第十五話 辺境伯様は、私の名前を奪わない
王太子ユリウスがヴァイスベルグ城を去ったあと、広間にはしばらく誰も声を出さなかった。
外では馬蹄の音が遠ざかっていく。
王都から来た騎士たちの列は、北方の雪道を引き返していた。王太子の旗は風に揺れ、やがて城門の向こうへ消えていった。
エリスは、広間の中央に立ったまま、指先の震えを抑えていた。
怖かったわけではない。
そう言い切ることはできない。
ユリウスは王太子だ。彼の怒り一つで、王都ではいくらでも人が動く。
王宮騎士も、財務院も、神殿も、貴族たちも。
だが、今の震えは恐怖だけではなかった。
言えた。
ずっと言えなかったことを、ようやく言えた。
許されるためにいるのではない。
命令で動く立場ではない。
自分のことは、自分で決める。
王宮の大広間で、言葉を奪われたまま婚約破棄を突きつけられた夜。
父に見捨てられ、反逆者として追放された朝。
あの時のエリスなら、きっと言えなかった。
今も強くなったわけではない。
けれど、黙ったままではいられなくなった。
「補佐官殿」
カレンが静かに声をかけた。
「座れますか」
「はい」
「座れる人は、自分で座ってください。倒れてから運ぶのは面倒です」
「……分かりました」
エリスは広間の端にある椅子に腰を下ろした。
膝に置いた手が、まだ少し震えている。
レオンハルトは王太子来訪記録に署名を入れていた。
ユリウスの発言。
命令の不成立。
建国契約の異常を認識していた可能性。
聖女の力による補填を必要としているという発言。
一つずつ、事実として固定していく。
言葉は戻せない。
それは、契約書を読まずに署名した者にとっては残酷なことかもしれない。
しかし、言葉を奪われてきた者にとっては、ようやく手に入れた武器だった。
「エリス」
レオンハルトが記録紙を閉じ、彼女の前に来た。
「今日はここまでにする」
「まだ王都行きの準備が」
「明日でいい」
「ですが、王太子殿下が戻れば、王都側の対応も変わります。こちらも条件書を再調整しなければ」
「明日でいい」
同じ言葉だったが、今度は少し低かった。
エリスは口を閉じた。
レオンハルトは続ける。
「君は今日、王太子と正面からやり合った。普通なら、それだけで一日分の仕事は終わりだ」
「普通なら、ですか」
「君は普通の基準をすぐ破る」
「それは褒め言葉でしょうか」
「注意だ」
カレンが横で頷いた。
「補佐官殿は、書類があると自分の体力を契約外に置きますからね」
「体力を契約外に……」
少し変な言い回しだったが、否定できなかった。
エリスは深く息を吐いた。
「分かりました。今日の作業は、王太子来訪記録の控えを作るところまでにします」
「それは休むとは言わない」
「最低限です」
「補佐官殿」
カレンの声が冷たい。
「では、写しを一部だけ」
「ゼロです」
「……分かりました」
エリスはようやく諦めた。
その時、広間の外から兵士が入ってきた。
「閣下。王都方面から、追加の書簡です」
「王太子一行とは別か」
「はい。王都の宿駅から早馬で送られてきたようです。封は二つ。一つは国王印、もう一つはフォーマルハウト侯爵家の印です」
エリスの肩が、わずかに強張った。
フォーマルハウト侯爵家。
父からの書簡。
王太子がここへ来た直後に、父の書簡が届く。
偶然とは思えなかった。
レオンハルトは兵士から封書を受け取り、エリスを見た。
「今、読む必要はない」
「読みます」
「休めと言ったばかりだ」
「私宛てなら、読まない方が落ち着きません」
それは事実だった。
読まないまま想像する方が怖い。
レオンハルトはしばらくエリスを見ていたが、やがて封書を差し出した。
「では、ここで読め。ひとりで読むな」
エリスは頷いた。
まず、国王印の書簡を開く。
文面は格式ばっていた。
中央金庫凍結の解除手続きのため、エリス・フォーマルハウトの王都入城を正式に認める。
身柄はヴァイスベルグ辺境伯の保護下に置く。
王太子ユリウスの署名責任については、解除手続き記録に記載する。
ただし、建国契約の閲覧については、王都到着後、王家および法務院の審査を経て判断する。
聖女ミリア・クレインについては、王都において保護状況を確認する。
昨日届いた返答と大きくは変わらない。
だが、最後に新しい一文が加わっていた。
――王都入城に際し、エリス・フォーマルハウトは王家臨時調査協力者として登録されるものとする。
エリスの視界で、その一文だけが黒く滲んだ。
「……やはり来ました」
彼女は呟いた。
