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第11話 「凍土の萌芽」

<1>


 今日も今日とて騒々しい、焼刃やいば家の朝。特に今朝は煌侍こうじが朝一番から大学に行かなければならない日。よって、一連の恒例のイベントが順番に繰り広げられている。いつもの光景。

 兄を起こしに行った三姉妹が、一人ずつ奴の抱き付き癖に捕まって身動き不能になったり、寝顔に見惚れて時間を忘れたり、ちゃっかり添い寝したり、とお決まりのパターンで、結局は三人がかりでようやく兄を起こして着替えさせ、介護するかのように優しく付き添いつつ、階段を一緒に降り、食卓に座らせる。ここまでですでに大仕事。

 しかし、三姉妹は嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉々として兄の世話を焼く。そんな、妹達に頼りっぱなしの煌侍は、霞がかった頭の中で、「申し訳ないなあ」と謝ったり、悩んだり、反省したりしつつも、フラフラと左右に身体を揺らす。せっかくの美男も、寝ぼけ眼に寝癖だらけの頭では台無しに近い。

「いつもすまないねぇ」

 お約束の寝たきり老人コントの台詞のような事を言ってみる。すると、

「兄さん、謝るの禁止っ!」

「私達がやりたくてやっている事なんです。私達の楽しみを奪わないでくださいね」

「にいさんは、もっともーっとあたし達を頼っていいんだよ?」

 と、三者三様にたしなめられてしまった。発言順に、長女・絢華あやか、次女・魅霧みむ、三女・こよみ。兄の事が愛しくてたまらない、それぞれが個性的な三つ子。彼女達は、心から愛してくれている。

(とは言ってもなあ……)

 身体はガッチリと睡魔に捕らえられているのだが、何とか脳を働かせて煌侍は考える。

 確かに妹達が嘘を吐いている様子はない。いやむしろ、本当に嬉しそうに楽しそうに、自分の世話を焼いてくれている。焼かれる方としても非常に嬉しいのだが、どうしても心の奥底で申し訳なさが渦巻く。そうさせている事で、もっと彼女達が自分達のために有意義に使うべき時間を浪費させてはいないだろうか、と。これは、彼が世話をする側からされる側になった時から、ずっと抱いてきた疑問。

「兄さん(or『お兄様』or『にいさん』)の事以上に有意義な事なんてない」

 いつもそう言ってくれる。それを態度で示してくれる。とても嬉しい。幸せだ。だが。

(特に魅霧……)

 チラリと次女を見る。と、偶然に目が合い、彼女は少し照れつつも、柔らかに微笑みを返してくれた。心が温まるのを感じる。

 魅霧は全ての面において有能だ。有能過ぎる、と言ってもいい。決して兄バカではなく、客観的に見て。家事に始まり、家計関係や様々な雑務、さらには機械関係まで。煌侍や絢華や暦が手伝おうとしても、逆に足を引っ張りかねない事もある。それらをこちらが練習して上手くなろうとすると、「私は楽しくて嬉しくてやっているんですよ?その楽しみを取らないでくださいね」と、先程のように返されてしまう。それでもやはり、彼女の負担は大き過ぎる気がするのだ。

(となると、やっぱハウスキーパーさんとかになるんだが……)

 男を家に入れるのは論外だから、女性。で、若い人は三姉妹が許さないだろうから、おばさんかおばあさん?おばさんでも、どこぞの妙に諜報術に長けたような人はご遠慮願いたいが。それよりも第一、他人を我が家に入れるという発想自体が不自然か。


「兄さん、ホラ、もう時間だよー」

「立って立って、紳佐しんささんが外で待ってるよー」

 絢華と暦が左右から兄の腕を取って立たせ、煌侍の思考は、いったんそこで停止を余儀なくされた。いつの間にか朝食も終えている。今朝はいつになく上の空だ。しまった、悪い事をした。もったいない。

 玄関にて恒例の妹達とのキス交換会を心ゆくまで開催した後、ドアを開けると、そこには呆れ返った表情の紳佐が待っていた。相変わらずのシルバーに染め上げられた長髪に、全身を包むレザーファッションと光り物。

「煌侍、君という人は毎度毎度……」

「つってもよ、しょーがねぇじゃんよ。そっちこそいい加減慣れてくれ」

「おーくーれーるーってばー!」

 急かす絢華に背中を押されながら、後ろ髪引かれまくりの煌侍。頭の中はようやく対外モードに切り替えられたようで、表情も精悍なものになってきた。


「あーもー、オレ、電車やだー。混んでるし空気悪いし寝られんし」

「子供ですか君は……」

「専属の運転手とか欲しいなー。雇っちゃおっかなー。……ん?」

 煌侍の歩みと発言がピタリと止まる。それにつられて動きを止める、妹達と先行していた紳佐。

「どうしました、煌侍?もう本当に時間に余裕ありませんよ?」

「ん?んー……」

 聞いているのかいないのか、鈍い反応の煌侍。何やら不審げに庭を見渡す。妹達も兄の様子を不安げに見やりつつ、同様の行動を取る。

「にいさん、どうかした?」

 行動派の暦が、兄のそばに駆け寄ってくる。煌侍はそんな彼女を右の懐に抱き、右手でその髪をかいぐる。くすぐったそうに目を細める暦。

「なんかよ、オレ達以外の気配がしねえか?」

「以前の教訓を活かして、今は空からの警備まで万全なんでしょう?もしあっても鳥とか猫なのでは?」

「いえ、それはありません。センサーの強化によって、それならそれと分かるはずです」

 紳佐の物言いに、魅霧が答える。彼女にとって、あの事件はかなりショックなものだったようだ。

「……朝のボケた頭じゃこれ以上は無理だな。おまえ達、ちょい早いけど今日は一緒に出よう。用意しろ。帰りはオレ、今日早いからそっちに迎えに行く。帰らないで待ってろ」

「はいっ!」×3

 兄の言葉に弾かれたように家の中へと戻り、支度を急ぐ三姉妹。紳佐はその様子に改めて驚いた。まるで統率された軍人のようだ。

「でもいったい本当にどうしたんです?それに、間に合わなくなっちゃいますよ?」

「うん、よ。なーんか変な感じがして落ち着かないんだわ。大学は間に合わす。神速ダッシュをかける」

「アレですか……。僕は君と違って一般人なんですから、あまり無茶をさせないでくださいよ」

「おまえのどこが一般人だよ。……お、来たな。行くか」

 3人の妹達の額に軽くキスをして、門前で逆方向に別れる。そして、二人の男は風になる。


<2>


「また来てくださいねーっ!!」

 全校生徒の強い要望を背に受け、学園を後にする煌侍こうじ&三姉妹。今回もまた大騒ぎでした。結局煌侍は早くに着き過ぎて時間が余り、学園見学を関係者に勧められたり。途中、中等部で阿亜樹ああじゅ&タキナギに会い、先日のトリオ名ネーミング会議の続きを行なったりした(阿亜樹がなぜか激しく嫌そうだったのが気になったが)。

 そんなこんなで、何はともあれ兄妹は合流し、一路自宅を目指した。代わる代わる位置を交代しては自分に甘えてくる妹達を愛しく想い、穏やかな表情で見やりながらも、煌侍の頭の中では依然、今朝感じた違和感が横たわっていた。

(アレは確か……いや、でも、まさか、なあ)


 焼刃やいば邸、門前。普段ならば安心とともに何気なく通り抜けるその場所も、今は警戒の対象となっていた。ただならぬ兄の様子を感じ取った三姉妹の中にも、口を開く者はいない。

 素早く庭へと滑り込んだ煌侍は、全身の神経を研ぎ澄ませ、大気の流れを掴み、周囲の気配を探る。

 ……いた。やはり。

「そこか」

 敵(?)ながら大したものだ。彼がここまで集中しなければ、場所を特定できなかった。どこかで相当な訓練を受けた者か。

 煌侍は三姉妹を自分からわずかに距離を取らせた後方に配置し、ゆっくりとその場所を目指す。三姉妹に「離れていろ」と言わないのは、もし相手の狙いが三姉妹であった場合、最短距離でそちらに向かわれた時に、大きく出遅れるからだ。相手の力量が判明していない以上、油断や過信は禁物だ。

 侵入者が潜む場所、そこはいわゆる物置であった。家の前の道路側に面した庭の隅にポツンと佇む、広さで言うと四畳半くらいの、高さで言うと2メートルくらいの小さな建物。別段立派な造りでもなく、ただよそ様の物よりはキャパシティがあるだけの物だ。実はこの物置、焼刃家は整理整頓が行き届いている事もあり(主に魅霧の功績だが)、実際には一度も使用されていなかったりする。

「……」

 息を殺し、気配を殺し、物置の扉に手をかける煌侍。どうやら鍵はかかっていない。中の人物(?)が銃などの飛び道具を構えている気配もない。が、そこにいる事は確実だ。後ろを小さく振り返り、三姉妹に目配せをする。それに彼女達は冷静な表情で頷き返し、おのおの構えを取る。

「……っ!」

 一気に扉を開き、中に煌侍が踊り込んだ。中で何かが倒れるような物音と、声にならない悲鳴を、三姉妹は聴いた。それで兄が一瞬の内に内部を制圧した事を知る。ひとまず安心はしたが、確認をしてみるまでは気を緩める事はできない。

「あ?」

 中から煌侍の間の間の抜けた声がした。三姉妹はお互いに不審げな表情で顔を見合わせ、ひとつ頷くと、一番戦闘力の高い暦が先頭となって物置の中へと入る。

「にいさん、なにかあったの?」

 と、そこには。

 黒いスーツに身を包んだ人物を押し倒し、組み敷いたままポカンとする煌侍の姿があった。拘束されている者の髪はベリーショートのプラチナシルバー。外国人か?

