第十六話 隣国の密使は、誤字を残して去った
王都の南門は、以前と同じ白い石でできていた。
高く、明るく、遠くから見れば美しい。
だが近づくほどに、エリスにはその白さが不自然に見えた。
門柱の魔法灯は、半分ほど消えていた。
本来なら昼でも淡い青色を帯び、王都の結界が正常に巡っていることを示すはずの灯だ。それが、ところどころ黒く沈んでいる。
門前の役人たちも、余裕がなかった。
整った制服を着てはいるが、目の下に疲れが濃い。書類を持つ手は慌ただしく、通行人への対応もどこか荒い。商人の馬車が列を作り、荷主たちが苛立った声を上げている。
「港湾許可証が通らないだと? 昨日も同じことを言われたぞ!」
「中央金庫が凍結中で、保証印が下りません」
「それで腐った魚の損害は誰が払うんだ!」
「こちらでは判断できません。王宮財務院へ」
「財務院が機能していないからここへ来ているんだ!」
王都は動いていた。
けれど、歯車のあちこちが軋んでいる。
エリスは、馬車の窓からその光景を見ていた。
中央金庫の凍結。
それは王宮内部だけの問題ではない。
王都の商取引、兵士の給与、港湾管理、神殿への供出、救護院への支払い、あらゆるものに影響している。
もし自分が異議を申し立てなければ、金庫はヴァルドニアへ移っていた。
それは間違いない。
だが、凍結によって困っている人々がいることも、また事実だった。
だから来た。
許されるためではない。
命令されたからでもない。
困っている人々の生活を、契約の誤りから少しでも引き戻すために。
馬車が門の検問所で止まる。
王宮役人が進み出て、整った笑みを浮かべた。
「ヴァイスベルグ辺境伯閣下。お待ちしておりました」
その声は丁寧だったが、硬い。
レオンハルトは馬車から降り、短く頷いた。
「入城手続きを」
「はい。こちらに署名をお願いいたします」
役人は書類を差し出した。
すでに予想していた通り、そこにはこう書かれていた。
――王家臨時調査協力者、エリス。
姓がない。
肩書きが先にあり、名前が後ろに押し込められている。
さらに、その下には小さく注記があった。
――家名使用保留中。
エリスの視界で、その一文が黒く滲んだ。
昨日、宿場で訂正申立を出したばかりだ。
それでも王都の名簿は直っていない。
つまり、訂正が届いていないのではない。
届いた上で無視している。
「署名できません」
エリスは静かに言った。
役人の笑みが固まる。
「何か不備がございましたか」
「私の氏名と職務が誤っています」
「誤りではございません。王家の指示により、エリス殿は臨時調査協力者として――」
「その登録には同意していません」
エリスは鞄から書類を取り出した。
「こちらが、宿場役所で提出した訂正申立の控えです。受領者名、時刻、役所印があります。さらに、こちらがヴァイスベルグ辺境伯領との王都調査同行および職務代理契約です」
役人は受け取るのをためらった。
レオンハルトが低く言う。
「受け取れ」
「……拝見いたします」
役人は仕方なく書類を受け取り、目を通した。
読み進めるにつれて、顔色が悪くなっていく。
「これは……」
「私は、ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人、エリス・フォーマルハウトとして王都に入ります。王家臨時調査協力者としての登録は保留です。名簿を訂正してください」
「しかし、王家側の様式が」
「様式が事実と異なるなら、様式を訂正する必要があります」
「門前でそのような処理は」
「では、門前で署名を求めないでください」
エリスは淡々と返した。
周囲の商人や旅人たちが、何事かとこちらを見ている。
王宮役人は額に汗を浮かべた。
「ですが、王都入城記録に空欄を残すわけには」
「空欄にする必要はありません」
エリスは自分で白紙を一枚取り出し、さらさらと書いた。
――入城者名。エリス・フォーマルハウト。
――現職。ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人。
――王家臨時調査協力者登録については、本人未同意につき保留。
――本記録は、宿場役所提出済み訂正申立および王都調査同行契約に基づく。