「何だ」
レオンハルトが問う。
「王家臨時調査協力者、という登録です」
「一見、悪くなさそうに聞こえますが」
カレンが眉を寄せる。
「協力者という立場を与えるなら、王都での活動根拠になるのでは」
「問題は、王家の登録下に入ることです」
エリスは書簡を机に広げた。
「この登録は、おそらく王家の調査権限を貸す代わりに、調査で得た記録や発言を王家管理に置く仕組みです。王宮書庫で見たことがあります。形式上は協力者ですが、作成した文書は王家文書となり、本人が自由に写しを保持できなくなる」
「つまり、君が読んだものを王家が回収できる」
「はい。それだけではありません。王家臨時調査協力者は、調査中の発言も王家記録官の承認を経て正式記録になります。私が建国契約を読んでも、王家が認めなければ『非公式発言』として扱える」
カレンの表情が険しくなった。
「協力者ではなく、口を封じるための肩書きですね」
「その可能性が高いです」
エリスは黒く滲む一文を見つめた。
「王都は、私を反逆者のまま呼び戻すのは難しいと分かった。だから今度は、王家の協力者として登録し、記録を王家のものにしようとしている」
「名前を変えるわけか」
レオンハルトが言った。
「エリス・フォーマルハウトではなく、王家臨時調査協力者として」
「はい」
名前を奪う方法は、一つではない。
婚約者という立場で縛る。
反逆者という罪名で封じる。
聖女という称号で所有する。
協力者という肩書きで記録を奪う。
どれも、本人の名前を別の言葉で塗りつぶす行為だった。
エリスは、もう一通の封書を見た。
フォーマルハウト侯爵家の封蝋。
父の字で宛名が書かれている。
手が、自然と重くなった。
「無理に読むな」
レオンハルトが言った。
「いえ、読みます」
エリスは封を切った。
そこには、短い文面があった。
エリス・フォーマルハウトへ。
王太子殿下への非礼、王都における混乱、辺境伯領での勝手な活動について、フォーマルハウト家は一切関与しない。
以後、王家および貴族社会に対する発言において、当家の名を利用することを禁ずる。
もし王太子殿下の寛大な召還に応じ、王都で然るべき謝罪を行うならば、当家として最低限の保護を再考する。
それまでは、当家の名を汚さぬよう慎むこと。
署名。
フォーマルハウト侯爵。
父の名。
エリスは、しばらく文字を見つめていた。
驚きはなかった。
父なら、そう書くだろうと思っていた。
王宮の夜、彼は娘ではなく家を選んだ。
だから今回も、家を守るために娘を切り離す。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、胸の奥が鈍く痛んだ。
「補佐官殿」
カレンが声を抑えて言った。
「これは、家名を使うなという通告ですか」
「はい」
エリスは書簡を丁寧に折り畳んだ。
「父は、私がフォーマルハウト家の名を使って王家に発言することを禁じています」
「そんなことが可能なのですか」
「完全には無理です。私は生まれた時からフォーマルハウト家の娘として記録されています。父が一方的にその事実を消すことはできません。ただ、貴族社会では家長の意向が重く扱われます。王都で私が『フォーマルハウト家の者』として発言すれば、父はそれを否認するでしょう」
「つまり、君の言葉を弱めるための書簡だ」
レオンハルトが言った。
「はい」
エリスは静かに答えた。
「王家は私を王家臨時調査協力者にしようとし、父はフォーマルハウトの名を使うなと言ってきた。どちらも、私の署名を不安定にするためです」
署名は、名前でできている。
名前が揺らげば、署名も揺らぐ。
署名が揺らげば、異議申し立ても記録も弱くなる。
王都は、それを分かっている。
エリス・フォーマルハウト。
その名で、彼女は婚約破棄契約に異議を申し立てた。
その名で、竜封印契約の写しに署名した。
その名で、ミリアの意思確認書を作った。
その名で、ハルゼ村の土地契約に問題を記録した。
だから、その名を揺らそうとしている。
「なら、対策が必要ですね」
カレンが言った。
「方法はいくつかあります。まず、辺境伯領の正式職員名簿に登録する。これはすでにできます」
「はい」
「次に、王都での発言資格を辺境伯領から与える。これも可能です」
「はい」
「さらに強い方法としては」
カレンは一度レオンハルトを見た。
「養子縁組、または婚約契約です」
広間の空気が、少し変わった。
エリスは、言葉の意味を理解して、呼吸を止めた。
養子縁組。
