36
その三十六
シャミーから、またぞろメールが届く。寮を引き払ってからこちらに来ると記されていた。こちらに来るのは、だからたぶん午後八時をすぎてしまうとのことである。
八時というのは微妙であった。晩酌を待っていてもいいし、先にやってしまってもいい。
しばらく迷っていると、今度は山城さんからメールが送信されてくる。なんでも実直なきき酒師の情報を得たらしい。
とりあえずぼくは晩酌に誘ってみる。山城さんは、これからうかがいます、と返信してきた。
「よし、これで大義名分ができた。先に飲んでても、おれはわるくないぞ」
山城さんは六時すぎに旧大伯母邸のチャイムを鳴らしてきた。
「きき酒師って、もう結論出たんじゃないですか」
「それは『くらのすけ』と『蔵そだち』はおなじ酒ということでしょ。わたしはブラックニッカを判断してもらいたいんですよ」
そのブラックニッカを山城さんは持参してきていた。七〇〇ミリのビンのやつと四リットルペットボトルのやつである。
「わたしが思うに、ビンとこっちのペットボトルは完全に別物です」
「じゃあ、飲んでみますか」
「ええ」
ゆうべぼくはおそらく晩酌の終盤に交互制度を導入していたのだが、今晩はのっけから交互飲みである。
ぼくの眼前にはウイスキー用のコップ二つと日本酒用の湯呑み、そして水兼青汁用のマグカップと四つもお飲み物用の容器があった。大スペクタクルである。
「あれ、きょう和泉さん、いないんですか?」
「和泉さんは国に帰ったんですよ」
「いつ?」
「さっきです」
ぼくは山城さんにざっと経緯を伝える。
「それ新倉さん、完全に騙されてますよ」
「でも和泉さんは、そういう人にはみえなかったですけどね」
「だいたい羽田に行くって、パスポートどうするんですか?」
「ああ」
「カカーニエンって、ヨーロッパなんでしょ」
「ええ」
「身分証明書がないからバイトできなかったんじゃないですか? 和泉さんは」
「そうです」
「ということは、パスポートもないじゃないですか」
「たしかに」
「もう二百万はもどってきませんよ」
「実家は裕福みたいですよ。本人だって、かなりいい給料もらってるでしょ、役人なんだから」
「そういうのもぜんぶ嘘ですよ。そもそもそんなピーチオーレなんて国、あるわけないじゃないですか」
山城さんと話していると、だんだんぼくもそんな気がしてきた。ブラックニッカのビンと四リットルペットも山城さんのいうようにまったくの別物に思えてくる。
「ピカチューくんも怪しんでましたからね、和泉さんのこと」
「なんでだろう……」
「絵描こうとしたでしょ、和泉さん」
ピカチューくんも絵描きである。
「そのときヌード断ったじゃないですか、和泉さん」
「えっ! そうだったんですか」
ピカチューくんはモデルを基本ヌードにするということはぼくも知っている。しかし和泉さんを描こうとしていたことは知らなかった。
「和泉さんはタトゥー入ってるからヌードを拒否したらしいですよ」
「タトゥーなんか入ってるんですか、和泉さん。シールとかじゃないのかな……」
「おへそのあたりに桃のタトゥーが入ってるみたいですよ。見た人はいないけど」
「向こうの役人は、マークでそういうの入れるのかな……」
「見たことないんですか?」
「おれ? ないない」
「ぜんぜんなにもなかったんですか?」
「ないですよ。誓って」
玄関の引き戸がガラガラッと開いた。出てみるとシャミーではなくロボット犬だった。ロボット犬はこんなふうに、ときどきこの部屋を覗きにくるのだ。
ぼくはロボット犬に、和泉さんは帰国しましたよ、と伝えた。




