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第九話 小麦畑を奪った商会の、たった一行の嘘

ハルゼ村へ向かう街道は、雪解けの泥でぬかるんでいた。


 馬車の車輪が深く沈むたび、車体が大きく揺れる。窓の外には、まだ冬の色を残した畑が広がっていた。芽吹き始めた小麦の若葉が、冷たい風に細く震えている。


 エリスは膝の上に、ギルベル商会の土地契約書を広げていた。


 何度読んでも、不快な文書だった。


 露骨に嘘を書いているわけではない。

 むしろ、表面上は整っている。


 種麦を貸す。

 肥料を貸す。

 農具の修繕費を立て替える。

 収穫後、小麦の三割を返済する。

 返済不能時は、南畑を担保として差し出す。


 困窮した農村を助ける契約に見える。

 だが、実際には違う。


 危険なのは、第三条のたった一行だった。


 ――本契約における南畑とは、旧ハルゼ村地籍図における南部耕作領域を指す。


 村人たちは「南畑」という一枚の共同畑を担保にしたつもりだった。

 しかし契約書の上では、「南部耕作領域」という古い地籍上の広い区域に置き換えられている。


 小麦畑だけではない。

 水車小屋。

 牧草地。

 街道沿いの倉庫。

 さらには、村の共同井戸へ続く道まで含まれる可能性がある。


 たった一行。


 だが、その一行だけで村は奪える。


 エリスは、契約書の黒い染みを見つめた。


 王宮の契約書と違い、この文書には国家を動かすような大きな術式はない。だが、悪意の濃さは変わらない。むしろ、生活のすぐそばにあるぶん、こちらの方が生々しかった。


「気分が悪そうだな」


 向かいの席から、レオンハルトが言った。


「契約書の内容が悪いだけです」


「それは同感だ」


 レオンハルトは窓の外を見る。


 馬車の前後には、辺境伯家の兵が十数名ついていた。ハルゼ村の村長ロイは先導役として前方の馬に乗っている。背中は丸く、何度も後ろを振り返っていた。


「商会が来るのは明朝の予定だったはずだが、先に動いている可能性もある」


「契約書上では、返済不能の判断は貸主側が行うとされています。商会が一方的に『返済不能』と判断すれば、今日からでも管理権を主張するでしょう」


「その条項は有効なのか」


「完全に無効とは言い切れません。ただし、貸主だけに判断権を与え、借主の異議申し立てを封じている点は不当です。特に村全体の生活基盤に関わる土地であれば、領主裁定の対象にできます」


「つまり、止められる」


「止める余地はあります」


「余地ではなく、止める」


 レオンハルトの声は静かだったが、決定は固かった。


 エリスは少しだけ頷いた。


「そのためには、商会に契約書の矛盾を認めさせる必要があります」


「認めると思うか」


「認めないでしょう」


「なら、どうする」


「認めざるを得ない形にします」


 レオンハルトは一瞬だけエリスを見た。


「王都にいた時より、言い方が強くなったな」


「そうでしょうか」


「そうだ」


「……北方の影響かもしれません」


「悪くない」


 馬車が丘を越えると、ハルゼ村が見えた。


 低い石垣に囲まれた小さな村だった。藁葺きの屋根がいくつも並び、その向こうに小麦畑が広がっている。村の南側には水車小屋があり、細い川が畑の間を流れていた。


 しかし、村の入口にはすでに数台の荷馬車が停まっていた。


 荷台には木箱と杭、そして大きな看板が積まれている。看板には、ギルベル商会の紋章が描かれていた。


 麦穂を囲む金貨。


 ロイが馬上で叫んだ。


「もう来ている!」


 村の広場には、商会の者たちが集まっていた。


 先頭に立つのは、細身の男だった。年は三十代半ばほど。高価な毛皮の外套を着て、手には銀の装飾がついた杖を持っている。整った口髭を撫でながら、村人たちを見下ろすように立っていた。


