第十四話 王太子は、救いを命令だと思っている
王都へ向かう準備は、夜明け前から始まっていた。
エリスは相談所の机で、持参する文書を一つずつ確認していた。
中央金庫凍結に関する異議申し立て記録。
竜封印契約の改ざん報告書。
ハルゼ村土地契約の調査記録。
聖女ミリアの意思確認書と、聖女契約の発動停止申立書。
そして、北峰の石庫で見つかった建国契約副本の照合写し。
どれも、王都にとって都合のよい文書ではない。
だが、だからこそ必要だった。
王都へ行くのは、王家に許しを請うためではない。
王太子ユリウスに呼ばれたからでもない。
中央金庫を解除し、ミリアの契約呪を解き、王家が何を隠してきたのか確認するためだ。
エリスは最後の写しに手を置いた。
――書き手の異議は、魔力の多寡によらず、記録の正しさによって受理される。
その一文を見るたび、胸の奥が静かに熱くなる。
魔力ゼロと蔑まれてきた自分にも、役割があった。
王家が忘れ、消し、都合よく書き換えてきた役割が。
書き手。
それが何を意味するのか、まだ完全には分からない。
けれど、王都へ戻れば嫌でも分かるだろう。
その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「補佐官殿!」
扉を開けたのはカレンだった。いつもの冷静な顔ではない。眉間に深い皺が寄っている。
「王都から一団が到着しました」
「使者ですか」
「いいえ」
カレンは短く息を吐いた。
「王太子ユリウス殿下ご本人です」
エリスの手が止まった。
王太子が、辺境へ来た。
国王印の正式回答が届いたばかりだ。
本来なら、エリスたちが王都へ向かうはずだった。
それを待たずに、ユリウス自身が北方へ来た。
急いでいるのか。
焦っているのか。
それとも、命令すれば事態が動くとまだ思っているのか。
「ミリア様は」
「東棟の保護室です。護衛を増やしました。殿下はすでに広間に通されています。閣下が対応中です」
「私も行きます」
「行く必要はありません」
カレンは即座に言った。
「殿下の目的が補佐官殿である可能性が高いです」
「だから行きます」
「補佐官殿」
「私のことを、私抜きで決められたくありません」
カレンは一瞬、言葉を止めた。
それから、小さく頷いた。
「分かりました。ただし、私が隣に立ちます」
「お願いします」
エリスは文書を革鞄に収め、立ち上がった。
広間へ向かう廊下は、いつもより冷たく感じられた。
王宮でユリウスと向き合った夜が、脳裏に浮かぶ。
婚約破棄。
大広間の嘲笑。
王家財産を隣国へ移す契約。
読まずに署名した王太子。
そして、エリスを反逆者として追放した声。
胸の奥が痛まないわけではない。
だが、以前のように震えはしなかった。
広間の扉が開く。
そこには、王都から来た騎士と侍従たちが並んでいた。疲れた顔をしている者も多い。急行してきたのだろう。衣服には雪と泥が付着し、王都の華やかさは薄れている。
中央に、ユリウスが立っていた。
金髪に青い瞳。
王太子にふさわしい整った容姿。
だが、その顔には明らかな苛立ちと疲労が浮かんでいた。右手首には手袋がはめられている。契約書を破りかけた時に浮かんだ黒い痣を隠しているのだろう。
彼の前にはレオンハルトが立っていた。
礼はしている。
しかし、臣下として膝を折ってはいない。
「エリス」
ユリウスが彼女を見た瞬間、声を上げた。
そこには再会の気まずさも、謝罪の気配もなかった。
ただ、自分のものがようやく現れたというような響きがあった。
「殿下」
エリスは静かに頭を下げた。
深くはない。
必要最低限の礼だった。
ユリウスの眉が動く。
「ずいぶんと態度が変わったな」
「現在、私はヴァイスベルグ辺境伯領の補佐官です。王宮書記官でも、殿下の婚約者でもありません」
「そのようなことは分かっている」
ユリウスは苛立たしげに言った。
「だからこそ、迎えに来た」
広間の空気が冷えた。
エリスは言葉を待った。
ユリウスは、一歩前へ出る。
「王都は混乱している。中央金庫は依然として凍結状態だ。財務院は機能不全に陥り、軍費も港湾管理費も止まっている。君の異議申し立てがなければ、こんな事態にはならなかった」
