第22話 「re-birth」
<1>
とてつもなく気まずい空気が漂っていた。その場にいる当事者以外の全員が、何をどうすれば良いものかと困惑していた。
“当事者”の中心人物は煌侍と瑛時の二人で、その近くに“準当事者”とでも呼ぶべき璃矩と維那がいた。璃矩の顔色は蒼ざめていて、維那は感情を殺しているかのように無表情であった。
「クソッ!」
冷たい道場の床に膝を突き、肩で大きく息をしている瑛時が、もう何度目か分からない呪詛の言葉を吐いた。そんな彼を煌侍が恐ろしく冷ややかな視線で眼光で見下ろしている。
いったいどうして、こんな事態になってしまったのか。
今日は日曜日、恒例の「教室」が鎌坂家の道場で開かれていた。今回参加したのは、焼刃家より煌侍、三姉妹、ブリュンヒルデ、鎌坂家側からは瑛時、維那、璃矩、その他のメンバーとして森岡阿亜樹、鳳鳴鈴とそのお付きの烏家五姉妹。近頃のいつもの面子だった。
きっかけは、休憩中に阿亜樹が発した何気ない一言だった。
「瑛時さんは将来どうするんですか?」
彼女にとっては、ごくごく普通の日常会話に過ぎなかった。だが結果的に、その一言が火種になってしまった。どうしてそうなったのかと言うと、火を点けた人物がいたからだ。
「璃矩を守る」
いつものように瑛時は同じ答えを即答した。嘘偽りのない本心だ。周囲もそれを微笑ましく聞いた。しかし、一人だけそうではない者がいた。
「おまえ、いっつもそればっかじゃねえかよ」
焼刃煌侍の冷笑。
「何が悪い?」
あまりの煌侍の態度に、カチンときた瑛時が即座に反論する。他の皆も訝しむ。彼の口の悪さはいつもの事だが、いつもとは何かが決定的に違う印象を受けたのだ。
「毎回毎回『守る守る』って言ってっけど、具体的にはどうすんだよ?四六時中璃矩に張り付いてボディガードか?」
「必要ならばそうする」
「アホかおまえ?じゃあどうやって璃矩を食わすんだよ?ヒモか?」
「私にはこの刀がある」
「はっ、賞金稼ぎにでもあるつもりか?『一子相伝』にこだわってる、おまえんとこでか?道場も開けねえくせに。今時何言ってんだ。実質ノープランじゃねえか」
「我が鎌坂家一子相伝剣闘術を愚弄するつもりか!」
瑛時が激昂する。対して煌侍は「してやったり」の薄笑いを浮かべる。
「何が『一子相伝』だ。つまんねえ事にこだわってカビ生やしてんじゃねえよ。一款能賜舞を見ろ、門戸解放して前途洋々だぜ」
「つまらんだと!」
ついに瑛時が煌侍の胸倉を掴んだ。二人の身長差は一センチしかない。自然とお互いの両目を同じ高さで直視する恰好になる。道場内がより騒然となった。
「おまえ、璃矩と刀のどっちが大事なんだよ?」
「なんだと……」
意表を衝かれた瑛時が言葉に詰まる。
「即答できねえのか。おまえ、ほとほとつまんねえ男になっちまったな」
次の瞬間、瑛時の身体は宙に舞い、したたかに床に背を打ち付けられていた。
「ぐはっ」
息が詰まり、視野が白んで狭くなった。……煌侍がいつ投げの動作に入ったのかも気付かなかった。
「立て。おまえの自慢のその刀でオレを黙らせてみろ」
カラン、と無造作に瑛時の愛用の木刀が彼の目の前に投げ捨てられた。
<2>
かすりもしない。瑛時がこれまで心血を注いで磨き上げてきた太刀筋が。
全く見えない。煌侍の動きが。
瑛時は木刀を構え、煌侍は素手。だが、まるで勝負にならない。大人と子供だ。木刀は空しく空を斬り続け、その度にペナルティを受けるがごとく、瑛時の身体は木の葉のように吹き飛ばされた。
「瑛時!煌侍!もういいでしょ!もうやめて!」
たまらず璃矩が飛び出し、両者の間に割って入ろうとする。
「我慢しろ」
煌侍に鋭い眼光で射すくめられ、彼女の身体はピクリとも自分の意思で動かなくなってしまった。
(え、うそ、なんて眼力よ、こいつ…)
「どうした?終わりか?瑛時」
煌侍の感情のない声。
「まだまだァ」
瑛時は力を振り絞り、ゆらりと立ち上がる。
「そっか。まだ分かんねえか。いや、認めたくないだけか」
結果は同じだ。先程までの再現VTRを見せられているかのような光景。
(潮時だな)
煌侍は一度目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「鳴鈴、あれをくれ」
「かしこまりましたわ、煌侍様」
そう言ってうやうやしく鳴鈴が差し出した物、それは瑛時にも見覚えがあった。
「煌侍、おまえ、そこまで私を虚仮にするか!」
煌侍の手に握られた物、孫の手を目にした瑛時の全身から怒気がほとばしる。その姿に怯えた阿亜樹が小さく悲鳴を上げた。
「鎌坂家一子相伝剣闘術奥義、真光背せ――」
「遅ぇ」
乾いた破裂音がして、細かい木片の粒子が宙に漂う。瑛時が必殺の技を放とうとしていた木刀は、根元だけを残し、蒸発してしまったかのようにその身を失っていた。
「――――」
瑛時は放心していた。彼が長年に渡って鍛え上げ、苦楽を共にしてきた愛刀は、半瞬にも満たない内に再起不能になってしまったのだ。
「目ぇ覚めたか?」
煌侍の平坦な声が、瑛時の耳に遠く聞こえる。刀が折れ、心も折れる。刀が砕けたと同時に、彼の「刀対刀の勝負なら勝てる」という自信も、もろくも砕け散った。
「武器勝負なら勝てるとでも思ってたか?いつまでも前のままのオレなわけねえだろ」
煌侍は退屈そうに手にしていた孫の手を放り投げた。それが床に落ちた音が、静まり返った道場にやけに大きく響いた。
「クソッ!!」
今の瑛時はそれだけ言うのが精一杯だった。
「そうだな……」
煌侍はあごを左手の親指と人差し指でつまみ、何やら思案するポーズを取った。
「一ヶ月ありゃ阿亜樹をおまえより強くできるな」
「えっ――」
その言葉に最も大きな反応を見せたのは、やはり阿亜樹本人だった。思いもよらない一言によって、ショック状態から引き戻された、といった様子だ。
「それ、本当なんですか?」
「おう、余裕余裕。精神も技も何もかもな」
「あたしが、瑛時さんよりも強く……」
今そういう想像をするのは不謹慎だと分かっていながらも、阿亜樹はそれを止められない。諦められない夢を実現するチャンスが思いがけずやって来たのだ、みすみす見逃すのはもったいない。
