第八話 契約魔法相談所、開業します
王都へ送った条件書の返事は、三日経っても戻らなかった。
王太子ユリウスが条件を呑むのか。
それとも、意地を張って中央金庫の凍結を長引かせるのか。
エリスには分からない。
ただ一つ分かっているのは、王都が迷っているあいだにも、辺境の日々は止まらないということだった。
ヴァイスベルグ城の朝は早い。
まだ空が青白いうちから、兵士たちは中庭で訓練を始め、厨房からは黒パンを焼く匂いが流れてくる。山から下りてくる風は王都の冬よりも鋭く、廊下を歩くだけで指先が冷えた。
その朝、エリスは城の東棟にある小さな部屋の前で、木の板を見上げていた。
板には、まだ乾ききっていない黒い文字が書かれている。
――契約魔法相談所。
その下に、小さく。
――土地・雇用・商取引・魔法契約・封印文書、相談承ります。
エリスはしばらく無言で見つめた。
「どうですか」
隣でカレンが腕を組んでいる。
「字は読みやすいです」
「そこですか」
「いえ、看板としては十分だと思います。ただ……」
「ただ?」
「本当に、これを掲げるのですか」
カレンは当然のように頷いた。
「掲げます。昨日、閣下が決めました」
「私は領主補佐官として雇われたのであって、相談所を開くとは契約書に書かれていなかったと思います」
「職務内容に『契約、文書、法務調査、対王都交渉の補佐』とあります」
「はい」
「つまり、相談所も職務範囲内です」
「……広い解釈ですね」
「北方では、必要なら広く解釈します」
エリスは、看板をもう一度見た。
契約魔法相談所。
王宮にいた頃の彼女の仕事は、契約書を写すことだった。
誰かが決めた文面を、正しく、美しく、間違いなく写す。
それは大切な仕事だったが、契約の中身に意見を言うことは求められていなかった。
読むな、とは言われない。
だが、読んだことを口にすると嫌がられる。
王宮では、契約書は身分の高い者が作り、身分の低い者が従うものだった。
けれど今、エリスの前には相談所の看板がある。
誰かが持ち込んだ契約を読み、問題を見つけ、必要なら直す。
そのための場所。
自分の仕事として。
「相談料は、これでよいのでしょうか」
エリスは扉に貼られた紙を指した。
一般相談、一件につき銅貨三枚。
農民・兵士・職人は、初回無料。
魔法契約書の精査は内容に応じて別途見積もり。
貧困者は領主裁量により免除。
「安すぎませんか」
「王都価格なら安いでしょうね」
カレンは答えた。
「ですが、北方の村人が金貨を出せると思いますか」
「思いません」
「それに、これは収益事業ではありません。まずは領内の契約被害を掘り起こすのが目的です」
「掘り起こす」
「そうです。昨日の竜封印の件で分かったでしょう。契約書を読まないまま放置すると、後で山が燃えます」
「燃えかけましたね」
「だから、先に読ませる。北方は王都ほど人も金もありません。問題が大きくなってから直すより、最初に見つける方が安い」
合理的だった。
そして、その合理性の中に、エリスの力を使う場所がある。
「分かりました」
エリスは小さく息を吐いた。
「開けましょう」
カレンが扉を開けた。
相談所として用意された部屋は、元は文官の控室だったらしい。広くはないが、机が二つ、椅子が四脚、書類棚が一つある。窓際には小さな暖炉があり、火はすでに入っていた。
机の上には、インク壺、羽根ペン、砂入れ、白紙の相談記録簿。
壁には、相談の流れを示す紙が貼られている。
一、契約書を持参する。
二、相談内容を記録する。
三、本人確認を行う。
四、契約書を読む。
五、問題点を説明する。
六、必要に応じて領主へ報告する。
エリスは五番目の項目を見て、少しだけ目を止めた。
問題点を説明する。
王宮では、そこが抜けていた。
読める者だけが読んで、読めない者には教えない。
だから、契約は支配になる。
「カレン様」
「カレンでいいです。ここでは同僚です」
「では、カレン。相談者には、契約書の問題点を必ず本人に説明するのですね」
「もちろんです。説明しないと、また同じ契約に署名しますから」
エリスは頷いた。
「よい仕組みだと思います」
「閣下がそう言ったら喜びます」
「閣下が考えたのですか」
「大枠は閣下です。細かい相談料や記録簿は私です」
「では、あとでお二人に礼を言います」
「礼より、働いてください」
そう言って、カレンは窓の外を見た。
