第十三話 建国契約には、王家の罪が眠っている
王宮騎士を追い返した夜、ヴァイスベルグ城には重い静けさが落ちていた。
城門の警戒は解かれていない。
中庭には松明が増やされ、兵士たちが二人一組で巡回している。東棟の応接室では、ミリアが薬師の用意した寝台で休んでいた。金色のチョーカーはまだ首にある。だが、意思確認書と停止申立書の効果で、少なくとも生命力を吸い上げる反応は弱まっていた。
完全に救えたわけではない。
むしろ、問題の大きさは今になって見えてきた。
聖女契約。
中央契約炉。
建国契約。
その三つが繋がっている。
エリスは、相談所の机に向かっていた。
目の前には、ミリアのチョーカーから読み取った契約文の写しがある。細かい文字をできるだけ正確に写したものだ。
第三条、発言制限。
第五条、生命力代償。
第七条、聖女の力と生命力の儀式資産登録。
第八条、建国契約の補填。
何度読んでも、胸の奥が冷える。
人間を、人間として扱っていない。
王家は、ミリアを聖女として敬っているのではない。
王家の契約を保つための資源として扱っている。
「まだ起きていたのか」
扉の方から声がした。
レオンハルトだった。外套を脱いではいるが、腰の剣はそのままだ。彼もまた、休んでいない顔をしている。
「少し確認をしていました」
「少し、の量ではないな」
彼は机の上の紙束を見た。
「聖女契約か」
「はい。どうしても気になる文言があります」
「建国契約の補填、だな」
「はい」
エリスは写しの一文を指で押さえた。
「王家がミリア様の力を欲しがっているのは、単に聖女として利用するためではありません。建国契約が弱っているからです。王家はその不足分を、聖女の力と生命力で補おうとしている」
「人を燃料にするようなものだ」
「契約上は、儀式資産と書かれています」
「言葉を整えれば罪が消えると思っているのか」
レオンハルトの声は低かった。
エリスは紙面を見つめた。
「契約書では、よくあります。ひどいことほど、整った言葉で書かれます」
ハルゼ村の土地契約もそうだった。
担保。
管理権。
不可抗力。
返済不能。
冷たい言葉の奥に、畑を奪う意図が隠れていた。
ミリアの契約も同じだ。
聖女。
保護。
登録。
補填。
その美しい言葉の奥で、一人の少女の声と命が縛られている。
「建国契約を確認しなければなりません」
エリスは言った。
「王都の原本を見るのは難しい。だが、北方にも手がかりがあるかもしれない」
「手がかり?」
「竜封印契約です」
レオンハルトは少し目を細めた。
エリスは続ける。
「建国契約が竜と王家の間で結ばれたものなら、王家側の原本だけでなく、竜側の控えがあるはずです。少なくとも、竜封印契約には建国契約を参照する文言がありました。北方に保存された古文書の中に、抄本か注釈が残っている可能性があります」
「オルドに聞こう」
レオンハルトは即決した。
「今からですか」
「王都が次に何をしてくるか分からない。先に読めるものは読んでおく」
その判断は、エリスと同じだった。
ほどなくして、老術師オルドが文書庫の鍵束を持って現れた。寝巻きの上に厚い外套を羽織り、白い髭を揺らしている。
「建国契約に関する北方資料ですか」
「あるのか」
レオンハルトが問うと、オルドは渋い顔をした。
「伝承や写しならば。しかし、王都の史官が認めるものではありませんぞ。北方の古文書は、何かと『野蛮な伝承』扱いされますのでな」
「構わない。必要なのは王都が認める物語ではなく、契約の痕跡だ」
オルドは頷いた。
「では、監視塔の下へ参りましょう。竜封印に関わる古文書は、城ではなく北峰の石庫に保管しております」
「今から北峰へ?」
カレンが廊下の向こうから現れた。やはり眠っていなかったらしい。
「危険です。夜の山道ですし、王宮騎士が引き返した保証もありません」
「だから、お前も来い」
レオンハルトが言った。
「了解しました」
反対していたはずのカレンは、即座に剣を取った。
エリスは少しだけ呆れた。
「止める気はないのですね」
「危険だから同行するのです」
カレンは平然と答えた。
「補佐官殿を一人で古文書庫へ行かせる方が危険です。書類を見つけたら朝まで帰らないでしょう」