「見ろ。阿亜樹の方が瑛時なんかよりずっと見込みがある」
煌侍は満足気だが、阿亜樹はどういう態度を取って良いものか分からない。喜んで良い雰囲気ではない事は分かる。
「ちょ、ちょっとズルイでちゅわ煌侍様っ!お教えくださるのならわたくしにお願いいたしまちゅわっ」
たまらず鳴鈴が割り込んで来た。そこに烏家五姉妹が加勢し、三姉妹とブリュンヒルデが応戦する。先程までの息苦しさはどこへやら、一気にスラップスティックな様相を呈してきた。
だが、
「なんだってのよ」
そうはさせじ、とする者がいた。
「なんだってのよ、みんなして!よってたかって瑛時を笑い者にして!」
秋橋璃矩である。
「『我慢しろ』っつったろ」
「やれやれ」と言った表情の煌侍。
「できるわけないでしょ!なんでこんな事になったのよ!?」
かなり頭に血が上ってしまっている。彼女にとってこの状況は、イジメ以外の何物でもなかった。
「おまえの“それ”だよ」
「は?」
半分疑問、半分キレ気味の素っ頓狂な声を出す璃矩。
「おまえのその甘やかしが、瑛時の成長を妨げてる」
「何を言い出す!?」
「そんな、嘘……」
反発の声を上げたのは瑛時と璃矩だけ。他はみんな、「ああ、納得」と言う表情で、それを声に出さないのはせめてもの配慮だった。「またまたー」と周囲を見渡した反対派の両者だったが、味方が誰もいない事に気付かされただけだった。二人が最後に維那を見ると、「ようやく気付きましたか」と言いたげな呆れ顔がそこにはあった。
「バカ夫婦が。過保護過ぎんだよ、ちったあ手ぇ離せ」
赤面してうつむいてしまう瑛時と璃矩。その姿に、やっと場の空気が和んだ。
「璃矩はもうちったぁ瑛時を信用しろ。瑛時は甘えんな。もうガキじゃねえんだ、ほんとはおまえら自身で気付くべき事なんだぞ?」
父兄のような煌侍の言葉に、維那が「よくぞ言ってくださいました」と言わんばかりの安堵の表情を見せる。肩の荷が下りたような、胸のつかえが取り除かれたような、そんな様子だ。
<3>
「瑛時、おまえの苗字は何だよ?」
「『鎌坂』だが」
「またこいつは突拍子もない事を言い出したな」と内心思いながらも、瑛時は生真面目に答える。もう長い付き合いだ、煌侍の言動にいちいち疑問を持っていては、何もかももたないと知っている。それに、経験論だが、彼の行動には必ず何がしらかの意味がある事も知っている。
「鎌ってのはどんなのだよ?」
またしても答えの分かりきった事を問う。
「こう、刃が反っていてだな――」
そこまで言って、瑛時は何かに思い当たったような顔付きになる。
「おまえはまっすぐ過ぎんだよ。まっすぐ過ぎて、周りが全然見えてねえ。おまえの剣の道に対する情熱は大したもんだ。けどな、同じ刃が付いた武器だって色々ある。おまえは最短距離を最速で走ってるつもりかもしれねえが、それが璃矩とのベストとは限らねえ。そうだろ?」
「……そうか。そうだな……」
瑛時は煌侍の言葉を噛み締める。表現には色々と問題があるが、言わんとしている内容には蒙を啓かれた。モヤがかかっていた視界が一気に晴れたようだ。
(あぶないあぶない。またあたし、ひとりで暴走するとこだった)
瑛時と同じく、璃矩も冷静さを取り戻していた。
(やはり煌侍君にお任せして正解でした)
維那は確信を得てうなずく。
三者三様の着地点。
半分以下の長さになってしまった愛刀を握り締めたまま、瑛時は立ち上がった。チラリと一瞬だけ手元に落とした視線には寂寥感がにじんでいた。
「オレは謝んねえぞ。やり過ぎたとも思ってねえ。そんぐらいやんないと、おまえ、分かんなかっただろ」
言わなくてもいい事まで言うのが焼刃煌侍である。
「確かにな」
瑛時は苦笑する。この木刀はきちんと供養するつもりだ。
「で、おまえ、これからも剣の道一本で行くのか?」
矢継ぎ早。焼刃煌侍は優しくない。休ませてなどくれない。
「いや、これからは柔軟に行くつもりだ。だが、切り離せはしない。私という人間の根幹が揺らぐからな」
「いいんじゃねえの?今のおまえにしちゃあ上出来だ」
煌侍は至極当然と言った表情で、瑛時は「手厳しいな」と言いたげな顔を見せた。だが、周りの璃矩や阿亜樹はとても嬉しそうだ。
「それはともかくな、瑛時」
「なんだ?」
まだ何かあると言うのか。つくづく焼刃煌侍は油断ならない。
「おまえ、バイト十種類ぐらいしてみろ」
「自力で金を稼げと言う事か?それは常々考えてはいたが」
「違ぇよ」
「では人生経験か?」
「もちろんそれも大事だが、そいつも違う」
「むぅ」
腕組みし、首をひねる瑛時。とっさには思い付かない。
「自分がすげえ奴だって気付くためだ」
「……意味が分からん」
「おまえは自分が好きじゃない。他の誰よりもおまえ自身が、おまえを過小評価してる。そんでそれを『自分に厳しい』と勘違いしてる」
その意見に璃矩が快哉を叫ぶ。
「えらい煌侍!よく言ってくれたわ!あたしもずっとそれを言い続けてきたのに、ちっとも聞きゃしないのよ、この朴念仁は」
言い終わると同時に瑛時の頭をぺしぺしと叩く。よほどこれまでの鬱憤が溜まっていたものと見える。
「そう言われても実感がない」
指摘された瑛時は、言葉の意味は理解したが、まだもう一押しが欲しい様子。
「まぁ、オレのせいってのが大きいけどな」
「は???」
しれっとした顔で謎発言をする煌侍に、三姉妹と維那以外から疑問符だらけのリアクションが返って来る。
「おまえの身近にいるオレがすご過ぎる」
「あー……」
苦笑付きの納得。この男の場合、これがナルシシズムの産物ではなく、客観的事実を述べているに過ぎないのが、一同の苦笑の理由。
「おまえはオレを除いた人間の中ではものすごいレベルにいるってのを、ちったぁ自覚して自信持て。間近でまぶし過ぎる光を見続けてたから、目が悪くなってただけだ。おまえは本当は、やろうと思えば何だって簡単にできるんだ」
これだけの大言壮語を吐いても少しも嫌味に聞こえないのは、それが実力によって裏付けされた事実である事、そして何より彼の人徳に他ならない。
「それによ」
煌侍の声質が変わる。もうそこに陽気さはなかった。
「もう両親の“置き土産”に縛られるのも、好い加減いいだろ」
「――」
