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第七話 王都からの召還状は、命令ではなく懇願でした

 翌朝、ヴァイスベルグ城の空は白かった。


 雪が降っているわけではない。

 夜のあいだに冷えきった空気が、山の稜線を薄い霧で覆っているのだ。北峰の上では、古代竜グラナートが再び眠りについていた。昨日まで赤く脈打っていた鱗の隙間は、今は黒い岩肌のように静まり、封印環の石柱にも不穏な光はない。


 エリスは、東棟の小さな部屋で目を覚ました。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 王宮の天蓋付きの寝台ではない。

 フォーマルハウト家の冷たい客間でもない。

 天井は低く、壁は石造りで、窓の外には白い山が見える。


 ヴァイスベルグ城。

 北方辺境伯領。

 そして、自分は昨夜、この領の領主補佐官になった。


 エリスは上体を起こした。

 手のひらに巻かれた包帯が、少しだけ痛む。封印環に追記した時の火傷だ。指先はまだ熱を持っていたが、動かせないほどではない。


 机の上には、昨夜交わした雇用契約書の写しが置かれていた。


 エリス・フォーマルハウト。


 自分の筆跡で書かれた名前を見つめる。


 王宮で署名を迫られた時とは、まるで違う。

 あの時の署名欄は、彼女を閉じ込めるために空いていた。

 この署名欄は、彼女が働く場所を選ぶために空いていた。


 エリスはそっと契約書に触れた。


 黒い染みは、どこにもない。


「よし」


 小さく息を吐いて、寝台から下りる。


 着替えようとして、少し困った。王都から持ってこられた鞄には、替えの服がほとんど入っていない。侍女が慌ただしく詰めたものだから、どれも王宮用の薄手の衣服で、北方の朝には心許なかった。