レオンハルトの目が鋭くなる。
エリスは静かに答えた。
「私の異議申し立てがなければ、中央金庫の管理権はヴァルドニアへ移っていました」
「結果として凍結しているのは同じだ」
「同じではありません」
「口答えはよせ」
その言い方に、広間の兵士たちがわずかに動いた。
だがエリスは動かなかった。
ユリウスは、それを自分が押し切ったと受け取ったらしい。少しだけ声を和らげる。
「エリス。君が王都で不当な扱いを受けたと感じていることは、理解している」
不当な扱いを受けたと感じている。
その言葉に、エリスは目を伏せそうになった。
感じている、ではない。
不当だったのだ。
読まずに署名したのはユリウスだ。
警告したエリスを反逆者にしたのもユリウスだ。
父に見捨てられ、王都から追放されたのも事実だ。
だが、彼はそれを「感じている」と言った。
「だが、今ならまだ間に合う」
ユリウスは続けた。
「王都へ戻れ。中央金庫を解除し、聖女ミリアを連れて戻るのだ。そうすれば、君の罪は軽くしてやる」
カレンの目が冷えた。
レオンハルトは沈黙している。
だが、その沈黙は怒りを押し殺すためのものだった。
エリスはユリウスを見た。
「罪、ですか」
「当然だろう。君は王家契約に介入し、王都の財政を凍結させ、さらに聖女を辺境に匿っている」
「ミリア様は、自分の意思で北方に保護を求めました」
「聖女は王家の保護下にある」
「本人は王都への帰還を拒否しています」
「本人の意思など、今は問題ではない」
ユリウスは言い切った。
その瞬間、エリスの中で何かが静かに冷めた。
王太子は変わっていない。
王都が混乱しても。
中央金庫が閉じても。
聖女契約の異常が見つかっても。
竜封印が破れかけても。
彼にとって、問題はいつも一つだ。
自分の命令が通るかどうか。
「殿下」
エリスは言った。
「ミリア様は人間です。王家の所有物ではありません」
「綺麗事を言うな。王家が保護し、王家が役割を与えたからこそ、彼女は聖女として扱われている」
「契約内容を説明されず、発言と行動を縛られ、生命力を徴収されることを保護とは呼びません」
ユリウスの顔色が変わった。
「聖女契約を読んだのか」
「はい」
「勝手に?」
「本人の依頼により、読みました」
「君はまた、契約に余計な介入をしたのか」
「余計かどうかは、契約内容を見れば分かります」
エリスは鞄から意思確認書の写しを取り出した。
「ミリア様は、王都への即時帰還を拒否し、北方での保護を求めています。本人署名もあります」
「無効だ」
ユリウスは即座に言った。
「聖女は王家と契約している。勝手な署名など認められない」
「本人の意思を認めない契約こそ、問題です」
「エリス」
ユリウスの声が低くなる。
「私は君を助けに来たのだぞ」
広間が沈黙した。
エリスは一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
「助けに、ですか」
「そうだ。君はこの辺境で、反逆容疑者のまま利用されている。王都へ戻れば、私は君を許すことができる。婚約破棄の件も、見直してやってもいい」
息が止まりそうになった。
見直してやる。
あの大広間で、自分から婚約を破棄した王太子が。
エリスの警告を無視して契約書に署名した王太子が。
彼女を反逆者として追放した王太子が。
今になって、許してやると言う。
「殿下は」
エリスは静かに尋ねた。
「私に謝罪なさるおつもりはありますか」
ユリウスは眉を寄せた。
「謝罪?」
「はい」
「今はそのような感情の話をしている場合ではない」
「感情の話ではありません。事実確認です」
「君は状況が分かっていない」
ユリウスは苛立ちを隠さなくなった。
「王都は君を必要としている。私も、君に戻る機会を与えている。これ以上、何を望む」
「謝罪と、責任の記録です」
「だから、私は君を許すと言っている!」
その声が、広間に響いた。
騎士たちが身を固くする。
エリスは、はっきりと分かった。
ユリウスは、許すことを謝罪だと思っている。
自分が上に立ち、相手の罪を軽くしてやる。
それが救いだと思っている。
だが、違う。
「殿下」
エリスは言った。
「私は、許されるためにここにいるのではありません」