瑛時が止まる。維那は、変わらない。
「ちょっとあんた、今その話を持ち出すの?」
「じゃあいつだったらいいんだよ?今しかねえだろ」
慌てる璃矩に、煌侍は苦々しく吐き捨てる。口には出さないが、「飽き飽きだ」と顔に書いてある。
鎌坂家の両親。その話題は長い間タブーとなっていた。
両親共に健在、らしい。「らしい」と言うのは、向こうから一切接触してこないので、風の噂で伝え聞くしかないからだ。こちらからコンタクトを取る事ももちろんないが。
維那と瑛時の実の両親である彼らは、瑛時が小学生になる時に、鎌坂の家をふたりして去って行った。一応形だけは子供達を引き取ろうとしたが、執着は皆無であり、宮司である父(姉弟にとっての父の父)がそれを拒むと、いともあっさりと手を引いた。後になって聞いてみれば、鎌坂の家にいる事がずっと嫌で嫌で仕方がなかったらしい。
姉弟の父も祖父と同じく宮司をしていたが、霊能力はほとんど持っておらず、日々「こんな仕事は時代錯誤だ」と祖父と衝突を繰り返していたという。ほとほと愛想を尽かし、とにかく家を出て行きたかった両親は、我が子よりも自分達の目の前の自由を優先したのだ。
以来、顔を見ていなければ、声も聞いていない。生まれてからずっと祖父母によって育てられてきた維那と瑛時にも、この別れについての寂しさはまるで湧き上がってこなかった。ただ人生としての寂しさを覚えただけだ。
いわゆる絶縁状態。焼刃兄妹と両親の関係も、親子としてとっくに破綻しているが、鎌坂家のそれは、生まれる前からほぼ終わっていたに等しい。
「紳佐んとこも完全に縁が切れたってのは聞いたか?」
「ああ、聞いた」
事務的な煌侍の質問に、瑛時も事務的に答えた。
「おまえも最後に一回会って、自分で幕引くか?」
「いや、いい。そもそも最初から同じ舞台にすら立っていなかったのだからな」
「そっか。なら決まったな」
「うむ。私には璃矩と姉上、それにおまえ達がいる。充分だ」
この二人のやり取りに、皆に笑顔を咲きほころぶ。――良かった。最初はいったいどうなってしまうのか冷や冷やしたが、こんなにも胸のすくラストが待っていたなんて。
<4>
「煌侍君」
タイミングを見計らい、維那が一歩前へと踏み出した。
「本当にありがとうございます」
「いや、そんなオレ、大した事なんてしてないって」
珍しい。あの煌侍が慌てている。幼なじみであり、妹達ともども世話になってきた維那に改まられて、すっかり泡を食ってしまっているのだ。
「頭上げてくれって。な?瑛時と璃矩からは感謝されて当然だが、維那さんがそこまでする必要ないって」
「いいえ。わたくしは卑怯者です。本来は自分が担わなければならない役割を、全て煌侍君一人に押し付けたのですから」
面を上げた維那の眼光には、ある種の決意の色が見て取れた。
「わたくしは、もう逃げません」
その声にも、普段以上の凛とした響きがある。口を差し挟むのがはばかられる。
「煌侍君」
「うん」
表情を改めた煌侍の声は堅い。
「今度のお休み、わたくしとデートしてください」
「え?」
「え~~っ!!」
全く予想できなかった維那の言葉に、煌侍が間の抜けた反応をしたが、それを他のみんなが上げた絶叫がかき消した。
女神のような笑顔で爆弾は投下された。それは、これまでの約二十年間も積み重ねてきた居心地の良い関係を、一撃で破壊する威力を持っていた。
瑛時は諦めたような表情を見せ、璃矩も「とうとう言っちゃったか」とつぶやいた。この二人にはなんとなく予感があったのだろう。
火のついたような騒ぎが一瞬収まった間隙を縫い、維那は万感の想いを告げる。
「ずっとあなたが大好きでした」
その夜、焼刃家のリビングでは、三姉妹による緊急対策会議が開かれていた。漂う空気は非常に重苦しく、お盆を抱えたままのブリュンヒルデがそわそわと所在なさげにしている。
現在煌侍は家にいない。
「今はオレがいない方がいいだろ」
そう言って紳佐のマンションへと泊まりに行った。
維那とのデートをあの場で了承した彼は、逃げも隠れもしなかったが、周囲はあれ以来ギクシャクしたままだった。聞けばあの後鳴鈴はショックで寝込んでしまったというし、阿亜樹もすっかり動揺してしまっているという。
(もう元のみんなには戻れないのかな)
誰もがそんな不安を抱えたまま過ごしている。
「まさか維那さんがね」
「あの場で言っちゃうとはね」
ソファに足を組んで腰かけた暦がつぶやいた言葉に、絢華が同意を返す。元気がない、といった感じではないが、当然明るさはない。
「なぜ私達はその可能性を失念していたのかしら」
魅霧が右のツインテールの毛先を両の指先で弄びながら、冷静な声を出した。
「近すぎたからかな?」
絢華が二人の妹に自分の見解を投げかける。
「いや、違うと思う。あたし達は、そうであって欲しくないから、考えないようにしてただけだよ」
暦があっさりと解を導き出した。
「そうね。認めざるを得ない」
魅霧が事務的な口調で暦の考えを肯定する。
「維那さんをずっと姉のように思ってきて、“敵”になって欲しくなかった」
絢華と暦がうなずく。魅霧はなおも続ける。
「維那さんはお兄様へ想いを告げる事はない、と思い込んでいた」
「甘かったね」
「うん」
二人の同意を得て、魅霧は両手を膝の上で強く握る。
「私達のどこかに、『維那さんには勝てないんじゃないか』という考えがあった」
「かもね」
「確かに」
「では、『あの人になら』というのは?」
「ないよ」
「ない」
魅霧に暦と絢華は最後までその台詞を言わせなかった。
「当然です」
魅霧は胸を張って、暦は不敵に、絢華は曇りなく、それぞれが笑みを見せた。
――本日この時をもって、鎌坂維那は三姉妹にとって、“幼なじみのお姉さん”から“最大のライバル”になった。
<5>
維那とのデート当日、煌侍は遊園地の入場門前に立ち、彼女を待っていた。約束の時間は午前十時、現在時刻は午前九時四十五分。ここは以前彼が三姉妹やタキナギともデートを行なった場所で、デートコースとしてはかなりメジャーであり、維那の「デートらしいデートをしたい」と言うリクエストによりここに決まったのだった。