「否定しきれません」
「でしょう」
四人は夜の北峰へ向かった。
雪は止んでいたが、山道は凍っていた。松明の火が風に揺れ、遠くで狼の遠吠えが聞こえる。山頂の古代竜グラナートは、黒い岩山のように静かに眠っていた。
監視塔の地下には、石造りの文書庫があった。
扉にはヴァイスベルグ家の双剣紋と、竜の爪痕のような古い刻印がある。オルドが鍵を差し込み、さらに古王国語で短い許可文を唱えると、扉が重い音を立てて開いた。
中は冷たかった。
棚には竜皮紙の巻物、石板、封印箱が並んでいる。王宮書庫のような整理された美しさはない。だが、古さだけは圧倒的だった。紙や革の匂いではなく、石と灰と眠った火の匂いがする。
「こちらです」
オルドは奥の棚から、黒い箱を取り出した。
「竜封印契約に関わる注釈書です。代々の監視役が写してきたものですが、王都には提出しておりません」
「なぜですか」
エリスが尋ねると、オルドは苦笑した。
「提出するたび、都合の悪い部分が削られて返ってきたからです」
その一言で、エリスの背筋が冷えた。
オルドは箱の中から数本の巻物を出した。
灰の年代記。
北峰封印儀礼書。
竜語対照表。
初代ヴァイスベルグ辺境伯記録。
エリスは一つずつ目を通していった。
王都で教えられる建国史は、こうだった。
初代王アルトレインは、暴れる古代竜を鎮め、人々を守るために王国を建てた。王家は竜を封印し、民から魔力を集めて秩序を維持する権利を与えられた。
だが、北方の記録は違った。
古代竜は、最初から王国の敵ではなかった。
むしろ、魔力の暴走で荒れた大地を鎮めるため、人と竜が契約を結んだと書かれていた。竜は大地の炉を守る者。王は民から魔力を「奪う者」ではなく、「預かって巡らせる者」。辺境伯家は竜を封じる看守ではなく、王家が契約を歪めないよう見届ける監視者だった。
「違いすぎます」
エリスは呟いた。
「王都の歴史と、まるで違う」
「勝った側が物語を書く」
レオンハルトは言った。
「王家に都合のいい形に整えたのだろう」
「整えた、という程度ではありません」
エリスは一枚の古い写しを広げた。
「ここを見てください。『王は民より魔力を預かり、民と土地へ還す』とあります」
彼女は別の王都式の抄本を並べる。
オルドが持っていた、百年前に王都から送られてきた教育用の写しだった。
「こちらでは、『王は民より魔力を受け、王家へ帰す』になっています」
カレンが眉をひそめる。
「還す、と、帰す」
「はい」
エリスは指先で文字をなぞった。
「発音は同じです。ですが、意味が違います。古文書では、魔力は民と土地へ戻されるものです。王都の抄本では、王家に集まるものになっている」
「一文字変えただけで、契約の意味が変わるのか」
レオンハルトが低く言った。
「変わります」
エリスの声も硬かった。
「契約上、王家は魔力の管理者だったはずです。けれど、この改ざんによって、王家は魔力の所有者のように振る舞える」
ハルゼ村の契約と同じだ。
南畑。
南部耕作領域。
言葉の定義をずらせば、畑も水車も奪える。
王家は、同じことを王国全体に対して行っていた。
「他にもあります」
エリスは古い竜語の対照表をめくった。
「原文では、竜は『契約の見届け人』です。けれど王都の抄本では、『封印される災厄』になっています」
オルドが深く息を吐いた。
「やはり、そうでしたか」
「ご存じだったのですか」
「確証はありませんでした。北方の伝承では、竜は怒りやすいが約束には厳格な存在です。単なる災厄として封じる対象なら、封印契約にこれほど細かな相互義務は必要ありません」
エリスは頷いた。
竜は敵ではなく、契約の当事者だった。
王家はそれを、征服の物語に変えた。
その時、彼女の視界の端で、棚の奥にある小さな封印箱が黒く滲んだ。
エリスは顔を上げた。
「オルド様、あの箱は何ですか」
老術師は目を細めた。
「あれは……代々、開かずの箱とされているものです。竜鱗の箱。監視役にも開け方が伝わっておりません」
「黒い染みが見えます」
レオンハルトが即座に近づいた。
「危険か」
「分かりません。ただ、契約の反応があります」
箱は手のひら二つ分ほどの大きさだった。黒い竜鱗を重ねたような材質で、鍵穴はない。表面には古竜語が一行だけ刻まれている。
