第十二話 偽りの聖女と、本物の呪い
城門の警戒鐘が、ヴァイスベルグ城の石壁を震わせていた。
王宮騎士が来た。
その報せを聞いた瞬間、ミリアの首元にある金色のチョーカーが、強く光を放った。火にかざした金属のような光ではない。内側から、彼女の喉を締めつけるような、冷たい光だった。
「いや……」
ミリアは両手で首元を押さえた。
「戻りたくない。戻りたくありません……」
エリスは羽根ペンを走らせた。
――ミリア・クレインは、王都への即時帰還を拒否する意思を示した。
その一文を書いた瞬間、チョーカーの光がわずかに弱まる。
やはり、本人の意思は契約に対抗する力を持っている。
完全ではない。
しかし、無力でもない。
「ミリア様、続けます」
エリスは白紙に向かったまま言った。
「あなたは、ここへ自分の意思で来ましたか」
「はい」
「誰かに命じられたのではありませんね」
「違います」
「王家から逃げたことを、自分の罪だと思いますか」
ミリアの唇が震えた。
チョーカーがまた光る。
エリスはすぐに言葉を足した。
「答えにくければ、首を振るだけで構いません」
ミリアは小さく首を横に振った。
エリスはその動きを記録する。
――本人は、王家からの逃避を契約上の違反として認める意思を示していない。
少し硬い文言だった。
だが、契約に対抗する文書は、感情だけでは足りない。
後から誰が読んでも、本人の意思と事実関係が分かるように書かなければならない。
扉の外では、兵士たちの足音が増えていた。
レオンハルトはすでに王宮騎士を迎えるため、広間へ向かっている。
この応接室にいるのは、エリス、ミリア、カレン、老術師オルド、そして護衛の兵士二人だけだった。
カレンは窓際から外を確認している。
「城門前で止めています。王宮騎士は十騎。隊長格が一人。旗は王太子直属です」
「要求は」
「聖女ミリア様の即時返還。王太子殿下の命令書を持っているそうです」
エリスは唇を引き結んだ。
また命令書。
王都は、命令すれば人が戻ると思っている。
だが、ミリアは物ではない。
王家の所有物でもない。
「意思確認書を完成させます」
エリスは言った。
彼女は紙面に、最後の確認項目を書き込んだ。
――私は、王家の所有物ではありません。
――私は、聖女契約の内容について事前説明を受けていません。
――私は、王都への即時帰還を望みません。
――私は、ヴァイスベルグ辺境伯領に保護を求めます。
書き終えると、エリスはミリアの前に紙を置いた。
「これから全文を読み上げます。分からない言葉があれば、止めてください」
「はい」
ミリアの声はかすれていたが、目は逃げていなかった。
エリスは一文ずつ読み上げた。
言葉を急がず、契約用語はその場で説明した。
ミリアは何度か頷き、二箇所で質問した。
「『即時帰還』というのは、今すぐ王都へ連れ戻されることですか」
「はい。今日、このまま戻されることです」
「『保護』というのは、私が閉じ込められることではありませんか」
「違います。あなたの安全を守り、本人の意思に反する移送を防ぐという意味です。部屋から出られないという意味ではありません」
ミリアは少しだけ安心した顔をした。
「分かりました」
「署名できますか」
その問いに、ミリアの表情が一瞬こわばった。
署名。
彼女にとって、それは怖い言葉なのだろう。
神殿で、意味を知らされないまま言葉を復唱させられた。
その声を署名として使われ、首に契約を巻かれた。
エリスは羽根ペンを置いた。
「怖ければ、今は署名しなくても構いません。本人確認のために、口頭記録と証人署名だけでも効力はあります」
ミリアは紙を見つめた。
それから、ゆっくりと首を横に振った。
「書きます」
「無理をしないでください」
「無理ではありません。これは、私が読みました。エリス様が説明してくださいました。だから、これは私の署名です」
ミリアは羽根ペンを取った。
手は震えていた。
文字も少し歪んだ。
けれど、彼女は自分の名前を書いた。
ミリア・クレイン。
その瞬間、チョーカーが軋んだ。
金属が悲鳴を上げるような、細い音だった。
ミリアが苦しげに息を呑む。
「ミリア様!」
エリスは反射的に手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。触れれば逆流する可能性がある。
オルドが魔力計を覗き込む。
「契約具が反発しています。しかし、生命力の吸収は一時的に弱まっています!」
「意思確認書が効いています」
エリスは紙面を見た。