「おまえ……ブリュンヒルデか?」

 煌侍があっけに取られたような声で、下の人物に問う。

「知ってる人なの?」

 声をそろえる三姉妹。

「ギョイ」

 奇妙な侵入者が、初めて声を発した。


 なんともおかしな光景だった。

 四畳半の広さの物置の床に、煌侍と制服姿の三姉妹、そしてなぜか正座している黒スーツ姿の外国人娘のブリュンヒルデ。

「それにしても……」

 呆然として物置の内部を見回す煌侍。気配を察したのは今朝、そして現在は夕方、そのわずかな間に、そこはすっかり居住空間に改造されていたのだ。

 床も壁も天井も綺麗に掃除され、どこから持ち込んだのか、生活用品が一式そろえられていた。だが、そんな事よりも驚いたのは、電気まで通されていた事だ。機械音痴な煌侍には、何をするのかすら分からない装置も転々と設置されている。

「いつの間に……」

 呆れるのを通り越し、むしろ感心してしまう。あの厳重な焼刃家のセキュリティを一体どうやって潜り抜け、短時間の間にここまで。三姉妹は声も出ない。

「イラッシャイマセ」

 ブリュンヒルデが三つ指を突いてあいさつをする。

「おまえの家じゃねーよ!」

 とりあえずツッコむしかなかった。


<3>


「で、どうやって侵入したんだ?」

 物置の中ではあんまりなので、尋問の場所を焼刃やいば家のリビングへと移した。煌侍こうじの目の前のソファにブリュンヒルデが座り、三姉妹は兄を囲むように座っている。右足を上に組み、右手の人差し指で右のこめかみを押さえる煌侍。頭が痛い。なんかまた厄介な事になりそうな気がする。

「ん。ギョイ」

 ブリュンヒルデがかすかにうなずき、どこからともなくスケッチブックと黒の太いマジックを取り出すと、サラサラと何やらそこに描き込んでいく。もう驚きもせず、その様子を見つめる焼刃兄妹。

「ん。これ」

 やがて5分ほどで、そのスケッチブックが裏返された。と、見事に精密な焼刃邸の見取り図が描かれているではないか。思わず「ぉぉ」と低い感嘆の声を上げる一同。ブリュンヒルデはその反応を気に留める事なく、今度は青のマジックを取り出すと、その図のいたる所に点やら印やらを黙々と打っていく。

「それは、監視カメラにセンサーの!」

 魅霧が悲鳴にも似た鋭い声を上げる。表情が強張る。無理もない。彼女ご自慢のセキュリティの数々が、目の前で丸裸にされていっているのだから。


「ここ、ここ、しかく(死角)」

 感情のない声で、赤のマジックを持ったブリュンヒルデが、仕上げとばかりに数箇所の丸印を書き込んでいく。

「こんなにっ?」

 絢華あやかが驚く。その隣りで、魅霧みむは「そんな……」とショックを受けていた。こんなにも弱々しい彼女の姿を見るのは久しぶりだ。こよみが優しく、姉の手の甲に自分の掌を重ねる。

「業者を信用しすぎ、他人任せにしたのがいけなかったか。…にしても見事だ」

 煌侍が冷静に分析し、同時にブリュンヒルデの能力を高く評価する。初顔合わせの時に「ただものではない」とは看破したが、ここまでとは。褒められた当人は、わずかに頬を染めた。この日、初めて見せた感情の現われだった。

 すると、それが何かのきっかけだったかのように、ブリュンヒルデはまたもやスケッチブックに何かを書き始めた。今度はごく短い時間で書き上げ、急いだ様子で裏返す。そこには――

「『アトシチ』?」

 疑問符いっぱいの焼刃兄妹ハーモニー。そうとしか読めなかった。それでも、かろうじてのレベルでだが。

「ちがう」

 ブリュンヒルデが不満そうに眉根を寄せる。そんな表情も出来たのか。

「やとって」

 ポツリと言った。だがそこには、決意のような響きが感じられた。

「あー『ヤトッテ』な。カタカナで書くからだよ。…って、雇え?!」

 典型的なノリツッコミの図。ちょっと恥ずかしい。「これじゃオレ、まるで阿亜樹ああじゅみたいだな」と煌侍は頭の中で苦笑した。

 コクンとうなずくブリュンヒルデ。そしてもう一度「やとって」と言った。その目は真剣だ。

「つーかおまえ、仕事してただろ。あそこでの運転手はどうしたんだよ。辞めたのか?」

 煌侍の当然の問いに、ふるふると小さく首を左右に振るブリュンヒルデ。

「クビされた」

「なんでまた?なんかやらかしたのか?」

「してない。おじょうさま、きゅうに、クビした」

 質問へのリアクションはさっきと同じ。「本当にわからない」と言った感じだ。

「んー、なんでだろうなぁ。よくやってたようにオレの目には見えたが」

 煌侍も一緒に思案投げ首。


 と、そこで、

「あの、お兄様?」

「なんだ魅霧?そういやほったらかしにしてて悪かったな」

「いえ、それは気にしていません。ですが、そちらの方はどなたですか?お兄様とお知り合いのようですけど」

「あ、あー、そうだったな、スマン。そういや紹介がまだだったな。つっても、実はオレも言うほどよくは知らないんだが。この子はブリュンヒルデ、この前エリゼレーベルのパーティ行った時に送迎やってくれたんだ」

「ヨキニハカラエ」

 紹介を受けたブリュンヒルデがスッと立ち上がり、礼儀正しく一礼をする。言葉以外は良い印象だ。苦笑する三姉妹。

「で、おまえ、それで雇って欲しくてあんな所に潜り込んでたのか?普通に来いよなー」

 もっともな意見だ。が、指摘された方は平然と、

「スキルアピール」

 と答えた。確かに、今となっては有効な手段だったと言える。

「でもよ、なんでウチなんだ?おまえほど有能なら他にいくらでも仕事あるだろうに。給料とかもドバーッとさ」

 その言葉に、また首を左右に振るブリュンヒルデ。さっきよりも幾分早く。そして、ピタリと煌侍を指差してこう言った。

「おかね、いらない。……が、いい」

「……」に入るのは「煌侍」だろう。何と呼べば良いのかが分からないらしい。不穏な空気に、ムッとする三姉妹。

「金いらないって言われてもなあ。正直、金なら出せるんだぜ?けど、雇うかどうかっつーのは、それとはまた別問題だろ。確かにおまえは何かと有能そうだし、実はここ最近信頼できるヘルパーが欲しいとも思ってた。でもな、まだおまえの事を何にも知らない状態で、この家の中を任せるわけにはいかねえよ」

 兄の言葉に表情で同意する三姉妹。「悪い子ではなさそうだけど、真意が分からないし、家の中に入って来て欲しくない」、とも同時にそれは語っているが。

「じゃましない。ちょっとのごはんでいい。あそこでいる」

 いつになく、必死に食い下がるブリュンヒルデ。そして庭の隅に見える物置を指差した。どうやらあそこで暮らすつもりらしい。この子のどこにこんなにも熱意と強引さがあったのか、焼刃兄妹は少々気圧されていた。


<4>


「……じゃん」

 このままでは埒が明かないと判断したのか、ブリュンヒルデが別のスケッチブックを取り出した。今度のは随分と分厚い。その表紙には、「づリュソとノレヂのばらけん」と大きく書かれてあった。ミミズが火あぶりの刑に処せられたかのような文字が躍っている。きっと「ブリュンヒルデのぼうけん」と書きたかったのだろう。推測するに彼女、日本語を話したり読んだりする事には問題ないが、書く事はまだまだのようだ。

