第十一話 聖女様の契約書は、血で書かれている
王都からの正式な返答は、まだ届かなかった。
ヴァイスベルグ城の契約魔法相談所には、朝から人が絶えなかった。
土地の担保契約。
奉公契約。
薬草採取権の許可証。
商会から渡された借用証。
どれも王宮の大契約のように派手ではないが、誰かの生活を確かに左右する文書だった。
エリスは、相談記録簿の三冊目を開きながら、少しだけ目元を押さえた。
「補佐官殿、休憩です」
向かいの机からカレンが言った。
「あと一件だけ」
「その『あと一件だけ』を四回聞きました」
「では、本当にあと一件だけ」
「却下です。今のあなたは、契約書を読んでいるというより、契約書に読まれています」
カレンは立ち上がると、エリスの前に置かれた羽根ペンを取り上げた。
「あ」
「昼食です」
「記録の途中で止めると、分類が」
「分類は逃げません。補佐官殿は逃げます。体力から」
エリスは反論しようとしたが、手元の文字が少しぼやけていることに気づき、黙った。
たしかに、昨日の夜も遅くまでギルベル商会関係の契約書を調べていた。ハルゼ村以外にも、同じような定義のすり替えが二件見つかっている。いずれも、街道や水源に近い土地だった。
偶然ではない。
ギルベル商会は、北方の土地を点ではなく線で押さえようとしている。
それは、おそらく竜封印地への物資輸送と関係している。
そして、その背後に王都財務院の影がある。
「分かりました。少し休みます」
「少しではなく、食事を終えるまでです」
カレンがそう言った時、廊下の方から慌ただしい足音が聞こえた。
兵士が扉を叩く。
「閣下はおられますか!」
「執務室です。何事ですか」
カレンがすぐに表情を変えた。
「北門に不審な馬車が到着しました。王都方面からです。御者はおらず、馬だけで城門まで来ています」
エリスは椅子から立ち上がった。
「王都から?」
「はい。それと……中に女性が一人。意識はありますが、かなり弱っています。身元を確認したところ」
兵士は、一度言葉を切った。
「聖女ミリア様です」
部屋の空気が止まった。
エリスはすぐには動けなかった。
聖女ミリア。
王太子ユリウスの隣に立っていた少女。
春告げの舞踏会で、エリスに婚約破棄を突きつけた場にいた、新しい婚約者。
だが、同時に。
金色のチョーカーに縛られ、言葉を止められていた少女。
王宮の裏門で、焼き菓子を渡しに来た少女。
「私は待っています」と言った少女。
「案内してください」
エリスは言った。
「待ってください、補佐官殿」
カレンが剣を取る。
「罠の可能性があります」
「分かっています」
「聖女本人を使った誘い出しかもしれません」
「それでも、彼女の契約具は本物でした」
「だから危険なのです」
カレンの言葉は正しい。
聖女契約。
王太子。
王都の闇。
そのどれもが、エリスを王都へ引き戻す材料になり得る。
だが、放っておくことはできなかった。
「まず、見ます。契約に縛られているなら、時間がないかもしれません」
カレンは短く息を吐いた。
「……分かりました。私も同行します。絶対に一人で近づかないでください」
「はい」
二人が北門へ向かうと、すでにレオンハルトが到着していた。
城門の内側に、泥にまみれた黒い馬車が停まっている。王宮の紋章はない。車輪は傷み、馬は汗と霜に覆われていた。かなり無理な速度で走ってきたのだろう。
馬車の扉は開いていた。
その奥に、白い外套をまとった少女が座っている。
ミリアだった。
舞踏会の時の華やかな姿とは違う。髪は乱れ、顔色は悪く、唇には血の気がない。だが、その首元の金色のチョーカーだけは、異様なほど美しく光っていた。
エリスの視界で、チョーカーの周囲に黒い染みが濃く浮かぶ。
「ミリア様」
エリスが近づこうとすると、レオンハルトが片手で制した。
「待て」
彼はミリアに向かって言った。
「名を」
ミリアはゆっくり顔を上げた。
「ミリア・クレイン……です」
「誰の命令で来た」
その問いに、ミリアのチョーカーが淡く光った。
彼女の喉が詰まる。
声が出ない。
エリスは息を呑んだ。
「閣下、命令に関する質問は契約具が反応します」
「分かった」
レオンハルトは質問を変えた。
「ここへ来たのは、君自身の意思か」
ミリアは苦しげに眉を寄せた。
チョーカーの光は弱い。
完全には止められていない。
「……はい」
かすれた声だった。
「助けを求めに来たのか」
「はい」
ミリアは両手で外套を握った。
その指が震えている。
「エリス様に……契約書を、読んでほしくて」
エリスは一歩近づいた。
今度はレオンハルトも止めなかった。
ただし、彼の手は剣の柄に置かれたままだった。