ミリアの署名の周囲に、淡い光が浮かんでいる。
王家の契約光ではない。
もっと柔らかく、個人の意思を示す光だった。
「カレン」
「はい」
「証人署名をお願いします」
カレンは迷わず署名した。
続いてオルドも署名する。
最後に、エリスが文書作成者として署名した。
これで、ミリアの意思は記録された。
完璧な盾ではない。
だが、王宮騎士が彼女を一方的に連れ戻そうとした時、北方側が対抗する根拠にはなる。
しかし、問題はまだ残っている。
チョーカーは外れていない。
発言制限も、完全には消えていない。
そして、彼女の身体に流れる契約呪は、むしろ今の反発で輪郭を現し始めていた。
エリスの視界では、チョーカーから伸びる黒い糸が、ミリアの喉だけでなく、胸元へ、腕へ、背中へと細く広がっているのが見えた。
装飾品が呪いをかけているのではない。
呪いは、すでに彼女の身体に入り込んでいる。
「……これは、首輪だけではありません」
エリスは呟いた。
カレンが顔を向ける。
「どういうことですか」
「チョーカーは契約書であり、鍵でもあります。でも呪いの本体は、ミリア様の身体に移されています」
ミリアの顔が白くなった。
「私の、身体に」
「はい。王家に逆らおうとすると、首輪が反応するだけではありません。あなたの生命力そのものが、契約の代償として引き出される仕組みになっています」
「では、外せないのですか」
「無理に外せば、契約呪だけが身体に残る可能性があります。むしろ危険です」
ミリアは両手を膝の上で握りしめた。
「私は、聖女ではないのに」
その声は小さかった。
「皆、私を聖女様と呼びます。でも、私はそんな立派なものではありません。傷を少し癒やせるだけで、奇跡なんて起こせません。王太子殿下も神殿も、私を聖女にしたかっただけです」
偽りの聖女。
エリスは、その言葉を胸の中で反芻した。
けれど、目の前にある契約呪は偽物ではない。
人を縛り、声を奪い、逆らえば生命力を削る。
本物の呪いだった。
「ミリア様」
エリスは静かに言った。
「あなたが本物の聖女かどうかは、今は問題ではありません」
「でも」
「あなたを縛っている呪いは本物です。なら、まずそれを解きます」
ミリアの目が揺れた。
「解けますか」
「すぐに完全解除はできません」
エリスは正直に答えた。
「ですが、発言制限と生命力徴収を弱めることはできるかもしれません。今の意思確認書で、契約に本人意思の異議が入りました。そこを広げます」
「広げる?」
「はい。契約呪に対して、あなたの意思が継続していることを認めさせます」
エリスは新しい紙を取り出した。
解除ではなく、停止申立書。
王家契約の本体を破るのではない。
まず、本人の生命に関わる条項の発動を止める。
「オルド様、補助をお願いします」
「承知しました」
「カレン、ミリア様に水を」
「はい」
ミリアが水を飲む間、エリスはチョーカーの文字列をもう一度確認した。
発言制限条項。
逃亡禁止条項。
生命力代償条項。
王太子保護条項。
聖女力登録条項。
建国契約補填条項。
この最後の一文が、どうしても引っかかる。
――登録後、王家は聖女の力を建国契約の補填に用いることができる。
建国契約とは何か。
王国を成立させる時に交わされた、最も古い契約。
おそらく王家の正統性、竜との約束、民から魔力を集める仕組み、そのすべてに関わっている。
もし聖女契約が建国契約に接続しているなら、ミリアの呪いはただの個別契約ではない。
王家そのものの契約網に組み込まれている。
だから、強い。
だから、外せない。
「始めます」
エリスは停止申立書を書き始めた。
――ミリア・クレイン本人の意思に基づき、聖女契約第三条および第五条の発動停止を申し立てる。
――第三条は本人の発言、移動、告発の自由を過度に制限し、契約内容の説明を受けていない者に対して不当に重い拘束を課している。
――第五条は契約違反の代償として生命力を徴収するものであり、本人の生命を危険にさらす。
書いている間、チョーカーは何度も光った。
だが、ミリアは耐えた。
歯を食いしばり、両手で椅子の端を握り、逃げずに座っていた。
「ミリア様」
エリスは顔を上げた。
「最後に、あなたの言葉が必要です。短くて構いません」
「何を言えば」
「この契約の発動停止を望む、と」
ミリアは震える息を吐いた。
チョーカーが、すでに警告するように淡く光っている。
「私は……」
彼女の声が詰まる。
光が強くなる。
オルドが叫んだ。
「生命力反応、上昇!」
「ミリア様、無理なら」
「言います」