遊園地は午前九時三十分には開園しており、人通りは少なくない。親子連れやカップルがやはり目立つが、女性だけのグループなどもしばしば目にする。
「あ、いや、待ち合わせしてるんで。すっぽかされたりとかしてないから」
ここに立って五分間で、すでに七組目のお断り。いわゆる“逆ナンパ”という奴だ。これだけの人ごみの中で、誰よりも目立っていたのは焼刃煌侍だった。
(なんかオレ、おかしいのかな?無難なのを選んだつもりだったんだが)
煌侍は自分の服装を上から下までチェックしてみるが、特に何も気付かない。目を惹いているのが己の容姿である事には思い当たらないのがこの男。
「あの……」
と、そこにまた女性からの声がかかった。
だが、この声はよく知っている。
「ああ維那さ――」
あいさつをしようとした煌侍は、顔を上げてその声の主である彼女の姿を視認した瞬間、言葉を失った。目を奪われたのである。
当たり前だが、今日の維那は巫女装束ではなかった。シンプルな白のブラウスと薄桃色のロングスカートという上下で、一般的に地味と言われそうな服装が、彼女の清楚な美しさを際立たせていた。
維那は仲間の女性の中で最も身長が高く、175センチある。本人はその事を「可愛げのない大女」だとコンプレックスに思っているようなのだが、そんな事は決してない。腰まである艶やかな黒髪とのコントラストは相乗効果抜群で、ここは高原の避暑地かと錯覚させるかのような爽やかさを振りまいていた。
「あの……とても話しかけづらかったです」
両手を身体の前で組み合わせ、所在なさげにうつむく維那。なるほど、もっと早くに来ていたのだが、声をかけたくてもかけられなかったというわけか。
「その、なんつーか、ごめん」
「いえ、煌侍君は悪くないですから」
お互いに言葉少なに照れてうつむく二人。見目麗しい男女が作り出す世界のあまりの幻想的な初々しさに、周囲の人々が足を止める。
「なに、ドラマの撮影?」
「誰あのかっこいい人!新人俳優?」
「相手役モデル?背高ぇー」
にわかに騒がしくなってきた。
「行こう、維那さん」
「はいっ」
衆人環視の中から抜け出すため、煌侍が維那の手を取って園内へと入る。悲鳴にも似た黄色い声を浴びながら、維那はつながれた指先からどんどんと自分の体温が上昇していくのを感じていた。
「ここまで来れば大丈夫かな」
「はい」
園内の中心部から少し離れた憩いのスペースらしき空間に二人はやって来た。維那の息は若干上がっている。
「なんか出鼻くじかれちゃったな」
苦笑しつつ、煌侍がさり気なく維那の手を離した。維那は一瞬名残惜しそうな表情を見せかけたが、自制した。ずっとそのままでいるのは不自然であったからだ。
「どっち先にする?」
維那の息が整うのを待って、煌侍が訊ねた。“大事な話”を先にするのかどうか、を問うているのだ。
「できれば後にさせていただけますか?」
可能な限り感情を抑え、維那は答えた。
(少しでも多く、思い出が欲しい)
それが今の彼女の偽らざる気持ちだった。
「オッケー。じゃあ思いっきり楽しもうか」
煌侍が再び維那の手を取る。思いがけない事に、維那は危うくそれだけで満たされてしまいそうになってしまった。
「まずどこに行きたい?」
「わたくし、観覧車に乗ってみたいです」
「いきなり?ああいうのってシメ的な感じじゃない」
「お天気の良い明るい園内を一望してみたいのです」
(この目に焼き付けておくために)
「なるほどね。なら真っ先に行こう」
夕焼けの観覧車の中で二人きり、という絵は誰しもが憧れる魅力的なシチュエーションだ。でも、なんだか寂しく思えてしまう。今自分が良いビジョンが見えない事が原因なのかもしれないが、その通りにはしたくなかった。今はまだ夢を見ていたい。希望を捨てたくない。
<6>
その後二人は、観覧車を皮切りに、ハイペースでアトラクションを次々に回った。子供のようにはしゃぐ維那は、意外にも絶叫系のマシーンも平気で、煌侍は一緒にいて全くストレスを感じる事はなかった。
少し遅めの昼食を済ませ、遊び疲れが見えてきた維那を連れ、煌侍は大きな池のある園内の公園へとやって来た。時刻はもう夕方となり、オレンジ色に染まった水面が、細かくカッティングされた宝石のようにキラキラと反射光を放つ。
「ありがとうございます」
池の正面にあるベンチに腰かけた維那が、煌侍から水のペットボトルを受け取る。それを渡し、彼も維那の左隣に座った。
しばらく二人して無言で池を眺めた。時折ボートや水鳥が視界を端から端へと横切って行く。遠くには遊園地の絶叫マシーンに乗っている人達の悲鳴が聞こえる。重苦しい雰囲気ではない。
「こういう事訊くのって恥ずかしくて情けないんだけどさ」
煌侍が先に口を開く。気を遣って会話の糸口を見付けてくれたのかもしれない。
「いつからオレの事を好きでいてくれたの?」
申し訳なさそうな、照れ臭そうな様子の煌侍。維那は思わず微笑みそうになったが、彼の声が真剣だったので姿勢を正した。
「出会ってそう間もない頃からです。璃矩さんと二人で社に来て、瑛時と遊ぶようになって。そしてすぐに煌侍君はわたくしを見付けて、声をかけてくれた。とても嬉しかった」
「そりゃほんとにすぐだね。色んな意味でガキでさ、今でも言われるけど、鈍くて。ごめん」
「いえ、そんな」
遠い目をして維那と、申し訳なさそうな煌侍。お互いにあの頃の事は鮮明に思い出せる。
「あの時オレさ、強烈に『もったいない!』って思ったんだ。維那さんキレイで、かわいかったのにさ、思いっきり感情殺してて。なんかもう、すでに人生諦めてるみたいに見えたんだ」
「そうでしたね」
重くつぶやき、維那は記憶の糸を手繰り寄せる。
鎌坂の家系は極端な男系である。出生率も実に男が八割近くにまで上り、代々その霊能力を受け継いできた。その男尊女卑ぶりは時代錯誤を通り越して「異常」と呼ぶにふさわしく、女は嫁にやるしか価値がない存在とされていた。
よって、維那が生まれた時も、まさにそんな状況の真っ只中であった。当時絶大な実権を握っていた親族達は、維那の生誕を祝う事すらせず、不必要な存在として「否」という響きをその名に与えた。こうして、そのまま彼女の人生の暗く冷たくただ齢を重ねて消え行くのみかと思われたが、いくつかの大きな転機がほぼ同時に訪れたのだ。