「むかしむかし」

(そんなに昔じゃないだろ)

 心の中で同時にツッコミを入れる焼刃やいば兄妹を尻目に、有無をも言わさずスケッチブックをめくり始めるブリュンヒルデ。なぜか異常に絵が上手い(字はアレなのに)。二頭身に愛らしくデフォルメされた彼女自身が主役の紙芝居が、今、始まった。


 それは大方の予想通り、ブリュンヒルデのこれまでの人生を描いた物だった。

 やけにほのぼのとしたパステル調のタッチと、何の感情も込められていない、説明不足すぎるナレーション。しかし、それらを差し引いても、伝わりようは半端ではなかった。大袈裟ではなく、焼刃兄妹は絶句し、固唾を呑んでそこに見入った。悪夢のような現実、作り話のような残酷な人の歴史が、そこにはあった。

 これによると、ブリュンヒルデは、自身の生まれすらも知らないらしい。いつ、どこで、誰と誰の間から生まれたからのすらも。物心がついた頃には、どこかの極寒の地の下水道で、数人の仲間達と、いわゆるマンホールチルドレンとして生活していたという。いつから「ブリュンヒルデ」と呼ばれていたのかも憶えていない。生きるためにスリや窃盗にも手を染め、何度も警察などに追われ、生きるか死ぬかの毎日だった。

 ある日、突如彼女達のテリトリーにやって来た武装した軍人風の連中に彼女は仲間とともに捕らえられ、いずことも知れない施設に放り込まれた。地獄の続きに、さらなる地獄が待っていた。

 何百人とも何千人とも分からない、様々な人種の子供達。早朝から深夜まで、休みなく課せられる「訓練」の日々。ありとあらゆる機械や武器の扱い方、乗り物の操縦法、言語習得、戦闘訓練……等々。ついてこられない子供達は容赦なく切り捨てられ、どんどんとその数を減らしていった。昔の仲間同士で殺し合いをさせられるケースも珍しくはなかった。そんな永遠とも思える日々が過ぎ、気が付けば自分の周りには数人の子供達しか残っていなかった。

 が、「卒業」は突然だった。施設を出た彼女は、時には傭兵として、時には用心棒として、世界各地を転々とした。その途中、自分を創り上げた組織と施設が、何者かにあっさりと壊滅させられた事を知った。

 彼女はいきなり自由になった。自分以外に、過去を知る者も、証拠も、全て綺麗さっぱりなくなっていた。あれだけ渇望していた自由なのに、いざ手に入れてみると、何をして良いのか全く分からなかった。

 とりあえず、生きねばならなかった。今はもういない、かつての仲間達の事を思うと、死ぬという選択肢はありえなかった。自分にも何か出来るまっとうな事、いつしか流れ着いた日本という豊かな国で、運転手という仕事にありついた。

 雇い主のお嬢様は、「あなたのそのプラチナシルバーの髪と、アイスブルーの瞳が気に入ったわ」と言った。自分の容姿には興味がなかったし、よく分からなかった。

 単調だけど、平和な毎日が始まった。「これでいい」と思った。危険もなく、辛くもない。もうあんな生活には戻らない。「このままでいよう」と思った。


 だが、出逢ってしまった。焼刃煌侍やいば こうじと。これまでの彼女の人生で、会った事も聞いた事もないタイプの人間だった。常に生死の境で生きてきた彼女は、本能的に一瞬で、その人間の本質を嗅ぎ分ける。驚いた。底が見えなかった。もうずっとずっと前から、人間という生き物に絶望していた彼女の奥底に、小さな灯が点った。「あのひとのそばにいたい」と言う、強烈な衝動が湧き上がってきた。こんな気持ちは初めてだった。

「最近どう?ブリュンヒルデ」

 お嬢様が近くまでやって来て話しかけて来た。嬉しくなって彼女は言った。

「そばにいたいひと、できた」

 お嬢様の瞳がスウッと細くなり、言った。

「そう。ワタクシはあなたの一番じゃないのね。じゃあ、もういらないわ。あなたはクビよ。どこへなりともお行きなさい」

 彼女はまた失った。だが、今回は全てではなかった。この気持ちがある。彼女はまだ、嬉しいままだった。いてもたってもいられなくなって、「あのひと」を捜し求めた。

 自分は素性の知れない外国人という事もあり、一筋縄ではいかなかったが、苦労とは思わなかった。見付けた時には、何日経ったのかもわからない夜だった。一般家庭とは思えない、まるで要塞みたいな警備の家だったが(何と対空レーダーまで付いていた)、セキュリティの穴を見付けて侵入に成功、ちょうど良い建物があったので、ひとまずそこに間借りさせてもらう事にした。


<5>


「おしまい」

 以上。長い、長い物語だった。今までこんなにもしゃべった事がなかったブリュンヒルデは、自伝そのものであるスケッチブックを傍らに静かに置くと、小さく息を吐いた。

 静かだ。奇妙に感じて顔を上げ、ギョッとする。三姉妹が、声を上げずに涙を流していた。彼女は慌てる。こんな事態は予想もしていなかった。

「どうした?わるいこと、したか?」

「いや……おまえは、何も悪くなんかねえよ」

 煌侍こうじが、噛み締めるように、噛み殺すかのように言った。途端、わっと三姉妹がブリュンヒルデにしがみ付き、その頭を撫で、頬ずりし、抱き締めた。中心人物は、訳も分からずにされるがままだ。

 コミカルでハートフルなイラストだった。だが、そこに描かれていたのは、どれも残酷な場面ばかりだった。感情のないナレーションだった。彼女の感情はどうしてなくなり、どこへ行ってしまったのか。

「三文ドラマのワンシーン」、そんなフレーズが煌侍の脳裏をふとかすめた。お涙頂戴、そんな場面。しかし、関係ない。ここには、この五人しかいない。


 彼女の話がウソ、という可能性ももちろん考えた。最初は。部分的に、あるいは全て。これはこの家に侵入するために使った手段の一つではないか、そして今も危害を加えるチャンスをうかがっているのではないか、と。しかし、それは違った。彼女の話は、全て本当の事だ。焼刃やいば家の兄妹には分かる。

 焼刃家の人間は、その複雑怪奇な血筋ゆえに、これまでの歴史の中で、様々な迫害に遭ってきた。髪の色、瞳の色、肌の色。やがて、そういった記憶は色濃く血に溶け、鋭敏過ぎる観察眼や洞察眼を彼らの一族は身に付けてきた。だから、分かる。ブリュンヒルデの生い立ちは、全て真実だと(彼女が器用に人を騙せる人間ではない事も大きな理由の一つだが)。そして、そこに記しきれなかったであろう幾多の凄惨な思い出の数を想像するに、絶句する他はなかった。

 いったい彼女は、どういった想いでこの生い立ち絵本を描いたのだろうか。すっかり摩滅してしまった彼女の感情は、掘り起こした思い出したくもなかっただろう過去とともに、浮き上がっては来なかったのだろうか。

 一方で、奇妙なシンパシィをも、焼刃兄妹は彼女に感じていた。

 常に死線に身を置いてきたブリュンヒルデに対し、安寧に(彼女と比べての話だが)暮らしてきた彼らが何をおこがましい、と思われるだろうが、それは厳然たる物として、四人の中に存在していた。「近い」と言うよりは、見えざる物を共有しているかのような感覚。この出会いは、焼刃兄妹とブリュンヒルデ双方にとって、欠けていたどこかのピースを、確かに埋めたのだ。

「おとこ、まだ、きらい」

 場が落ち着いた雰囲気を取り戻しつつある中、ブリュンヒルデが三姉妹に向けて言った。「兄は取らないから安心しろ」と言いたいのかもしれない。ハッとする三姉妹。今、自分達は、彼女を受け入れつつある。が、それでも、彼女が兄を奪おうとするのであれば、即、敵と認識して排除する。その気持ちは隠していなかった。

「……は、かなりへいき。でも、まだ」

 ブリュンヒルデが煌侍を指差して言う。そうだろう。戦場と言う場所、裏の世界、「そういう事」を主目的として彼女に近付き、襲い掛かってきた愚か者どもは掃いて捨てるほどいただろう(全員返り討ちにあった事は間違いないが)。プラチナシルバーの髪にアイスブルーの瞳、新雪のような肌。なにしろこの美しさだ。分からないでもないが、分かってやる必要は一切ない。

