禁、犯すべからず
かつての彼は、とても弱い存在でした。
秋の実りがどれだけ豊かでも、同族の中でもっとも弱い彼の取り分はありませんでした。
自分が先に見つけたハチの巣だってすぐに誰かに奪われてしまいます。
腹をすかせた彼は、食べ物を求めて山を下りました。
山の下には彼の同族はいませんでした。しかも食べ物が豊富にありました。
同族のいないその地では彼は誰よりも強く、故にその地の物は全て彼の物でした。
こうして、彼は強くなりました。
強さとはすなわち奪われないこと。
強さとはすなわち奪うこと。
彼には「鬼熊」の名が与えられ、人に恐れられる存在になりました。
その名に捧げられる恐怖に惹かれて物の怪達が集います。
尾ひれがついて、集まって、形を成した物の怪達が、鬼熊に力と知恵を与えます。
――恐れを集めよ。そうすればお前はもっと強くなる。
物の怪達にそそのかされて、鬼熊は生き物の枠を踏み越えました。
かくて妖怪「鬼熊」は誕生しました。
でも。
鬼熊はとても大事なことを見逃していました。
かつて彼を脅かした同族たちは、何故その地にいなかったのでしょう。
かつて弱き獣だったモノよ。恐れを忘れたバケモノよ。
今再び知るがいい。
汝、禁犯すべからず。
此よりは獣の理の通じぬ所。
闇のご加護の届かぬ所。
即ち。
――人域である。
――――――――――
「こんにちは。あなたが鬼熊さんですね。僕はクロイチと申します。颯さんに撃ってもらうため、あなたをここから追い出しに参りました」
突如目の前に現れたその小さな生き物は、実に不快な声で鳴きました。
恐怖の化身たる鬼熊を前に、恐怖も絶望も含まない声を上げるなど不遜千万。あってはならないことです。
「あなたに傷をつけてはならないと厳命されています。つきましては大人しくここを追い出されて、颯さんの前に直っていただけますでしょうか」
見れば不快な声を上げる小さな生き物、それはヒトの子供でした。
ヒトとは恐怖というご馳走が詰まった革袋のようなものです。
そしてヒトに最も恐怖を与える方法はヒトを喰らうことであると、彼は既に知っていました。
そして喰らうヒトは小さければ小さいほど良いということも。
小さなヒト引き裂いた時に迸る感情は、それはそれは甘いのだと、物の怪達が教えてくれました。
恐怖を存分に喰らったら、残った皮はできるだけむごたらしくばらばらにして、同じ臭いのする人間の家の周りに撒くのが効果的。
そうすればさらにたっぷりと「感情」が手に入るのだと、彼を取り巻く物の怪達が囁きます。
先日豚で練習しましたから、やり方もばっちりです。
早く腹を引き裂いて恐怖の声を上げさせたい。生きたままはらわたを喰らい、その迸る感情をしゃぶりつくしたい。
でも焦ってはいけません。メインディッシュの前に、まずは前菜を楽しまなければ。
鬼熊はぬっと、二足の足で立ち上がりました。自分の体の大きさを知らしめて相手に絶望を与えるためです。
期待に舌なめずりしながら獲物を見下ろした鬼熊は、しかしふと妙なことに気がつきました。
足元の小さきヒトからは恐怖が全然伝わってこないのです。
「うん? それはもしかして、僕を威嚇しているつもりですか?」
ヒトの子供が微塵も恐怖を含まない声で鳴きます。
「言葉はわからないのか。じゃあ別のやり方にしよう」
小さなヒトは短く鳴くと、一歩前に足を踏み出してきました。
その様子があまりにも不快だったので、鬼熊はつい一歩後ずさってしまいました。
するとその分を詰めるようにして、小さなヒトが近づいてきます。
不快、不快、実に不快。
不快すぎて背中に冷たいものが走ります。
仕方なく鬼熊はさらに一歩、後退しました。
するとヒトはまたその分を詰めてくるのです。
弱くて小さいヒトの子の不快で不遜な態度に苛立ち、鬼熊が咆哮を上げようと喉をぐるうと鳴らしたその瞬間。
眼前の小さなヒトの存在が爆発的に膨れ上がりました。
ぅううぉおおおおーーんんっっ!