ひとつ。維那と瑛時を残し、両親が消息を絶った事。
ふたつ。そのまま行けば跡継ぎ候補であった瑛時に、霊能力者としての才覚が絶無であると判明した事。
みっつ。維那の霊能力が過去のどの男性頭首よりもはるかに上回っている事が判明した事。
昼夜を問わず行なわれた鎌坂一族の首脳会議。紛糾に紛糾を重ね、出した結論は、「お家を断絶させるぐらいならば、維那に跡を継がせる」というものだった。
だが――
よっつ。
その方針が決定した事を記念して行なわれた宴の会場となった集会所に、落雷があった。火はあっという間に建物を包み込み、長老達の指示で酒を買い足しに行かされていた鎌坂姉弟の祖父母だけが命を拾い、他の親族達は全員焼死した。ただ一筋の落雷が、鎌坂の一族の運命を大きく変えた。何の予兆もなく、今なおその原因は不明である。
「鎌坂の血が途絶えてもいい。おまえは好きに生きなさい」
あの日以来すっかり険が取れた祖父は、ずっと病弱だった妻を失った日、維那にそう告げた。大粒の涙を流し、「すまなかった」と何度も何度も繰り返し謝りながら。
「わかりました」
と、維那は答えたが、何をどうして良いのか全く分からなかった。
維那はまだ「いな」という名を背負ったまま、今も社で巫女を続けている。目の前は突如として開かれたが、何の目標も他に見出せなかったのだ。彼女にしてみれば、「自由」という野に放り出されたのも同じだった。
高校にも進学せず、山を降りなかった彼女は、世間に溶け込めなかった。何かに集中して気を紛らわせたいがために修行に没頭し、その結果、皮肉にも巫女としての能力は絶大なものとなった。表の世にはほとんど顔も名前も出ない“大物”と呼ばれる人々が社を訪れ、窓口となっている祖父を通して彼女の能力に頼り、それに心酔して大金を置いて帰る。だが、そんな物で維那の心は微塵も充たされはしなかった。
維那にとっての光明。それはたったひとりの少年だった。
その彼の名は焼刃煌侍。秋橋璃矩という少女と二人してよく社を遊び場にしていた。いつの間にか強引に、弟の瑛時も遊び仲間に引き入れていたようだ。――それでいい。瑛時には陽の当たる場所を歩んで欲しかった。
「ねえ、どうしてそんなにキレイなのにさびしそうなの?」
不意にかけられた声に、維那は驚いて飛び上がった。そこは社の裏にある彼女の秘密の場所で、独りになりたい時に駆け込む場所だった。鎌坂の社の奥深くにあり、当然関係者以外は立ち入り禁止である。
目の前にいたのは一人の少年だった。顔は泥だらけで、肘や膝は擦り傷だらけだった。
遠くで大人達の怒号が聞こえる。どうやら彼が無理矢理に侵入し、突破してきたらしい。
「早くお戻りなさい。捕まったらただではすまされないわよ」
心配してではなく、面倒事を避けるために維那は言った。それに、彼の存在はまぶし過ぎて目に毒だった。
「誰のせい?」
少年は彼女の忠告には耳を貸さず、そんな事を訊いてきた。「誰のせい」って、周りにいる大人達みんなだ。どうしようもない。
「かみさまのせい?」
とんでもない事を言う。運命とやらのせいならば、確かにそうなるのかもしれないが。
「かみさまってどこ?ここにいるんだろ?」
やけに熱心に訊いてくる。ここは神社だから、神様が住んでいるとでも考えているのだろう。子供とはいえ、単純なことだ。
「知ってどうするというの?」
無視するつもりだったのに、自然と口が動いていた自分に維那は驚いたが、力ずくで表情を隠した。
「勝ってくる」
真顔で少年は言った。どんな返答でも一笑に付してやるつもりだったが、これには呆気に取られてしまった。意味が分からない。
「だってさ、ずるいよ。きみをひとりじめにしてさ」
すねたように口を尖らせる少年に、維那はついに吹き出した。笑い過ぎて涙が出た。でもひとしきり笑い終わったら、いつの間にかその涙は、笑い泣きではない、本当の涙になっていた。彼女は生まれて初めて大声で笑い、大声で泣いた。
少年は自分が彼女を泣かせてしまったとオロオロしていたが、おっかなびっくり子供をあやすように彼女を抱きかかえ、「よしよし」と軽く背を叩き続けた。
――次の日から煌侍は本格的に行動を開始した。社のいたる所で璃矩と共謀して騒ぎを起こし、その隙に維那を連れ去っては日が暮れるまで四人で遊んだ。
そんな日々がいつまでも続くと思っていた。
そう、願っていた。
<7>
維那は意識を現実に戻す。キラキラと輝く水面の一つ一つのスクリーンが、あの頃とつながっていたかのような錯覚にとらわれた。
あの日からずっと煌侍は維那のヒーローであり、恋焦がれる、誰よりも大切な人であり続けた。自分からこの想いを伝えて、今のもどかしいけど心地良い関係が崩れ去ってしまうのがとても怖くて、胸に秘め続けてきた。けれど時々、どうしてもそれが抑えきれなくなってあふれてしまう時がある。最近だと二回、一度目は鈴子に相談に行った時で、もう一度は鳳鳴鈴拘束事件の時だ。
「そういや維那さん、ずっと婆ちゃんに会いたがってて、『来日した』って言ったら、巫女服のまま飛んで来たもんな」
煌侍がくすくすと笑う。
「ええ、あの時はもう、いてもたってもいられなくなっていて」
維那は小さくなって頬を染める。
維那と鈴子は国は違えど、ともに巫女であり、しかも同じ神々を奉じているという大きな共通点があった。自分より大人の頼れる相手がいなかった彼女にとって、鈴子の存在は唯一の希望であった。滅多に会えないのが最大の難点であったが、その分機会に恵まれた時には全てを吐き出した。
あの時に維那が相談したのは、信仰が揺らぎ始めていた事と、煌侍の事。才能と義務感だけで巫女を続けてきた彼女が思い切ってその事を告白すると、「いずれ近い将来、嫌でも信じられる時が来る」と断言され、その時はなんだかおざなりに返答されたような気がしたのだが、それはまさしく予言だったわけだ。目の前に勢揃いして顕現した神々を目にした彼女は、これまでの人生を肯定された喜びに打ち震えた。
そして、煌侍の事が好きだと打ち明けた。ずっと好きだった、と。
「やっぱり、そうだったのかい」
鈴子は色々と得心がいった、と言う風に目を細めた。