 その時、扉が軽く叩かれた。


「起きていますか、補佐官殿」


 カレンの声だった。


「はい」


「入ります」


 返事を待ってから、カレンが入ってくる。手には厚手の服を数着抱えていた。


「城の文官用の服です。少し大きいかもしれませんが、王都の布よりはましでしょう」


「ありがとうございます」


「それと、朝食後すぐ会議です。昨夜の竜封印の件と、王都への報告書作成。それから、あなた宛ての面倒な客が来ています」


「私宛て、ですか」


「王都からの使者です」


 エリスの手が止まった。


「王都から」


「ええ。夜明け前に到着しました。馬を二頭潰しかけたそうです。王都は相当慌てています」


 カレンの声には、わずかに皮肉が混じっていた。


「何の用件でしょうか」


「おそらく、あなたを連れ戻すためでしょう」


 エリスは窓の外を見た。


 王都を離れて、まだ数日しか経っていない。

 追放されたばかりだ。

 戻るなと言われたばかりだ。

 それなのに、もう連れ戻す。


 あまりにも都合がよすぎる。


「分かりました。すぐ支度します」


「急がなくていいです」


「しかし、使者が」


「待たせればいいのです。王都は昨日まで、あなたを鉄格子付きの馬車に乗せていました。少しくらい廊下で冷えても問題ありません」


 カレンは平然と言った。


 エリスは返事に困った。


 北方の人間は、思ったことをかなり直接言う。


 朝食は、黒パンと温かいスープ、それから塩漬け肉だった。王宮の朝食に比べれば質素だが、体が温まる。エリスは食事を終えると、カレンに案内されて執務室へ向かった。


 廊下の途中で、窓の外に中庭が見えた。


 昨夜避難してきた村人たちが、兵士に誘導されながら物資を受け取っている。子どもを抱いた母親、杖をついた老人、山羊を引く少年。王都の舞踏会では見なかった人々だった。


 あの人たちの上に、竜の炎が落ちるかもしれなかった。


 そう思うと、手のひらの痛みが少しだけ違って感じられた。


 執務室に入ると、レオンハルトはすでに机についていた。机の上には昨夜の封印契約書、採掘許可状の写し、王都商会の報告書、そして数枚の新しい書簡が積まれている。


「来たか」


「お待たせしました、閣下」


「体調は」


「問題ありません」


 レオンハルトは包帯の巻かれた手を見た。


「問題のある人間は、大抵そう言う」


「書類仕事はできます」


「それならいい」


 彼は一通の封書を手に取った。

 青い封蝋。王家の紋章。

 しかし封蝋の光は、ひどく弱かった。


 エリスの視界で、その封書の周囲に黒い染みが浮かんでいる。


「王都からの召還状だ」


 レオンハルトが言った。


「宛先は君になっている」


「私に」


「王太子ユリウスの名で出されている。使者は、ただちに君を王都へ戻すよう求めている」


「求めている、ですか。命じているのではなく」


「封書には『命ずる』とある」


 レオンハルトは、封書を机の上へ置いた。


「だが、どうも様子がおかしい」


「拝見してもよろしいですか」


「ああ。ただし、署名はするな」


「しません」


 エリスは封書を手に取った。


 羊皮紙は王宮用の高級品。文字は王太子付き書記官の手。内容は簡潔だった。


 王家契約凍結の解除に必要なため、エリス・フォーマルハウトに王都への即時帰還を命ずる。

 北方辺境伯レオンハルト・ヴァイスベルグは、当該人物を速やかに王宮へ移送せよ。

 これは王太子ユリウス・アルトレインの正式命令である。


 エリスは読み終える前に、違和感を覚えた。


 命ずる。

 移送せよ。

 正式命令。


 強い言葉が並んでいる。


 だが、文字の奥にある術式が、まったく働いていない。王家の召還状であれば、本来は受け取った者の身分や現在地に応じて、命令権の根拠が青く浮かぶ。王命なら王命、軍務なら軍務、官職なら官職。

 しかし、この書簡には根拠がない。


 まるで、空の玉座から声だけが響いているようだった。


「これは、命令書としては無効です」


 エリスは言った。


 部屋の隅に立っていた王都の使者が、顔を赤くした。


「無効とは何事か! 王太子殿下の正式な召還状だぞ!」


 エリスは使者を見た。


 若い文官だった。王宮財務院の紋章を付けている。寝ていないのか、目の下に濃い影がある。外套には泥が跳ね、手袋も擦り切れていた。


 王都が本当に混乱していることは、その姿だけでも分かった。


「正式な召還状であることと、命令として有効であることは別です」


「詭弁だ!」


「では、命令権の根拠を示してください」


「王太子殿下のご命令だと言っている!」


「王太子殿下は、現在の私に対して、どの立場から命令されているのでしょうか」


 文官は口を開きかけ、止まった。


「私はすでに、王太子妃候補ではありません。婚約破棄契約により、その地位と義務は放棄されています。王宮書記官としても、追放時に職務から外されました。さらに、王太子殿下ご自身の裁定により、私は王都への帰還を禁じられ、辺境伯閣下の監視下に置かれています」