 その背後には、商会の私兵らしき男たちが数人いる。剣は抜いていないが、腰の柄に手をかけている。


「ですから、契約に基づく正当な管理権の移転です」


 口髭の男が、よく通る声で言った。


「こちらも鬼ではありません。今すぐ家を出ろとは申しません。ただし、本日より南部耕作領域の管理権はギルベル商会に移ります。畑、水車、倉庫、牧草地。以後、村人の皆様は商会の許可なく使用できません」


 村人たちは青ざめていた。


 子どもを抱いた母親。

 鍬を握りしめた老人。

 泣きそうな顔の少女。


 昨日、相談所で会った少女もいた。彼女はエリスの馬車を見つけると、大きく目を見開いた。


「来てくれた……」


 エリスが馬車から降りると、口髭の男はこちらへ顔を向けた。


「これはこれは。辺境伯閣下ではありませんか」


 男は大げさに腰を折った。


「ギルベル商会、北方担当のバルド・ギルベルでございます。本日は、当商会とハルゼ村との契約履行のため――」


「聞いている」


 レオンハルトは短く遮った。


「この土地の管理権を主張しているそうだな」


「はい。契約に基づく正当な権利でございます」


「領主への事前報告は」


「民間の貸付契約ですので、領主様へご報告する必要はないものと」


「村の水車と街道倉庫を押さえるのにか」


 バルドはわずかに笑みを強めた。


「担保地に含まれておりますので」


 レオンハルトはエリスへ視線を向けた。


「補佐官」


「はい」


 エリスは一歩前へ出た。


 村人たちの視線が集まる。


 王都の大広間で浴びた視線とは違った。

 嘲笑ではない。

 恐れと、不安と、わずかな期待。


 エリスは契約書を手に、バルドを見た。


「私はヴァイスベルグ辺境伯領の領主補佐官、エリス・フォーマルハウトです。本契約の内容について確認します」


 バルドの目が細くなった。


「フォーマルハウト……王都から追放されたという、あの令嬢ですか」


 村人たちがざわついた。


 エリスの胸が少しだけ痛んだ。


 だが、顔には出さなかった。


「現在の身分は、辺境伯領の領主補佐官です」


「なるほど。では、反逆容疑者でも契約書は読めると」


 カレンが剣の柄に手をかけた。


 レオンハルトがそれを目で制する。


 エリスは静かに答えた。


「契約書は、読む者の噂ではなく、書かれた内容によって判断します」


 バルドの笑みが少し消えた。


「よろしい。どうぞお読みください。ただし、内容は明白です。ハルゼ村は返済不能となり、担保地の管理権は当商会へ移る」


「返済不能の根拠は」


「今年の収穫見込みです。竜騒動による避難で農作業は遅れ、返済量の確保は不可能と判断しました」


「収穫前に、ですか」


「契約第五条にあります。返済不能の判断は貸主が行う、と」


「その判断に対する借主の異議申し立ては」


「第七条により放棄されています」


 バルドは得意げに言った。


 村人たちの顔が沈む。


 エリスは契約書を開いた。


「では、順に確認します」


 彼女は村人たちにも聞こえるよう、はっきりと声を出した。


「まず第一に、本契約は返済期限を『今年の収穫後』と定めています。現在は収穫前です。よって、返済期日は到来していません」


 バルドはすぐに返した。


「しかし、返済不能の判断権は貸主にあります」


「判断権はあります。ただし、返済期日前に担保権を実行できるとは書かれていません」


 バルドの眉がわずかに動いた。


 エリスは続ける。


「第五条には、『貸主は返済不能を判断できる』とあります。ですが、『返済期日前に担保地の管理権を取得できる』とは書かれていません。第七条の担保地管理権取得は、『返済不能と判断した場合』とありますが、返済期日前の実行を認めるには文言が不足しています」