ユリウスの目が細くなる。
「何?」
「私は、罪を認めていません。中央金庫の凍結は、殿下が読まずに署名した契約によって起こりました。私は完全移譲を止めるために異議を申し立てました。ミリア様は、自分の意思で保護を求めています。竜封印契約の改ざんも、ギルベル商会の土地契約も、北方で記録されています」
エリスは一歩前へ出た。
「私は、殿下に許していただく立場ではありません」
ユリウスは信じられないものを見るようにエリスを見た。
「君は、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「はい」
「私が手を差し伸べているのだぞ」
「それは手ではありません。命令です」
広間の空気が凍りついた。
ユリウスの顔が赤くなる。
「無礼だぞ、エリス」
「私はもう、殿下の婚約者ではありません」
「元婚約者としての情けをかけている」
「情けなら、私ではなく王都の民に向けてください。中央金庫の凍結で困っているのは、殿下ではなく民です」
「だから戻れと言っている!」
「戻ります」
ユリウスは一瞬、勝ち誇ったような顔をした。
だが、エリスは続けた。
「ただし、殿下に許されるためではありません。中央金庫を解除し、建国契約を確認し、ミリア様の契約呪を解くためです。北方から提示した条件をすべて正式に記録し、王太子殿下の署名責任も解除手続きに明記していただきます」
ユリウスの顔から、勝利の色が消えた。
「私に責任を認めろと言うのか」
「契約書に署名されたのは殿下です」
「私は王太子だ」
「だからこそ、署名の責任があります」
「王太子に恥をかかせるつもりか」
「契約書を読まずに署名したことは、恥ではなく事実です」
カレンが小さく息を呑んだ。
レオンハルトは何も言わない。
だが、エリスの言葉を止める気はなかった。
ユリウスは手袋をはめた右手を握りしめた。
「君は変わったな」
「はい」
「以前の君は、もっと従順だった」
「従順だったのではありません」
エリスは、まっすぐ彼を見た。
「声を出しても聞いてもらえなかっただけです」
その言葉に、ユリウスは一瞬だけ黙った。
しかし次に出たのは、やはり謝罪ではなかった。
「辺境伯に唆されたか」
レオンハルトの目がわずかに細くなる。
エリスは首を横に振った。
「いいえ。私が読み、私が考え、私が決めました」
「君にそんな判断ができるはずがない」
それは、王都で何度も聞いた考え方だった。
魔力がないから。
女だから。
婚約者だから。
侯爵家の娘だから。
書記官だから。
誰かの立場を理由に、その人の判断を奪う言葉。
エリスは、もうその言葉を受け入れなかった。
「できます」
短く答えた。
「殿下が認めなくても、私は判断できます」
ユリウスの目に怒りが宿る。
「ならば命じる。エリス・フォーマルハウト、王太子ユリウス・アルトレインの名において、王都への即時帰還と聖女ミリアの引き渡しを命ずる」
広間の王家紋章が、かすかに光った。
だが、すぐに揺らいだ。
命令が契約として成立しない。
エリスには、それがはっきり見えた。
ユリウスの言葉の周囲に、黒い染みが浮かび、次に青白い文字が現れる。
――命令根拠なし。
――当該人物は王太子婚約者ではない。
――王宮書記官職は停止済み。
――現身分、ヴァイスベルグ辺境伯領補佐官。
――保護権限、辺境伯に属する。
広間にいた者たちの多くには見えなかっただろう。
だが、王家の紋章が命令に応じなかったことは、誰にでも分かった。
ユリウスの顔が強張る。
「なぜだ」
小さな声だった。
「なぜ、王太子の命令が通らない」
レオンハルトが答えた。
「あなたが彼女への命令権を自分で失わせたからです。婚約破棄し、職を解き、追放し、辺境伯の監視下に置いた。今さら命令だけ戻すことはできない」
「黙れ、辺境伯」
「いいえ」
エリスは言った。
「閣下の言う通りです」
ユリウスが彼女を見る。
「私はもう、殿下の命令で動く立場ではありません。王都へ行くかどうかも、何をするかも、契約条件と自分の意思で決めます」
「エリス……」
「殿下は、救いを命令だと思っておられます」
エリスの声は静かだった。