 エリスは書簡の一文を指で押さえた。


「つまり、殿下は私に『戻るな』と命じた状態で、『戻れ』と命じています」


 カレンが小さく笑った。


「見事な自滅ですね」


 王都の文官は、唇を震わせた。


「しかし、王家契約凍結の解除には、あなたの異議申し立て権が必要なのです!」


「それは認めます」


「ならば戻るべきでしょう!」


「戻るべき、というのは依頼です。命令ではありません」


 エリスは静かに言った。


「この召還状は、命令書の形式を取っていますが、実質は懇願です」


 その言葉が落ちた瞬間、書簡の王家紋章がかすかに音を立てた。


 青い封蝋にひびが入る。


 王都の文官がぎょっとした。


「な、何を……」


「私ではありません。契約が反応しています」


 エリスの視界で、召還状の上に黒い染みが広がった。

 そして「命ずる」という文字が、薄く滲む。


 代わりに、紙面の余白に青白い文字が浮かび上がった。


 ――命令根拠なし。

 ――当該人物への王家直接命令権は、婚約破棄契約および追放裁定により停止中。

 ――要請文書として扱う。


 部屋が静まり返った。


 カレンが肩を震わせている。笑いをこらえているのだろう。


 レオンハルトは表情を変えなかったが、目だけは少し細くなっていた。


「なるほど」


 彼は言った。


「王都からの召還状は、命令ではなく懇願だったわけだ」


 王都の文官は、今にも倒れそうな顔をした。


「我々は、そんなつもりでは……」


「つもりの問題ではありません」


 エリスは書簡を机に戻した。


「契約は、書かれた根拠を見ます。王太子殿下がどれほど命令のつもりで書かれても、命令権がなければ命令にはなりません」


 文官は両手を握りしめた。


「では、どうすればよいのですか」


 その声には、先ほどまでの怒りはなかった。


 疲労と焦り。

 そして、わずかな恐怖。


 エリスは少しだけ表情を緩めた。


「王都の状況を教えてください」


 文官はレオンハルトを見た。

 レオンハルトが頷く。


「話せ」


 文官は一度唇を湿らせてから、早口で語り始めた。


「中央金庫は凍結状態のままです。完全移譲は止まっていますが、王家の通常支出が通りません。軍費、港湾管理費、神殿供出金、王都警備隊の給与、すべて財務院で止まっています。財務卿は倒れました。法務官長は依然として所在不明。副官の二名も消えています」