婚約契約。
たしかに、政治的には有効だった。
フォーマルハウト家が名を使うなと言うなら、別の家名を与えればよい。
王家がエリスを協力者として取り込もうとするなら、辺境伯家の身内として保護すればよい。
特に婚約契約なら、王太子がかつて婚約を破棄した相手に対し、再び命令権を主張することはさらに難しくなる。
貴族社会では、よくある解決方法だ。
女性の身柄を守るために、別の男性の名の下へ移す。
父から夫へ。
婚約者から保護者へ。
王家から辺境伯家へ。
それは保護に見える。
けれど、名前の所有者が変わるだけではないのか。
エリスは、自分が何を考えたのかに気づき、胸が冷えた。
辺境伯がそんなことをするとは思っていない。
それでも、貴族社会の手続きはそうできている。
誰かの名の下に入らなければ、安全になれない。
そういう形で。
「却下だ」
レオンハルトは即答した。
あまりに早かったので、エリスは顔を上げた。
カレンも少し目を丸くした。
「閣下、政治的には最も強い盾です」
「盾に見える檻だ」
「言い方は否定しませんが、王都相手には有効です」
「だからこそ却下する」
レオンハルトの声は静かだった。
「王太子が婚約者という立場で彼女を縛り、王家が協力者という肩書きで記録を奪おうとし、父親が家名を盾に発言を制限しようとしている。そこで俺が婚約者や養父の名をかぶせれば、結局同じことをするだけだ」
カレンは黙った。
レオンハルトはエリスを見た。
「君を守るために、君の名前を奪うつもりはない」
短い言葉だった。
だが、その言葉は、エリスの胸の深いところに落ちた。
君の名前を奪うつもりはない。
王都では、誰もそう言わなかった。
王太子は彼女を婚約者として扱い、不要になると反逆者にした。
父は娘として扱い、都合が悪くなると家名を使うなと言った。
王家は協力者として登録し、記録を管理しようとしている。
誰も、エリスの名前そのものを彼女に返そうとはしなかった。
「しかし、閣下」
カレンは慎重に言った。
「王都での安全を考えれば、補佐官殿の立場を強化する必要があります。家名をめぐって争われれば、署名の有効性にも影響します」
「分かっている」
「では」
「別の契約を作る」
レオンハルトは机に近づき、白紙を一枚取った。
「婚約でも養子でもない。職務代理契約だ」
エリスは顔を上げた。
「職務代理契約」
「君はヴァイスベルグ辺境伯領の補佐官だ。王都へ向かう目的は、個人的な謝罪でも家の名誉回復でもない。中央金庫解除、建国契約調査、聖女契約の不当拘束確認。すべて職務だ」
「はい」
「なら、職務上の権限を明記する。君は俺の所有物でも、家族でも、婚約者でもない。辺境伯領の正式な契約調査代理人として王都へ行く」
カレンは少し考え、頷いた。
「なるほど。身分ではなく職務で守る」
「そうだ」
「ただし、王都は家名の問題を突いてきます」
「だから、署名同一性の条項を入れる」
レオンハルトはエリスへ向いた。
「君の署名は、君のものだ。フォーマルハウト家長が否認しても、王家が肩書きを変えても、エリス・フォーマルハウト本人が署名した事実は変わらない。そう明記する」
エリスは、思わず唇を噛んだ。
父の書簡を読んだ時、胸の奥で小さく折れかけたものがあった。
フォーマルハウトの名を使うな。
それは、家から捨てられることよりも、これまでの自分の署名を否定されるようで苦しかった。
けれど、レオンハルトはそれを見ていたのかもしれない。
「エリス」
彼は言った。
「名乗りを変えたいなら、それでもいい」
エリスは目を瞬いた。
「え?」
「君がフォーマルハウトという名を捨てたいなら、その意思は尊重する。新しい職務名を使うこともできる。エリスだけでも、契約書記官エリスでも、北方の書き手でもいい」
「北方の書き手、ですか」
「仮だ」
「少し物語の題名のようです」
「今、そこは重要ではない」
カレンが横で少し笑った。
レオンハルトは続ける。
「だが、俺が決めることではない。王家が決めることでも、父親が決めることでもない。君が、どう名乗りたいかだ」
どう名乗りたいか。
その問いは、エリスに深く刺さった。
自分は、どう名乗りたいのだろう。
フォーマルハウトの名には、痛みがある。
父に見捨てられた記憶がある。
家のために黙れと言われた日々がある。
けれど、その名で書いてきた記録もある。
王宮書庫で写した契約書。
婚約破棄契約への異議申し立て。
竜封印契約の修正。
ハルゼ村の土地契約記録。
ミリアの意思確認書。