「契約書は、どこにありますか」
ミリアは首を横に振った。
「持っていません」
「見せられていないのですね」
「はい」
「では、何を読めば」
ミリアはゆっくりと、自分の首元に触れた。
金色のチョーカー。
「ここに……あります」
エリスの背筋が冷えた。
装飾品ではない。
やはり、契約具だ。
だが、ただの服従契約具ではない。契約書そのものを、首輪の形に変えたもの。
エリスは慎重に視線を凝らした。
チョーカーの金細工の間に、細かな文字が刻まれている。普通の人間には模様にしか見えないだろう。だが、エリスには読めた。
古王国語。
神殿契約式。
王家認証文。
そして、その下に混じる赤黒い文字。
血判契約。
エリスの喉が乾いた。
「これは……」
「どうした」
レオンハルトが問う。
「契約書が、金属に刻まれています。しかも、通常のインクではありません」
ミリアは目を伏せた。
「血で、書かれたと聞きました」
その言葉に、カレンが顔をしかめた。
エリスはすぐに言った。
「詳細は後で確認します。まず、彼女を暖かい部屋へ。ここでは読めません」
「カレン」
「準備します」
ミリアは馬車から降りようとして、足元をふらつかせた。エリスが支えようとする前に、レオンハルトが兵士へ指示を出す。
「医務室ではなく、東棟の応接室へ。神殿系の契約具なら、治療魔法で反応する可能性がある。薬師とオルドを呼べ。護衛は二名。誰も一人では入れるな」
「承知しました」
ミリアは運ばれるように城内へ入った。
その間も、彼女はずっとエリスの袖を掴んでいた。
強い力ではない。
けれど、離せば何かに引き戻されると恐れているような手だった。
東棟の応接室には暖炉が入れられ、厚手の毛布が用意された。
ミリアは椅子に座ったが、背もたれに体を預けることすら怖いようだった。首元のチョーカーは、火の光を受けて淡く輝いている。
エリスは向かいに座った。
レオンハルトは扉の近く。
カレンは窓際。
老術師オルドは暖炉のそばで、魔力計を準備していた。
「ミリア様」
エリスは静かに言った。
「これから、契約具を読みます。ただし、触れません。触れると逆流する可能性があります」
「はい」
「答えにくい質問には、無理に答えないでください。契約が反応したら、すぐ止めます」
「……分かりました」
ミリアは小さく頷いた。
エリスはチョーカーの文字を読み始めた。
第一条。
ミリア・クレインは、王国に召喚された聖女として、王家に忠誠を誓う。
第二条。
聖女は、王太子ユリウス・アルトレインの保護下に置かれる。
第三条。
聖女は、王家の命令に反する発言、行動、逃亡、告発を行ってはならない。
第四条。
聖女は、王国民を癒やす力を王家の許可なく用いてはならない。
第五条。
聖女が契約に違反した場合、聖女の生命力をもって契約不履行の代償とする。
エリスは指先が冷たくなるのを感じた。
これは、保護契約ではない。
所有契約だ。
王家が聖女を守る契約ではなく、王家が聖女を縛る契約。
「ひどい」
カレンが低く呟いた。
ミリアは笑おうとしたが、うまくできなかった。
「やっぱり、そうなのですね」
「ミリア様」
エリスは慎重に言葉を選んだ。
「あなたは、この契約に署名した記憶がありますか」
チョーカーが弱く光った。
ミリアは喉を押さえた。
エリスはすぐに言った。
「答えなくて構いません。質問を変えます。あなたは契約内容を説明されましたか」
チョーカーは光らない。
ミリアは首を横に振った。
「いいえ。神殿で目を覚ました時には、もうこれがありました」
「目を覚ました時」
「私は……元々、王都の人間ではありません」
ミリアの声は震えていた。
「聖女として生まれたわけでもありません。村の薬師見習いでした。ある日、神殿の巡礼団が来て、癒やしの力があると言われました。王都へ行けば、多くの人を助けられると」
「それで王都へ?」
「はい。でも、神殿に着いた夜、儀式があって……気がついたら、聖女になっていました」
チョーカーが淡く光る。
ミリアは苦しげに息を止めた。
エリスはすぐに手を上げた。
「ここまでで大丈夫です」
「でも、言わないと」
「契約が反応しています。無理に話せば、あなたに負担がかかります」
ミリアは唇を噛んだ。
「私は、聖女ではありません」
その言葉だけは、はっきりとしていた。
「癒やしの力はあります。でも、王家が言うような奇跡の聖女ではない。王太子殿下の婚約者になりたかったわけでもない。エリス様から、何かを奪いたかったわけでもありません」
「分かっています」
エリスはすぐに答えた。
ミリアの目が揺れた。
「本当に?」
「はい」