「ヴァルドニア使節団は」


 レオンハルトが問う。


「王宮内の宿舎は空でした。前夜のうちに退去した記録があります。ただし、正式な出国記録はありません」


「逃げたか」


 カレンが低く言った。


 文官は続けた。


「王都では、王太子殿下の署名責任を問う声が一部から上がっています。しかし殿下は、エリス様が契約を凍結させたため解除できないと説明されています」


「まだ私のせいになっているのですね」


 エリスの声は、自分でも驚くほど冷静だった。


「……はい」


 文官は気まずそうに目を伏せた。


「ですが、財務院内部では違う見方も出ています。少なくとも、エリス様が異議申し立てをしなければ、中央金庫の管理権は完全にヴァルドニアへ移っていた可能性が高いと」


「可能性ではありません。移っていました」


 文官の顔がさらに青ざめる。


「やはり、そうですか」


「はい」


「だから、どうか王都へお戻りください」


 文官は深く頭を下げた。


 先ほどまでの高圧的な態度は消えていた。


「財務院だけでは解除手続きができません。王家は命令書の形でしか出せませんでしたが、現場は分かっています。エリス様の力が必要です」


 エリスはすぐには答えなかった。


 王都。


 戻れば、また責められるだろう。

 王太子は謝らない。

 父も、おそらく何も言わない。

 貴族たちは、必要な時だけ彼女を呼び、用が済めばまた遠ざける。


 それでも、中央金庫が凍結されたままなら、被害を受けるのは王太子だけではない。


 警備隊の給与が止まれば、街の治安が乱れる。

 港湾管理費が止まれば、商人や労働者に影響が出る。

 神殿供出金が止まれば、救護院にも支障が出る。


 契約書の向こうには、いつも人がいる。


 それを、エリスは昨日の竜封印で見た。


「閣下」


 エリスはレオンハルトを見た。


「私が王都に戻ることについて、辺境伯領としての判断を伺いたいです」


「君自身の意思は」


「……王都には戻りたくありません」


 正直に言った。


「ですが、契約解除の必要性は理解しています。放置すれば、民に被害が出ます」


「なら、戻る条件を決めればいい」


「条件、ですか」


「ああ。命令ではなく懇願なら、こちらには交渉の余地がある」


 レオンハルトは机の上の召還状を指で叩いた。


「王太子が君に命令できないなら、君は従属者として戻る必要はない。専門家として招かれるべきだ」


 カレンが頷いた。


「護衛、待遇、権限、報酬、免責。全部契約書にしましょう」


「免責まで?」


「当然です。王都へ戻った瞬間に、また反逆容疑で拘束されたら困ります」


 エリスは小さく息を呑んだ。


 確かに、その危険がある。


 王太子が感情的になれば、あり得ないとは言えない。

 むしろ、十分あり得る。


「条件は五つだ」


 レオンハルトが言った。


「第一に、エリス・フォーマルハウトの身柄は引き続きヴァイスベルグ辺境伯の保護下に置く。王家および王宮騎士団は、辺境伯の同意なく拘束、尋問、移送を行わない」


 カレンがすぐに書き取る。


「第二に、王都滞在中の役割は契約解除の助言者であり、反逆容疑者として扱わない」


「はい」


「第三に、王太子ユリウスは、婚約破棄契約の署名者として解除手続きに出席し、自身の署名責任を認める」


 文官が目を見開いた。


「そ、それは殿下が受け入れるかどうか……」


「なら交渉不成立だ」


 レオンハルトは即答した。


「読まずに署名した者が出席せず、読んで止めた者だけを呼び戻す。そんな契約処理はない」


 エリスは、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。


 自分では言いにくいことを、彼は淡々と言ってくれる。


「第四に、王家は北方竜封印契約に対する財務院許可状の発行経路を開示する」


 文官が今度こそ言葉を失った。


「竜封印契約、ですか」


「昨夜、北峰の封印が破られかけた。王都財務院の許可状を持つ商会が、採掘禁止区域に入った結果だ」


「そ、そんな報告は」


「これから報告する」


 レオンハルトの声は冷たかった。


「王都の金庫だけが問題だと思うな。君たちが出した紙で、北方は焼かれかけた」


 文官は椅子に座り込んだ。


「第五に」


 レオンハルトはエリスを見た。


「君が決めろ」


「私が、ですか」


「ああ。これは君の召還だ」


 エリスは机の上の召還状を見た。


 命令ではなくなった紙。

 懇願として扱われるしかなくなった紙。


 王都で、彼女はいつも命令されていた。

 署名しろ。

 黙れ。

 戻るな。

 そして今度は、戻れ。


 けれど、今は違う。


 条件を出していい。

 自分の意思を、契約に書いていい。


「第五の条件は」


 エリスはゆっくりと言った。


「王太子殿下が、私に直接謝罪することではありません」


 文官が少し驚いた顔をした。


 カレンも意外そうに眉を上げる。


 エリスは続けた。


「謝罪の言葉だけなら、契約にはなりません。必要なのは、再発防止です」


 彼女は羽根ペンを取った。


「第五に、今後、王家および王宮各院は、魔法契約書に署名する際、署名者本人による全文確認と、独立した契約書記官二名以上の事前審査を義務とする。特に王家資産、領地、外交、封印に関わる契約については、確認記録を保存すること」