建国契約副本の照合写し。
父のための名前ではない。
自分が書いてきた名前だ。
「私は」
エリスはゆっくりと言った。
「今は、エリス・フォーマルハウトと名乗ります」
レオンハルトは黙って聞いていた。
「父がその名を使うなと言っても、私がその名で署名してきた事実は消えません。王都で起きたことも、北方で記録したことも、すべてこの名前で残っています」
「それでいいのか」
「はい。ただし、いつか変えるかもしれません」
「その時は、君が決めろ」
「はい」
エリスは小さく頷いた。
「今は、この名前で王都へ戻ります。父のためではなく、私が記録してきた署名のために」
「分かった」
レオンハルトは白紙へ羽根ペンを置いた。
「なら、そのように契約する」
相談所の机で、新しい契約書が作られ始めた。
表題。
――王都調査同行および職務代理契約。
当事者。
ヴァイスベルグ辺境伯、レオンハルト・ヴァイスベルグ。
契約補佐官、エリス・フォーマルハウト。
第一条。
エリス・フォーマルハウトは、ヴァイスベルグ辺境伯領の契約調査代理人として王都へ同行する。
第二条。
本契約は、婚姻、婚約、養子縁組、身柄拘束、私的服従、または人格上の所有関係を発生させない。
その一文を見て、エリスは息を止めた。
黒い染みはない。
むしろ、文字の周囲に淡い金色の光が浮かぶようだった。
第三条。
エリス・フォーマルハウトの署名、発言、記録は、本人の意思に基づくものとして扱う。フォーマルハウト侯爵家、王家、その他第三者による一方的否認または肩書き変更は、本人署名の同一性を損なわない。
第四条。
王都滞在中、エリス・フォーマルハウトが作成した調査記録は、本人、ヴァイスベルグ辺境伯領、必要に応じて王家の三者で写しを保持する。王家は、本人の同意なく原本および写しを没収、改ざん、破棄してはならない。
第五条。
エリス・フォーマルハウトは、契約上の疑義、改ざん、不当拘束、本人意思の欠落を発見した場合、相手の身分にかかわらず記録し、指摘する権利を有する。
第六条。
ヴァイスベルグ辺境伯は、王都滞在中、エリス・フォーマルハウトの職務遂行と身体の安全を保護する。ただし、本条は私的命令権、身分上の所有権、署名権の代行を意味しない。
第七条。
エリス・フォーマルハウトは、いかなる契約書についても、全文確認、質問、異議申し立て、署名前の保留を行う権利を有する。
第八条。
本契約に基づく保護は、エリス・フォーマルハウトの自由意思を制限するために用いられてはならない。
エリスは、書かれていく文字を見つめていた。
これは盾だ。
けれど、檻ではない。
名前を奪うための契約ではなく、名前を本人に残すための契約。
王宮で差し出された婚約破棄契約とは、まるで違う。
聖女ミリアを縛るチョーカーとも違う。
ハルゼ村を奪おうとした土地契約とも違う。
この契約書は、エリスを閉じ込めるためではなく、エリスが自分の名前で立つために作られている。
「確認を」
レオンハルトが契約書を差し出した。
「はい」
エリスは、一字一句読んだ。
黒い染みはない。
ただ、第四条の「必要に応じて王家」という部分で少し考える。
「ここは、『王家へ提出する写しは、提出日時、提出先、受領者名を記録する』を加えた方がよいです」
「理由は」
「提出した写しを、王家が受け取っていないと言う可能性があります」
「採用」
レオンハルトは即座に追記した。
「第六条についても、補足をお願いします」
「何を」
「身体の安全だけでなく、発言の場の確保も入れてください。王都では、私が同席していても発言を遮られる可能性があります」
「確かに」
彼は書き加える。
――ヴァイスベルグ辺境伯は、職務上必要な場において、エリス・フォーマルハウトの発言機会を確保する。
カレンが感心したように頷いた。
「良いですね。王都の会議では発言権を奪うのが常套手段です」
「経験があります」
エリスは淡々と答えた。
そして最後まで読み終える。
「問題ありません」
「本当にないか」
「ありません」
「なら、署名を」
レオンハルトは羽根ペンを渡した。
エリスは署名欄を見る。
契約補佐官、エリス・フォーマルハウト。
父が使うなと言った名前。
王家が肩書きで塗りつぶそうとする名前。
王太子がかつて婚約者として呼び、今は反逆者として扱う名前。
それでも、これは自分の名前だ。
エリスは羽根ペンを持ち、ゆっくりと署名した。
エリス・フォーマルハウト。
書き終えた瞬間、契約書が淡く光った。
続いて、レオンハルトが署名する。