最後に署名する。
エリス・フォーマルハウト。
「こちらを添付してください」
役人は唇を震わせた。
「このような形式は前例が」
「前例がないなら、今日作られます」
レオンハルトが短く言った。
役人は完全に黙った。
やがて、彼は諦めたように書類を受け取り、門番に指示を出した。
「入城記録、訂正添付。受領印を」
門番が慌てて印を押す。
エリスは控えを受け取った。
まず一つ。
名前を消される前に、記録した。
南門が開く。
王都の大通りが姿を現した。
白い石畳。
左右に並ぶ商館。
遠くに見える王宮の青い尖塔。
エリスは、かつてこの道を通って王宮へ向かった。
王太子の婚約者として。
侯爵令嬢として。
宮廷書記官として。
そして今、別の名で戻ってきた。
いや、別の名ではない。
自分の名で戻ってきた。
エリス・フォーマルハウトとして。
王都の街は、以前より暗かった。
昼間だというのに、店先の魔法灯は点いたり消えたりしている。水路の自動汲み上げ機は動きが鈍く、荷馬車の検査所には長い列ができていた。通りの端では、兵士たちが給金遅配について小声で不満を漏らしている。
「王宮の混乱が、もう市中に出ていますね」
エリスは馬車の窓から外を見ながら言った。
「ああ」
レオンハルトの表情も険しい。
「思ったより早い」
「中央金庫だけではありません。契約炉の出力も落ちているのかもしれません」
「門の魔法灯か」
「はい。金庫凍結だけなら、照明や水路機構にすぐ影響するとは限りません。王都全体の契約魔法供給が不安定になっている可能性があります」
それは、ミリアが語った中央契約炉の話と合う。
建国契約が弱っている。
王家の血だけでは玉座を支えられない。
聖女の力を登録すれば、契約炉を十年動かせる。
王太子はそう言っていた。
ならば今、王都で起きている不調は、単なる金庫凍結の余波ではない。
王国の根にある契約そのものが、限界に近づいている。
馬車が王宮前広場に入ると、空気が変わった。
広場には王宮騎士が並んでいた。
通常の出迎えより数が多い。しかも、儀礼用ではなく実戦用の鎧を着ている者が混じっている。
歓迎ではない。
監視だ。
馬車が止まり、扉が開く。
エリスが降りると、広場の騎士たちの視線が一斉に向けられた。
懐かしい視線だった。
疑い。
警戒。
好奇心。
軽蔑。
王都は、まだ彼女を反逆者として見ている。
だが、その中に別の感情も混じっていた。
恐れ。
魔力ゼロの令嬢が、王太子の命令を無効にした。
竜封印の改ざんを見抜いた。
聖女契約に異議を申し立てた。
建国契約の名を口にした。
王都は、まだエリスを軽んじたい。
だが、完全には軽んじられなくなっている。
「エリス様」
控えめな声がした。
振り向くと、一人の宮廷書記官が立っていた。
若い男だった。薄茶色の髪を後ろで束ね、両手に書類板を抱えている。エリスは彼を知っていた。
「ノア様」
王宮書庫で何度か一緒に作業した書記官、ノア・リード。
地味で目立たないが、写本の正確さには定評があった。
ノアは周囲を気にしながら、小さく頭を下げた。
「お戻りに……いえ、ご入城をお待ちしておりました」
「ありがとうございます」
「本日は、中央契約塔で解除手続きが行われます。財務院、法務院、王家代理、王太子殿下が出席予定です」
「国王陛下は」
「体調不良を理由に、第一会議のみ欠席です。ただし、国王印は財務院長代理が預かっています」
レオンハルトが眉を動かした。
「国王本人が出ないのか」
「少なくとも、最初の手続きには」
「逃げたな」
レオンハルトは短く言った。
ノアは聞かなかったふりをした。
エリスは尋ねた。
「建国契約の閲覧については」
ノアの顔がこわばった。
「……王都到着後、審査すると伺っております」
「審査を行うのは誰ですか」
「法務院と王家契約管理室です」
「法務官長は見つかったのですか」
「いえ。現在も所在不明です。代行として副法務官ディートリヒ様が」
ノアはそこまで言って、少しだけ視線を落とした。
言いたいことがある。
だが、ここでは言えない。
エリスは察した。
「後で、記録確認の時間をいただけますか」
ノアはわずかに頷いた。
「可能であれば」
「可能にします」
エリスが言うと、ノアは一瞬驚いた顔をした。