中庭の門のところに、すでに何人かの人影があった。兵士に案内され、おずおずと東棟へ向かってくる。
「初日から来ましたね」
エリスは背筋を伸ばした。
「はい」
最初の相談者は、城下町のパン焼き職人だった。
名はマルタ。四十代の女性で、粉のついた前掛けをしていた。彼女は緊張した様子で、古びた契約書を机の上に置く。
「窯の賃貸契約です。先月、大家が代替わりしてから、急に使用料を二倍にすると言われまして」
エリスは契約書を読んだ。
黒い染みは薄い。悪意というより、古い契約書の曖昧さだった。窯の修繕費を誰が負担するのか、燃料代が家賃に含まれるのか、代替わり時の条件変更がどこまで許されるのか。そこがはっきりしていない。
「使用料を二倍にする根拠は、この契約書だけでは弱いです。ただし、修繕費については大家側にも主張の余地があります」
「では、どうすれば」
「今の契約を続けるのではなく、修繕費と燃料代を分けて新しい契約にした方がよいです。こちらで文案を作れます」
マルタは目を丸くした。
「契約を、作り直せるのですか」
「双方が合意すれば可能です」
「契約書というのは、一度決めたら、もう従うしかないものだと思っていました」
エリスは少しだけ言葉に詰まった。
そう思っている人が、どれほど多いのだろう。
「契約は、人を縛るためだけのものではありません。お互いの約束を、後から確認できる形にするためのものです」
マルタは何度も頭を下げて帰っていった。
二人目は若い兵士だった。
遠征手当の受け取り契約に不明点があるという。読んでみると、上官がごまかしたわけではなく、軍務規定が古く、雪中警備と通常警備の手当区分が曖昧なだけだった。エリスは該当箇所を整理し、カレンへ確認を回すことにした。
三人目は羊毛商の見習い。
四人目は薬草採りの老婆。
五人目は、鍛冶屋の弟子。
どれも王宮の大契約のように華やかではない。
王家資産、外交条約、竜封印。
そうした大きな契約とは違う。
けれど、どれも誰かの生活に直結していた。
窯を使えなければ、パン屋は店を閉める。
手当が出なければ、兵士の家族が困る。
薬草の採取権を奪われれば、老婆は冬を越せない。
契約書の向こうには、人がいる。
エリスは相談記録簿に一件ずつ丁寧に書き込んだ。
昼を過ぎた頃、カレンが干し肉入りのスープを持ってきた。
「食べながらでいいです」
「書類にこぼすと困ります」
「では食べてから書いてください」
「相談者が待っています」
「補佐官殿が倒れる方が困ります」
カレンはそう言って、エリスの前に椀を置いた。
その時、扉の外が少し騒がしくなった。
兵士の声がする。
「落ち着いてください。順番にお通しします」
「順番どころではねえんだ!」
荒い男の声だった。
「明日の朝には畑を取られるんだぞ!」
エリスとカレンは顔を見合わせた。
「通してください」
カレンが言うと、兵士が扉を開けた。
入ってきたのは、農民たちだった。
老人が一人。
中年の夫婦が二組。
それから、十五、六歳ほどの少女。
彼らの服は泥で汚れ、靴には雪解けの水が染み込んでいた。かなり遠い村から歩いて来たのだろう。老人は布に包んだ何かを両手で抱え、今にも崩れ落ちそうな顔をしていた。
「こちらが相談所です」
兵士が説明すると、老人はエリスを見るなり膝をついた。
「お願いします、書記官様。畑を、村を、助けてください」
「立ってください」
エリスは慌てて席を立った。
「まず、事情をお聞きします。お名前は」
「ロイと申します。ハルゼ村の村長をしております」
「ハルゼ村」
カレンの表情が変わった。
「南の小麦村ですね。竜の避難でも名前が出ていました」
「はい。昨日は兵士様方のおかげで、何とか子どもらを逃がせました。ですが……」
ロイは布包みを開いた。
中から出てきたのは、一通の土地契約書だった。羊皮紙は比較的新しく、封蝋には商会の紋章がある。麦穂を囲む金貨の印。
カレンが低く呟いた。
「ギルベル商会」
エリスはその名に聞き覚えがあった。
竜封印地へ採掘調査隊を入れた、王都の商会。
「この契約は、どういうものですか」
エリスが尋ねると、ロイは震える声で答えた。
「去年の春、種麦と肥料を借りました。冬の不作で蓄えが尽きておりまして、このままでは畑に蒔く麦もなかった。そこへギルベル商会が来て、低い利子で貸してくれると」
「返済期限は」
「今年の収穫後です。小麦の三割を返す契約でした」
「それが、なぜ明日畑を取られる話に?」
中年の農夫が拳を握った。