エリスはそれを読んだ。
「――王が忘れた時、書き手が読む」
部屋が静かになった。
「書き手」
カレンが呟く。
「補佐官殿のことですか」
「分かりません」
エリスは慎重に箱へ手を伸ばした。
熱はない。
だが、指先にかすかな震えが伝わる。
「読ませてください」
彼女は、小さく言った。
箱の表面に金色の線が走った。
鍵の外れる音がする。
オルドが息を呑んだ。
「開いた……」
箱の中には、一枚の薄い竜鱗紙が入っていた。
赤黒い光を帯びた、古い契約書。
エリスは、両手でそれを取り出した。
文字は古王国語と竜語の混成。
しかし、竜封印契約よりさらに古い。文法も、語形も、王宮書庫で学んだものとは少し違う。
それでも、読めた。
読めてしまった。
――建国契約、副本。
エリスの喉が鳴った。
王家側の原本ではない。
竜側に残された控え。
建国契約の、もう一つの姿。
彼女は震える息で、第一条を読んだ。
「第一条。王は、民より魔力を預かる。預かった魔力は、民の生活、土地の安寧、竜の眠り、外敵からの守りのためにのみ用いる」
レオンハルトの顔が険しくなる。
「王家の栄華は入っていないな」
「はい」
エリスは続ける。
「第二条。王は、預かった魔力を私有してはならない。王家の血を保つため、個人の長命のため、婚姻の強制のため、他国への支配のために用いてはならない」
カレンが低く言った。
「婚姻の強制……」
聖女契約だ。
王家は、建国契約で禁じられたことをしている。
「第三条。竜は大地の炉を見守り、王家が契約を守る限り、王国を焼かない」
エリスはさらに読み進めた。
「第四条。王家が契約を歪め、民より預かった魔力を王家の所有物と偽った時、竜は承認を退く」
部屋の空気が、さらに冷たくなった。
「第五条。王家が異議を封じ、書き手の記録を焼き、民に契約を読ませぬ時、契約炉は王家の命令を拒む」
中央金庫の凍結。
王印が効かなくなった理由。
エリスは、それを悟った。
王家は、ただ隣国の罠にはまっただけではない。
もともと建国契約に違反していた。
そこへ婚約破棄契約の異常が重なり、王家の認証が揺らいだのだ。
「第六条」
エリスの声が少し震えた。
「契約が歪められた時、書き手は異議を申し立てることができる。書き手の異議は、魔力の多寡によらず、記録の正しさによって受理される」
レオンハルトが彼女を見た。
「君の異議申し立てが通った理由か」
「おそらく」
魔力ゼロでも、契約は直せる。
それは偶然ではなかった。
建国契約そのものが、魔力ではなく、正しい記録を異議の根拠として認めていた。
ならば、エリスの力は魔法ではないのかもしれない。
契約の歪みを読む者。
書き手。
王家が長い間、忘れた、あるいは消した役割。
「最後の条項があります」
エリスは、竜鱗紙の下部を見た。
そこには、明らかに後から削られた跡があった。
だが、竜側副本には文字が残っている。
「第七条。王家が契約を私物化し、聖なる力を持つ者の生命を炉に投じようとした時、その罪は王家の血に返る。聖なる者は供物ではなく、証人である」
ミリア。
エリスは、応接室で震えていた少女を思い出した。
王家は、彼女を燃料にしようとしている。
だが建国契約の原文では、聖なる力を持つ者は供物ではない。証人だ。
王家の罪を証言する側の人間だ。
「王家は、これを知っていたのでしょうか」
カレンの声は低かった。
「知らなかったはずがありません」
エリスは答えた。
「王都の抄本では、この条項が消えています。偶然ではありません」
「つまり、王家は建国契約を改ざんした」
レオンハルトが言った。
「民の魔力を預かる管理者から、所有者へ。竜を見届け人から、封印対象へ。聖女を証人から、儀式資産へ」
「はい」
エリスは竜鱗紙を見つめた。
文字は古く、かすれている。
けれど、そこに眠っていた罪は新しい。
今も王都で続いている。
王家は、契約を守って国を支えていたのではない。
契約を歪めたまま、国を動かしてきた。
その歪みが限界に来たから、中央契約炉が弱り、聖女の力で補おうとしている。
「王家の罪は、建国契約の中に眠っていたのですね」
エリスは静かに言った。