「だって、私はあの夜、あなたの隣に立っていました。ユリウス様が婚約破棄を言った時、止められなかった」
「止めようとしてくださいました」
「でも、止められなかった」
「契約で縛られていたからです」
ミリアは泣きそうな顔で首を横に振った。
「それでも、私は怖かった。逆らえば、この首輪が熱くなって、声が出なくなって、息も苦しくなる。だから黙りました。あなたが責められているのに、黙っていました」
エリスはミリアを見た。
敵だと思っていたわけではない。
けれど、王太子の隣にいた人物として、距離を置こうとしていたのは事実だった。
しかし、目の前にいる少女は、エリスを押しのけた勝者ではなかった。
別の契約に縛られ、別の形で署名を奪われた被害者だった。
「私も、王宮で黙っていたことがあります」
エリスは静かに言った。
「言えばよかったことを、言えなかったことがあります。だから、あなたを責める資格はありません」
ミリアの目から、涙が一筋落ちた。
エリスはハンカチを差し出した。
ミリアはそれを受け取り、小さく頭を下げた。
「契約の続きが読めますか」
レオンハルトが低く問うた。
「はい」
エリスは再びチョーカーへ視線を戻す。
第六条。
聖女は、王太子との婚姻により王家の血統に連なるものとする。
第七条。
婚姻成立後、聖女の癒やしの力、生命力、神聖認証は王家の儀式資産として登録される。
第八条。
登録後、王家は聖女の力を建国契約の補填に用いることができる。
エリスは息を止めた。
建国契約。
また、その言葉が出てきた。
王都の婚約破棄契約。
古王国の相互承認契約。
竜封印契約。
そして、聖女契約。
すべてが、どこかで古い契約に繋がっている。
「建国契約の補填とは何ですか」
カレンが問う。
「まだ分かりません。ただ、通常の聖女契約に出る言葉ではありません。王家の根本に関わる契約です」
ミリアが震える声で言った。
「それを聞いたことがあります」
「どこで?」
「王宮の地下礼拝堂で。法務官長と神殿長が話していました。王家の契約が弱っている、聖女の力で補わなければならない、と」
チョーカーが鋭く光った。
ミリアが苦しそうに胸を押さえる。
「ミリア様!」
「だ、大丈夫です……」
「大丈夫ではありません。これ以上話さないでください」
エリスは急いで契約文字を確認した。
発言制限条項が反応している。
王家の秘密、契約内容、地下礼拝堂、法務官長。
それらに関わる言葉に反応するよう組まれている。
かなり精密な制限だ。
だが、完璧ではない。
なぜならミリアは、ここまで話せた。
つまり、契約に穴がある。
「オルド様、魔力反応は」
「生命力を少量ずつ吸い上げています。すぐ命に関わるほどではありませんが、長く続けば危険です」
エリスは唇を噛んだ。
契約を解除したい。
だが、無理に外せば逆流する。
最悪の場合、ミリア自身に負担が返る。
「この契約は、誰の血で書かれていますか」
エリスはチョーカーの赤黒い文字を見ながら呟いた。
「本人の血か、王家の血か、神殿の血か。それによって解除方法が変わります」
ミリアは小さく首を横に振った。
「分かりません。でも、儀式の時、王太子殿下が指輪をはめていました。青い石のついた指輪を」
「王印の代行具かもしれません」
レオンハルトが言った。
「王太子が署名者なら、解除にも王太子の認証が必要になるのか」
「おそらく。ただし、本人の同意がない契約なら、異議申し立ての余地があります」
「君が王都でやったようにか」
「はい。ただし、この契約には署名欄がありません」
「首輪だからか」
「いいえ。もっと悪いです」
エリスは、チョーカーの内側に刻まれた細字を読んだ。
「本人の声を署名の代替とする、とあります」
カレンの顔が険しくなる。
「どういう意味ですか」
「儀式の中で、ミリア様が何かを復唱させられたはずです。その言葉を、契約同意として扱っています」
ミリアの顔が青ざめた。
「言わされました。『私は聖女として王家に仕えます』と。何度も」
「それを署名にしたのです」
「そんな……」
ミリアの手が震えた。
「私は、何に同意したのか知らなかった」
「はい。だから争えます」
エリスははっきり言った。
「契約内容を説明されず、言葉だけを署名代わりに使われたなら、同意は不完全です。完全解除はすぐには難しいかもしれませんが、発言制限と生命力徴収の停止は主張できます」
ミリアはエリスを見つめた。
「本当に、できますか」
「可能性はあります」
「私は、自由になれますか」
その問いに、エリスは簡単には答えられなかった。
自由になれます。
そう言ってあげたかった。