レオンハルト・ヴァイスベルグ。
カレンが証人として署名した。
契約書の光は、強くも派手でもない。
だが、安定していた。
エリスはその光を見ながら、胸の奥が静かになるのを感じた。
「これで」
レオンハルトが言った。
「君は俺の婚約者でも、養女でも、所有物でもない。ヴァイスベルグ辺境伯領の契約調査代理人として王都へ行く」
「はい」
「そして、君の名前は君のものだ」
エリスは、すぐには返事をできなかった。
その言葉を、胸の中で何度か繰り返す。
君の名前は君のもの。
当たり前のはずのことが、こんなに遠かった。
「ありがとうございます」
ようやく、それだけ言えた。
レオンハルトは少し目を伏せた。
「礼を言われることではない」
「いいえ。私には必要な言葉でした」
彼はそれ以上、否定しなかった。
翌朝、契約魔法相談所は臨時休業となった。
扉には、エリスの字で告知が貼られている。
――王都調査同行のため、相談所は三日間休業します。緊急の契約相談は、文官室または副官カレン・ローヴェへ。
その下に、小さく追記する。
――署名前の相談を推奨します。
カレンがそれを見て言った。
「最後の一文、かなり補佐官殿らしいですね」
「大切なことなので」
「分かっています。昨日だけで未署名相談が五件増えました」
「よい傾向です」
「書類は増えますが」
「それは……よい傾向です」
「一瞬迷いましたね」
エリスは視線を逸らした。
相談所の前には、城下の人々が集まっていた。
大げさな見送りではない。
けれど、薬草採りの老婆、鍛冶屋の弟子、兵士、商人、そしてハルゼ村から来たロイと少女の姿もあった。
「補佐官様」
ロイが頭を下げた。
「王都へ行かれると聞きました」
「はい。数日で戻る予定です」
「どうか、お気をつけて。王都のことは分かりませんが、あそこには大きな人たちがたくさんいるのでしょう」
「大きな人たち」
「身分が、です」
ロイは少し困ったように笑った。
「でも、契約書は身分ではなく、書いてあることで決まると、補佐官様が教えてくださいました」
エリスは頷いた。
「はい」
「なら、王都でも読んできてください。わしらには読めないものを」
少女が小さな布包みを差し出した。
「これ、村の小麦で焼いたパンです。まだ新麦じゃないけど」
「ありがとうございます」
エリスは布包みを受け取った。
温かかった。
老婆は薬草の袋を持たせてくれた。
「喉に効きます。王都の偉い人に言い返すなら、喉が大事でしょう」
「言い返す前提なのですね」
「違うんですか」
カレンが横で笑いをこらえていた。
「違わないと思います」
エリスは少しだけ笑った。
その笑いは、以前より自然だった。
ミリアも見送りに来ていた。
チョーカーはまだ首にあるが、上から柔らかい布を巻いて隠している。顔色は昨日より少しましだった。
「エリス様」
「ミリア様、無理に出てこなくてもよかったのに」
「見送りたかったんです」
ミリアは両手で小さな紙を持っていた。
「これを、持っていってください」
「これは?」
「私の追加の意思表示です。カレン様に手伝っていただいて、書きました」
エリスは紙を開いた。
そこには、丁寧だが少し震えた文字で書かれていた。
――私は、ミリア・クレインです。
――聖女という称号は、私のすべてではありません。
――私は、王家の所有物ではありません。
――私は、私の意思に反して王都へ戻されることを望みません。
――私は、私の契約を読まれることを望みます。
署名。
ミリア・クレイン。
エリスは、その署名を見つめた。
「とてもよい文書です」
ミリアの目が少し潤んだ。
「本当ですか」
「はい。あなたの意思が、はっきり書かれています」
「聖女ミリアではなく、ミリア・クレインと書きました」
「それでいいと思います」
「エリス様が、名前は本人のものだと教えてくださったので」
エリスは少し驚いた。
自分がレオンハルトから受け取った言葉が、もうミリアへ渡っている。
言葉は、こうして誰かを支えるのかもしれない。
「必ず持っていきます」
エリスは言った。
「あなたの契約を、王都で確認します」
「はい」
ミリアは深く頭を下げた。
城門の前には、王都へ向かう馬車が用意されていた。
同行するのは、レオンハルト、エリス、護衛の兵十名、文官二名。
カレンは北方に残り、ギルベル商会と採掘調査隊の足取りを追う。ミリアの保護も彼女の指揮下に置かれる。
「補佐官殿」
カレンが最後に言った。