以前のエリスなら、そんな言い方はしなかったからだろう。
王宮の入口で、次の問題が起きた。
警備責任者が進み出て、硬い声で言った。
「王宮内へ持ち込む書類は、機密保持のため一時的にお預かりします」
エリスは予想していた。
鞄を渡せば、終わりだ。
建国契約副本の照合写しも、ミリアの意思表示も、竜封印契約の改ざん記録も、王太子来訪記録も、すべて王家側に握られる。
「お断りします」
警備責任者の眉が上がる。
「王宮規定です」
「王宮規定第十二項の機密文書預かりは、王宮側文書を持ち出す場合、または王宮機密に該当する文書を外部者が所持している場合に適用されます。私が持参しているのは、辺境伯領作成文書、および本人意思確認書です」
「王宮内で使用される文書は検査対象です」
「検査は認めます。没収は認めません」
「預かるだけです」
「預かる、という言葉で原本を奪う契約を何度も見ました」
警備責任者は言葉に詰まった。
レオンハルトが前に出る。
「この鞄には、北方の正式記録が含まれている。王家が没収するなら、受領証と返還時刻、担当者名、封印状態の記録を出せ」
「そこまでの手続きは」
「なら渡さない」
警備責任者はしばらく睨み合ったが、最終的に折れた。
「検査のみ行います」
「立ち会います」
エリスは言った。
「文書の開封、確認、再封まで、すべて私の前でお願いします」
王宮の入口で、時間がかかった。
騎士たちは苛立った。
役人たちは小声で文句を言った。
だが、エリスは一つずつ確認した。
建国契約副本の写しは、封筒を開けずに外側だけ確認。
ミリアの意思表示は、本人保護文書として非公開扱い。
竜封印契約の改ざん記録は、辺境伯領調査文書として持参記録に明記。
王太子来訪記録は、王家関係文書として会議時提出予定。
すべて記録した。
王宮は、以前と同じ場所だった。
だが、エリスの歩き方は以前と違った。
かつては廊下の端を歩いた。
視線を落とし、邪魔にならないように、誰にも気づかれないように。
今は、レオンハルトの隣を歩いている。
婚約者としてではない。
所有物としてでもない。
契約調査代理人として。
中央契約塔は、王宮の北側にあった。
王宮本殿と渡り廊下で繋がる、細く高い塔。
王都のあらゆる重要契約が承認され、記録される場所であり、地下の中央契約炉へ続く唯一の公的入口でもある。
塔の鐘は、今は鳴っていない。
しかし近づくほど、エリスの視界には黒い染みが増えていった。
壁の継ぎ目。
扉の封印。
階段の手すり。
床に刻まれた王家紋章。
王宮の中心に近づくほど、契約の歪みが濃い。
中央契約塔の第一会議室には、すでに関係者が集まっていた。
王太子ユリウス。
財務院長代理ローレン。
副法務官ディートリヒ。
神殿側の司祭二名。
王宮契約管理室の書記官たち。
そして、数名の貴族代表。
エリスが入ると、会議室の空気が張り詰めた。
ユリウスは上座に座っていた。
顔色は悪いが、態度だけは王太子のままだ。
「遅かったな」
第一声がそれだった。
エリスは礼をした。
「南門および王宮入口で、氏名・職務記録の訂正と文書持込確認を行っておりました」
「余計な手続きで時間を浪費するな」
「余計ではありません」
ユリウスの眉が動いた。
だが今日は、彼もすぐに怒鳴らなかった。
昨日の北方で、命令が通らなかったことを覚えているのだろう。
財務院長代理ローレンが口を開いた。
「では、中央金庫凍結解除手続きを開始します。エリス・フォーマルハウト殿には、以前申し立てた異議を撤回していただきます」
机の上に、一枚の書類が置かれた。
異議撤回書。
エリスはそれを見た瞬間、黒い染みを確認した。
濃い。
非常に濃い。
「撤回書ですか」
「はい。あなたの異議申し立てにより、婚約破棄契約に基づく資産管理移転が凍結されています。異議を撤回すれば、契約は通常状態に戻り、中央金庫の利用も再開されます」
「通常状態とは何ですか」
ローレンは一瞬、言葉を止めた。
「契約発動前の状態です」
「この撤回書には、そう書かれていません」
会議室がざわついた。
ローレンの顔が硬くなる。
「どういう意味ですか」
エリスは撤回書を読み上げた。
「私は、婚約破棄契約に対して申し立てたすべての異議を撤回し、当該契約の発動結果を承認する」