 自分達の想いを見透かされ、ややバツの悪そうな照れ笑いを浮かべる三姉妹。涙はもう、引いていた。


「よっし。んじゃ、ま、ここはひとつ、テストといこうじゃないの」

 場の雰囲気を変えようと、煌侍が明るい声で提案する。

「テスト?」

 三姉妹が声をそろえる。突然の企画に面食らったようだ。そしてその声の裏には、「そんな必要あるの?」という疑問がかすかにチラつく。彼女達の中でブリュンヒルデの雇用は、もう決定事項に近いようだ。

「まあまあ、そう言うなって。ブリュンヒルデだって、そんなにあっさり認めてもらったんじゃあ、逆にこっちを信用できなくなるってもんだ。バイトとかにだって、面接とか採用試験とか研修期間ってあるだろ?オレだって実際にこの目でどれほどの物か、見極めたいしな」

 もっともな意見だ。妹達は、兄が真剣に考えている事を再確認して嬉しくなった。

「ブリュンヒルデも、それでいいな?」

「ギョイ」

 コクコクと小刻みに、彼女は頷いた。

「おっけ。ではでは、庭に出ますか」

 両膝を景気良く叩き、ソファから立ち上がる煌侍。三姉妹は即座にその発言の意図する所を悟った。


 再び舞台は焼刃家の庭。3メートルほどの距離を置き、対峙する煌侍とブリュンヒルデ。三姉妹はその二人の中間ぐらいの位置に、離れて集まって立ち、立会人としての役割を担う。

「オレとしちゃあやっぱ、妹達のボディガードとしても期待してるんでな。ガードの基本は対処だろうが、オレから本気で攻めると初手で終わっちまうし、手を抜いて攻めるのに意味はない。とりあえず気が済むまでかかって来い。それで判断する」

 体勢を半身にし、一見力を抜いた形で煌侍はブリュンヒルデを右手で手招きする。両者の目付きはもはや戦闘モード。そこには一切の不純物はない。

予備動作は全くなかった。予告なく宣言なくブリュンヒルデが仕掛けた。低く、速い。

「速い!」

 三姉妹の声がそろった。

 が、煌侍は依然、半身のままだ。反応し遅れたのか?まさか、それはありえない。

 閃光のような、左手の手刀での喉笛を狙った一撃。常人ならば貫かれて即死だろう。しかし、焼刃煌侍は常人ではない。無造作に右手首のスナップだけでそれを払いのけると、二の矢の右の手刀を左手でキャッチしてひねり倒す。したたかに背中を地面に打ち付けられ、ブリュンヒルデが息を詰め、小さく呻いた。

 もちろんそれで終わりではない。起き上がるブリッジの反動でキックを放つや、掴まれた手首を器用に引き抜き、怒涛のラッシュを開始する。風を切ってうなる腕が脚が、まるでムチが伸びるかのような音を発する。一撃一撃が必殺の威力を持って襲いかかる。


「とりあえずは、こんなとこか。よくがんばったな。合格だ」

 数十分後、地面にぺたんと座りついて、肩で大きく息をするブリュンヒルデに、表情を和らげた煌侍が告げた。それを機に、二人の所に三姉妹が駆け寄ってくる。

「……よわく、ないのに。……せかい、ちがう」

 まだ息を弾ませながら、ブリュンヒルデがまず自分を指差し、次に煌侍を指差して言う。「悔しい」とか言う次元ではなく、「理解できない」と言った感じか。一時は「氷の告死天使こくしてんし」と闇の世界で名を轟かせた自分が、一般人を相手に攻撃をかすらせる事すら出来なかった。のみならず、相手は左足を中心とした円の範囲内から踏み出す事すらなかったのだ。

「そうさ、おまえは弱くない。今まで戦った相手の中でも最強クラスだ。根性もある」

 優しい声で煌侍が言った。

「でもまあ実際、拳法家に比べると、軍人や暗殺者相手ってのは楽だな。悪いけどオレ、得意なんだわ」

「とくい?」

 ますます訳が分からない。首をかしげる。

「うん。奴らはさ、変にマニュアル化されてるっつーのかな、攻めのパターンが単調だ。たいてい狙ってくるのは急所だしな。一撃必殺が信条だから、二の矢以降の攻めはどんどんレベルダウンするし。防御も交差法とかのカウンターは巧いけど、動きが硬いし、基本的に打たれ弱い」

 衝撃を受けた、と言うよりは、新鮮な感覚だった。彼女はこれまで、ただ叩き込まれてきた事を実践し、その精度を上げていく事のみに心血を注いできた。それに対しての疑問を感じた事もなかった。

 今まで味わった事がなかった敗北。しかし、挫折感はない。逆になんとも、清々しくさえある。自分の世界が簡単に、確実に変わり始めている実感がある。全身の血流を強く感じる。鼓動が早い。

「期待以上だな。これなら充分、安心して妹達のボディガードも任せられる。防御なんかでの不安材料は、折を見てオレが教えていく」

 煌侍は、まだ座ったままのブリュンヒルデに近付き、右手でその髪をくしゃくしゃとかいぐる。それは、彼が相手を認めた時の、自分達への世界への移住を認めた時の行動パターンの一つ。

 アイスブルーの瞳を細めるブリュンヒルデ。身体が熱く、心が温かい。生まれて初めて、血が通ったかのような感覚。これがずっと求め続けてきた物か。

「よかったねっ、よかったねー」

 絢華あやかがはしゃぎ、こよみが立たせてやったブリュンヒルデの汗を、魅霧みむが白い絹のハンカチで丁寧に拭ってやる。煌侍はその光景を、包み込むような笑顔で見ていた。まずは仮契約完了、か。


<6>


 第一関門をめでたく突破したブリュンヒルデを待ち受けていたのは、魅霧みむ先生による「焼刃やいば家家事講座」であった。

 掃除、洗濯に始まり、料理から各種機械の操作まで、実に様々な項目について足早にチェックがなされた。そして彼女はここでも恐るべきポテンシャルを発揮し、焼刃兄妹を驚かせ、喜ばせた。

 とにかく彼女は飲み込みが早く、異常なまでに手先が器用だった。「真綿が水を吸うように」とは、まさしくこの事だろうか。料理こそまだまだだが、これもすぐに上達するだろう(やはり和食が好みらしい)。まさに万能、天才的と言って良い。あのスパルタで知られる魅霧をして、べた褒めだった。こうして、あれよあれよ言う間に、ブリュンヒルデの焼刃家における地位は向上し、ポジションを獲得していった。

 今やすっかり焼刃家のハウスキーパーとなったブリュンヒルデ。その他にも警備責任者としてセキュリティの向上に努めたり、実にまめまめしく働いてくれる。少し前まで他人が我が家に入って来る事を断じて許せなかったのが嘘のようだ、とは兄妹四人の共通した感想だった。世の中何がどうなるか分からないものだ。


 ブリュンヒルデは、念願叶ってこうして焼刃家に雇い入れられても、決して甘える事なく、厳しく自己を律し続けた。

 例えば、風呂は焼刃家の物を使用させてもらっても、夜は必ずあの改造物置の四畳半に帰って寝る。食事も兄妹の準備を完全に整えてからでないと、自分は始めない。最初は同じテーブルに着く事すら拒んでいたが、そこは絢華あやかこよみに強引に説得された。食事中も何かにつけて甲斐甲斐しく動き、使用人としての役割を忘れない。

 中でも皆を感心させ、信用を深めた事は、焼刃兄妹だけの世界に絶対に踏み込んで来ない事だった。彼女は鋭敏に空気を察知し、気を配る。お陰で兄妹は今までの生活を何ら変える事なく、より快適に過ごせるようになった。普通ならば目の前の理想郷に対する強い参加欲求が生じるだろうに。ブリュンヒルデは意地の悪いそんな問いに対し、ただ一言、「しあわせだから」と言った。


 が、変化といえば、やはり変化もあった。

 ある日、煌侍こうじが家に帰ると、玄関でハタキをかけるブリュンヒルデが、いつもの黒スーツの上にエプロンをしていた。淡いピンク色の、かわいいフリルのたくさん付いた代物で、「ぶりゅんひるで」をポップでキュートなフォントでの刺しゅうがしてあった。その変な若奥様は家主を見付けると、「おかえりなさい、あなた」と平たい声で言った。魅霧が仕組んだ事だった。