「王都では、必ず記録を二重に取ってください。相手が署名を嫌がったら、嫌がったことも記録です」
「はい」
「食事を抜かないでください」
「はい」
「寝てください」
「努力します」
「努力ではなく実行です」
「……はい」
カレンは満足そうに頷いた。
レオンハルトが馬車の扉を開ける。
「行くぞ」
「はい、閣下」
エリスは馬車に乗り込んだ。
その前に、ふと城を振り返る。
ヴァイスベルグ城。
黒い石壁。
雪をかぶった北峰。
その上で眠る古代竜。
王都を追放された時、ここはただの流刑地のように思えた。
だが今は違う。
ここで、エリスは初めて自分の署名を守る契約を結んだ。
ここで、誰かの契約書を読む仕事を始めた。
ここで、自分の名前は自分のものだと教えられた。
馬車が動き出す。
城下の人々が頭を下げる。
だが、エリスはもう、ただ戸惑うだけではなかった。
彼女も、窓越しに頭を下げ返した。
北方の街道は、王都へと続いている。
かつて追放された道を、今度は自分の意思で戻る。
罪人としてではない。
王太子の婚約者としてでもない。
フォーマルハウト家の都合を背負う娘としてでもない。
ヴァイスベルグ辺境伯領の契約調査代理人。
エリス・フォーマルハウトとして。
馬車の中で、レオンハルトは向かいに座っていた。
膝の上には王都調査同行契約の原本がある。
「不安か」
彼が尋ねた。
「あります」
エリスは正直に答えた。
「王都へ戻れば、また大勢の前で責められるかもしれません。父とも会うでしょう。王太子殿下は、私を許していません。法務官長も、ギルベル商会も、ヴァルドニアも、何をしてくるか分かりません」
「そうだな」
「でも、不安だけではありません」
「何がある」
「準備があります」
エリスは鞄に手を置いた。
中には、契約書と記録が入っている。
建国契約副本の照合写し。
ミリアの意思表示。
竜封印契約の改ざん報告。
ハルゼ村の土地契約記録。
王太子来訪記録。
そして、王都調査同行契約。
どれも、誰かの意思と事実を守るための紙だった。
「それに」
エリスは少し迷ってから続けた。
「私の名前を奪わない人が、隣にいます」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
だが、レオンハルトはからかわなかった。
「奪う理由がない」
「王都では、理由がなくても奪われました」
「なら、王都がおかしい」
「はい」
エリスは窓の外を見た。
雪道が続いている。
その先に王都がある。
王宮の大広間。
中央金庫。
地下礼拝堂。
建国契約の原本。
そして、王家の罪。
読まなければならないものは多い。
けれど、今のエリスは一人ではなかった。
昼過ぎ、一行は王都へ向かう途中の宿場町に入った。
北方と王都を結ぶ街道の中継地で、商人や旅人が多い。雪は少なくなり、代わりにぬかるんだ道と馬車の轍が増えていた。
宿場の広場に入ると、人々の視線が馬車へ集まった。
ヴァイスベルグ辺境伯の紋章を見て、ざわめきが広がる。
「北方の辺境伯だ」
「王都へ向かうのか」
「例の契約書記官もいるらしい」
「王宮金庫を止めた令嬢だろう」
「いや、竜を止めたって聞いたぞ」
噂は、すでに広がっていた。
反逆者。
契約書記官。
竜を止めた令嬢。
王太子に逆らった女。
いくつもの名前が、勝手に彼女の周囲を飛んでいる。
エリスは外套の襟を少し引き寄せた。
「気になるか」
レオンハルトが言った。
「少し」
「噂は止められない」
「分かっています」
「だが、記録はできる」
エリスは彼を見た。
「噂をですか」
「必要なら」
彼は平然と言った。
「誰が、いつ、どのような噂を流したか。悪質なら調査対象だ」
「閣下らしいです」
「君の影響だ」
「私ですか」
「書くようになった」
エリスは少しだけ笑った。
宿場では、短い休憩を取ることになった。
護衛たちは馬の世話をし、文官たちは王都への通行書類を確認する。エリスは宿の二階にある小部屋で、王都へ提出する文書の目録を再確認していた。
そこへ、文官の一人が慌てた様子で入ってきた。
「補佐官殿、少し妙なものが」
「何ですか」
「宿場役所で、王都入城者名簿の事前写しを確認したのですが、補佐官殿の記載が変です」
「変?」
文官は一枚の写しを差し出した。
王都入城予定者名簿。
レオンハルト・ヴァイスベルグ。
護衛十名。
北方文官二名。
そして、最後に。
王家臨時調査協力者、エリス。
姓がない。
フォーマルハウトが消えている。
エリスは紙を見つめた。
ただ姓が抜けただけなら、事務ミスとも言える。