「あいつら、契約書には村の南畑だけが担保だと言っていたんです。南畑は村の共同畑で、確かに担保に入れる話はしました。けど昨日、商会の連中が来て、村の畑全部と水車小屋、それから山際の牧草地まで明け渡せと言い出したんです」
「全部?」
カレンの声が鋭くなった。
「はい。契約にそう書いてあると」
少女が泣きそうな顔で言った。
「父が抗議したら、明日の朝に商会の管理人と私兵を連れてくるって。逆らえば、契約違反で家財も差し押さえるって」
エリスは契約書へ視線を落とした。
表面上、文書は整っている。
貸主、ギルベル商会。
借主、ハルゼ村共同耕作者代表ロイ。
貸付内容、種麦三十袋、肥料二十樽、農具修繕費銀貨五十枚。
返済内容、収穫後の小麦三割。
返済不能時の担保、南畑。
ここまでは、ロイたちの説明と一致していた。
だが、エリスの視界では、第三条の末尾が黒く滲んでいた。
担保、南畑。
その後に、小さな注記がある。
なお、本契約における南畑とは、旧ハルゼ村地籍図における南部耕作領域を指す。
エリスは息を止めた。
旧ハルゼ村地籍図。
現在の村人が使う地図ではない。
古い地籍図では、村の南側に広がる耕作地、水車小屋、牧草地、共有林の一部までが、まとめて「南部耕作領域」と呼ばれていた可能性がある。
つまり、「南畑」と聞けば一枚の共同畑に見える。
しかし契約書上は、村の南部一帯を指す。
典型的な定義条項の罠だった。
「この契約書を読んだ時、注記の説明は受けましたか」
エリスは尋ねた。
ロイは首を横に振った。
「字は読めますが、細かい言葉までは分かりません。商会の方は、南畑だけだと確かに言いました。皆の前で」
「証人はいますか」
「村の者なら、何人も」
「商会側の者は」
「契約を持ってきた男が一人。名前はバルドと」
カレンが記録する。
エリスはさらに契約書を読み進めた。
第五条。
返済不能の判断は、貸主が行う。
黒い染み。
第六条。
借主は、天候不順、病害、獣害、戦乱、封印災害、その他不可抗力を理由として返済猶予を求めることはできない。
黒い染みが濃くなる。
第七条。
貸主は、返済不能と判断した場合、担保地の管理権を即時取得する。借主は異議申し立てを行わない。
エリスは、契約書を読む手を止めた。
ひどい。
王宮で扱った外交条約や封印契約とは違う。
これはもっと身近で、もっと露骨な契約だった。
読めない農民を相手に、定義をすり替え、不可抗力も認めず、返済不能かどうかを貸主だけが判断する。
しかも、今この時期を狙っている。
竜の異常でハルゼ村は避難を余儀なくされた。畑の作業も遅れただろう。そこへ商会が「返済不能」と言い出せば、村は抵抗しにくい。
「カレン」
「はい」
「ギルベル商会は、竜封印地の採掘調査にも関わっていましたね」
「ええ」
「ハルゼ村は、封印地から近いですか」
「南麓の街道沿いです。採掘隊が通るなら、補給地点に使いやすい」
エリスは契約書を見つめた。
黒い染みが、文字の周囲だけでなく、紙の下へ広がっていくように見えた。
これは単なる農地担保の問題ではないかもしれない。
ギルベル商会は、竜封印地の近くに足場を欲しがっている。
ハルゼ村の土地、水車、牧草地、街道沿いの倉庫。
それらを押さえれば、採掘にも物資輸送にも使える。
「ロイ様」
エリスは顔を上げた。
「この契約は、かなり危険です」
ロイの顔が青ざめる。
「やはり、畑は取られるのですか」
「いいえ。まだ決まっていません」
エリスははっきりと言った。
「少なくとも、この契約書には争う余地があります。定義条項の説明不足、返済不能判断の一方性、不可抗力条項の過剰な制限。さらに、商会が口頭で『南畑だけ』と説明した証人がいるなら、重要事項の不告知を主張できます」
農民たちは、すぐには理解できない顔をしていた。
エリスは言い直した。
「簡単に言えば、商会の言い分をそのまま認める必要はありません」
少女の目に、わずかな光が戻った。
「本当ですか」
「はい。ただし、明日の朝に商会が来るのなら、こちらも急ぐ必要があります」
カレンがすでに立ち上がっていた。
「閣下へ報告します」
「お願いします。それと、ハルゼ村の現在の地籍図、旧地籍図、税記録が必要です」
「城の文書庫に写しがあるはずです」
「商会が契約書を根拠に強制執行するなら、領主権限で一時停止できますか」
「できます。少なくとも調査中の土地移転は止められます」
「では、それも」