また維那は、「まだ想いを告げる勇気がない」と言った。「三姉妹との関係を壊したくない」、とも。彼女達の信頼を裏切る事になり、非常に心苦しい、と。妹同然に可愛がってきた三姉妹とは、今後とも仲の良いままでいたかった。
「まだ、“その時”じゃあないね」
鈴子は静かにそう言い切った。その上で「今勢いで行動しても誰も幸せにはならない。その気持ちを抑えつけるのではなく、むしろ大切に育てていくべきだ」と続けた。
「では、“その時”とはいったいいつなのか」と結論を急ぐ維那だったが、その問いが無意味な事はすでに知っていた。諭して欲しかっただけだ。
「そういう時はね、身体が自然と動いちゃうもんさ」
――まさにその通りになったわけだ。
「これも訊いていいのかどうか正直分かんないんだけど」
珍しく歯切れ悪く、煌侍が前置きする。
「覚悟はできています。なんなりと」
「鳴鈴が捕まった時さ、維那さん、なんか様子がおかしかっただろ?あの時の事、ずっと気になっててさ」
「は、恥ずかしい、です……」
維那は顔を伏せてしまった。これでは追求できない。
「……」
「……」
沈黙が続く。遠くの喧騒が先程までよりも大きく聞こえる気がした。
「嬉しくて、仕方がなかったんです」
意を決し、維那が口を開いた。
「疑いかけていた国姫様方を目の当たりにできて。しかも煌侍君がその国姫様方の『主様』で。まるで、わたくしまで煌侍君にお仕えしているみたい、って」
夕焼けの水面よりも朱に染まった頬を両手で押さえる維那は、初恋を語る乙女に他ならなかった。
「あー、その、なんつーか、ありがと」
「いえ、そんな……」
自らが訊いた結果とはいえ、彼女の口からそこまで言わせてしまった事に、煌侍は情けなさやら恥ずかしさやら、複雑な感情に翻弄されていた。
「それで、あの時」
まだ維那の語りは終わっていなかった。
「『もうこのままでいい。もう充分幸せだ』と納得させていた気持ちが、再燃してしまって。煌侍君との距離が一気に近付いた気がして」
「そうだったんだ。オレ、具合悪くなっちゃったのかと思ってたよ」
「ううん。逆、でした」
首を振って否定する。彼女のこのような仕種を見る事ができるのは自分だけなんだと自覚すると、なんとも言えない充足感と責任感を覚えた。
<8>
くすぐったい、でも居心地の良い間。
だが、これは猶予期間。
「それで、返事なんだけど」
腹を決めた煌侍が口を開く。維那にここまで言わせておいて、この上返事まで求めさせては、男としての立場がなさ過ぎる。
煌侍はあれから今日この時まで、眠っている間以外の時間の全てを費やし、維那との事を真剣に考えてきた。結論はとっくに出ている。
「待ってください」
が、機先を制された。
(かっこつけさせてくれねえなあ)
苦笑するしかない。こっちだって、相当な覚悟をしてきたのだが。
しかし、彼女にはそうする権利がある。
「頭の中で出た答えは、欲しくありません」
それまでとは態度を一変させ、強張った表情で、維那は煌侍に向き直った。
(どういう意味だ?)
予想外の言葉に、煌侍は困惑の色を隠し切れない。考えにくい事だが、「形で示せ」と言う事なのか?
「キス……させていただけませんか?」
「――え?」
さらに予想外の言葉で畳み掛けられ、煌侍の身体が硬直する。彼女は彼の“事情”を知っているのに、なぜ。
「それは、ほっぺたとか額に、とかって事じゃないよね?」
「はい。違います」
これ以上ない、というほどの真剣な眼差しで即答された。一応訊いてみたのだが、やはりか。だが、まだ確認しておくべき事がある。
「維那さん、知ってるよね?オレが妹達以外とは唇同士のキスがダメな事」
「知っています。それでも、お願いします」
本気。「諦めをつけたい」と言うようにはまるで見えない。その上での「させてください」なのは、気を遣ってくれているのが痛いほどよく分かった。
煌侍は目の前が暗転しそうになるのを必死で堪える。
維那を傷付けたくない。
唇同士のキス。それは彼にとってトラウマ以外の何物でもなかった。
あれは煌侍が中学二年生の時の事だった。
もうすっかり“妹一筋”人生まっしぐらの煌侍は、雑事に追われつつも、色々な事に見通しが立ち始め、充実感を噛み締めながら日々を過ごしていた。
睡魔に溺愛されているのは相変わらずで、その日も心地良い疲労感に包まれ、放課後の教室でひとり、机にうつ伏せに覆い被さってすやすやと寝息を立てていた。
(こんな所で寝てる場合じゃねえのに…)
頭の中でぼんやりと分かっていても、身体が思うように言う事を聞いてくれない。どうやらもう少々仮眠が必要なようだ。だんだん妹達に手がかからなくなってきたとはいえ、一人で三人の面倒を看るのは骨が折れる。
(ん……?)
彼の机の脇に誰かが立ったのが気配で分かった。だが、いつもより眠りが深く、まぶたがなかなか開かない。
(まずった。もう誰も残ってねえと思ったのに)
無理矢理に意識を現実に引き戻そうと試みる。
(なんだ?やけに近ぇ)
顔のすぐそばで息遣いが聴こえる。彼は今、腕を枕代わりにしたりもしていなかったので、寝顔が見られ放題の状態だ。
(冗談じゃねえ。早くどっか行けよこいつ)
もう少し。もう少しで目が覚める。
が、急に息が苦しくなった。
「ん~!!」
唇を唇で塞がれたのだと気付いた瞬間、眠気は全て消し飛び、大きく音を立てて自分の机と椅子、後ろの机を弾き飛ばし、彼は立ち上がっていた。制服の上着の右のひじの内側で唇を激しくこすり、必死にそこに付いた何かを拭い去ろうとした。無意識の行動だった。
「あ……」
小さく上がった声に我に返り、煌侍がその方向を弾かれたように見ると、そこにはよく見知ったクラスメイトの女子がいた。
「おまえ……」
彼女はこの中学一の美少女と目されている容姿の持ち主で、勉強も運動も良く出来、委員会活動なども積極的に行なうなど、面倒見の好い性格でも知られる、男女問わずに人気のある生徒だった。
人当たりが好く、煌侍とも男女の隔たりなく付き合える関係――だと思っていた。もっとも、そう思っていたのは彼の方だけだったようだ。この頃の煌侍は、今よりさらに数倍輪をかけて鈍かった。ずっと彼の事が好きで、日々積極的なアプローチを彼女は続けていたが、それがいっこうに実を結ぶ気配がない事に耐えかね、ついにあふれ出した想いが実力行使に走らせてしまった。