「細かい言葉遊びですな」


「契約は細かい言葉で動きます」


 カレンが小さく頷いた。


 バルドは舌打ちを隠すように咳払いした。


「では、収穫後には管理権が移る。それだけのことです」


「まだ結論は出ていません。第二に、担保地の範囲です」


 エリスは第三条を読み上げた。


「担保、南畑。ただし、本契約における南畑とは、旧ハルゼ村地籍図における南部耕作領域を指す」


 村人たちがざわめいた。


「そんな説明、聞いてないぞ!」


「南畑だけって言ったじゃないか!」


「水車まで入るなんて!」


 バルドは杖の先で地面を軽く叩いた。


「静粛に。契約書に記載されています。署名した以上、読まなかった側の責任です」


 エリスはその言葉を聞いて、王宮の大広間を思い出した。


 読まなかった側の責任。


 たしかに、契約書を読まずに署名することは危険だ。

 けれど、それを利用して相手を欺いてよいわけではない。


「バルド様」


 エリスは尋ねた。


「契約時、村人たちに旧地籍図を提示しましたか」


「契約書に記載があります」


「質問に答えてください。旧ハルゼ村地籍図を提示しましたか」


「必要ありません。契約書に――」


「提示していないのですね」


 バルドの口髭がぴくりと動いた。


「村長殿は字が読める。確認できたはずです」


「現在のハルゼ村で『南畑』と呼ばれている土地は、どこですか」


 エリスがロイを見ると、ロイは震える手で村の南側を指した。


「あそこです。川の向こうの、共同畑一枚です」


「村人全員が、南畑と言えばあの一枚を指すと理解していますか」


 村人たちは次々に頷いた。


「水車小屋や牧草地を南畑と呼びますか」


「呼びません!」


「一度も呼んだことはありません!」


「水車は水車だ!」


 エリスは頷き、バルドへ向き直った。


「つまり、契約時に用いられた日常的な土地名称と、契約書内の定義が異なっています。しかも商会側は旧地籍図を提示せず、口頭では『南畑』と説明した」


「証拠は?」


 バルドが即座に言った。


「口で何を言ったなど、後からいくらでも作れます」


 その言葉に、村人たちは怒りの声を上げた。


 だが、エリスは静かだった。


「証拠ならあります」


 バルドの表情が止まった。


 エリスは鞄から一枚の紙を取り出した。城の文書庫から持ってきた、税記録の写しだった。


「これは、昨年のハルゼ村の土地税記録です。ここでは、現在の南畑は『ハルゼ南共同畑』として記録され、水車小屋、牧草地、倉庫は別項目になっています」


 次に、もう一枚。


「こちらは旧ハルゼ村地籍図の写しです。たしかに、古い地図では南部耕作領域という広い区分があります。しかし、この呼称は六十年前の区画整理で廃止され、現在の税記録では使用されていません」