だが、その横に小さな注記があった。
――家名使用保留中。
黒い染みが浮かぶ。
父の書簡と、王家の登録がすでに繋がっている。
「早いですね」
エリスは静かに言った。
「王都側は、もう私の名前を処理し始めています」
レオンハルトが部屋に入ってきた。
「見せろ」
彼は名簿を読み、顔を険しくした。
「王家臨時調査協力者、エリス。家名使用保留中」
「父の書簡を根拠にしたのでしょう」
「本人確認として不十分だ」
「はい。姓を外せば、これまでのエリス・フォーマルハウト名義の記録との連続性が曖昧になります」
「狙いはそこか」
「おそらく」
エリスは鞄から王都調査同行契約を取り出した。
「ですが、こちらの契約が先に効きます」
「使うか」
「はい」
エリスは名簿の余白に、正式な訂正申立を書き始めた。
――当該記載は本人の署名同一性を損なうおそれがあるため、以下の通り訂正を求める。
――エリス・フォーマルハウト。現職、ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人。
――フォーマルハウト侯爵家による一方的意向は、本人の出生名および過去署名の同一性を否定するものではない。
――王家臨時調査協力者登録は、本人未同意につき保留。
最後に署名する。
エリス・フォーマルハウト。
その下に、レオンハルトが証人として署名した。
宿場役所の係官は青ざめていた。
「こ、これは王都から送られてきた名簿でして、こちらでは訂正は」
「訂正できないなら、訂正申立を添付して王都へ送ってください」
エリスは冷静に言った。
「受領者名と時刻の記録をお願いします」
「受領者名……」
「はい。受け取っていないと言われると困りますので」
係官は助けを求めるようにレオンハルトを見た。
レオンハルトは言った。
「書け」
「は、はい」
こうして、王都に入る前から最初の訂正記録が作られた。
エリスは宿場役所を出ると、深く息を吐いた。
「王都に着く前から、これですか」
「むしろ、早く見つかってよかった」
レオンハルトは答えた。
「そうですね」
エリスは訂正申立の控えを鞄へしまった。
「私の名前を消すなら、何度でも訂正します」
「その意気だ」
「ただ、少し手間です」
「相手もそう思っているだろう」
エリスは少しだけ笑った。
手間でいい。
名前を奪うことが、簡単であってはならない。
夕方、一行は宿場町を出た。
王都までは、あと一日。
日が沈むにつれて、街道の空気は変わっていった。北方の荒々しい静けさから、王都近郊の騒がしさへ。通行人が増え、荷馬車が増え、王都から逃げるように出てくる商人の姿もあった。
中央金庫凍結の影響だろう。
市場の取引が滞り、港湾証書が決済できず、王都の商人たちは混乱している。
王太子の失敗は、すでに貴族の大広間だけの問題ではなくなっていた。
夜、一行は王都手前の最後の宿営地に入った。
天幕の中で、エリスは蝋燭の明かりを頼りに文書を整理していた。
レオンハルトは地図を確認し、護衛配置を決めている。
「明日、王都南門から入る」
彼は言った。
「王宮からの迎えは」
「来るだろう。だが、こちらは王家臨時調査協力者登録を保留した。向こうは不快に思っているはずだ」
「入城時に揉めますね」
「揉める前提で行く」
「分かりました」
エリスは王都調査同行契約の写しを三部用意した。
一部は本人保管。
一部は辺境伯領保管。
一部は王都提出用。
さらに、訂正申立の写しを加える。
書類の山が増えていく。
けれど、今はそれが心強かった。
沈黙の中で、レオンハルトがふと口を開いた。
「エリス」
「はい」
「今日、婚約契約の話が出た時、怖かったか」
エリスはペンを止めた。
少し迷ってから、正直に答える。
「少し」
「そうか」
「閣下が怖かったわけではありません」
「分かっている」
「ただ、政治的には自然な解決だと思いました。父の名を失うなら、別の家の名を得る。王太子の婚約者でなくなったなら、別の方の婚約者になる。貴族社会では、それが保護になる」
「ああ」
「だからこそ、怖かったのだと思います。自然すぎて」
自然すぎる檻。
それは、外から見れば優しい。
守るためだと言われれば、拒みにくい。
だが、本人の名前がまた別の契約に包まれてしまう。
「私は、閣下にそう言われたら、断れたか分かりません」
エリスは言った。
「王都へ行くために必要だと言われたら、署名してしまったかもしれません」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