オルドが膝をつき、深く頭を下げた。
「我ら北方の監視役は、これを守ってきたつもりで、読めていなかった」
「私も、今日初めて読みました」
エリスは首を横に振った。
「読めていなかったことより、これからどう記録するかです」
レオンハルトが頷いた。
「写しを作る。王都へ持っていく」
「原本は持ち出さない方がいいです」
エリスはすぐに言った。
「竜側副本はここに残すべきです。持ち出せば、王都で奪われる可能性があります。必要なのは、照合可能な写しと、証人の署名です」
「なら、今夜中に写せるか」
「写します」
「手は」
「動きます」
レオンハルトはエリスの包帯を見た。
「無茶はするな」
「これは必要な無茶です」
「またそれか」
カレンがため息をついた。
「では、交代で見張ります。補佐官殿が倒れそうになったら止めます」
「お願いします」
エリスは羽根ペンを取り出した。
竜鱗紙の文字を、一字ずつ写していく。
王は、民より魔力を預かる。
預かった魔力は、民と土地へ還す。
竜は契約の見届け人である。
聖なる者は供物ではなく、証人である。
書き手の異議は、魔力ではなく記録の正しさによって受理される。
書けば書くほど、王都で教えられた歴史が崩れていく。
王太子ユリウスの傲慢。
王宮貴族たちの嘲笑。
父の沈黙。
聖女契約の首輪。
中央金庫の凍結。
竜封印の改ざん。
ギルベル商会の土地契約。
すべては別々の事件ではなかった。
契約を読む者を軽んじ、契約を支配の道具に変えた王国の病だった。
その根に、王家がいる。
夜明け前、写しは完成した。
エリスは最後に、自分の署名を入れた。
文書作成者、エリス・フォーマルハウト。
続いて、レオンハルトが証人として署名する。
カレン、オルドも署名した。
その瞬間、写しの文字が淡く光った。
竜鱗紙の副本と、写しの間に細い金色の線が走る。
照合済みの証だった。
オルドが震える声で言った。
「竜が、認めた……」
北峰の上で、眠るグラナートの鱗が一度だけ赤く瞬いた。
怒りではない。
見届けた、という合図のようだった。
文書庫を出る頃、東の空が白み始めていた。
冷たい空気の中を城へ戻る途中、早馬が駆け込んできた。
王都方面からの伝令だった。
兵士が封書を差し出す。
封蝋は青ではない。
金。
国王印だった。
レオンハルトが封を切り、文面に目を通す。
その表情が険しくなる。
「王家からの正式回答だ」
「条件は」
エリスが問う。
「中央金庫解除のため、エリス・フォーマルハウトの王都入城を認める。身柄は辺境伯保護下とする。王太子の署名責任も、解除手続き記録に明記する」
「では」
「だが、建国契約の閲覧については、王都到着後、王太子立ち会いのもと判断するとある」
「つまり、確約していない」
「ああ」
レオンハルトは封書をエリスに渡した。
彼女は文面を読んだ。
表面上は、北方の条件をかなり受け入れている。
だが、最後の一文に黒い染みが浮かんでいた。
――聖女ミリア・クレインについても、王都において保護状況を確認する。
保護状況を確認する。
柔らかい言葉だった。
だが、意味するところは明白だった。
ミリアを取り戻すつもりだ。
「王都へ行く必要があります」
エリスは言った。
「建国契約の王家側原本を確認しなければなりません。それに、ミリア様を守るためにも、王家が何を隠しているのか明らかにする必要があります」
「行けば、王太子と正面からぶつかる」
「はい」
「王家の罪を示す写しを持っていくことになる。向こうは黙っていない」
「分かっています」
エリスは、竜鱗紙の写しを胸に抱いた。
魔力ゼロ。
役立たず。
反逆者。
追放令嬢。
王都は、彼女にいくつもの名前を与えた。
だが、建国契約は別の名を示していた。
書き手。
魔力ではなく、記録の正しさによって異議を申し立てる者。
「私は、読みに行きます」
エリスは言った。
「王家が何を書き換え、何を隠してきたのか」
朝日が、北峰の雪を淡く照らした。
その光の中で、古代竜の影が静かに横たわっている。
王家の罪は、建国契約の中に眠っていた。
だが、もう眠ったままにはしておけない。
エリスは、自分の署名が入った写しを握りしめた。
次に読むべき契約書は、王都の最奥にある。