「戻れば許す。従えば助ける。黙れば守る。けれど、それは救いではありません。相手を下に置いて、従わせているだけです」
ユリウスは言い返せなかった。
彼の後ろに控える騎士や侍従たちも、視線を落としている。
王太子の命令が通らなかった。
その事実は、何よりも重かった。
「私に必要なのは、殿下の許しではありません」
エリスは言った。
「事実を記録すること。契約を正しく読むこと。そして、誰かの名前を勝手に使わせないことです」
ユリウスの唇が震えた。
「君は、王家に逆らうのか」
「王家の契約違反を確認します」
「それを逆らうと言うのだ」
「なら、逆らうことになるのでしょう」
広間の空気がさらに冷たくなる。
だが、エリスは退かなかった。
レオンハルトが一歩前へ出る。
「殿下。北方の条件はすでに国王印の返答で一部認められています。エリスは王都へ向かう。ただし、あなたの命令ではなく、正式な契約手続きに基づいてです。ミリア・クレインは本人の意思により北方で保護を継続します」
「認めない」
ユリウスは低く言った。
「認めないぞ。ミリアは必要だ。王都には聖女が必要なのだ」
「王都に必要なのは聖女ではなく、説明責任です」
エリスが言うと、ユリウスは彼女を睨んだ。
「君は何も分かっていない。建国契約が揺らげば、王都の魔法灯も、金庫も、結界も止まる。民が混乱する。だから聖女の力が必要なのだ」
言った直後、ユリウス自身が口を閉じた。
広間が沈黙する。
今、彼は認めた。
建国契約が揺らいでいること。
王都が聖女の力を必要としていること。
エリスは一字一句を頭に刻んだ。
「記録しました」
彼女は言った。
「今の発言は、王太子殿下が建国契約の異常と、聖女の力による補填の必要性を認識していた証言として扱います」
ユリウスの顔が青ざめた。
「違う。今のは」
「王太子殿下」
レオンハルトが低く言った。
「契約と記録の場で、言葉は戻せません」
それは、ユリウス自身がもっとも嫌う言葉だっただろう。
読まずに署名した契約。
怒りに任せて破りかけた契約。
言い逃れできない発言。
王太子は、初めて自分の言葉に縛られる側になった。
ユリウスはしばらく拳を震わせていた。
やがて、吐き捨てるように言った。
「王都で後悔することになる」
「後悔するかどうかも、私が決めます」
エリスは答えた。
「殿下に決めていただくことではありません」
ユリウスはそれ以上、何も言わなかった。
彼は外套を翻し、騎士たちに撤収を命じた。
広間を出る直前、もう一度だけ振り返る。
その目には、怒りと焦りと、わずかな恐れが混じっていた。
エリスは、その視線を受け止めた。
もう、目を逸らさなかった。
王太子一行が城を出ていくと、広間には長い沈黙が残った。
カレンが最初に息を吐いた。
「補佐官殿、かなり言いましたね」
「言いすぎましたか」
「いいえ。足りないくらいです」
レオンハルトがエリスを見た。
「大丈夫か」
「はい」
「震えている」
言われて、初めて気づいた。
指先が少し震えていた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
長い間、自分の中に押し込めていた言葉を、ようやく外へ出した後の震えだった。
「大丈夫です」
エリスはもう一度言った。
「私は、戻れば許すと言われて、嬉しくありませんでした」
「当然だ」
「昔の私なら、少しは安心していたかもしれません。許されるなら、戻れるなら、それでよいと思ったかもしれません」
「今は?」
「今は、許しよりも記録が欲しいです」
レオンハルトは小さく頷いた。
「なら、記録しよう」
エリスは鞄から白紙を出した。
王太子ユリウス来訪記録。
発言内容。
命令の不成立。
建国契約異常への認識。
聖女の力による補填の必要性に関する証言。
一つずつ書いていく。
さきほどの言葉が、紙の上に固定されていく。
ユリウスは、救いを命令だと思っていた。
だが、命令は通らなかった。
エリスはもう、彼の婚約者ではない。
王家の所有物でもない。
許しを待つ罪人でもない。
彼女は、自分の名前で記録する者だった。
書き終えた文書に、エリスは署名した。
エリス・フォーマルハウト。
その文字は、以前よりも少しだけ強く見えた。




