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第十話 辺境の民は、魔力ゼロの令嬢に頭を下げた

 ハルゼ村からヴァイスベルグ城へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。


 馬車の車輪は泥を跳ね上げ、窓の外では小麦畑が遠ざかっていく。

 村人たちは、いつまでも街道の脇に立っていた。

 村長ロイ。

 水車小屋の番をしている老人。

 子どもを抱いた母親。

 昨日、相談所へ駆け込んできた少女。


 彼らは馬車が見えなくなるまで、頭を下げ続けていた。


 エリスは、窓からその姿を見つめていた。


 胸の奥が落ち着かない。


 感謝されることには慣れていなかった。


 王宮書庫で契約書を写していた頃、彼女の仕事は「できて当然」のものだった。

 誤字がなければ誰にも気づかれない。

 誤字があれば叱責される。

 正確に写しても、誰かに礼を言われることはほとんどない。


 それでよいと思っていた。


 紙の上の仕事とは、そういうものだと思っていた。


 けれど今日、ハルゼ村の人々は泣きながら頭を下げた。

 畑が残った。

 水車が守られた。

 今年も麦を蒔ける。

 その一つ一つが、彼らにとって生活そのものだった。


 たった一行の定義条項を読んだだけ。

 そう言えば、それだけのことかもしれない。


 だが、その一行で奪われかけた村があった。


 そして、その一行を読み解いたことで、今日だけは守れた暮らしがあった。


「疲れたか」


 向かいに座るレオンハルトが言った。


「少しだけ」


「少し、ではない顔だ」


「では、かなり疲れました」


「素直でよろしい」


 レオンハルトはそう言って、膝の上に置いていた外套をエリスの方へ押しやった。


「寒いだろう」


「ありがとうございます。ですが、閣下は」


「俺は慣れている」


「それは理由になりません」


「君も言うようになったな」


 レオンハルトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 エリスは外套を受け取り、膝にかけた。

 厚手の布には、雪と革と鉄の匂いが染み込んでいた。王都の香水とはまるで違う。

 けれど、今のエリスにはその匂いの方が落ち着いた。


「閣下」


「何だ」


「私は今日、初めて分かった気がします」


「何を」


「契約書を読む仕事が、人を救うこともあるのだと」


 口にしてから、エリスは少し恥ずかしくなった。

 あまりに大げさに聞こえたかもしれない。


 だが、レオンハルトは笑わなかった。


「初めてだったのか」


「王宮では、契約書は上の方々のためのものでした。王家の財産、貴族家の婚姻、領地の移転、外交文書。もちろん、それらも重要です。ですが、そこにいる人の顔は見えませんでした」