ミリアは目を閉じた。
涙が頬を伝う。
「私は、この契約の発動停止を望みます」
チョーカーが鋭く光った。
ミリアの身体が大きく震える。
エリスはすぐにその言葉を書き留めた。
――本人は、本契約第三条および第五条の発動停止を望む。
その瞬間、停止申立書の文字が淡く光り、チョーカーの文字列へ細い光が伸びた。
黒い染みが揺れる。
発言制限条項の一部が、薄くなる。
「通った……?」
カレンが呟く。
エリスは慎重に読み取った。
「完全ではありません。でも、王家の秘密に関する発言制限が少し緩んでいます。生命力徴収も、一時停止に近い状態です」
ミリアは肩で息をしていた。
「話せる、のですか」
「少しだけです。無理はしないでください」
「言わなければならないことがあります」
ミリアは顔を上げた。
その目には、先ほどまでとは違う強さがあった。
「王宮の地下礼拝堂で、法務官長と神殿長が話していました。建国契約が弱っている、と。王家の血だけでは、もう玉座を支えられない、と」
チョーカーは光った。
だが、先ほどほど強くはない。
エリスは一語も逃さず記録する。
「それから、王太子殿下が言っていました。私と結婚すれば、聖女の力を王家に登録できる。そうすれば、中央契約炉をもう十年動かせると」
「中央契約炉?」
レオンハルトの声が、扉の方からした。
いつの間にか彼が戻っていた。
外套には雪がつき、表情は険しい。
「王宮騎士は?」
カレンが尋ねる。
「広間で待たせている。王太子の命令書を振り回しているが、ミリア本人の意思確認が終わるまで会わせないと通告した」
「時間は」
「長くは持たない。向こうは強硬だ」
レオンハルトはミリアを見た。
「続けられるか」
ミリアは頷いた。
「はい」
エリスは尋ねた。
「中央契約炉とは、何ですか」
「分かりません。でも、王宮の地下深くにあると聞きました。王都の魔法灯、中央金庫、王印、神殿の認証、そういうものを動かしている根のようなものだと」
オルドが杖を握りしめた。
「建国契約炉……古い伝承にあります。王国建国時、初代王が竜と民と交わした契約を刻み、王都の地下に据えた炉。民から少しずつ魔力を集め、王家がそれを管理する仕組みだと」
「伝承ではなく、実在するのですね」
エリスは低く言った。
点がつながっていく。
中央金庫が契約で動く理由。
王印が王家の正統性を示す理由。
竜封印契約に王家が関わっていた理由。
聖女の力を王家の儀式資産として登録しようとした理由。
王国の魔法制度は、建国契約を中心に動いている。
そして、その契約が弱っている。
「弱った建国契約を、聖女の生命力で補おうとしているのですね」
エリスが言うと、ミリアは小さく頷いた。
「たぶん、そうです。私は聖女ではないのに、聖女として登録される。そうすれば、私の力も、命も、王家の契約に使えるから」
カレンが怒りを押し殺した声で言った。
「人間を燃料扱いですか」
「契約上は、儀式資産という言葉を使っています」
エリスはチョーカーの第七条を見た。
――癒やしの力、生命力、神聖認証は王家の儀式資産として登録される。
吐き気がするほど整った文だった。
人間を物として扱うために、これほど丁寧な言葉が使われている。
「解除できるか」
レオンハルトが問う。
エリスはすぐには答えなかった。
チョーカーの文字を最後まで読む。
停止申立書の反応を見る。
ミリアの身体に伸びる黒い糸を辿る。
その糸は、チョーカーから伸びているように見えて、実際には違った。
王都の方角へ、見えないほど細く伸びている。
その先に、巨大な何かがある。
王家の建国契約。
そこに接続されている。
「完全解除には、聖女契約だけでは足りません」
エリスは言った。
「この契約呪は、建国契約に接続されています。チョーカーを外しても、建国契約側に登録された情報が残れば、ミリア様の生命力は引き出され続ける可能性があります」
「つまり」
「王家の建国契約を確認しなければ、根本的には解けません」
部屋の空気が重くなった。
建国契約。
それは王国の最奥にある契約だ。
ただの書記官が見られるものではない。
辺境伯ですら、容易には触れられないだろう。
王家が隠してきた、王国そのものの根。
そこに、ミリアの呪いが繋がっている。
「王都へ行く理由が増えたな」
レオンハルトが言った。
「はい」
エリスは停止申立書を押さえた。
「中央金庫の解除だけではありません。ミリア様の契約呪を解くには、建国契約の原本、または写しを確認する必要があります」
「王家が見せると思うか」