蝋燭の火が揺れる。
「だから言わなかった」
彼は静かに言った。
「君が断りにくい状況で出す提案は、提案ではなく圧力だ」
エリスは顔を上げた。
「そこまで考えてくださったのですか」
「考えるだろう」
彼の声は淡々としていた。
「契約で散々ひどい目に遭った人間に、守るためだと言って別の契約を押しつける。そんなものは保護ではない」
「でも、閣下に不利益が」
「あるだろうな」
「王都では、なぜ婚約契約にしなかったのかと言われるかもしれません」
「言わせておけ」
「辺境伯家の政治的立場も」
「君の名前を奪ってまで守る立場なら、最初から要らない」
エリスは言葉を失った。
レオンハルトは地図を畳んだ。
「誤解するな。俺は聖人ではない。北方の利益も考えている。君の力が必要だから守っている面もある」
「分かっています」
「だが、必要だからといって、所有していい理由にはならない」
その言葉は、ミリアにも、ハルゼ村にも、エリス自身にも当てはまった。
必要だから、聖女を王家の儀式資産にする。
必要だから、村の土地を担保に広く取る。
必要だから、王家協力者として記録を回収する。
必要だから、婚約契約で守る。
必要性は、よく支配の言い訳になる。
レオンハルトは、それを選ばなかった。
「閣下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「二度目だ」
「何度でも言います。必要なことなので」
レオンハルトは少しだけ困ったように目を伏せた。
「なら、受け取っておく」
「はい」
夜が更けた。
エリスはようやく書類をまとめ、寝具に入った。
だが、すぐには眠れなかった。
王都が近い。
かつて暮らした場所。
追放された場所。
父がいる場所。
王太子が待つ場所。
建国契約の原本が眠る場所。
胸の奥には不安がある。
けれど、不思議と逃げたいとは思わなかった。
自分の名前で戻るのだ。
その事実が、細い芯のように彼女を支えていた。
翌朝。
王都の城壁が見えた。
高く白い壁。
青い尖塔。
中央にそびえる王宮。
その地下に、建国契約と中央契約炉がある。
かつては、美しい都だと思っていた。
今は、その白さの下に黒い染みが広がっているように見える。
南門には、王宮の役人と騎士たちが待っていた。
彼らの手には、入城名簿と王家臨時調査協力者の登録証がある。
馬車が止まる。
門前の空気が張り詰めた。
レオンハルトが先に降りる。
続いて、エリスも降りた。
王都の石畳を踏む。
追放された時とは逆の方向から、彼女は戻ってきた。
役人が進み出る。
「エリス殿。王家臨時調査協力者として、こちらへ署名を」
彼は書類を差し出した。
予想通りだった。
エリスは受け取らない。
「その登録は、本人未同意により保留と訂正申立を出しています」
役人の顔が固まる。
「ですが、王家の指示で」
「指示では署名しません。契約書を確認します」
「門前でそのような」
「署名を求めるなら、読みます」
エリスの声は落ち着いていた。
周囲の騎士たちがざわつく。
かつてなら、ここで萎縮していただろう。
だが、今は違う。
レオンハルトが隣にいる。
王都調査同行契約が鞄の中にある。
自分の名前が、自分の手にある。
「私は、ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人、エリス・フォーマルハウトです」
エリスははっきりと名乗った。
「王家臨時調査協力者としての登録は受けません。王都入城は、国王印の回答書および北方との職務代理契約に基づいて行います」
門前が静まり返る。
役人は助けを求めるように周囲を見た。
だが、レオンハルトが一歩前に出る。
「彼女の名簿記載を訂正しろ。王家臨時調査協力者、エリス、ではない」
彼は低く言った。
「エリス・フォーマルハウト。ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人だ」
王都の門が、ゆっくりと開いていく。
その向こうには、王宮へ続く大通りが伸びていた。
エリスは背筋を伸ばした。
王都は、彼女の名前を変えようとした。
父は、彼女の名前を制限しようとした。
王太子は、彼女を許されるべき罪人にしようとした。
けれど、辺境伯は彼女の名前を奪わなかった。
だから、エリスは自分の名前でここに立てる。
エリス・フォーマルハウト。
その名で、王都の契約を読むために。