 エリスは窓の外へ視線を向けた。


 夕暮れの畑が、赤紫色に沈んでいく。


「今日は、違いました。契約書の向こうに、本当に人がいました。畑を失えば困る人。水車を奪われればパンを焼けない人。返済を迫られれば冬を越せない人」


「それが、領地の契約だ」


 レオンハルトは言った。


「紙の上では土地一筆、倉庫一棟、麦三割。だが実際には、人の暮らしだ」


「はい」


「だから、読める者が必要になる」


 エリスは膝の上で手を握った。


 包帯の下の火傷が、まだ少し痛む。

 だがその痛みも、今はただの傷ではなく、何かを選んだ証のように思えた。


「私に、できるでしょうか」


「何を」


「この領で、契約書を読む仕事を。王都のような大きな文書ではなく、今日のような、生活に近い契約を」


「もうやっている」


「でも、私はまだ知らないことばかりです。北方の土地慣習も、村ごとの決まりも、軍務規定も、商取引の実態も」


「知らないなら覚えればいい」


 レオンハルトの答えは簡単だった。


「君は読める。知らないことを知らないままにしない。それで十分だ」


「十分でしょうか」


「完璧な補佐官などいない。完璧な領主もいない」


「閣下もですか」


「当然だ。俺は契約書を読まずに竜を飼っていた男だぞ」


 エリスは思わず息を止めた。


 それから、少しだけ笑ってしまった。


「飼っていたわけではない、とおっしゃっていました」


「君に言われてから、自信がなくなった」


「封印していた、が正確だと思います」


「なら、そういうことにしておく」


 馬車の中に、小さな沈黙が落ちた。


 気まずい沈黙ではなかった。


 王宮にいた頃、沈黙はいつも重かった。

 何かを言えば間違える。

 何かを聞けば迷惑がられる。

 そういう沈黙だった。


 けれど、今の沈黙は違う。


 少し疲れていて、少し温かい。

 言葉を急がなくてもよい沈黙だった。


 城に戻ると、相談所の前には人だかりができていた。


 カレンが扉の前で腕を組み、相談者たちを整理している。


「今日はもう受付終了です。補佐官殿は村まで出向いて戻ってきたばかりです。緊急でないものは明日以降に」


「でも、うちの雇用契約も見てもらいたくて」


「商会から来た証文が変なんです」


「息子の奉公契約なんですが」


「明日です」


 カレンの声は容赦がなかった。


 だが人々は引き下がりながらも、どこか安心した顔をしていた。

 相談する場所がある。

 その事実だけで、少し楽になっているように見えた。


 エリスが馬車から降りると、集まっていた人々が一斉にこちらを見た。


 その視線に、エリスは思わず身を固くした。


 王都の視線を思い出す。

 嘲り。

 疑い。

 好奇心。

 反逆者を見る目。


 だが、返ってきたのは別のものだった。


「補佐官様、ハルゼ村を助けたって本当ですか」


「ギルベル商会を追い返したって」


「うちの契約も、見てもらえますか」


「字が読めない者でも、大丈夫でしょうか」


 声が重なる。


 エリスは戸惑いながら答えた。


「順番に確認します。字が読めない方でも構いません。契約書があれば、お持ちください。ない場合でも、内容を聞き取って記録します」


 すると、一人の老婆が前へ出た。


 薬草採りの契約相談に来ていた老婆だった。


 彼女は小さな籠を差し出した。中には乾燥させた薬草と、丸い黒パンが入っている。


「今日の礼です」


「いえ、相談料は規定通りで十分です」


「金じゃありません。気持ちです」


「ですが」


「受け取ってください。あんたがいるなら、わしらも契約書を怖がるだけじゃなくて済む」


 エリスは言葉を失った。


 老婆は深く頭を下げた。


 それに続くように、周囲の人々も頭を下げた。


 兵士。

 職人。

 村人。

 城下の商人。

 誰も、王都の貴族ではない。


 辺境の民だった。


 その人々が、魔力ゼロと蔑まれた令嬢に頭を下げている。


 エリスは、胸の奥が詰まるのを感じた。


「私は……」


 声がうまく出なかった。


 彼らは自分を王太子の婚約者として見ていない。

 侯爵家の令嬢としても見ていない。

 反逆容疑者としても見ていない。


 契約書を読んだ人。

 畑を守った人。

 相談してもよい人。


 そう見ている。


 それが、こんなにも苦しいほど温かいことだとは知らなかった。


「私は、まだできることが少ないです」


 エリスはゆっくりと言った。


「北方のことも、皆さんの暮らしのことも、まだ学んでいる途中です。けれど、持ち込まれた契約書は、必ず読みます。分からない言葉は、分かるまで説明します。危険な条項があれば、隠さず伝えます」


 人々は静かに聞いていた。


「だから、どうか署名する前に持ってきてください。署名した後でも構いません。諦める前に、読ませてください」


 老婆が頷いた。


「頼りにします、補佐官様」


 その言葉に、エリスは頭を下げ返した。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 顔を上げると、カレンが珍しく柔らかな表情をしていた。