「思いません」
「なら、どうする」
エリスは顔を上げた。
「見せざるを得ない状況にします」
言ってから、自分でも少し驚いた。
王宮にいた頃の自分なら、そんなことは言えなかった。
だが、今は違う。
ミリアの意思確認書がある。
聖女契約の停止申立書がある。
竜封印契約の改ざん記録がある。
中央金庫凍結の異議申し立て記録がある。
王家の契約制度に、いくつもの異常が出ている。
ならば、その根である建国契約を調べる理由はある。
「その前に、王宮騎士を退ける」
レオンハルトは扉へ向かった。
「ミリア本人の意思確認書は」
「完成しています」
「持ってこい。広間で読み上げる」
ミリアが不安げに立ち上がろうとした。
エリスは止める。
「ミリア様はここにいてください。無理をすると契約が反応します」
「でも、私のことです」
「だからこそ、あなたの意思はすでに文書にしました。今度は、それを私たちが守る番です」
ミリアは震える手で、エリスの手を握った。
「お願いします」
「はい」
エリスは意思確認書と停止申立書を持ち、レオンハルトの後に続いた。
広間では、王宮騎士たちが待っていた。
隊長らしき男が、王太子の封蝋がついた命令書を掲げる。
「聖女ミリア様を引き渡していただく。これは王太子殿下の正式命令である」
レオンハルトは一歩も引かなかった。
「本人は帰還を拒否している」
「聖女様は王太子殿下の保護下にある。本人の意思は問題ではない」
その言葉に、エリスは静かに前へ出た。
「問題です」
王宮騎士の視線が彼女へ向かう。
「エリス・フォーマルハウト……」
「ミリア・クレイン様の意思確認書を作成しました。本人は、王都への即時帰還を望まず、ヴァイスベルグ辺境伯領に保護を求めています」
「反逆容疑者が作った文書など無効だ」
「証人は、辺境伯領副官カレン・ローヴェ、封印監視役オルド、そして文書作成者である私です。さらに、本人署名があります」
騎士隊長は顔をしかめた。
「聖女様は契約により王家に仕える身だ」
「その契約についても、本人は内容説明を受けていません。発言制限および生命力徴収を含む不当な条項が確認されています。現在、発動停止を申し立て中です」
「貴様、聖女契約に干渉したのか」
「読みました」
エリスは答えた。
「読んだ上で、本人の意思を記録しました」
騎士隊長の手が剣の柄へ動く。
レオンハルトの声が低く響いた。
「抜けば、王太子直属騎士が辺境伯城内で保護対象者の意思文書を破るために武力を用いた、と記録する」
騎士隊長の手が止まる。
「……王都は、この件を許さない」
「王都に伝えろ」
レオンハルトは言った。
「中央金庫の解除、竜封印契約の改ざん、聖女契約の不当拘束。これらはすべて、建国契約に関わる疑いがある。王家が説明しないなら、北方は正式に調査を要求する」
広間が静まり返った。
建国契約。
その言葉を聞いた瞬間、騎士隊長の顔色が変わった。
それだけで十分だった。
やはり、王都側は知っている。
「戻れ」
レオンハルトは言った。
「ミリア・クレインは、本人の意思に反して引き渡さない」
騎士たちはしばらく動かなかった。
だが、彼らにこれ以上踏み込む根拠はなかった。
本人の意思確認書。
辺境伯の保護宣言。
聖女契約への異議。
そして、建国契約という言葉。
やがて、騎士隊長は命令書を握りしめ、踵を返した。
「王太子殿下へ報告する」
「そうしろ」
王宮騎士たちは、雪の降り始めた中庭へ出ていった。
広間の扉が閉じる。
エリスは、ようやく息を吐いた。
「追い返せましたね」
「一時的にはな」
レオンハルトは険しい顔のままだった。
「次は、王太子本人か、もっと上の命令で来る」
「はい」
「王都へ行く準備をする。だが、今度はこちらの条件だけでは足りない」
「建国契約を確認する条件を加えます」
「王家は拒むだろう」
「拒めば、聖女契約の不当性を公にする材料になります」
レオンハルトは少しだけエリスを見た。
「本当に強くなったな」
「強くなったわけではありません」
エリスは手元の意思確認書を見た。
そこには、震えた文字で書かれたミリアの署名がある。
「読んだ以上、黙れなくなっただけです」
偽りの聖女。
そう呼ばれた少女は、王家の所有物ではないと自分の名前で書いた。
その首には、まだ本物の呪いが残っている。
そして、その呪いの根は、王国の建国契約へ続いている。
物語はもう、婚約破棄だけでは終わらない。
王家が何を隠し、誰の力で国を動かしてきたのか。
エリスは、その契約書を読まなければならない。