彼女は紙を置いた。
「これは、凍結解除ではありません。私が異議を撤回し、婚約破棄契約の発動結果を承認する文書です」
「同じことでしょう」
「違います」
エリスは即答した。
「このまま署名すれば、私が止めたヴァルドニアへの資産管理移転まで承認したことになります」
会議室が静まり返った。
ユリウスが立ち上がる。
「何だと」
「殿下もご確認ください。発動結果を承認する、という文言は危険です。発動結果には、中央金庫の凍結だけでなく、王家資産管理権の移転も含まれます」
副法務官ディートリヒが咳払いした。
「それは過剰解釈ではありませんかな。通常、発動結果とは凍結状態を指すものと」
「契約書に通常はありません。書かれた文言で判断します」
エリスは、ディートリヒを見た。
細身の男だった。法務院の黒い長衣を着て、銀縁の眼鏡をかけている。表情は穏やかだが、目が笑っていない。
彼は、エリスを値踏みするように見ていた。
「では、どのような文言ならよいと?」
「異議撤回ではなく、条件付き凍結解除申立です」
エリスは自分の白紙を取り出した。
「目的は、ヴァルドニアへの移転を承認することではなく、国内支払いに必要な範囲で中央金庫の機能を一時回復させることです。したがって、婚約破棄契約第四条に対する異議は維持したまま、王都警備、港湾管理、救護院、兵給与、食糧流通に関する支払いのみを暫定的に解除する必要があります」
財務院長代理ローレンが目を見開いた。
「そんな部分解除は前例がありません」
「前例がなくても、可能です」
「なぜ言い切れるのですか」
「中央金庫は契約単位ではなく、支出項目単位で承認を分けています。財務院の金庫規定第十八条に、非常時の項目別開放があります」
ローレンが黙った。
王宮書庫で読んだ規定だった。
誰も気にしないような、古い非常時条項。
王都の火災、疫病、戦乱、契約不全により中央承認が停止した場合、民生維持に必要な支出項目を臨時開放できる。
ただし、王家、財務院、法務院、独立記録者の署名が必要。
「独立記録者が必要です」
エリスは言った。
「私は、王家臨時調査協力者としてではなく、ヴァイスベルグ辺境伯領契約調査代理人として、この役割を担います」
ディートリヒの表情が、ほんのわずかに変わった。
「独立記録者とは、通常、王宮が任命する者です」
「通常はそうです。しかし現在、王宮法務官長は所在不明。副法務官は当事者機関の代行。王家契約管理室は王家直属です。完全な独立性に疑義があります」
「それは法務院への侮辱ですな」
「記録上の指摘です」
レオンハルトが静かに言った。
「北方は、彼女を独立記録者として立てる。拒否するなら、凍結解除はしない」
ユリウスが机を叩いた。
「また脅すのか!」
「脅しではありません」
エリスは彼を見た。
「私は、危険な撤回書には署名しません」
「王都が困っていると言ったのは君だろう!」
「だから、正しい解除手続きを提案しています」
「君はいつもそうだ。言葉の細部にこだわり、大局を見ない」
「殿下が大局を見て署名された結果、中央金庫が凍結しました」
会議室が凍りついた。
ユリウスの顔が赤くなる。
だが、今回は貴族代表の一人が小さく咳払いした。
「王太子殿下。今は解除を優先すべきかと」
別の貴族も頷いた。
「異議撤回書に危険があるなら、文言修正を検討してもよいのでは」
王都の貴族たちも、完全にはユリウス側に立てなくなっている。
中央金庫が動かなければ、彼ら自身の利権も止まるからだ。
ローレンは額を押さえた。
「……では、条件付き凍結解除申立の文案を確認しましょう」
エリスは即座に書き始めた。
――婚約破棄契約第四条に対する異議は維持する。
――王家資産管理権のヴァルドニア移転は承認しない。
――中央金庫の凍結について、民生維持に必要な支出項目のみ暫定解除する。
――解除対象は、王都警備隊給与、港湾管理費、救護院供出金、食糧流通保証金、下水・水路維持費に限定する。
――王家儀礼費、王太子私費、外交贈答費、神殿特別儀式費は解除対象外とする。
――本解除は、建国契約および婚約破棄契約第四条の調査完了までの暫定措置である。
最後の行を書いた時、神殿司祭の一人が眉を上げた。