 次の日、煌侍が家に帰ると、玄関で雑巾がけをしていたブリュンヒルデが、いつもの黒スーツにヘッドドレス、そして身体の各所に白いフリルパーツが付いたメイドバージョンにカスタマイズされていた。その微妙なメイドさんは、帰宅した家長に「おかえりなさいませ、ごしゅじんさま」と言いにくそうに言った。絢華が仕込んだイベントだった。

 またその次の日、煌侍が家に帰ると、玄関で靴を磨いていたブリュンヒルデが、いつもの黒スーツの上に割烹着を着ていた。なんとも珍妙な格好だった。そのキテレツな女将さんは、帰ってきた主人を見付けると、慌てて三つ指を突き、「おふろ?ごはん?あと、えっと、わすれた」と機械的に言った。暦の入れ知恵だった。

「どういうつもりだ、あのコスプレショーは?」

「どれが良かった?」

 焼刃家のリビングにて、目を輝かせて勢い込んで尋ねる三姉妹と、呆れる兄。

「だってさあ。……ねえ?」

 と、暦が魅霧を見る。

 それに「ええ……」と答え、絢華を見る魅霧。

「だってブリュンちゃん、いっつも黒スーツなんだもん」

 最終的に代表して、絢華が言った。……そう言われてみれば。

 話題の中心人物となっている当のブリュンヒルデは状況について行けず、兄妹喧嘩なのではないのかとオロオロしている。ちなみに今も、その黒スーツ姿。

「そういやそうだな。おまえ、なんでいつも黒スーツなんだ?そればっかり何着も持ってるみたいだし」

「ん、まえのおじょうさまにいわれた。『それがにあうからきてなさい』って」

 話を振ってきた煌侍に、少し思い出すような仕種をしてから、ブリュンヒルデが答えた。別段懐かしんでいる様子はない。加えて、トレードマーク扱いのそのコスチュームも、特に気に入っている様子はなく、惰性で着続けていたらしい。確かに似合ってはいるのだが、どうも冷たい感じがするというか。

 「そうだ。ブリュンヒルデ自身は色々着せられてみて、どれか気に入ったのなかったのか?働きやすかった奴とか」

「……ん」

 問われてぱたぱたとリビングを駆け出していくブリュンヒルデ。そして、廊下の方からしゅるしゅると衣擦れのような音が聞こえてきた。

「これ」

 やがて戻ってきたブリュンヒルデが、袖を掴んでやや恥ずかしげにしながらも、お気に入りをお披露目。

「それか……」

「うわぁ」

 思わず小さく感嘆の声を漏らす焼刃兄妹。彼女の選んだコスチュームは……なんと大穴、割烹着だった。

「何ともまぁ、意外なチョイスだったな」

 あっけに取られる煌侍。プラチナシルバーの髪にアイスブルーの瞳、そして黒スーツに割烹着。

「本人がそれがいいってんなら、オレに文句はないけど、スーツとはさすがにミスマッチかな。統一して着物って事にすると、足元の動きが制限されて、いざって時になあ。ってなると、下はもんぺとかジャージか?」

 思案する煌侍に、「そんなの家になかったよねー?」と絢華。

「うん。見た憶えがないもん」と暦。

 そこで魅霧が提案。

「では、みんなでお買い物ですね」

「さんせー」

「いーね」

 と、絢華と暦。

「んじゃ、行くか」と煌侍。

「?」とキョトンとするブリュンヒルデの頭に軽く右手を置き、彼は「家族ファミリーでおでかけだよ」と優しく言った。


<7>


 ある程度は仕方ないと思い、予測もしていたが、ここまで人目を惹こうとは。いや、実際無理もない。焼刃やいば兄妹がそろっている事自体がパニックものなのに、そこにプラチナシルバーの髪、アイスブルーの瞳を持つ東欧系の美人までくっ付いてしまっているのだ。外出という事でいつもの黒スーツ姿に戻った彼女は、日本人にはない中性的な魅力をかもし出していた。遠巻きに渦巻く人々が、「あの子、少年?少女?」と論議をしている。

 焼刃家の地元駅前にそびえ立つ巨大デパート。その八階のファッションフロアで、煌侍はやや居心地の悪い思いをしていた。五人が一度に乗れる足がなかったのでここまで歩いてきたのだが、その道すがらもキャーキャー言われて大変だった。焼刃兄妹はある程度はもう慣れたものだが、こんな事は当然未経験だったブリュンヒルデは、どう振舞って良いのか分からず、不安げに煌侍こうじの上着の右袖を掴んだ。「こりゃやっぱ、車買わないとな」と煌侍は考えた。


 それはそうと、ブリュンヒルデの服選びである。三姉妹は着せ替え対象を次から次へと引っ張って行っては、大はしゃぎである。ワンピース、フリルドレス、デニムの上下、皮のジャンパー……等々。実際どれもこれも、彼女にはよく似合った。黙ってなされるがままになっていたブリュンヒルデも、姿見の中に今まで知らなかった自分を見付け、不思議そうに、珍しそうに、色んな角度から鏡を覗き込んだり、服やスカートの端っこを摘んで確かめたりするようになった。そんな微笑ましい光景につられて和んでいた煌侍だったが、ふと我に返って当初の目的を思い出した。

「おーいおまえ達、普段着とかはその辺でいいだろ?そろそろ『制服』決めに入ろうぜ。内用と外用の」

「はーいっ」

 大きく脱線していた事に気付いた三姉妹が、お互いに顔を見合わせて小さく舌を出し合い、慌てて戻ってくる。いつの間にかゴスロリファッションに身を固められていたブリュンヒルデが、解放されたかのように一息吐いたのが見えた。


「制服」の方は、ある程度ここに来る以前から候補が絞られていたので、あまり迷うような事はなかった。それまでとは違い、ブリュンヒルデ自身が目的のショップへとズンズンと歩き、兄妹を先導していく。

 まずは「内の服」。彼女が迷う事なく選んだのは、やはりのアレ。

「キモノ」

 やや紅潮した面持ちで、呉服店のショーウインドウにへばり付いている。時代劇を教科書に日本語を憶えたであろう彼女、その憧れは、こちらの想像以上に強いらしかった。

 煌侍が例の「足元の自由」云々の話を持ち出すと、「セキュリティ、かんぺき」と珍しくしおれ、物欲しそうな視線を送ってきた。周囲の三姉妹も、それに追従するように、そろって潤んだ瞳を向けてきた。

「分かった、分かったよ。敷地内にまで入って来られた時点で負け、入って来られないためのセキュリティだもんな。好きにしろ」

 あっさりと煌侍は敗北宣言。この四人にうるうるされて、「ノー」と言える訳がない。「よかったね」と三姉妹に囲まれて嬉しそうにうなずくブリュンヒルデに、「ただし、これからも気を抜くなよ」と形だけの釘を刺しておく。まったく、敵わない。


 かしましく数点の「キモノ」を選んだ後は、いよいよ「外用の制服」選び。焼刃家外出の仕事用、三姉妹のボディガードや運転手の任がそれに当たる。

 ブリュンヒルデ自身の服選びのポイントや好みとしては、ある程度のフィット感が必要らしい。ゆとりのある服装が好みである煌侍とは逆に、「気を引き締める」という意味もあるようだ。よって、結局は対外的な意味や慣れを含め、そちらは引き続きスーツで行こう、という事で落ち着いた。となると、あと決めるべきは色である。これまではずっと黒。それならば、これからの人生は当然――

「白!」

 焼刃兄妹の声が楽しげにそろった。黒とは正反対の白。

「ブリュンヒルデ、その白をこれからどんな色に染めていくかはおまえ次第だ。もちろん、きれいな白を守り通してもいい。けどな、もう血の赤や汚れた物の色は付けるな。それがオレ達と、おまえとの約束だ」

 真新しい白のスーツに身を包んだブリュンヒルデの目を、しっかりと見つめた煌侍が、刻み付けるかのように言う。彼の声が、想いが、彼女の心に染み渡っていく。

 無表情だったブリュンヒルデのあごがわななき、声にならない声が漏れ出る。能面のようだった表情は瓦解し、熱いほとばしりで涙腺は決壊した。

(いついらいだろう……ううん、はじめての……)

 両手で顔を覆ったブリュンヒルデが、煌侍の胸へと飛び込んだ。彼は左腕で毛布をかけるかのように柔らかく包み込み、あやすかのように右手で髪をかいぐる。三姉妹が輪となって二人を囲み、中心にいるブリュンヒルデに、とめどもなく温もりが流れ込んでいく。