本当に二人は良い関係だった。ついさっきまではそうだったのに、すでに過去形で表現しなければならない事がとても残念だ。そしてもう、決して元の関係には戻れない事は明らかだった。
「――っ!」
声にならない悲鳴を残し、彼女は駆け出し、教室を後にした。廊下を走っていく足音が、やけに大きく聞こえる。
ここまでの拒絶反応をされるとは、全く予想していなかったのだろう。それほど二人良い関係だったのだから。「もうおまえら付き合っちゃえよ」などとしばしばはやし立てられたものだ。相当ショックだったに違いない。
しかし、煌侍もまた、彼女以上にショックを受けていた。
彼女を傷付けてしまった、と言う自責の念は大きい。けれど、それ以上に――。
焼刃煌侍は三人の妹達を心の底から愛している。その事を誇りに思っている。アイデンティティであると考えている。この想いは強まりこそすれ、薄れる事はない。
なのに、妹達を愛するあまり、結果的に他人を傷付けてしまった。否定された気分だった。おまえは異常だ、おまえは人間として欠陥がある、と。
妹達を愛するのはいい。が、その反動で他人を傷付けてどうする。引いてはそれは、妹達に嫌な思いをさせる事につながる。自己嫌悪と自己否定の大渦が、彼の心を揺さぶった。
「かはっ……!」
胃の中の物を全て吐き出してしまった。その事にまたショックを受ける。いったいどうすればいいのか、何を考えていれば正気を保てるのかが分からない。どこからも、誰からも助けはない。砕けるぐらいに歯を食い縛り、爪が皮を破るぐらいに拳を握り締め、ただひたすらに黒い感情の波が通り過ぎるのを待つしかなかった。
汚してしまった教室の後始末を終え、帰宅した頃にはもう夜になっていた。心配する事しきりだった三姉妹の前で彼は平静を装ったが、すぐにボロが出た。食事がのどを通らなくなってしまったのだ。そしてその症状は丸一週間も続き、彼をやつれさせた。
それでも煌侍は一日も学校を休まなかった。
だが、彼女は一週間学校を休み、二人の関係はそのまま修復する事はなかった。なんとか二人きりになる機会を見付けて心から謝ったのだが、彼女は何も言ってはくれなかった。煌侍には後悔と自責の念が強く残った。
こうしてこの“事件”は彼の大きな心の傷として残り、今なおその症状を残している。
<9>
「煌侍君」
維那の声で彼は我に返った。気が付くと手の平は汗ばみ、背筋に嫌な汗をかいていた。
煌侍が恐る恐る彼女の顔を見ると、そこには慈愛に満ちた微笑みがあった。その温かさに触れていると、全ての負の感情が洗い流されて行くようだ。
「わたくしなら、大丈夫ですから」
維那は断言した。
「あ、いえ、決して自意識過剰な意味ではなくて、『傷付きません』という意味でっ」
わたわたとうろたえる彼女の姿を見て、煌侍の身体の強張りが緩んだ。
「ははっ。わかってるよ」
「でしたら、良いのですが」
はにかむ維那を見て、さらに彼女を傷付けたくないという想いが募る。
「オレ、自信ないよ……」
こんなにも小さくて弱々しい彼を見るのは、いつ以来だろうか。もしかすると、初めてかもしれない。妹達ですらも見た事がないかもしれない。そう考えた時、維那の胸は急速に締め付けられ、いてもたってもいられなくなって、煌侍の顔を左右から両手で挟み込んでいた。
「だいじょうぶ、ですから……」
それは誰のための言葉だったのか。
煌侍が早めに目を閉じてくれたので、幸い決心が鈍る事はなかった。
何を隠そう、維那のファーストキスだ。この瞬間のためにずっと大切に取っておいた、諦めかけていたもの。
彼は慣れていそうでちょっと嫌だな、なんてほんの少しだけ考えていたけれど、今の彼は雨の中で独り震える子犬のように頼りなかった。彼の不安を手の平を通して感じ取り、彼女の中の保護欲や母性といったものが激しく刺激される。
嬉しい。本当に嬉しい。幸せだ。こんなにも幸せでいいのか、と疑いたくなるぐらい。でも、まだ満足してしまうのは早い。
維那が顔を近付けていくにつれ、煌侍のまぶたが細かく震えているのが見える。まつ毛が長い事にドキッとする。潤んだ唇の艶に鼓動が高鳴る。本当にスローモーションに感じるものなのか、と妙な感動を覚えた。……これではまるで、自分の方が男の子みたいだ。
そして、ふたりの間の距離はゼロになった。
「ファーストキスはレモンの味」などと言う噂を聞いた事があるが、実際にはリップクリームの味だった。そんな噂を信じ続けているほど彼女は少女ではなかったが、それにがっかりはしなかった。むしろ、煌侍がこうなる事を考えてリップクリームを塗っていてくれた事が嬉しかった。
ほぅ、と熱い吐息を漏らし、維那は煌侍から離れた。どのくらいの時間口付けていたのか分からないが、名残惜しさは予想に反してあまり感じなかった。それは今、彼女の心がとても満たされているからだろうか。
きっと愛情表現が豊かな人達から見れば、まるっきり子供の、どうしようもなく幼稚なキスだったに違いない。実際、唇をただ押し付けていただけなのだから。けれど、そんな事は関係ない。評価など必要ない。維那にとっては、何度も諦めた夢のひとつが実現したという事実のみが大切だった。
「ね、大丈夫だったでしょう?」
まるで我が子を慈しむように煌侍にかけた声は、涙でにじんでいた。彼の心と身体の両方に拒絶されなかったという結果が、嬉しくてたまらない。今だから打ち明けると、やはりずっとその不安と恐怖は付きまとっていた。全身の力が抜け落ちてしまいそうだ。
「あ……うん」
対する煌侍は、固まったままだった。呆然と驚愕が入り混じったかのような表情だ。彼は維那を傷付ける結果になるものだとばかり信じ込んでいたのか、露骨に戸惑っている様子が見て取れた。
(なんでだ?ダメなはずだろ?あいつら以外とはダメなはずだ)
混乱。維那がいる手前、取り乱しはしないが、煌侍の頭の中はかき乱されていた。
(――待て。『はず』ってなんだ?)
胃の底に冷たい感覚が滑り降りる。
(もしかして、オレが思い込んでただけなのか?)
(思い出せ。オレはあの“事件”の後、一度でも試したか?)