 書き終えてから、エリスは文官を見た。


「これを条件に入れてください」


「それは……王宮の運用を変える要求です」


「変えなければ、また同じことが起こります」


「王太子殿下は、屈辱と受け取るかもしれません」


「屈辱ではありません。契約書を読むという、最低限の手続きです」


 文官は黙り込んだ。


 レオンハルトが低く言った。


「その条件も加える」


 カレンはすでに清書を始めていた。


 王都から届いた召還状の横に、北方から返す条件書が作られていく。

 それは、エリスにとって不思議な光景だった。


 王都の命令を、北方が契約条件に変えている。


 命令される側だった自分が、今は条件を書く側にいる。


 カレンが清書を終え、エリスへ差し出した。


「補佐官殿、確認を」


 エリスは一字一句読んだ。


 黒い染みはない。

 ただし、第三条の「署名責任を認める」という箇所に、少しだけ弱さがある。


「ここは、『認める』だけではなく、『解除手続き記録に明記する』としてください」


「なぜですか」


「口頭で認めても、後からなかったことにされます。記録に残す必要があります」


「了解です」


 カレンが修正する。


 それを見て、王都の文官が小さく呟いた。


「王宮に、あなたのような方が残っていれば」


 エリスは顔を上げた。


 文官は疲れた目で召還状を見ていた。


「今回の件は、防げたのでしょうか」


 エリスは少し考えた。


「私一人では、防げなかったと思います」


「なぜです」


「読んでも、信じてもらえなければ止められません」


 文官は何も言えなかった。


「ですが、読む人が複数いて、読む手続きがあり、読んだ人の警告を聞く仕組みがあれば、防げた可能性はあります」


 それは、王都への批判であると同時に、エリス自身の答えでもあった。


 彼女の力は万能ではない。


 契約の嘘は見える。

 だが、それだけでは足りない。


 見えたものを聞いてくれる人が必要だ。

 記録に残す仕組みが必要だ。

 警告を握り潰せない制度が必要だ。


 王都には、それがなかった。


 北方には、これから作れるかもしれない。


「この条件書を王都へ持ち帰ってください」


 レオンハルトが言った。


「王太子が受け入れるなら、エリスは専門家として王都へ向かう。拒否するなら、こちらは動かない」


「しかし、中央金庫が」


「王都が困っていることは分かっている。だから条件を出している。命令のふりをした懇願で人を動かそうとするな」


 文官は深く頭を下げた。


「承知しました。必ず届けます」


「待て」


 レオンハルトは机の引き出しから、もう一通の封書を取り出した。


「竜封印契約の速報報告だ。財務院と国王直轄の監察局へ同時に出せ。途中で握り潰されるなら、北方から直接公表する」


 文官は両手で封書を受け取った。


「……王都は、大荒れになります」


「すでに荒れている」


 カレンが言った。


「原因を隠して静かに腐るよりは、ましでしょう」


 文官は返す言葉もない様子だった。


 使者が退室したあと、執務室にはしばらく沈黙が残った。


 エリスは机の上の召還状を見ていた。


 青い封蝋は割れ、王家の命令文は効力を失っている。

 その姿は、今の王都そのもののようだった。


「戻るのが怖いか」


 レオンハルトが問う。


「怖くないと言えば、嘘になります」


「だろうな」


「また責められると思います。王太子殿下は、私を許していないでしょう。父も、おそらく私を庇いません」


「なら、俺も行く」


 エリスは顔を上げた。


「閣下も、王都へ?」


「君は俺の領の補佐官だ。保護下に置くと条件にも書いた。領主が同行するのは当然だ」


「北方の仕事は」


「山ほどある。だが、王都がこのまま崩れれば北方にも火の粉が来る」


 カレンが書類をまとめながら言った。


「私は留守番ですか」


「お前には採掘調査隊の足取りを追ってもらう」


「了解です。王都の連中を締め上げる役がないのは残念ですが」


「言い方を選べ」


「調査します」


 エリスは二人のやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けた。


 王都へ戻る。


 けれど、前とは違う。


 今度は婚約者としてでも、罪人としてでもない。

 辺境伯領の補佐官として。

 契約解除の専門家として。

 そして、自分の条件を持つ者として戻る。


「閣下」


「何だ」


「条件が受け入れられた場合、私は王都へ行きます」


「ああ」


「ですが、王太子殿下のためではありません」


「分かっている」


「王家のためでもありません」


「それも分かっている」


 エリスは、割れた召還状を見つめた。


「契約書の向こうで困る人たちのために行きます」


 レオンハルトは短く頷いた。


「それでいい」


 窓の外では、北峰の霧が少しずつ晴れ始めていた。


 眠る竜の影が、朝の光の中に浮かび上がる。


 王都からの召還状は、命令ではなかった。

 懇願だった。


 そしてエリスは、初めてその懇願に条件を付けた。


 誰かに呼ばれるまま戻るのではない。

 自分の意思で、戻るかどうかを決める。


 その違いは、紙の上ではわずかな文言の差にすぎない。


 けれどエリスにとっては、王宮の大広間から北方の朝まで続く、長い道の先にようやく見つけた自由だった。

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