ヒトの口からその小さな体に似つかわしくない咆哮が発せられました。
それは実に、実に不快極まる鳴き声で、鬼熊は思わず上げるはずだった咆哮を飲み込んでしまいました。
こんな不快な声を聴かされてはたまりません。
鬼熊はその小さなヒトを喰らうのをやめることにしました。どうしたことかすっかりその気が失せてしまったのです。
だいたい彼の狩場には小さなヒトなどいっぱいいるのです。いっぱい入ったタテモノの場所もちゃんと覚えています。
なにもわざわざあんな不快で不味そうな物を食べる必要はありません。
鬼熊は四つ足に戻ると、小さなヒトに背を向けて歩き出しました。
しかし別の獲物を探すことに決めた鬼熊の後を、小さなヒトがついてきます。
不快。不快。正直迷惑。
「もう少しキリキリ歩いてくれませんか。颯さんをお待たせしてしまう」
その声が相変わらず不快だったので、鬼熊は少し足を早めます。
するとその時どこか遠くの方で、あおーんとさっきと同じ鳴き声が上がりました。
さらにそれに答えるように、うおーんと不快な声が上がります。今度は割と近くだったようです。
不快、不快、実に不快。
これではまるで不快な声を上げる何かが、山の中に大勢いるようではありませんか。
そんな不快な想像に耐えかねて、鬼熊は歩くのをやめ、走ることに決めました。
――――――――――
「颯さん、クロイチからの伝話です。間もなく鬼熊がこちらに現れます」
分身体とクロは離れた距離でも情報や意思の疎通が可能です。また分身体同士も途中にクロを介することで連携し合うことができます。
結果クロの分身たちはまるで軍の精鋭部隊、あるいは一つの生き物の様に統率がとれた作戦遂行が可能なのです。
「オッケー。いつでもいいぜ」
颯も予定の場所でしかとライフルを構えました。
先程遠吠えが聞こえたのでそろそろだろうと思っていたところです。
クロの話によると、鬼熊と名付けられたあの熊はただの大きいだけの熊ではないのだとか。
人々に恐怖をばら撒くうち、物の怪に憑りつかれて恐怖を喰らう化け物になってしまったのだということです。
恐ろしい話ではありますが怯んでばかりもいられません。
「このままだと間もなくあいつは人を喰います」
クロはそう断言しました。
それが恐怖を集めるのに一番手っ取り早い方法だからです。
妖怪が感情を喰らうモノだというのは颯も知っています。
しかし自身の娘である凪紗をはじめとして、颯が今まで出会って来た物の怪達は皆、人間以上に人間らしく気持ちのいいモノ達でした。
それに物の怪が熊に取り付いて悪さを働くなんていうのは眉唾ものです。
紅珠の言葉によく従い、ご褒美のご飯を求めて常に兵太郎の役に立つチャンスを伺う目に見えない不思議な存在。
それが颯の知っている物の怪です。うちの娘とも多少の交流があるらしい。
本当はそんな縫霰山の物の怪達の方が眉唾存在だなんて知りませんでした。
でも物の怪は人の心に応えるのだそうです。
人が鬼熊を恐れ、何より鬼熊自身がそれを望んだ。そうして鬼熊は化け物になりました。
肉ではなく、恐れを求めて人を喰らう化け物に。
「……来ます」
クロの声に颯は雑念を払い、一段階集中を上げました。
やがて谷底の狭い道の向こうに一頭の熊が現れました。
その姿に颯は息を飲みます。
「なんてデカさだ。ヒグマじゃあるまいし」
峰の上から見た時にも驚かされましたが、至近距離ではやはり圧が違います。
恐怖を喰らってデカくなったのか、デカくなったから恐怖を喰らうことができたのか。
恐怖の化身たる巨大な熊はしかし、背後のなにかに怯えるように、一直線にこちらへと駆けてきます。
それはまさに颯のライフルの格好の的でした。
集中、最高段階。
照準、距離、問題なし。
だーーん!!
木々を揺らす轟音。放たれた弾丸は狙いたがわず見事鬼熊の右の肩口に命中しました。
しかし。
鬼熊は倒れることはありませんでした。その大きな体に相応しい丈夫な骨と鬼熊を包む物の怪達が、弾丸から鬼熊の体を守ったのです。
それでももちろん全てを弾けたわけではありません。
右肩に感じる不快な灼熱感。恐怖の化身たるこの身が痛みを感じるなど、あまりに理不尽な話です。
鬼熊は二本のそりと立ち上がりました。
見回すと前方にヒトが二人。この痛みはあいつらのせいに違いない。
どうやってとか、そんなのどうでもいいのです。あいつらのせいじゃないかもとかは、もっとどうでもいいのです。
自分がこの痛みを受けた時に居合わせた。恐怖をぶちまけて死ぬ理由はそれで十分。
ぐるるるぉおおおっ!