「明日から大変ですね」


「はい」


「相談記録簿、三冊追加しておきます」


「そんなに来ますか」


「来ます」


 即答だった。


 レオンハルトは少し離れた場所で、その様子を見ていた。

 やがて彼は、近くの兵士に短く命じた。


「東棟の空き部屋をもう一つ相談所に回せ。文官を二名補助につける。掲示板も増やせ」


「はっ」


「それから、領内の村に通達を出す。土地、雇用、借金、商会契約に不安がある者は、相談所へ持ち込むように」


「承知しました」


 エリスは驚いて振り返った。


「閣下、そこまでしていただかなくても」


「必要になった」


「ですが、私は一人です」


「だから補助をつける」


「まだ開業初日です」


「初日でこれなら、明日はもっと来る」


 正論だった。


 エリスは反論を諦めた。


 その夜、相談所の机には書類が積み上がった。


 ハルゼ村の土地契約。

 ギルベル商会の近隣村契約。

 竜封印地の採掘許可状。

 王都へ送る中間報告書。

 相談所の運用規定。

 領内通達の文案。


 カレンは隣の机で記録を整理し、レオンハルトは執務室と相談所を行き来しながら領主印を押していた。


「補佐官殿」


 カレンが言った。


「このままだと、あなたは三日以内に書類の山に埋まります」


「それは困ります」


「なので、分類します」


「分類?」


「緊急度です。第一、即時対応。第二、一週間以内。第三、契約更新時まで。第四、記録のみ」


 エリスは目を輝かせた。


「とてもよいと思います」


「急に元気になりましたね」


「分類は大切です」


「書類好きですね」


「好きというより、分類されていない書類が苦手です」


「同じでは?」


「少し違います」


 カレンは笑いながら、新しい帳簿を開いた。


 エリスは羽根ペンを取り、相談記録の様式を整え始めた。


 相談者名。

 村名または所属。

 契約相手。

 契約種類。

 署名済みか未署名か。

 緊急度。

 問題条項。

 説明内容。

 今後の対応。


 項目を一つずつ書いていくうちに、不思議と心が落ち着いていく。


 これなら、できる。

 大きな魔法は使えない。

 剣も取れない。

 貴族社会で華やかに笑うこともできない。


 けれど、契約書を読み、記録し、分類し、説明することはできる。


 それが誰かの生活を守るなら。


 エリスは、初めて自分の仕事に誇りを持ってもよいのかもしれないと思った。


「エリス」


 レオンハルトが呼んだ。


 いつの間にか、相談所には彼とエリスだけが残っていた。カレンは文官室へ追加の帳簿を取りに行っている。


「はい、閣下」


「今日はよくやった」


 短い言葉だった。


 王都の社交辞令のように飾られてはいない。

 美しい比喩もない。

 だが、まっすぐだった。


 エリスは羽根ペンを置いた。


「ありがとうございます」


「無理はするな」


「それは少し難しいかもしれません」


「そこは努力しろ」


「はい」


 少しだけ笑うと、レオンハルトもまた小さく息を吐いた。


「君は、自分の仕事が小さいと思っているようだが」


「え?」


「契約書を一枚読むだけ、と時々顔に出ている」


 エリスは思わず頬に手を当てた。


「出ていますか」


「出ている」


「気をつけます」


「いや、気をつけるのはそこではない」


 レオンハルトは机の上のハルゼ村契約書を指した。


「この一枚で、村が奪われかけた。この一枚を読んで、村が残った。小さい仕事ではない」


 エリスは契約書を見た。


 黒い染みは、まだ消えていない。

 ギルベル商会との争いはこれからだ。

 正式な無効確認も、返済条件の再調整も、採掘調査との関係解明も残っている。


 それでも、今日の仕事は小さくなかった。


 そう言われて、ようやく信じてもよい気がした。


「私は、王都で役立たずだと言われていました」


 エリスはぽつりと言った。


「魔力がないから。社交が下手だから。王太子妃にふさわしくないから」


「北方では、契約書が読める人間は貴重だ」


「はい」


「それに、社交が下手でも契約書は読める」


「それは、慰めでしょうか」


「事実だ」


 エリスは小さく笑った。


「事実なら、受け取ります」


「そうしろ」


 その時、廊下の向こうで足音がした。

 カレンが戻ってきたのかと思ったが、扉を叩いたのは若い兵士だった。


「閣下、王都方面の伝令です」