カレンは頷き、部屋を出ていった。
エリスはロイたちへ椅子を勧めた。
「皆さんは、こちらで少し休んでください。温かいものを用意します」
「そんな、わしらにまで」
「相談者です。記録を取る必要があります」
そう言うと、農民たちはようやく椅子に腰を下ろした。
少女だけが、エリスをじっと見ていた。
「お姉さんは、王都の貴族様なんですか」
「元は、そうです」
「貴族様なのに、私たちの畑の契約を読んでくれるんですか」
エリスは少しだけ考えた。
王都の貴族たちなら、農民の土地契約など退屈なものだと言っただろう。
王太子なら、そんな小さなことは村で解決しろと言ったかもしれない。
けれど、エリスはもう王都の大広間にはいない。
「契約書に、大きいも小さいもありません」
彼女は言った。
「誰かの生活を変える文書なら、きちんと読まれるべきです」
少女は唇を噛み、それから小さく頷いた。
しばらくして、レオンハルトが相談所に入ってきた。
外套を羽織り、腰には剣。
執務室からそのまま来たらしく、手にはカレンがまとめた報告紙がある。
「ギルベル商会か」
「はい」
エリスは契約書を差し出した。
レオンハルトは読もうとして、眉を寄せた。
「細かいな」
「読まずに署名してはいけません」
「耳が痛い」
「閣下に申し上げたのではありません」
「いや、俺にも当てはまる」
レオンハルトは契約書を机に置いた。
「結論は」
「商会側にかなり悪質な定義のすり替えがあります。さらに、竜封印地の採掘調査と関係している可能性があります」
「土地を押さえる目的は、農地そのものではないと?」
「はい。ハルゼ村の位置を確認しないと断定できませんが、補給路か採掘拠点として使う意図があるかもしれません」
レオンハルトの表情が冷えた。
「カレン、馬を用意しろ。明朝と言わず、今からハルゼ村へ向かう」
「了解しました」
ロイが慌てて立ち上がる。
「へ、辺境伯様自らですか」
「領内の土地を契約で奪われる話だ。俺が行く」
「ですが、商会は王都の財務院とつながりが……」
「なおさらだ」
レオンハルトは短く言った。
「王都の名前を出せば北方の村を好きにできると思っているなら、誤解を正す必要がある」
エリスは契約書を巻き直した。
「私も同行します」
「当然だ」
レオンハルトは即答した。
「この契約を読めるのは君だ」
「はい」
「ただし、無茶はするな」
「土地契約で竜は出ません」
「君の場合、土地契約から竜が出ても驚かない」
カレンが横で頷いた。
「同感です」
エリスは少しだけ不本意だった。
だが反論はしなかった。昨日までの出来事を考えると、完全には否定できなかったからだ。
出発の準備は早かった。
農民たちは城で保護され、ロイだけが案内役として同行することになった。エリスは厚手の外套を羽織り、契約書と相談記録簿、地籍図の写しを鞄に入れた。
相談所の扉を閉める前、エリスはもう一度看板を見た。
契約魔法相談所。
開業初日。
最初の本格的な依頼は、農民たちの土地契約。
王宮の大広間のような華やかさはない。
王家の財産や古代竜の封印ほど、壮大な話にも見えない。
けれど、エリスには分かっていた。
誰かの畑を奪う契約も、王国を売る契約も、根は同じだ。
読めない者に説明せず、強い者に都合よく文言を曲げる。
その瞬間、契約は約束ではなく、支配になる。
エリスは看板の下に、小さな紙を一枚貼った。
――本日、現地調査のため不在。緊急相談は城内文官室へ。
カレンがそれを見て言った。
「初日から出張相談ですね」
「相談所というより、往診のようです」
「北方ではよくあります」
レオンハルトが馬上から声をかけた。
「行くぞ、補佐官」
「はい、閣下」
エリスは馬車に乗り込んだ。
車輪が動き出す。
窓の外では、ハルゼ村の方角へ続く街道が、雪解けの泥に濡れて光っていた。
その先で、ギルベル商会が待っている。
竜封印地を掘り、農民の土地を奪おうとする商会。
そしておそらく、その背後には王都と隣国の影がある。
エリスは鞄の中の土地契約書に手を置いた。
紙の向こうに、黒い染みが見える。
けれど今度は、王宮の時とは違う。
読んだ言葉を信じてくれる人がいる。
契約を止める権限を持つ領主がいる。
説明を聞こうとする村人たちがいる。
ならば、できることはある。
「契約書の向こうには、人がいる」
エリスは小さく呟いた。
馬車は南へ進む。
相談所の最初の依頼は、まだ始まったばかりだった。