 分厚い氷に閉ざされていた彼女の心、その周囲にはもう、冷たさはない。それらは流れる涙となって、押し流されていった。

「……あぅ……あ!あーっ!」

 やがてせきを切ったように泣き声が出始めた。これこそがブリュンヒルデの産声だった。

 突然の大声に何事かと集まって来る店舗関係者や買い物客。しかし、その後継を目にした人々は皆一様に言葉を失った。そこには、今まで誰も触れた事がないような空間があった。柔らかく、温かく、穏やかな。文句を言ってやろうと意気込んで来た者までもが、足を止め、いつしか自分の頬に伝う熱い奔流に気付かされた。


<8>


 お買い物ツアーの翌日、焼刃やいば家のリビングでは、珍しく三姉妹それぞれの意見が、平行線をたどっていた。その論争のネタとなっているのはブリュンヒルデである。その当の彼女はといえば、三姉妹がケンカしているのでないかと心配し、あでやかな赤模様の着物姿+割烹着という出で立ちでオロオロしている。

「やめる。よくない」

 なだめようとする声も小さい。こんな時にどうすれば良いのかが分からないのだ。あの人さえいてくれたら。


 事の発端は、絢華あやかの一言だった。

「家族になったんだし、かわいい呼び方を考えてあげようよ。あたしは『ブリュン』ちゃんがいいと思うー」

 と、それにこよみが、

「えー、略さずに『ブリュンヒルデ』って言った方がかっこ良くない?響きもいいし」

 さらに、そこへやって来た魅霧みむが、

「あら、私は『ヒルデ』なんていうのはどうかしら、と思っていたのだけど。凛としていて」

 ……よって、現在にいたるという始末。お互いの主張が一歩も引かず、議論は白熱、こうなったら最終判断は、やはり煌侍こうじの手に委ねるしかない、というお約束の結論が出かけた時、ジャストのタイミングで煌侍が現れた。

「あ、にいさん、ちょうどいいところに――」

 と、暦が言い終わるよりも早く、煌侍が口を開いた。

「ぉ、リュヒ、ここにいたか」

「『リュヒ』?」

 聞き慣れない単語にそろって反応する三姉妹。と、やはり真っ先に魅霧がその言葉の意味を理解し、「素敵です、お兄様」ととろけるように微笑んだ。

「ん?ん?……あーっ」

 仲良く首をかしげていた絢華と暦も、魅霧の言葉と視線をヒントに解答にたどり着き、ポンと手を打った。

「兄さん、さっすがーっ」

「もーお、にいさんってば、かっこ良すぎ!」

 そして、ブリュンヒルデに集まる視線。渦中の彼女は自分自身を指差し、

「リュヒ?」

 と尋ねる。優しく微笑みながら、頷く三姉妹。

「リュヒは、なんで『リュヒ』?」

 今度はブリュンヒルデが煌侍に問いかける。

「ん?ああ、家族入りするんだから、愛称なんかあってもいいかもな、って思ってな。『ブリュンヒルデ』って字面が好きだから、もちろんそっちでも呼ぶけどな。んでさ、色々候補を考えたんだけどよ、『ブリュン』とか『ヒルデ』とか。悩んだんだが、そのどっちも甲乙付けがたかったし、なら両方の要素を組み合わせて『リュヒ』。案外響きも良かったんで、オレは今後こう呼ぼうと思ってさ。どうだ?」

「リュヒ……リュヒ……」

 うつむいて名前を反芻するブリュンヒルデを、上から覗き込む煌侍。やがて彼女は、ぱあっと明るい表情で顔を上げた。

「リュヒ、『リュヒ』きにいった!」

 早速一人称になっていた。駆け寄ってくる三姉妹。

「リュヒちゃん、よかったね!」と絢華。

「おめでとう、リュヒ」と魅霧。

「リュヒ、これからもよろしくね」と暦。

 最近はこうして、すぐに輪ができるようになった。もちろん、その中心はブリュンヒルデだ。


「よしっと。めでたく愛称も決まったし、オレは色々動くとするかな」

 見届けた煌侍がどこかしらかへ行こうとする。と、ブリュンヒルデが慌てて駆け出し、彼に追いつくと、上着の右肘の部分を掴んだ。

「ん、どうした?リュヒ」

 穏やかな表情で煌侍が問う。一瞬躊躇したブリュンヒルデだったが、すぐに真剣な目をして口を開いた。

「リュヒは……どうよんだらいい?」

「オレをか?」

 こくん、と頷く。その手は、まだ彼の右肘を握ったままだ。

「ごしゅじんさま?」

「や、そんなガラじゃねぇし」

「マスター?」

「なおさら違うって」

「んー……」

 深くそのまま思考の海底へと沈み込んでしまったブリュンヒルデの顔を上げさせ、煌侍は至近距離で彼女の両目を見つめ、一文字一文字を確かめさせるように告げる。

「いいか?オレは、『こうじ』だ」

「こう……じ?」

「そうだ」

 それで満足気な笑みを見せた煌侍だったが、ブリュンヒルデの表情には、困惑の色があった。

「リュヒは、ぶか。こうじは、ボス」

 なんとも律儀な彼女らしい戸惑いに、彼は思わず苦笑してしまった。

「そんなの気にするなって。言ったろ?オレ達はもう家族ファミリーなんだ。名前で呼び合うのは当然だろ」

「……うん」

 嬉しさをかみ締めるように納得したブリュンヒルデ。小さく「こうじ。こうじ」と呟いて確かめている様子が微笑ましい。

「そんじゃ、オレはちょっと電話してから出かけてくるわ。デカイ土産を持って帰ってくるから、楽しみにして待ってろ」

 そう言って煌侍は、上着の左胸ポケットから携帯電話を取り出すと、自分部屋へと歩きながら通話し始めた。

「あ、マユミさん?オレです、お久しぶりです。次の集まりが楽しみですね。ウチ?こっちは相変わらず……でもないかな、最近は。――で、例の件でそっちに行きたいんですけど、今からOKです?すいません、無理言っちゃって。あ、じゃあ、今から伺いますんで、よろしくお願いします」

 会話が終わったと同時に、二階の煌侍の部屋の扉が閉まる音がした。外出する準備に入ったのだろう。

「マユミ?」

 ブリュンヒルデが脳内のデータベースに検索をかけるが、ヒットしない。

「マユミ」というのは、漢字では「磨弓」と書き、実はれっきとした男性である。都会の一等地のビルを住居兼事務所とし、そこで多国籍な仲間と「なんでも屋」を営んでいるという。裏の世界に顔が利き、とあるきっかけで意気投合した煌侍と、「美女顔野郎びじょがおやろうの会」という集まりを季節ごとに開催する仲なのだとか。他のその会の面子には、学生結婚した大学生、女だらけの下宿の大家をしている大学生、絶世の美女をパートナーにストイックな旅を続ける格闘家などがいるという。彼らが並んで写った写真があるそうなのだが、それは言葉に出来ないほどの、夢の一枚絵なのだとか。

「マユミ……」

 ブリュンヒルデは、なぜか心に引っかかったその名前を、頭の片隅に留めておく事にした。


<9>


「いやー、わりぃ。先方に無理言ったもんで遅くなっちまった」

 そう詫びつつ、煌侍こうじが帰宅したのは、午後7時を過ぎてからだった。何やらスーツケースを大事そうに抱え、その中身の事を早く話したそうにウズウズしている。

「兄さん、お土産ってそれ?なーにー?」

 早速好奇心旺盛な絢華あやかが、「おかえりなさい」のキスをしてから、それに食い付いた。

「んー……なんかかなり大事な物っぽいけど?」

 遅れてやって来たこよみが、腕を組んで推理のポーズ。形の良過ぎる胸が、ぐいっと上に持ち上げられた。

「これはな、書類やらカードやらさ」

「……なるほど、そういう事でしたか。それで磨弓まゆみさんの所へ」

 得心が行った、という風に、キッチンからブリュンヒルデを連れた魅霧みむが、濡れた手をエプロンの前で拭きつつ、リビングへと入って来た。相変わらず聡い。

「もう提出したのもかなりあるから、土産はだいぶ減ったけどな」

 話しつつ、煌侍がスーツケースを開く。中からは書類やらカードやらがどさどさと出てきた。

「んじゃ、まずはこれ。なんつっても車の免許な。大型から原付までフルオープンだ。でー、こっちが船で、こっちがヘリで、飛行機で――」

 ……これ以上は語りますまい。「蛇の道は蛇」、という事で。

 ありとあらゆる乗り物の操縦をマスターしているブリュンヒルデ。そうなのだ。その証明がそろった今、やろうと思えばいつでも、例のあの「焼刃愛やいばアイランド計画」を発動させる事が出来るのだ。瞳を輝かせる三姉妹。


