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Ep51: 【リスクがどうの】

 勇者たちが撤退した後のこと。白い光が傷口から漏れた。

エリアの両手が震えている。魔力が底を突きかけていた。それでも手を止めなかった。止めればこの男が死ぬ。


「……もう少しだけ、じっとしていてください」

ガルドは石のベッドに横たわったまま、天井を見ていた。


だが何も応答しない。いつもなら「早くしろ」とでも言いそうな男が黙っていたのだ。


エリアは光を絞り込みながら、傷の深さを確かめていく。腹部と足の裂傷は深い。肋骨が二本折れている。これだけの傷を負って、アドネから生存して帰ってきたこと自体が信じられなかった。


 いや。

 この男が信じられないのではない。

 あの斬撃で、これだけで済んだことが信じられない。

 

エリアは知っていた。王都の夜、バラルガと戦った夜のことを。あれはゼルの部下の力だった。主が本気を出せばどうなるか——その答えが今日返ってきた。


勇者たちは五人で向かった。精鋭五百を連れて。


だがゼルは一人だった。


そして結果は、これ。


「聖女」

ガルドは顔をエリアに傾けた。


「お前は……あの男を、本当の意味で理解していたんだな」

エリアは手を止めなかった。


「少しだけ」


「少しだけ、か」

ガルドは目を閉じた。


「俺は今日まで、Sランクってのは世界で一番強いもんだと思っていた。まあ魔王とかいう伝説の話は別として……そういう意味で。でも」

言葉が途切れた。


「あの一瞬で分かった。あいつは、違う」

光が傷口に沈んでいく。肉が繋がる感触が手のひらに伝わってくる。


隣の台ではライラが右腕を抑えて目を閉じていた。右腕は繋がっている。ただ完全に使えるようになるまでには時間がかかる。


廊下の向こうでは、ボンスが「もう二度とあんな場所行かない絶対行かない」と呟きながら壁に張り付いていた。


ジェドルドだけが、傷の治療を断っていた。

窓際に立ち、腕を組んだまま外を見ていた。


エリアは彼の背中を時々見た。

あの男は何かを考えている。それが何なのか、エリアには分からなかった。分かりたくないという気持ちもあった。



***



 会議が始まったのは、日が傾いた頃だった。

大広間の長卓を囲んで、各国の代表が座っていた。国王、宰相、将軍、魔法師団の長。そして生き残った勇者たち。


先週までの熱気はなく、ドロドロとした寒気だけがあった。

誰も話し始めなかった。


最初に口を開いたのは、北の王国の宰相だった。六十を超えた白髪の男で、この大陸でも指折りの外交巧者として知られていた。


「……状況を整理します」

紙の束を卓に置く。


「アドネは現在、魔王ゼルの支配下にある。城は空間魔法によって要塞化されており、物理的な侵入が不可能。先遣の精鋭部隊はほぼ壊滅。勇者五名は全員、戦闘継続不可能な重傷を負って撤退」


誰も反論しなかった。事実だからだ。

「現時点で有効な対策は——」

宰相が言葉を止めた。

有効な対策が、ないからだ。


「座標固定だけ」

ジェドルドが静かに言った。窓から視線を戻し、卓を見た。

「あの魔法は空間そのものを断裂させる。ボンスが術式を用紙に書くまでの時間、全力で用紙が壊されないように守れれば対抗策としては機能するはずだ」


「……ですが空間ごと破壊されるということは、ボンスさんの魔術の時間と対象距離、その二つの短所が彼の技によって抉られるのでは?」


「となるとだ……別の手」


「別の手とは?」

宰相が聞いた。


「力で押し潰す」とガルドが言った。包帯を巻いたまま、椅子に深く背を預けている。

「俺が五人で駄目なら、五十人で向かえばいい。五十人で駄目なら五百人、五千人……」


「それでは駄目だ」

ジェドルドが遮った。

「あの一撃の射程を見たか? 半径数百メートルの空間が一気に裂けた。五千人で向かえば、五千人が一瞬で終わる。数の問題ではない」


「では、どうしろというんだ」誰かが言った。


エリアはあの末席で、膝の上で手を組んでいた。


 言いたいことがある。だが、言葉にならなかった。

 あの夜のことを——バラルガが岩塊を止めた理由を——誰かに伝えるべきだと思っていた。魔王には何かもっと強大な目的がある。いやそうじゃない。目的の影に潜む私達が知りもしない()()がある。ただ殺したいだけなら、あんな戦い方はしない。


