熊とオオカミ
「ふむ。クロゾウかの?」
こくり家の庭先、ふと発生した気配に紅珠が話しかけると、クロそっくりの少年が現れて膝をつきました。
「御意。クロゾウにございます」
任務中のクロが現れるはずはありませんから、分身体の誰かだというのは分かります。でも紅珠が言い当てられたのは分身の区別がついたからというわけではありません。
単に最も足が速く活動範囲も広いクロゾウが伝言役としてよく使われるからです。
「なるほどの。ご苦労じゃったな、クロゾウ」
報告後、紅珠に直接ねぎらいの言葉を掛けられて、クロゾウはさらに深く頭を下げました。
なるほど、クロが電話ではなくわざわざクロゾウをよこしたのも分かります。
鬼熊と名をつけられた熊が恐怖を集め、妖怪になろうとしている。事は重大です。
縫霰山の外のこととはいえ、山の神としては放ってはおけません。
妖怪の誕生には長い年月がかかるのが普通です。しかし、このルールは様々な条件によって簡単に覆されてしまいます。
素質があったとはいえ小さな鼬がある日突然人の童に変わったように。
鬼熊という名を与えられた熊。
ネット上で恐ろしい存在として語られる鬼熊の噂。
形のない噂に対する恐怖に引き寄せられた物の怪達が作り上げた「鬼熊」が、「鬼熊」と名付けられた熊に取り憑いて、一つになったのが此度の「妖怪鬼熊」なのでしょう。
一大事ですが紅珠に焦る様子は在りませんでした。
由々しき事態であり、予想の外の話でもありましたが既に手は打ってあるのです。
今更焦る必要はありません。
「クロに伝えよ。『任せる』、とな」
たかが生まれたての妖怪一匹何するものぞ。
山の神に使わされしは、大群れを率いる大神の長。
人に妖にその名を轟かす、天上美味のこくり家の、イケメン店員クロなるぞ。
「はっ!」
紅珠の言葉にぶるりと体を震わせると、クロゾウは瞬時に姿を消しました。
ただその瞬間、頭の上には耳が飛び出し、お尻にはしっぽが生えていたことに紅珠は気がついていました。
もともとお仕事大好きのクロとその分身たちです。任された役目が大きいほどに嬉しくなってやる気としっぽが出てしまいます。
「さて、旦那様には伝えておかんとじゃな」
紅珠や藤葛にもしっかりと忠誠を捧げるクロではありますが、それでもやっぱり一番褒めてもらいたいのは兵太郎からに決まっています。
そもそも大体現在進行形での妖怪化とか、本当は一大事なんです。向かったのがクロだから安心していられるだけ。
そのくらいの大仕事ですから、ちゃんと旦那様からも褒めてもらえるように取り計らわなくてはなりません。
「それはそれとして、儂も兵太郎になでなでして欲しいんじゃがのう」
兵太郎はもちろん紅珠のことだって撫でてくれます。それは間違いなく至福の時間なのですが。
クロを撫でる時みたいによしよしこちょこちょしてもらうのもいいなあ、儂もあれやってほしいなあ等と思ってしまう千年化生なのでした。
――――――――
クロの分身の一人クロイチが発見した鬼熊は、倒木によって急な斜面に出来たくぼ地に潜んでいました。
颯とクロは尾根沿いからのぞき込むようにしてそれを見ています。
鬼熊は妖怪になりかかっている。
クロからそう聞かされた時は随分驚かされたものですが、同時になるほどと納得もしました。
只面白半分に壁や機材を壊して回る様は、言われてみれば確かに見る物の恐怖をあおるための物です。
なにより実際にその姿を見れば鬼熊がただの獣でないことにも納得せざるを得ません。
「すげえ迫力だなオイ。こんだけ距離が開いてるってのによ」
今まで何度も熊と対峙してきた颯の額にも嫌な汗がにじみ出てきます。
いや、そんな颯だからこそ鬼熊の恐ろしさがわかるのかもしれません。
しかも鬼熊はこちらに気がついていない状態です。
恐怖を糧とする鬼熊ですから、至近距離で相対したときにはさらに恐ろしく感じるはず。
「あんなんが通学路に出てきたってのか……。ったく冗談じゃねえな」
子供ならば一目でトラウマになるレベル。大人だって数日は悪夢にうなされることでしょう。
なんとか塾の事があったとはいえ、颯は駆除に乗り出さなかったことを後悔せずにはいられません。
――自分にはそのための力があったというのに。
「頼りにしてるぜ、クロちゃん」
颯は傍らにいる少年クロに話しかけました。
「はい。お任せください」
クロの身の丈は自分の腰程度。
しかし耳と尾を生やした少年は、なんとも心強いのです。
怪物と化した熊と対峙しなければならない恐怖も吹っ飛んでしまいそう。
「では狙撃場所は先ほどの所でいいでしょうか」
「おう。あそこなら間違いねえ」
颯が指定したのは、谷の底が急に狭くなっている、いわゆるボトルネックという地形になっている場所でした。
狙撃には絶好のポイント。
しかしそこにどうやって誘導するかというのが問題になってくるわけです。
普通なら、ね。
「畏まりました。聞いたな、お前たち」
くるりと振り向いたクロにつられて、颯もそちらを見やります。
いつの間にかそこにはクロそっくりの三人の少年が膝をついて控えていました。
膝をつく三人の少年はクロの分身で、それぞれクロイチ、クロジ、クロゾウというそうです。
颯にはさっぱり見分けがつきませんが、クロが仕えるこくり家の店長兵太郎は自分が付けたそれぞれの名をしっかり区別して呼びます。
どうやって区別しているのかと聞いてみたことがありますが、当の兵太郎は不思議そうに首を傾げるだけでした。
違う人間を見分けるのに区別の必要がないように、兵太郎にとっては三人を見分けるのに区別の必要はないのです。
全く不思議な話ですが、そんな兵太郎だからこそ、クロとその分身たちはあの男に忠誠を誓っているのでしょう。
「颯さんは毛皮をご所望だ。傷を付けるはオオカミの名折れと心得よ」
「はっ!」
リーダーの無茶ぶりに当然とばかりに応じる少年たちに、颯はぽりぽり頬を掻きつつ苦笑い。
「……おいおいマジかよ。全く、頼もしいねえ」
確かに鬼熊は数多の恐怖を喰らいました。
そしてごく短時間のうちに強大な力を身につけました。
しかし成りかけ如きが幾ら恐怖を喰らってとてその俄か力、大好きな主から美味しいご飯を日々たらふく頂いている大妖怪に及ぶ由もなし。
「牙に依らず。爪に依らず。唯一つ、恐怖を以て追い立てよ!」
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おまけ
裏設定のお話
クロの分身たちのこと。
クロイチ:分身体の中では最強。リーダー格で狩りの能力も最も高い。
クロジ :三体の中では一番表情がとぼしいんだけど、接客はピカイチ。そのギャップでお姉さんからの人気が高い。
クロゾウ:クロを離れて行動できる範囲が最も高い。伝令の役を任されることが多いく、最近はお使いもこなす。ちょっと泣き虫。
分身、と呼んでいますが眷属みたいなものだと思ってください。ファミリア召喚、というやつです。
クロちゃんはオオカミの群れの長で、同時にオオカミの群れそのものです。
ちなみに分身三体がそれぞれ分身して十二体が束になってかかってもクロには勝てません。戦闘はもちろんですが、接客やお姉さんからの人気も圧倒的№.1です。