「神殿特別儀式費を除外する理由は」
「聖女ミリア・クレイン様に関する不当契約の疑いがあるためです」
「聖女契約は神殿の正当儀式です」
「本人が内容説明を受けていません。生命力徴収条項も確認済みです。調査完了まで、関連費用の支出は凍結すべきです」
司祭は顔を強張らせた。
ユリウスは低く言った。
「ミリアはどこだ」
「北方で保護されています」
「王都に連れてくるべきだった」
「本人が拒否しています」
「聖女の拒否など」
そこまで言いかけて、ユリウスは口を閉じた。
昨日の失敗を思い出したのだろう。
エリスは書類を回した。
「確認してください。署名が必要です」
ローレン、ディートリヒ、王家代理、レオンハルト、エリス。
さらに王太子ユリウス。
ユリウスは署名欄を見て、顔をしかめた。
「なぜ私の署名が必要だ」
「原因となった婚約破棄契約の署名者だからです」
「またそれか」
「はい。何度でも記録します」
ユリウスは激しく不満そうだった。
だが、貴族代表たちの視線がある。
中央金庫の解除を遅らせるわけにはいかない。
彼は乱暴に羽根ペンを取り、署名した。
ユリウス・アルトレイン。
その署名の周囲に、一瞬黒い光が走った。
エリスは見逃さなかった。
何かが、契約塔の下で反応している。
「今の反応は」
彼女が呟くと、ディートリヒがすぐに言った。
「中央金庫が再起動準備に入ったのでしょう」
「少し違います」
「何が違うと?」
「署名欄ではなく、塔の下から反応が来ました」
会議室に緊張が走る。
ディートリヒは笑みを作った。
「ここは中央契約塔です。下層と連動するのは当然です」
「そうですね」
エリスはそれ以上、その場では追及しなかった。
全員の署名が揃うと、条件付き凍結解除申立は金色に光った。
塔の外で、鐘が一度鳴る。
承認鐘。
王都のどこかで、止まっていた支払いが少しずつ動き始めるはずだ。
だが、その光は完全ではなかった。
金色の中に、かすかな黒い線が混じっている。
「部分解除、成立」
ローレンが疲れた声で言った。
「中央金庫、民生維持項目に限り再開します」
会議室の中に、安堵の息が広がった。
しかしエリスは、まだ緊張を解かなかった。
今の黒い反応。
塔の下層。
中央契約炉。
そして、ディートリヒの早すぎる遮り。
何かがある。
第一会議が終わると、休憩が告げられた。
建国契約の閲覧審査は、午後に行われるという。
エリスは会議室を出たところで、ノアに呼び止められた。
「エリス様」
「ノア様」
ノアは周囲を確認し、小さな声で言った。
「少しだけ、お時間をいただけますか。王宮書庫の旧記録室に」
レオンハルトが近づく。
「内容は」
ノアは緊張した顔で答えた。
「ヴァルドニア使節団の宿舎記録です。エリス様に見ていただきたいものがあります」
エリスとレオンハルトは視線を交わした。
「行きましょう」
旧記録室は、王宮書庫の奥にあった。
エリスにとっては、見慣れた場所だった。
以前はここで、誰にも頼まれない古い契約写しを整理していた。埃っぽく、窓が小さく、王宮の華やかさから最も遠い部屋。
けれど、彼女が最も落ち着いた場所でもあった。
ノアは扉を閉めると、棚の奥から一つの書類箱を出した。
「ヴァルドニア使節団は、婚約破棄契約が発動した夜、正式な退去記録を残さず宿舎を出ています。ですが、宿舎の清掃記録に不自然な紙片がありました」
「紙片?」
「燃やされた書類の一部です。通常なら廃棄されるところでしたが、清掃係が文字入りの灰を見つけ、私に渡してくれました」
ノアは薄い保護紙に挟まれた焼け残りを出した。
黒く焦げた紙片。
普通なら、ほとんど読めない。
だが、エリスの視界では、焦げ跡の中に黒い染みとは別の文字の残響が見えた。
ヴァルドニア語。
そして、王国語の単語がいくつか混じっている。
「これは、密使の連絡文ですね」
エリスは言った。
ノアが息を呑む。
「読めますか」
「完全ではありません。でも、単語が残っています」
彼女は保護紙越しに紙片を見た。
――第三承認……
――鐘……
――夜半……
――塔……
――炉口……
――王太子署名後……
レオンハルトの顔が険しくなった。
「第三承認鐘?」
「はい。でも、少しおかしいです」
「何が」