「ぶりゅんひるで……たりえる?」

 一枚の書類に目を通し、ブリュンヒルデが声に出してそれを読み上げる。

「そうだ。『ブリュンヒルデ・タリエル』、それが今日からおまえの本名だ。いつまでも名前だけって訳にはいかないからな。『タリエル』ってロシア系の苗字だけど、日本語読みすると『~たりえる』って、可能性が感じられていいじゃないか。なあ?」

 兄に賛同する三姉妹。それを確認してから、煌侍は「おまえはどうだ?」と目で訊く。

「たりえる……ぶりゅんひるで・たりえる……」

 そして、笑顔。「良かった。気に入ってくれたか」と煌侍は胸を撫で下ろした。もしかして自分ひとりで先走り過ぎたのではないか、と彼は心配していたのだ。

「ちなみに、リュヒはオレ達の遠い遠い親戚って事になってる。こんだけ複雑なウチの家系だ、誰も把握できてないしな。これで名実ともにリュヒは家族って訳だ」

 わっと沸き返る三姉妹。歓喜の輪。だが、

「でもな、一つだけ謝らなきゃダメな事がある」

 少し沈んだ煌侍の声。一気に静まり返る一同。

「リュヒの歳な、こんだけいっぱいの免許の事考えたら、最低二十歳ハタチにはなっとかないとおかしいって事で、戸籍上はオレと同い年になっちまった。どう見ても15~16歳なのに悪いな。えらく歳食わせちまって」

「きにしない。わかづくり」

「や、実際若いんだけどな」

「こうじとおなじならいい」

「そっか。ならOKだな」

 こうしてめでたく、晴れて焼刃家の一員となったブリュンヒルデ。対外的にはもはや何もコソコソする必要はなくなった。そして、それを記念に、戸籍を手に入れた本日を彼女の誕生日として(実際そう登録してある)急遽パーティを行なう事となった。


 全てが間に合わせで即席だが、魅霧が作ったケーキは見事にメインを飾り、ささやかではあるが、誕生日パーティとしての体裁は整った。

 本日の主役であるブリュンヒルデは、あでやかな着物に割烹着、頭には三角帽子(てっぺんにウニのような白い綿毛が乗っかった奴)という妙な出で立ちで、所在なく食卓の上座に座らされている。キビキビと動く三姉妹手伝おうと腰を浮かせる度に、「主役は座って座って」と両肩を押え付けられる。「むーっ」とソワソワしながら暇を持て余す彼女を、暦の飾り付けの手伝いをしながらの煌侍が見やって小さく笑った。

 やがて準備が全て完了し、「オレ達の新たなる家族、ブリュンヒルデ・タリエルの誕生に!」という煌侍の音頭で乾杯が執り行なわれ、どうすればいいのか分かっていなかったブリュンヒルデも、絢華の指導で何とかロウソクの灯(20本)を吹き消した。

 その後は和やかなムードで食事が始まり、豪華な料理の数々は瞬く間に各自の胃袋へと収まっていった。ちなみに、この中で一番の小食であるブリュンヒルデは、やっぱり和食党だった。

 おひらき前、煌侍がブリュンヒルデに「何か一言」を促すと、彼女はしみじみと「しあわせ」と言った。それだけでみんな充分だった。


<10>


 こうして、ブリュンヒルデを新たに加えた焼刃やいば家の生活が、本当の意味で始まった。彼女は誰よりも早く起き、夜は遅くまで家事その他をこなす。が、あくまでメインの役割は運転手であり、三姉妹のボディガードである。

 新たな彼女の愛車は、向かい合わせで六人がゆったりと乗れる、白の高級外車である。やはり運転しなれた物に近い車種を選んだようだ。カラーはもちろん、新たなイメージカラーとなった白だ。白の車を、白のスーツに身を固めたブリュンヒルデが運転する。「まるで現代の『白馬の王子様』だな」、と煌侍こうじは一瞬思ったが、立派な女の子であるので、慌ててその失礼な思考を消去した。

「そういやおまえ、前に『自腹』って言ってた自分の車はどうしたんだ?」

 これは、二人で高級カーショップに新車を購入しに行った時の会話。

「うった」

「そうだったのか」

「おかね、ひつようだった」

「いきなり無職にされたんじゃあなあ」

 訊けば、ちょうどあの時の車に少ない給料で貯めた金をつぎ込んだばかりだったという。タイミングが悪かった。

「こうじは、なんで、くるまない?」

 不思議そうなブリュンヒルデが、煌侍を隣りから見上げる。

「あー、まぁ……。実は免許は持ってるんだが、運転能力がなさ過ぎてな、不安で命を預かれん」

「?」

 そう、煌侍は免許を持っている。取得できる年齢になり、すぐに取りに行ったのだ。

 極度の機械音痴の彼(ボタンを三つ以上使うゲームはできないレベル)は、しっかり教わろうと思って教習所入りしたら、「美少年が来た!」と女性職員が大騒ぎになり、あれよあれよという間に指導員は全て女性で固められ、「もーう、焼刃君ったら美少年だから、おねえさんサービスしちゃうっ」などと言われて、ハンコがポンポンと増えていった。彼の真剣に取り組む姿勢も空しく、最短期間で卒業した彼には、運転技術に対する自信が微塵もなかった。

「……ってな具合だ」

「こうじ、もてもて」

「そこにツッコむかよ」


 三姉妹は学園が家から近いので基本的に登校は徒歩だが、暗くなる帰宅時には携帯電話で連絡をして、ブリュンヒルデに迎えに来てもらう事が多い。焼刃兄妹以外の仲間も時には便乗する事があり、あまりにも唐突かつ意外で最初はかなり驚いたが、彼らもすぐにブリュンヒルデを気に入り、仲間として受け入れた。

 が、やはりその恩恵を一番に受け入れるのは煌侍である。元々ブリュンヒルデは彼個人に雇われたいと申し出てきた事もあり、最優先人物なのである。

「朝起きるのも遅めで良くなったし、何より着くまで熟睡できるのがいい。楽だし」

 彼は登下校送迎が始まってからご満悦である。


 焼刃煌侍はいつも寝ているというイメージがあるが、実際には、その睡眠はかなり浅い。周囲に気を許せる仲間がいれば、少しはそれが深くもなるが、他人がそこにいる場合には常に身体は緊張しており、不測の事態に備えているのだ。睡眠時間こそ長くても、その中身は伴ってはいない。

 しかし、今では車内にブリュンヒルデと二人である。彼女の事はもうすっかり信頼しきっている。よって、登校時の車内は彼にとって絶好の二度寝タイムとなった。

 だらしなく口を開け、三人がけのソファに横たわり、緩みきった表情でぐーすか。ルームミラーでその姿を確認して、ブリュンヒルデはくすりと笑う。名だたる美形が台無しだ。でも、そういう姿を自分に晒しているという事は信用してくれている事の証明であり、とても嬉しい。

 やがて焼刃カーは大学前に到着、今日はあまり人通りがない。


<11>


「こうじ、ついた」

 声をかけても起きる気配は全くない。大体そんな事でこいつが起きてくれれば、三姉妹は毎朝あんな苦労はしなくて済んでいる。

「むぅー……」

 ブリュンヒルデは低くうなった。大きな声を出したり、何度も呼びかけるのは得意ではない。こうなったら実力行使あるのみ。

 運転席から降りた彼女は、ドアを開けて後部座席に侵入した。中では相変わらず煌侍こうじが、しどけなく横たわってはムニャムニャ言っている。

「こうじ、おきる」

 最初はチョイチョイとつっついていたのだが、そんな事では埒が明かない。足や腹をパンパンからバシバシ叩きにエスカレートさせてみたが、効果なし。

「……てごわい」

 よし、馬乗りになって、両頬を左右に引っ張ってやろう。そこまですればさすがに目を覚ますだろう。

 ブリュンヒルデは四つん這いになり、シートの上をしなやかに、ヒョウのように移動する。スヤスヤと眠る煌侍の上に、彼女の影が次第に大きくなっていく。彼の幸せそうな寝顔が大きく目に入り、思わず見惚れてしまったその時、

「つかまった……」

 彼女の身体は、煌侍の抱き付き癖の餌食となってしまった。手を伸ばすのが一瞬遅れたために、食虫植物の罠にかかった昆虫のように、ブリュンヒルデの身体は固定されていた。両足を脚で器用に絡め取られ、両腕ごと上半身は抱き締められていた。大した力が加えられているわけでもないのに、身動き一つできない。