 レオンハルトの表情が切り替わる。


「入れ」


 兵士は封書を差し出した。


「王都へ向かった使者が、途中宿場から早馬で送ったものです。王宮はまだ条件への回答を出していません。ただ、王都内で妙な動きがあるとのことです」


「妙な動き?」


「はい。ギルベル商会の王都本店に、財務院関係者が出入りしていると」


 エリスは顔を上げた。


 ギルベル商会。

 王都財務院。

 竜封印地の採掘。

 ハルゼ村の土地契約。


 点が、少しずつ線になっていく。


 レオンハルトは封書を開いた。


 読み進めるにつれて、その目が鋭くなる。


「どうしましたか」


 エリスが問うと、レオンハルトは封書を机に置いた。


「王都で、君の名が出始めている」


「私の?」


「ああ。王宮金庫を凍結させた反逆者としてではない」


 彼は一拍置いた。


「竜封印の改ざんを見抜き、ギルベル商会の土地契約を止めた契約書記官としてだ」


 エリスは息を呑んだ。


 それは、良い知らせのようにも聞こえた。

 だが、レオンハルトの表情は険しい。


「困る方々がいるのですね」


「いるだろうな」


「ギルベル商会。財務院。法務官長。ヴァルドニア」


「少なくとも、そのどれかだ」


 相談所の暖炉が、ぱちりと音を立てた。


 エリスは机の上の契約書を見つめる。


 黒い染みは紙の上だけではない。

 王都の奥にも広がっている。


 同じ頃、王都。


 中央金庫の凍結により、王宮の夜は暗かった。


 普段なら青い魔法灯が廊下を照らしているはずだが、今は半分以上が消えている。侍従たちは油灯を持って歩き、財務院の官吏たちは眠れぬ顔で書類を抱えて走り回っていた。


 その混乱から離れた、王宮西棟の奥。


 使われていない法務官室の地下で、一人の男が報告書を読んでいた。


 机の上には、三通の文書が並んでいる。


 婚約破棄契約、発動失敗。

 北方竜封印、再安定化。

 ハルゼ村土地取得、領主介入により停止。


 男は白い手袋をはめた指で、最後の報告書を軽く叩いた。


「エリス・フォーマルハウト」


 低い声が、地下室に落ちる。


「魔力ゼロの書記官令嬢。王宮では、ただの写字係だと聞いていたが」


 部屋の隅に、バルド・ギルベルが立っていた。


 ハルゼ村で見せた余裕は消え、顔には焦りが浮かんでいる。


「申し訳ございません。まさか、あの女が旧地籍図の定義まで読むとは」


「読める者は読む」


 男は淡々と言った。


「問題は、読んだだけで終わらなかったことだ。辺境伯が動き、村人に説明し、記録に残した。これは厄介だ」


「すぐにでも手を打ちます。商会の抗議文を――」


「遅い」


 男は報告書を燭台の火に近づけた。


 紙の端が黒く焦げる。


「彼女は契約の嘘を見る。しかも、見たものを言葉にできる。さらに、今は彼女の言葉を信じる領主がいる」


 燃えた紙が灰になって皿へ落ちた。


「王宮にいた頃なら、黙らせるのは簡単だった。父親を使えばよい。王太子の機嫌を使えばよい。貴族社会の嘲笑を使えばよい」


 男は静かに顔を上げた。


「だが北方では、それが効かない」


 バルドは喉を鳴らした。


「では、どうされますか」


 男は机の引き出しから、一枚の薄い契約紙を取り出した。


 紙面には、金色の細い鎖のような模様が走っている。


「聖女契約を進める」


「聖女を?」


「王太子は、まだ彼女を手放せない。王都の民も、聖女の言葉なら聞く。そしてエリス・フォーマルハウトは、聖女の首輪に気づいていた」


 男の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「ならば、彼女は必ず反応する」


「北方から引きずり出すと?」


「いや」


 男は契約紙の上に、羽根ペンを置いた。


「彼女の方から、王都へ戻る理由を作る」


 地下室の奥で、青白い魔法灯が一つだけ揺れた。


「魔力ゼロの令嬢が、契約書を読んで人を救う。結構なことだ」


 男は言った。


「ならば次は、読めば読むほど救えない契約を見せてやろう」


 その声は、誰にも聞かれないまま、王宮の闇に沈んでいった。


 北方の相談所では、エリスがまだ書類に向かっていた。


 彼女は知らない。


 自分の仕事が人を救ったことを、ようやく実感し始めたその夜。


 王都の闇もまた、彼女の名をはっきりと覚えたことを。

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