 バルドの額に、薄く汗が浮かんだ。


「古い地籍図を参照すること自体は違法ではない」


「はい。違法ではありません」


 エリスは認めた。


「ただし、現在使われていない地籍名称を担保範囲の定義に用い、相手に説明しなかった場合、重要事項の不告知になります」


「説明しなかったと決めつけるのですか」


「説明していれば、村長は水車や牧草地も担保になることを理解していたはずです」


「村長が理解できなかっただけでしょう」


「では、確認します」


 エリスは契約書の署名欄を指した。


「この契約には、村長ロイ様の署名の横に、説明確認欄がありません」


「説明確認欄?」


「北方領の土地担保契約では、共同地や生活基盤を含む場合、説明者名、説明日、担保範囲の確認印を付すのが慣例です」


 バルドの顔に苛立ちが浮かんだ。


「王都の商会契約に、そのような田舎の慣例は適用されません」


 レオンハルトの目が冷たくなった。


「ここはその田舎だ、バルド」


 広場の空気が張り詰めた。


 バルドは初めて、明らかに言葉に詰まった。


 エリスはさらに続ける。


「第三に、この契約には不可抗力条項があります」


 彼女は第六条を読み上げた。


「借主は、天候不順、病害、獣害、戦乱、封印災害、その他不可抗力を理由として返済猶予を求めることはできない」


 その言葉に、レオンハルトの眉が動いた。


「封印災害、だと」


「はい」


 エリスは頷いた。


「この契約は去年の春に結ばれています。竜封印の異常が表に出たのは最近です。にもかかわらず、契約には『封印災害』という特殊な文言が入っています」


 カレンが低く言った。


「竜の封印異常を、事前に想定していた?」


「少なくとも、封印災害が起きても村側が猶予を求められないよう、あらかじめ封じています」


 村人たちが顔を見合わせた。


 バルドは笑おうとしたが、口元が引きつっていた。


「北方では封印の話など珍しくもない。契約に入れておくのは当然です」


「では、なぜ他の村との契約には入っていないのですか」


 エリスは鞄から三枚の写しを出した。


「これは、ギルベル商会が近隣の三村と結んだ肥料貸付契約の写しです。城の文書庫に提出されていました。天候不順、病害、獣害までは共通しています。しかし、封印災害という文言が入っているのは、ハルゼ村との契約だけです」


 バルドは完全に黙った。


 エリスは、たった一行の嘘を見つめる。


 旧ハルゼ村地籍図における南部耕作領域。


 そして、もう一つの不自然な語。


 封印災害。


 この二つが示すものは一つだった。


「ギルベル商会は、ハルゼ村の土地を初めから広く押さえるつもりだったのではありませんか」


 エリスは言った。


「さらに、竜封印に関わる災害が起きる可能性を知っていた。だから、それを理由に返済猶予を求められないよう契約に入れた」


「根拠のない侮辱です」


「では、否定できますか」


「当商会は正当な商取引を行っているだけです」


「正当な商取引なら、なぜ採掘調査隊の補給路にあたるハルゼ村の土地を、契約で押さえようとしたのですか」


 バルドの表情から、ついに余裕が消えた。


「採掘調査など、私には関係ありません」


「ギルベル商会が王宮財務院の許可状で北峰の採掘調査に関わったことは、すでに確認済みです」


 レオンハルトが一歩前へ出た。


「バルド・ギルベル。北方辺境伯の名において命じる。ハルゼ村に対する担保権実行を停止する」


「閣下、それは民間契約への不当介入です」


「違う。領内共同地、水車、街道倉庫を含む土地移転に関する領主裁定だ。さらに、竜封印地の採掘調査との関連が疑われる以上、調査対象とする」


 バルドは奥歯を噛んだ。


「王都財務院が黙っていませんよ」


「王都財務院が出した許可状のせいで竜が目を覚ましかけた。黙られては困る」


 カレンが兵士たちへ合図を出す。


 兵士たちは、商会が立てようとしていた杭と看板を押収し始めた。私兵たちが動こうとしたが、辺境伯家の兵が前に立つと、すぐに手を止めた。


 バルドはエリスを睨んだ。


「あなたは、自分が何をしているのか分かっているのですか。ギルベル商会の取引網は王都にも神殿にも広がっています。辺境の小さな相談所ごときが、商会を敵に回して無事で済むとでも?」