(試したわけねえだろ)
(……なんだよ。なんてこった)
煌侍は文字通り脱力した。
(維那さんのせいで、とんでもねえ事に気が付いちまったよ)
もはや笑うしかない。
「煌侍君、どうかしましたか?なにかわたくし、大変な事を?」
焼刃煌侍の人生を根底から覆してしまった彼女は、見ていて気の毒になるぐらい狼狽している。だが確かに、大変な事をしでかしてくれたものだ。いつもならすぐに助けてあげるところだが、こうなると意地悪の一つでもしてやりたくなってくる。
「ああ、まったくだよ」
「ええっ!?何か作法が間違っていたのでしょうか?わたくし、本当にそういう事を存じ上げないものですからっ。やややや、やはり、舌なぞお入れした方がよろしかったのでしょうか?すみませんすみませんっ」
とんでもない事を言う。どうやらやり過ぎてしまったようだ。このままでは彼女のキャラが崩壊しかねない。
「くっくっ。負けたよ、負け負け。オレの完敗。維那さんの勝ち」
おかしくて仕方がない。いっそ痛快な気分だと言っても良い。
「え?え?」
彼の真意が分からず、まだ維那は挙動不審なままだ。
「オレの一番は相変わらず妹達だ、ぶっちぎりでな。それでもいい?」
煌侍は今の彼にできる最高に優しい微笑みを維那に向ける。
「あ……それって……はいっ!」
切れ長の瞳いっぱいに涙をたたえる維那に、煌侍はうなずく。
「“結果”を出されちゃ、評価しないわけにはいかないよ」
これは精一杯の強がり。彼女にもそれが分かっているから、なおさら涙が止まらない。
「わたくし、あきらめなくて、いいんですね?あきらめなくて、本当に、良かった……」
「ぶっちゃけ、ものすっげぇ貧乏くじだぜ?人生もったいないよ?」
これは決して諦めさせようとしているのではなく、申し訳なさからの本心の言葉。だがそれに、維那は力強く首を横に振る。
「いえ、絶対にそんな事はありません。だって今、わたくしはこんなにも幸せなのですから」
「しょうがねえなあ」と言う表情の煌侍。
「じゃあオレが言う事は一つだな」
そう言って彼は右手を差し出す。
「これからもよろしく、維那さん」
「はいっ」
その手を維那が握り返した。
「帰ろうか」
「はい、帰りましょう」
まだ握手はしたままだ。
「手、このままなの?」
「あ、そうでしたね」
気付いた様子の維那が、煌侍の右手を左手に持ち替えて立ち上がる。
「維那さん、わかってやってるだろ?」
「あら、何の事でしょう?」
「しょうがねえなあ」
おどけた維那に、煌侍は今度は口に出してそう言い、ふたりは同時に微笑んだ。地平線の下に沈みかけた夕陽が、手をつないで歩く二つで一つの影を長く伸ばした。
<10>
その夜、帰宅した煌侍は、三姉妹をリビングに集め、今日あった出来事を包み隠さず話して聞かせた。驚きもせず、ショックを受けた様子もない三姉妹を見て、事前に三姉妹ミーティングが行なわれていた事を彼は悟った。
「おまえ達が、これまでも、これからも、ずっと断トツで一番だ」
その上で、改めてそう宣言した。
「そんな事、疑いもしなかったよ」
暦が朗らかに笑い飛ばした。
「ええ、警戒対象がまた一人増えただけの事です」
魅霧が超然と言い放った。
「だから尾行しなかったし、させなかったでしょ?」
絢華が自信満々に胸を反らした。その横で「うん、うん」とブリュンヒルデが真剣な表情で激しく首を縦に振る。
「ああ、オレだっておまえらを信じてたさ。けど、こういうのはケジメが大事だからな」
三姉妹がそろってうなずく。
「これからは維那さんを最重要人物としてマークさせていただきます」
魅霧の兄へと聴かせる宣戦布告。
「あたし達が今回は甘かったよ。でも、もう同じ轍は踏まないよ」
暦の反省と今後の指針。
「正々堂々、どんどん差を広げて追い付かせないから」
絢華の完勝宣言。
「やっぱおまえら、最高だよ」
愛される幸福感に浸る煌侍。
色々たくさんあったけど、何はともあれ、めでたしめでたし?
「まことに残念ながら、そうは参りません」
「さすがに今回のは見逃せないよねー」
「思い知らせてあげないとね」
剣呑な眼光と構えで、三姉妹が罪な兄へとにじり寄る。まずい、このままでは囲まれる。退路を確保せねば!
「こうじ、ごめん」
「あっ、リュヒ!てめっ」
予期せぬ裏切り者に羽交い絞めにされる。女の子同士の絆の方がやはり強いのか?とちょっぴり寂しくなったり。
「お兄様」
「にいさん」
「兄さん」
「「「覚悟ーーっ!!」」」
「キャーーッ!!」
<11>
後日談。
瑛時はあれ以来、バイト三昧の毎日を送っている。新しいアルバイトを始めては、その喜びと充実感を電話やメールや訪問で煌侍に熱っぽく長々と語ってくるようになり、煌侍は喜びを隠しつつ、ちょっぴりウンザリし始めている。
「聞いてくれ煌侍!自分で言うのもなんだが、私には結構色々な才能が眠っていたらしいのだ。今日もバイト先でだな――」
「あー、すげえすげえ、おまえ最高」
と言った具合である。
「聴いてよ煌侍!瑛時ったら最近ぐんぐん男を上げてきてさー。会う度にドキドキしちゃうのよ。そりゃ会える時間が急に減っちゃったのは寂しいけど、家を守って夫の帰りを待つってのは、まさしく“良妻”って感じよねー」
璃矩はご機嫌だった。人間として男として、一皮剥けた瑛時に「惚れ直した」らしく、瑛時が彼女の相手をできない時は、こうして暇さえあれば煌侍にのろけ話をしてくるようになった。
「うるせえ、この似た者夫婦め!二人だけで勝手に燃え上がってろ、オレを巻き込むな!」
「そんなー、あんたのおかげなんだからさー、聞いてよー」
「あーもう、あんな世話焼かなきゃよかった」
こんな具合である。
そして維那は。
「煌侍くんっ」
煌侍に対する呼び方が変わっていた。「こうじくん」なのは同じなのだが、甘くとろけるような響きになり、末尾にハートマークが付いている。
これまでの人生で損をしてきた分を一気に取り戻すかのような、維那の積極アプローチが始まった。巫女装束がデフォルトで、根っからのインドア派だった彼女はどこへやら、今やすっかりカジュアルな恋する乙女。もう三姉妹の前でも遠慮はしない。
「わたくし、煌侍くんの事が大好きです。今までずっと大好きでしたし、これからもずっと大好きです。諦めませんから」
三姉妹へ真正面からの宣戦布告。
「受けて立ちます」
対する三姉妹は余裕の返り討ち宣言。
火花が散る。三姉妹と維那の関係は、ほんの少し前までとは様変わりしていた。
では、煌侍と維那はどうだろう。少なくとも、幼なじみというだけではなくなった。煌侍は「三姉妹第一」と言う答えを出したが、それでも維那は諦めないと言う。前途は多難だが、それでも可能性はゼロだとは言い切れない。ならばあとは彼女のがんばり次第。それを完膚なきまでに阻止する構えの三姉妹との抗争は、今後激化の一途をたどりそうだが、鳳鳴鈴をはじめとした他のライバル達も黙っているわけがない。
焼刃煌侍を取り巻く世界は、また一段と騒がしくなってきた。そしてきっとこれからも、まだまだ変化し続けていくのだろう。
ゴールはいつ、どんな形になるのか予想がつかないけれど、「一人でも多くの仲間を幸せにしたい」と彼は願い続け、世界に働きかけていく。「世界中を幸せにしたい」なんて望まない。そんな彼だから、みんな彼の一番になりたがる。熱望せずには、切望せずにはいられない。焼刃煌侍はひたすらに貪欲だ。焼刃煌侍を欲するのであれば、彼よりももっともっと貪欲になる必要がある。
<了>