鬼熊は怒りの雄たけびを上げるとともに、はるか前方のヒトに全速力で突っ込んでいきました。
「ちぃいッ!」
妖気を纏う鬼熊は恐怖そのもの。
対する熟練ハンターの手のひらにも汗がにじみます。
それでも務めて冷静に。二の矢をつがえるべく颯はライフルのボルトに汗ばんだ手を掛けました。
しかし颯がボルトを引くよりも早く、その横から疾風の如く黒い影が飛び出します。
妖怪と化した熊を一撃で仕留められない可能性は想定済み。
手負いとなった鬼熊を逃がすわけにはいきませんし、なにより颯の身の安全は最優先。
だからクロが此処にいるのです。
毛皮に傷はつけられない。着弾した場所以外に骨折箇所があるのもちとまずい。この条件を満たしつつ鬼熊を抑え込むという大役は、分身たちには任せられません。
クロは谷底の中央辺りで猛スピードで突進してくる熊の前に立ちふさがりました。
突進してくる大熊の衝撃は走行する車とさほど変わりません。
普通ならばクロの小さな体など、数十mも跳ね飛ばされてしまうでしょう。
普通なら、ね。
クロは腰を低く落とし、拳を地面につけて迫りくる鬼熊を睨みつけました。
大地を踏みしめて如何なる衝撃を設け止める、発気揚々の構えです。
果たしてどん、という鈍い衝撃音と共に跳ね飛ばされて地に転がったのは、時速60 kmで突っ込んできた体重300kgの巨体の方でした。
まるで地に広く根を張った大樹のよう。突っ込んだ衝撃を自ら受けることになった鬼熊は、何が起きたのかわかりません。
改めて身を起こして見れば、そこにいたのは小さなヒトでした。
さっき突然膨れ上がったヒトと同じ臭い。
だけどその小さな体から発せられる不快な感覚は、あの咆哮と共に膨れ上がった同じ臭いの存在よりも、何十倍も大きくて。
「ぐるあっ!」
鬼熊は身を起こすと、再び小さくて不快な何かに突進します。
そうでもしなければとても耐えられませんでした。
それはこの世にあってはならないもの。存在を許してはいけないモノ。
どんぐりも、たけのこも、蜂蜜も、動物の死骸も、鬼熊から全てを奪っていく不快なモノ。
鬼熊はそのモノの名を知りません。
恐れを好む物の怪達が鬼熊に憑りついた本当の理由。
それは鬼熊が誰よりも恐れを恐れたから。
恐ろしすぎて、恐れを忘れてしまうほどに。
鬼熊の突進を、小さなヒトはひらりひらりと躱します。
目の前から消えないその存在に苛立ち、鬼熊は立ち上がりました。
熊の攻撃の中で最も恐ろしいのがその腕による振り下ろしです。
俗に熊の一撃といわれるその攻撃は、一撃で獲物を絶命させるのに十分な力を持っています。
並の熊でも数百キロ。巨体を誇る鬼熊ならばその衝撃は、優に一トンを超えるでしょう。
そんな一撃が、何本もの鉈のように並ぶ爪と共に襲ってくるのです。
不快な存在に鉄槌を下すべく、鬼熊が左手を振り上げたその瞬間、クロはるか後方へと飛び退りました。
逃げた、のではありません。
その手が邪魔だったのです。ずっとそれを狙っていたのです。
振り上げられた恐るべき左手、でもそのせいで大事なところががら空きです。
そう。鬼熊を倒すのは、クロの仕事ではありません。
「颯さん、今です!」
「ナイスだぜクロちゃん!」
だあーーーーん! と山を震わすその音すらも置き去りに。
颯の放った弾丸は見事、鬼熊の心の臓を貫いたのでした。
「物の怪に憑りつかれる、か。……俺も気ぃつけねえとな」
鬼熊を仕留めた後、かつて熊撃ちにのめり込んで奥さんと娘に逃げられた猟師は、ぼそり、と一人呟いたのでした。
かくて多くの被害をばらまいた鬼熊は討伐されました。
翠川 颯という猟師に市が正式に依頼を出してからわずか三日の事で、人々はその腕前を大いに称えたということです。