 エリスは契約書を閉じた。


「私は、契約書を読んだだけです」


 その言葉に、バルドの顔が歪む。


 王太子ユリウスにも言った言葉だった。

 けれど今度は、ひとりではなかった。


 レオンハルトが横にいる。

 カレンがいる。

 村人たちがいる。

 そして、契約書の問題点は、広場にいる全員の前で説明された。


「読まれると困る契約なら」


 エリスは続けた。


「最初から結ばせるべきではありません」


 広場が静かになった。


 バルドはしばらくエリスを睨んでいたが、やがて外套を翻した。


「本日は引き上げます。しかし、正式な抗議文を出させていただく」


「出すといい」


 レオンハルトは答えた。


「こちらも正式な調査書を出す。王都財務院、監察局、そして必要なら国王へ」


 バルドの肩がわずかに跳ねた。


 彼はそれ以上何も言わず、商会の者たちを連れて村を出ていった。


 荷馬車が遠ざかる。


 広場には、しばらく誰も声を出さなかった。


 最初に膝をついたのは、村長ロイだった。


「ありがとうございます……!」


 その声を合図にしたように、村人たちが次々に頭を下げた。


「畑が残るんだな」


「水車も、取られないんだな」


「今年も麦を蒔けるんだ」


 泣き出す者もいた。

 子どもを抱いた母親が、畑の方を見て何度も胸を押さえている。昨日相談所に来た少女は、泥だらけの手で涙を拭っていた。


 エリスは戸惑った。


「まだ、完全に解決したわけではありません。契約の無効確認と、返済条件の再調整が必要です。正式な手続きはこれからで――」


「それでも」


 少女が言った。


「今日、畑を取られずに済みました」


 エリスは言葉を止めた。


 そうか、と思った。


 王宮では、結果はいつも大きな言葉で語られた。

 王家の財産。

 国家財政。

 外交。

 封印。

 反逆。


 けれど、この村にとっては違う。


 今日、畑を取られずに済んだ。

 明日も水車を使える。

 春の小麦を育てられる。


 それが、契約書を読む意味だった。


 レオンハルトが村人たちへ告げた。


「この土地契約は領主預かりとする。ギルベル商会による担保権実行は、調査完了まで停止だ。返済については、収穫見込みを見て再協議する。村は通常通り作業を続けろ」


 村人たちの顔に、少しずつ血の気が戻っていく。


 ロイは震える手で契約書を見つめた。


「わしは、字が読めるつもりでした。けれど、読めていなかった」


「それは、ロイ様だけの責任ではありません」


 エリスは言った。


「契約書は、相手に理解させるためにあるべきです。分からない言葉で隠すためのものではありません」


「また、見てもらえますか」


「はい。そのための相談所です」


 ロイは深く頭を下げた。


 その時、村の南から風が吹いた。


 小麦の若葉が、一斉に揺れる。


 まだ細く、頼りない緑だった。

 けれど、確かに根を張っている。


 エリスはその畑を見つめた。


 たった一行で奪われかけた畑。

 たった一行を読み解くことで、ひとまず守れた畑。


 魔力はない。

 剣も振れない。

 竜の炎を止めた時でさえ、彼女がしたのは文字を読んで、正しい位置に点を打つことだった。


 それでも、できることはある。


 契約書を読むことは、人の暮らしを守ることにもなる。


「閣下」


 エリスはレオンハルトを見た。


「ギルベル商会は、これで引き下がらないと思います」


「ああ」


「王都財務院との関係も、調べる必要があります」


「分かっている」


「それと、ハルゼ村だけではないかもしれません。同じような契約が、他の村にもある可能性があります」


 レオンハルトは頷いた。


「明日から、相談所に告知を出す。領内の土地契約を一斉に確認する」


「はい」


「忙しくなるな、補佐官」


「望むところです」


 言ってから、エリスは少し驚いた。


 自分の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。


 レオンハルトも、ほんのわずかに口元を緩めた。


「なら、戻ったら書類の山だ」


「……それは、少しだけ望んでいないかもしれません」


「遅い」


 カレンが笑い、村人たちもつられて笑った。


 その笑いは、王宮の大広間で聞いたものとは違った。

 誰かを嘲るためではなく、張り詰めた心がほどける時の笑いだった。


 エリスは、包帯の巻かれた手で契約書を抱え直した。


 小麦畑の向こうに、北峰が見える。

 眠る竜の山。

 そのさらに遠くには、王都がある。


 ギルベル商会。

 王都財務院。

 ヴァルドニアの影。

 契約書の黒い染みは、まだ消えていない。


 けれど今は、畑が残った。


 水車が回る。


 村人たちは、春の作業へ戻れる。


 それだけで、この一日は十分に意味があった。


 エリスは静かに息を吸った。


 雪解けの土と、小麦の若葉の匂いがした。


 契約書の向こうには、人がいる。


 その言葉は、もうただの考えではなかった。

 彼女がこの北方で働く理由になり始めていた。

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