「文脈上、鐘ではありません」
エリスは焦げた文字を見つめた。
ヴァルドニア語の周囲に、王国語で書かれた「鐘」の字。
だが、その前後は「外す」「開く」「下層へ入る」に近い意味だった。
「ここは、おそらく『承認錠』です」
「錠」
「はい。契約塔第三層の承認錠。下層へ入るための封印鍵のことだと思います」
ノアが目を見開いた。
「鐘と錠を間違えた?」
「王国語では同じ音です。ですが、契約塔の内部構造を知る者なら間違えません。承認鐘は外で鳴る鐘。承認錠は内部の封印鍵です」
レオンハルトが低く言った。
「隣国の密使が、聞き覚えの単語を誤って書いたのか」
「その可能性が高いです」
エリスは紙片の別の箇所を見た。
「ここに『王太子署名後』とあります。婚約破棄契約に王太子が署名した後、第三承認錠を開き、塔下層から炉口へ向かう。そういう指示だったのかもしれません」
「目的は中央契約炉か」
「はい」
つまり、婚約破棄契約は単に中央金庫をヴァルドニアへ移すためだけではなかった。
王太子の署名によって契約塔を混乱させ、その間に第三承認錠を開け、中央契約炉へ何かを仕掛ける。
王都の契約機能を、根から揺さぶるために。
「ノア様」
エリスは顔を上げた。
「この紙片を見た人は」
「私と清掃係だけです。清掃係には、焼け残りの保管指示だと伝えました」
「よく残してくださいました」
ノアは俯いた。
「私は、あの夜、何もできませんでした。エリス様が警告していたのに、誰も聞かなかった。私も、怖くて黙っていました」
「ノア様」
「だから、せめて記録だけは残そうと」
エリスは静かに言った。
「それは、何もしていないことではありません」
ノアは顔を上げた。
「記録がなければ、今この情報はありませんでした」
彼の目が少し揺れた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
その時、旧記録室の外で、小さな物音がした。
レオンハルトが即座に扉へ向かう。
「誰だ」
返事はない。
次の瞬間、廊下を走る足音。
レオンハルトが扉を開けた。
灰色の外套を着た人物が、廊下の角を曲がるところだった。
「止まれ!」
彼の声が響く。
外套の人物は止まらない。
レオンハルトが追う。護衛も続く。エリスも駆け出そうとしたが、ノアに止められた。
「危険です!」
「でも、あの人は」
エリスは外套の裾に見えた刺繍を思い出した。
黒い糸で縫われた細い蛇。
ヴァルドニアの密使。
廊下の先で、窓が開く音がした。
レオンハルトが戻ってきた時、その顔は険しかった。
「逃げられた。外壁の点検足場を使ったらしい」
「ヴァルドニアの者ですか」
「外套に蛇紋があった。王宮内にまだ入り込んでいる」
ノアが青ざめた。
「王宮内に、ですか」
「少なくとも今、ここにいた」
エリスは紙片を見た。
密使は、この焼け残りを回収しに来たのだろう。
あるいは、誰が見つけたか確認しに。
だが、間に合わなかった。
彼は誤字を残して去った。
鐘と錠。
たった一字の間違い。
しかし、その誤字が、彼らの狙いを示している。
「第三承認錠を確認する必要があります」
エリスは言った。
「場所は」
レオンハルトがノアを見る。
「契約塔第三層の封印扉です。ただし、通常は副法務官以上の許可がないと入れません」
「ディートリヒか」
「はい」
レオンハルトの表情がさらに険しくなる。
「彼が許可権者なら、密使が入り込めた理由にもなる」
「まだ断定はできません」
エリスは言った。
「ですが、確認は必要です」
ノアが小さく頷いた。
「第三層へ行くには、表の階段ではなく、旧記録室の裏通路からも行けます。昔、書記官が写しを運んでいた通路です。今はほとんど使われていません」
「案内を」
レオンハルトが言った。
「はい」
旧記録室の棚を動かすと、細い扉が現れた。
王宮書庫には、こうした古い通路がいくつもある。エリスも噂では知っていたが、実際に使うのは初めてだった。
狭い石の階段を上る。
壁には古い契約印が刻まれていた。
どれもかすれているが、完全には死んでいない。
エリスの視界では、その印の一部にも黒い染みが見えた。
契約塔は、内側から傷んでいる。
第三層に出ると、空気が変わった。
