっていくのを感じる。ゼルは眉をわずかに動かした。
魔力は……強大なだけ強いわけじゃない!
「『天断・水鏡』」
剣から街を飲み込むほどの水斬撃が繰り出される。斬撃は天の雲を切り裂いた。だが門により斬撃はゼルには当たらない。
「当たらないか」
空から水魔法による雨が振り始めた。
ジェドルドは空に手を掲げておろす。水滴はゼルの頭上だけ高速で落ちた。ゼルへ弾丸のように雨が突き刺さる。
「よし!」
「ジェドルド! 当たったのか?」
ガルドがジェドルドへ詰め寄る。
「ライラの八本の矢と俺の水魔法が当たったのは、既に展開した鏡は位置を変えられないからだ」
ジェルドは目を見開いた。
広場の端で、戦いが始まっていた。
もう一人の勇者がいた。ネネだった。彼女はゼルへ向かわなかった。広場の入口から静かに横へ動いた。壁際を伝うように、ゼルとジェドルドの戦いを迂回するようにルーラへ向かっていた。
ルーラは気づいていなかった。ゼルとジェドルドのやり取りを、息を呑んで見ていた。
「——ルーラ!」
水滴が突き刺さった中、ゼルが声を上げた。
ネネの動きに気づいていたのだ。ルーラが振り向いた瞬間、ネネの斧が煌めいた。
音がなかった。ただピンクの瞳が静かに、ルーラの首元へ向かって斧が動いた。
一撃で終わらせるつもりだった。
刃がルーラの首を両断した。
——はずだった。
「……?」
ネネの表情が、初めて動いた。
手応えがない。刃がルーラの首を通り抜けた。抵抗なく、まるで液体を斬ったように。
だがルーラの首が崩れた。崩れて溶けて、緑色の粘体になった。そしてすぐに戻った。形が人の形に戻った。首が再生した。
「……びっくり、した」
ルーラが言った。声が震えていた。
「でも——大丈夫、です! ゼル様」
ネネは斧を引いた。ルーラを見ている瞳が細くなった。もう一度、斧を構えた。今度は心臓を狙った。刃がルーラの胸に沈もうとする。
だが粘体が刃を包んで斧が動かなくなった。ネネの手から剣が引き離されそうになる。慌てて引き抜くと、緑色の体液が剣に絡みついていた。
「……」
ネネは距離を取りながら、相手を観察する。ルーラは動かなかった。逃げなかった。ただその場に立っていた。
「逃げません」
震えながら言った。
「ゼル様の邪魔は、させません」
ネネはしばらく、ルーラを見ていた。攻撃が通らない。物理的に切れない相手に、短剣は意味をなさない。魔法を使えば別だがゼルの方が優先だ。
だが。
このまま置いていけば、背後に不確定要素が残る。
ネネは判断した。
魔力を、少しだけ解放した。ルーラの全身に静かな圧力がかかった。重力ではない空間の歪みでもない。ただの魔力の圧だ。Sランクの制御された魔力の圧が、ルーラの体を押さえつけようとした。
ルーラは、動けなくなった。
「逃げません」
また言った。
ネネは、それ以上ルーラへ近づかなかった。距離を維持したまま牽制し続けることを選んだ。結果としてSランクが一人、ゼルへ向かえなくなっていた。
広場の中央では、ジェドルドとゼルの視線が交差していた。ジェドルドは鏡を通じた反撃に対して、完全に攻撃を止めていた。剣を構えたまま動かない。
「聞いていいか」
「何だ」
「鏡の限界はどこだ。俺たちが同時に放つ攻撃の数が、お前の処理能力を超えれば——鏡が間に合わなくなる瞬間があるはずだ」
「試してみればいい」
ジェドルドは頷いた。
「そうする」
後方で、ガルドが叫んだ。
「ライラ! ボンスを守れ!」
完全に回復したライラが立ち上がる。
「分かった——!」
ライラが黒用紙に光魔法の盾を張った。
今のゼルに斬撃は使えない! 魔法も既に置いてあった鏡だけ! 制御はできないはず。行ける、勝てる! この戦い!
「いいねこの盾!」
「余計な声を出すなボンス」
「は、はい!」
ガルドが両手に大剣を構え直した。
「全員で同時に行く。鏡を超えさせる。ジェドルド、合図をくれ」
「ああ」
ジェドルドは深く息を吸った。
ゼルはその一部始終を見ていた。
表情は動かなかった。
だが——右手の指が、わずかに動いた。
「……少しは遊べるようだな」
低く、冷たく、それだけを言った。
広場の石畳が鳴いた。ゼルの足元から紫黒の魔力が溢れ出し始めた。外套が大きく広がった。
「どういうことだ! 魔法は使えないんじゃねぇのか!?」
ガルドが大剣を構えた。
ジェドルドは剣を構えた。腕に力を込めた。
「全員——」
心臓が縮まるような嫌な予感が全身を巡る。声が広場に響いた。
「構えろ!」