だが、契約書を読む者として、できると言い切れないことを約束してはいけない。
「すぐに完全な自由を約束することはできません」
エリスは言った。
ミリアの目が少し伏せられる。
「でも、あなたが何に縛られているのかは読みます。どこに穴があるのか探します。あなたの意思を、契約に記録させます」
「私の、意思」
「はい」
エリスは一字ずつ確かめるように言った。
「あなたは王家の所有物ではありません。契約書にそう書かれていても、それを正しいものとして扱う必要はありません」
ミリアの涙が、また落ちた。
レオンハルトが静かに口を開いた。
「ミリア・クレイン。北方辺境伯として確認する。君は、王都へ戻りたいか」
ミリアは激しく首を横に振った。
チョーカーが光る。
だが、答えは出た。
「戻りたくありません」
「では、君を保護する」
レオンハルトは即決した。
「王都が返還を求めても、本人の意思確認と契約調査が終わるまで応じない」
カレンが頷く。
「部屋を用意します。護衛も」
「王宮の追っ手が来る可能性がある」
「門の警戒を上げます」
ミリアは信じられないという顔で、レオンハルトを見た。
「私を、置いてくださるのですか」
「本人が助けを求め、契約による拘束の疑いがある。追い返す理由がない」
「でも、私は王太子殿下の聖女で」
「人間だ」
レオンハルトは短く言った。
「まず、それが先だ」
ミリアは口元を押さえた。
声を出す代わりに、何度も頷いた。
エリスは、チョーカーの契約文をもう一度見た。
黒い染みは濃い。
だが、その奥に、細い亀裂のような余白がある。
異議申し立ての余地。
本人の意思を記録する場所。
完全な解除はまだ遠い。
だが、最初の一手は打てる。
「ミリア様」
「はい」
「これから、あなたの意思確認書を作ります。内容は簡単です。あなたが自分の意思で北方に保護を求めたこと。王都への即時帰還を望まないこと。聖女契約の内容説明を受けていないこと」
「それに署名すればいいのですか」
「はい。ただし、署名する前に全文を読み上げます。分からない言葉があれば、説明します」
ミリアは目を伏せた。
「契約書を読んでもらってから署名するのは、初めてです」
エリスは羽根ペンを取った。
「では、ここから始めましょう」
その時、窓の外で鐘が鳴った。
封印鐘ではない。
城門の警戒鐘だった。
カレンが即座に窓へ向かう。
「早すぎる」
レオンハルトの声が低くなる。
「王都の追っ手か」
カレンは外を見て、顔を険しくした。
「王宮騎士です。数は十騎ほど。旗は王太子直属」
ミリアの顔から血の気が引いた。
チョーカーが、強く光り始める。
「いや……」
小さな声だった。
「戻りたくない」
エリスはすぐに紙を押さえた。
まだ意思確認書は白紙に近い。
だが、ミリアの言葉は聞いた。
戻りたくない。
それだけでも、記録する価値がある。
エリスは羽根ペンを走らせた。
――ミリア・クレインは、王都への即時帰還を拒否する意思を示した。
書いた瞬間、チョーカーの光が一瞬だけ弱まった。
エリスはそれを見逃さなかった。
やはり、本人の意思は契約に対抗できる。
「閣下」
「何だ」
「時間をください。少しでいいです。この意思確認書が完成すれば、王都側の強制連行に対抗できます」
「分かった」
レオンハルトは扉へ向かった。
「カレン、応接室を守れ。誰も入れるな」
「はい」
「エリス」
彼は振り返った。
「書け」
「はい」
レオンハルトが出ていくと、廊下に兵士たちの足音が響いた。
エリスは白紙に向かう。
王都の騎士が迫っている。
聖女契約はまだ首にある。
血で書かれた文字は、ミリアの自由を縛り続けている。
それでも、今ここで書く一枚は無意味ではない。
王宮では、ミリアの声は署名として奪われた。
ならば今度は、その声を本人の意思として記録する。
「ミリア様」
エリスは言った。
「一つずつ確認します。あなたは、ここに自分の意思で来ましたか」
ミリアは涙をこらえながら頷いた。
「はい」
「王都へ戻ることを望みますか」
「いいえ」
「聖女契約の内容について、事前に説明を受けましたか」
「いいえ」
「あなたは、王家の所有物ですか」
ミリアは一瞬、息を止めた。
チョーカーが光る。
だが、彼女は震える声で言った。
「違います」
エリスは、その言葉を紙に書いた。
――私は、王家の所有物ではありません。
赤黒い契約具が、小さく軋む音を立てた。
外では、王宮騎士の到着を告げる角笛が鳴っている。
エリスは羽根ペンを握り直した。
聖女様の契約書は、血で書かれている。
けれど、今ここに書かれているのは、血ではない。
ミリア自身の意思だった。