ここは王都の契約承認記録が保管される層だった。大きな円形の廊下が塔を囲み、中央には下層へ続く封印扉がある。
扉の上には、三つの錠。
第一承認錠。
第二承認錠。
第三承認錠。
本来なら、王家、法務院、独立記録者の三者がそろわなければ開かない構造だ。
だが、エリスは見た。
第三承認錠の周囲に、黒い染みがある。
「開けられています」
彼女は言った。
ノアが息を呑む。
「そんなはずは。第三承認錠は、法務院の印だけでは開かないはずです」
「完全に開いてはいません。ですが、封印が削られています」
エリスは近づき、錠の刻印を読む。
そこには、王国語と古王国語が重なっていた。
だが、一箇所だけ、妙な傷がある。
――記録者の承認をもって、開錠を完了する。
その「記録者」の文字が削られ、別の文字が上書きされていた。
――協力者。
エリスの背筋が冷えた。
「王家臨時調査協力者」
レオンハルトが低く言った。
「君をその肩書きにしようとした理由か」
「はい」
エリスは錠から目を離さなかった。
「私を王家臨時調査協力者として登録し、その署名を記録者の承認の代わりに使うつもりだったのかもしれません」
「第三承認錠を開くために」
「おそらく」
もし南門で署名していたら。
もし王宮入口で鞄を預けていたら。
もし会議室で異議撤回書に署名していたら。
エリスの署名は、王家の協力者として記録され、第三承認錠を開く鍵に使われた可能性がある。
名前を奪うことは、ただの身分操作ではなかった。
契約塔の鍵にするためだった。
その時、塔全体が低く震えた。
鐘が鳴る。
一度。
二度。
しかし、それは承認鐘ではない。
もっと低く、内側から響く音。
ノアが青ざめた。
「下層からです」
エリスは第三承認錠を見た。
黒い染みが急速に広がっている。
「誰かが、別の方法で開けています」
レオンハルトが剣に手をかけた。
「下へ行くぞ」
「待ってください」
エリスは錠の文字を読んだ。
まだ完全開錠ではない。
だが、封印の一部が外れている。
外部からではない。
塔の内側、または下層から。
密使は逃げた。
だが、仕掛けは残っている。
「このまま下へ行くと、承認扱いにされる可能性があります」
「どういう意味だ」
「第三承認錠は、記録者の存在を求めています。私が近づくことで、勝手に承認と解釈されるかもしれません」
「では離れるか」
「いいえ。先に拒否を記録します」
エリスは白紙を取り出した。
手早く書く。
――エリス・フォーマルハウトは、第三承認錠の開錠を承認しない。
――王家臨時調査協力者登録は本人未同意であり、記録者承認として扱うことを拒否する。
――本錠に対する協力者名義の上書きは、記録者権限の不当な置換である。
署名。
エリス・フォーマルハウト。
その紙を第三承認錠の前にかざすと、錠の黒い染みが一瞬揺れた。
完全には消えない。
だが、広がりは止まった。
「行けます」
エリスは言った。
「今なら、私の存在を勝手に承認扱いにはできません」
レオンハルトが頷く。
「ノアはここに残れ。王宮内で信頼できる書記官を集め、第三層を封鎖しろ。誰も錠に触らせるな」
「はい」
「エリスは俺の後ろに」
「はい」
封印扉の脇にある非常階段から、二人は下層へ向かった。
階段は暗かった。
壁の魔法灯が弱く点滅している。下からは熱のようなものが上がってきた。炎の熱ではない。契約魔法が過負荷を起こす時の、肌にまとわりつくような熱だった。
途中で、レオンハルトが立ち止まった。
「聞こえるか」
エリスは耳を澄ませた。
低い音。
鐘ではない。
金属の錠が、内側から外れる音。
かちり。
かちり。
かちり。
「承認錠が……」
エリスは呟いた。
「外れています」
その瞬間、塔の下から赤黒い光が漏れた。
中央契約炉へ続く扉が、誰かの手で開かれている。
遠くで、王都の魔法灯が一斉に瞬いた。
窓の外から、人々のざわめきが聞こえる。
レオンハルトが剣を抜いた。
「急ぐぞ」
「はい」
エリスは鞄を抱え直し、階段を下りた。
隣国の密使は、誤字を残して去った。
鐘ではなく、錠。
その一字が示す先で、王都の契約の心臓が開こうとしている。
そして、エリスには分かっていた。
次に鳴る音は、承認の鐘ではない。
王都そのものが崩れ始める音だ。