 だけど。


今この会議室に、その言葉を受け取れる人間がいるとは思えなかった。


「封鎖するか」

一人の将軍が言った。

「アドネを孤立させる。周辺の街道を封鎖し、海路も塞ぐ。物資が入らなければ、いずれ——」


「アドネには何万もの市民が残っています」

エリアが口を開いていた。気づいたら声が出ていたのだ。


「封鎖すれば、魔王より先に市民が死にます」


「……それは」


「分かっています。分かっていますが、言わないわけにはいかない」


将軍が押し黙った。会議室の重さがまた増していく。誰が何を言ってもどこかに穴がある。どんな策も、何かを犠牲にしなければ成立しない。


 それが今の現実。


扉が開いたのは、日が完全に落ちた後だった。

飛び込んできたのは、伝令の兵士だった。走り通しで来たのか息が上がっている。顔がとても青かった。


「申し上げます!」

全員の視線が集まった。


「アドネより、脱出してきた民間人の証言が入りました」


「何事か」

宰相が立ち上がった。


「城からの……命令がアドネ全市に布告されたとのことです」

兵士は続けた。


「『七日に一度、大通りに集まれ』と。従わない者は家ごと空間ごと切り取るとの警告とともに。最初の布告では誰も来なかったと……」


「それで」


「翌日の朝、大通り沿いの建物が一棟、消えていたと。丸ごと。跡形もなく」

会議室は静まり返る。誰しもが息を呑んだ。


「二度目の布告では、住民の多くが広場に出てきたと言います。そして魔王は城の頂上から、広場に集まった市民を見下ろして」

兵士が、一瞬だけ言葉を止めた。


「何を、した」

宰相の声が、かすかに震えていた。


「……七日ごとに、広場に来いと繰り返した、だけです。今のところは」


「今のところは、というのは」


「まだ誰も、傷つけられていません。ですが証言した民間人の言葉では、あの城から見下ろされながら広場に立っている間、全員が死を覚悟したと。何も起きなかったのに、足が震えて立てなくなった者もいたと」


エリアは、目を閉じた。

 分かった。

 分かってしまった。

 ゼルは市民を殺していない。今のところは殺していない。だけど七日ごとに全員を広場に集めている。

 それは要するに周期ごとに全員に「今日が最後かもしれない」と思わせているということだ。

 殺すより、残酷かもしれない。


「一つ、追加の報告があります」

兵士が、また口を開いた。


「アドネ港から出入りしていた商船が、今日から全てゼルの許可なしには動けなくなっています。港に鏡のような壁が作られたと——」


「壁? 港を占拠したのか」


「はい。大陸最大の商業港が、完全に魔王の管理下に入りました。物資の流れが全て止まります。アドネに依存していた内陸の街は、早ければ一ヶ月で食料が」


「分かった」

宰相が手を上げ、兵士が下がった。会議室の中で誰も動かなかった。誰も口を開かなかった。


ガルドが、ゆっくりと立ち上がった。包帯が動くたびに軋む。それでも立った。

「……分かった。行くしかない」


「ガルド?」


「罠だと分かってる。向こうが待ってるのも分かってる。だが行かなければアドネの市民が七日ごとに死の恐怖の中に放り込まれ続ける。港が止まれば内陸が死ぬ。時間は向こうの味方だ」


誰も反論しなかった。

「今度は全戦力で行く。Sランクを全員集めろ。神殿の最上位の術師も呼べ。使える戦力を全部持って正面から叩きに行く」


「勝てるのか」

誰かが聞いた。ガルドは一瞬ジェドルドを見て微笑んだ。


「勝てる」


ジェドルドが窓の外を見たまま、静かに口を開いた。

「一つだけ付け加える」


全員が彼を見た。

「今度は、ネネを最前線へ立たせる」


会議室に、小さなざわめきが起きた。そしてジェドルドは席の端で静かにしていたネネへ、視線を向けた。

「お前を前に出せば、魔王も無視できないはずだ。お前の魔力量は本物だ。俺が保証する」


「リスクが」


「全てがリスクだ。どの道を選んでも誰かが死ぬ。問題は誰をどれだけ死なせるか、だ」


エリアは両手を膝の上で、ただ握っていた。

頭の中にまたあの一つの言葉が繰り返されていた。


『主の邪魔になるものを排除しようとした。だが今ここで殺す必然性を、私は主から与えられていない』


ゼルには目的がある。市民を七日ごとに広場に集めることにも、港を占拠することにも意味があるはず。


 それが何なのか。

 誰も、問おうとしない。

エリアは口を開きかけた。

そして——閉じた。


 今は、この言葉を受け取れる人がいない。だって私はAランクだし、駆け出し者だ。

 

会議室の外で、風が鳴った。

遠くで波の音がした気がした。

アドネの方角から。


 その夜、エリアは一人で廊下に立っていた。

窓から、星が見えた。何万という人間が、今夜もあの城の影の中で眠っている。七日後に何が起きるか分からないまま。明日も同じ朝が来ると信じようとしながら。


「ゼル……・アルヴァルト」


呟いた。声にしたのは初めてだった。


「あなたは、どうしてそんな目をしてるの?」

遠くの星が、冷たく光っていた。

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