「ん……」

 煌侍の寝顔が間近にある。吐息が顔にかかる距離。微かに伝わってくる体温がなんとも心地よい。言葉にしがたい独特な彼の甘やかな香りに包まれ、ブリュンヒルデはまぶたを閉じてしまいそうになる。

「……だめ。おくれる」

 せっかく朝早くに出て来たのに、これでは意味がない。彼女は強烈な誘惑を振り切って使命感を優先させ、最後の手段に出た。


「あだだだだだっ!」

 どこかの世紀末救世主のような絶叫と共に目を覚ました煌侍が、車外へと転がり出た。なぜか右耳を両手で押さえながら。

「おまえなー、なにも耳たぶ噛むこたぁねーだろ!?」

「こうじが、わるい」

 続いて出てきたブリュンヒルデの頬は、ほのかに紅い。視線も彼を捉えず、宙をさまよわせている。

「そりゃそうだが――」と煌侍が抗弁しようとした時、

「あーっ!煌侍様ーっ!」

 この声、この呼び方。弾丸タックルの来襲に備え、構えを取る煌侍。しかし、声はすれどもいつものような勢いが相手にはなかった。怪訝な表情とともに警戒態勢を解く。

「どうしたんだ?今日はやけに大人しいな」

 無言のまま、大学の壁に沿って烏家ウーけ五姉妹を引き連れた鳴鈴ミンリンが歩いて来る。なぜだかそろいもそろって不機嫌そうな、と言うよりもすねているという感じ。理由が分からない。

「あなたが例の……」

 煌侍の所までやって来た鳴鈴が、下からジロリとブリュンヒルデをねめ上げる。二人の身長差は30センチ以上もある。睨み付けられた方はそれを敵意と受け取ったか、音もなく構える。

「いいんだリュヒ、鳴鈴は敵じゃない」

 煌侍の制止の声に、あっさりと臨戦態勢を解除するブリュンヒルデ。そんな光景がさらに鳴鈴をイラつかせる。

「ひ、ひどいでちゅわ煌侍様っ!フィアンセである鳴鈴に何の断りもなくこんな娘を雇い入れるなんてっ!煌侍様のお世話でしたら、このわたくし自らやって差し上げますのにっ!」

 突如身体の向きを変え、煌侍に抗議する鳴鈴。「そうですよー!」と、烏家五姉妹もそろってそれに追従する。

「んな事言ったって、鳴鈴は鳴鈴で忙しいし、五姉妹だってお嬢様のサポートに毎日大わらわじゃねぇか。そんなのとても頼めるわけねぇよ」

「でちゅけど……」

 しゅん、と小さくなる鳴鈴と烏家五姉妹。彼の言い分は正しいのだが、どこの馬の骨とも分からない人間が、気が付いた時には彼のすぐそばにいたという状況は、とても甘受できる事ではない。彼女達が求めてやまないその位置に、いともあっさり。

「とにかくっ、わたくしはあなたの事を認めませんからねっ!」

 ズビシッ!とブリュンヒルデに右手の人差し指を突きつける鳴鈴。五人姉妹も同じポーズでお嬢様を支援。

「こうじがみとめてくれてるから、いい」

 火に油。

「『こうじ』でちゅって!?わたくしでさえ『煌侍様』としか呼んでいないというのにっっ!ムキィーッ!!」

「お嬢様、落ち着いてっ!」

 五人がかりで取り押さえられる鳴鈴。ジタバタと必死にもがいている。「やれやれ、これでまた火種が増えた」と頭を掻く煌侍の背後に、黒塗りの長い長いリムジンが停車する。この車は。


<12>


「あら、誰が朝から校門前で騒いでいるのかと思えば、成り上がりのお子ちゃまチャイナさんではありませんの」

 初老の男性運転手がうやうやしく後部座席のドアを開け、そこから出て来たのは、場違いなまでに豪奢なドレスに身を包み、日傘を差した英国産のクリーム色の縦ロール、エリゼ・ユリ・セントクレアーその人であった。

「なーんーでーちゅってーぇーっ!」

 怒りの炎を背負い、鳴鈴ミンリンの真紅のチャイナドレスが煌く。八重歯も輝く。戦闘になったら話にならない能力差なのだが、エリゼはあくまで傲岸不遜だった。

 そして、日傘を両手で差したまま、ツカツカと煌侍こうじとブリュンヒルデの元へと歩み寄って来た。まずはブリュンヒルデに話しかける。

「ひさしぶりね。まさかこんな形でもう一度会うとは思いもしませんでしたわ。随分とイメージチェンジしたようね。そちらの彼のご趣味かしら?」

 ブリュンヒルデは何も答えない。昔の縁で一礼でもしようかと思っていたが、投げかけられた言葉の中に煌侍に対する揶揄のような悪意を感じ取り、直立不動のまま眉根を寄せた。

 エリゼは煌侍に向き直る。一瞬その瞳が、鈍く光ったように見えた。

「あなた、妹さん以外にご興味がないってもっぱらの噂でしたけど、違ったようですわね。この子には、あの時すでにモーションをかけてらっしゃったのかしら?どうやってこの気難しい子猫ちゃんを手なずけたのか、ご教授いただきたいものですわ」

 嫣然えんぜんと笑いかける。が、その中に含まれた毒は隠し切れてはいなかった。主人の名誉を守ろうと反論しようとするブリュンヒルデを、左腕水平に伸ばす事で煌侍が止める。

「オレは何もしちゃいないさ。この子がオレの所にやって来て、『雇ってくれ』って言ったんで、雇う価値があったからそうしたまでさ。誰かさんに突然クビにされて、路頭に迷ってたみたいだったしな」

 彼の言葉にわずかに目を見開き、突然クルリと背を向けたエリゼ。その表情は日傘で見えない。

「計算違いでしたわ。まさかこんな展開になるだなんて」

 何やらブツブツとつぶやいている。煌侍にはよく聞こえなかったが、耳ざとい鳴鈴がそれを拾い上げた。目を意地悪く細め、八重歯を光らせる。

「はっはーん、わかりましたわよ。そういえば、あなたも煌侍様狙いでしたものね?その子が煌侍様に心を開きつつあるのを知って危険に思って、慌てて引き離したんですのね?まったく、姑息な手段ですわ」

「ななっ!」

 顔を真っ赤にし、身体ごと振り返るエリゼ。縦ロールの束が大きく振られる。

「なにをおっしゃいますのっ!と、とんだ言いがかりですわっ。あなたこそ彼をこの子に取られたからといって八つ当たりはおよしなさいっ!見苦しいですわよっ!」

「取られてなんかいませんわっ!この、フォン鳴鈴が負けるわけありませんわっ。いい加減な事を言うと承知しませんわよ、このジョンブルドリルッ!」

「キィーッ!言ってくれましたわね、ミルク臭いお子ちゃまがっ!」

 あーあ、また始まった。この二人が顔を合わせると、どうしてもこうなってしまう。呆れるというよりは、疲れた表情の煌侍。「なんだなんだ」とギャラリーも増えつつあるし、微妙な空気になりつつある。


(……なんか、やだ)

 ブリュンヒルデは、煌侍よりもさらに一歩引いた位置から、この状況を見つめていた。頭の中が妙に冷えている。

(うん、やだ)

 もう一度、そう思った。「これは違う」、と。

(こうじは、あやかと、みむと、こよみのなのに)

 それに。

(それに……)

「こうじっ」

 気付いた時には、もう声が出ていた。想像していたよりも、ずっと大きなボリュームで。誰よりも自分が一番驚いた。こんなにも大きな声が出せたんだ。

 戸惑いはなかった。

「あしたも、リュヒがおこしてあげるねっ」

 言って、駆け出した。後ろは振り返らない。

「お、おい、リュヒ!」

 煌侍が引き止める声がするけど、聞こえない聞こえない。そのまま車に乗り込んで、即発進。

 それは、はじめてのいたずら心。そして、本人もまだ気付かない、はじめての、ほんのちょっぴりの独占欲。

「あはっ」

 生まれて初めて、声を出して笑った。

 ほら、こんなにも「はじめて」がいっぱい。生まれ変わって、急に開けた世界。まだまだこれからも、「はじめて」がいっぱい。

 暗く冷たい、氷に閉ざされていたブリュンヒルデの心。それが本当の温かさに触れ、真っ白な、きれいな、生まれたままの姿を取り戻した。

 凍える季節は終わりを告げ、春の到来を知った大地の各所が、次々と芽吹く。これからどんな花を咲かせるのか、まだ誰も、本人すらも知らないけれど、確かな証。

「もう、ふるえなくてもいいんだよ」

 優しい声がそう言ってくれた。


<了>

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