第三話 魔力ゼロの書記官は、辺境へ追放される
第三承認鐘が鳴るまで、残された時間はほとんどなかった。
エリスの手首には、まだ魔封じの枷が食い込んでいる。視界は白く濁り、契約書に浮かぶ黒い染みも、霧の向こうに沈んだようにぼやけていた。
それでも、床に落ちた婚約破棄契約書だけは見えている。
裂け目から覗いた隠し条項。
王太子の単独署名を第一発動条件とする文。
そして、エリスの署名が完了するまでは異議申し立て権が保留されるという一文。
彼女の名は、まだ契約に奪われていない。
「鍵を出せ」
レオンハルト辺境伯の声が、石造りの廊下に低く響いた。
近衛騎士は動かなかった。王太子の命令と、辺境伯の命令。その二つの間で、顔を強張らせている。
「聞こえなかったのか」
「しかし、殿下のご命令で――」
「その殿下は、いま契約書を読まずに署名し、王宮金庫を閉ざした。次にすべきことは、責任の押しつけではなく、損害の拡大を止めることだ」
レオンハルトは一歩も声を荒らげなかった。
だからこそ、騎士たちは逆らえなかった。
ひとりが震える手で鍵束を差し出す。
レオンハルトはそれを受け取ると、エリスの前に膝をついた。
「手を」
「……はい」
彼の指が、枷に触れる。
金具が外れる音がした瞬間、エリスの視界から白い霧が引いていった。
契約書の黒い染みが、再びくっきりと浮かび上がる。
嫌な文字だった。
汚い文字ではない。むしろ王宮法務官が書いたように整っている。
けれど、整いすぎている。
誰かを騙すために、丁寧に研ぎ澄まされた悪意だった。
「できるか」
レオンハルトが問う。
「分かりません」
エリスは正直に答えた。
「でも、やります」
彼女は契約書の前に膝をついた。
広間から逃げてきた侍従や官吏たちが、遠巻きにこちらを見ている。王太子ユリウスは壁に手をつき、荒い息を吐いていた。さきほど契約書を破りかけたせいで、右手首には黒い痣のようなものが浮かんでいる。
誰も、エリスを信じてはいない。
だが、今だけは彼女にすがっている。
その事実が、皮肉なくらい静かに胸へ落ちた。
エリスは契約書の端に指を添える。
魔力はない。術式を上書きする力もない。
けれど、契約には必ず読み方がある。
そして、読み方があるものには、異議を入れる余地がある。
「本契約第四条に対し、署名前当事者エリス・フォーマルハウトの名において異議を申し立てます」
声は震えた。
それでも、廊下の空気が変わった。
契約書の文字が青く光り、次に黒く沈む。
「異議の根拠は」
契約書から、声のようなものが響いた。
人間の声ではない。術式が、定められた手続きに従って問いを発している。
「第四条における『正統継承者』の定義が、婚約破棄契約の目的範囲を逸脱しています。また、署名者双方の承認による委譲と記載しながら、王太子単独署名により第一発動条件を満たす隠し条項を含んでいる。これは当事者への重要事項不告知であり、契約意思の成立を妨げます」
喉が乾く。
口の中に鉄の味がした。
「異議、受理」
契約書の声が言った。
「ただし、第一発動済み。中央金庫管理権の完全移譲まで、残り二段階」
遠くから、二度続けて鐘が鳴った。
第二承認の余韻が、まだ壁を震わせている。
「停止条件を提示せよ」
「古王国暦一一七年の相互承認契約は、現行の王国継承法によって制限されています。よって、ヴァルドニア王家の継承権は、王位継承に関する儀礼上の承認に留まり、王家管理資産の所有権および管理権には及びません」
「根拠文書」
「王宮書庫第三層、青帯条約集、第十二巻。アルトレイン王国継承法補遺、第三項」
契約書が沈黙した。
エリスの背中に汗が伝う。
もし記憶違いなら終わりだ。
もし文書番号が違っていれば、異議は却下される。
けれど、あの書庫で過ごした時間だけは、彼女のものだった。
舞踏会で笑われても、父に見捨てられても、紙の匂いの中で積み重ねた日々だけは、誰にも奪われない。
「照合」
契約書が言った。
「照合中」
「照合中」
「照合中」
長い沈黙だった。
ユリウスが呻く。
誰かが祈りの言葉を呟く。
そして。
「異議、部分承認」
契約書の文字が弾けるように光った。
「中央金庫管理権の完全移譲を停止。王家管理資産の処分権を凍結。契約発動原因の調査完了まで、当該契約を保留状態に移行する」
廊下の奥で、何か巨大なものが軋む音がした。
中央金庫の扉が開いたわけではない。
だが、完全に隣国へ移ることは止まった。
エリスはその場に座り込んだ。
指先が冷たい。
息を吸うたびに胸が痛んだ。
「止まったのか」
レオンハルトが尋ねた。
「完全移譲は、止まりました」
「金庫は」
「凍結状態です。開けるには、契約発動原因の調査と、王家以外の承認者を含む解除手続きが必要です」
レオンハルトは短く頷いた。
「十分だ。少なくとも、王国は今夜売られずに済んだ」
その言葉を聞いた瞬間、エリスの肩から力が抜けた。
褒められたかったわけではない。
ただ、自分のしたことが無意味ではなかったと、誰かの言葉で確認したかったのだと気づいた。
しかし、安堵は長く続かなかった。
「拘束しろ」
ユリウスの声がした。
エリスは顔を上げる。
王太子は、右手首を押さえながら立っていた。顔は青白く、額には汗が浮かんでいる。それでも、その瞳には怒りだけが残っていた。
「殿下」
レオンハルトが低く言う。
「彼女が止めたのです」
「違う。凍結させたのだ」
ユリウスは吐き捨てた。
「中央金庫はまだ開かない。王家資産も動かせない。つまり、こいつは王国を人質にした」
エリスは言葉を失った。
今度は、そう来るのか。
「殿下、契約発動の原因は――」
「黙れ、エリス」
ユリウスは彼女の名を、まるで汚れたもののように呼んだ。
「君は私の婚約者でありながら、王宮書庫の知識を利用して王家契約に介入した。しかも今、王家資産の処分権を凍結させた。事実だけを見れば、それは反逆だ」
「事実だけを見るなら、殿下が読まずに署名されたことも含まれます」
レオンハルトが言った。
廊下の空気が張り詰めた。
ユリウスの顔が赤くなる。
「辺境伯。いま何と言った」
「署名者の責任は、契約の基本です」
「私に責任があると?」
「少なくとも、契約書を読まずに署名した責任はあります」
その場の誰もが息を呑んだ。
王太子に、面と向かってそれを言える者はほとんどいない。
ユリウスはしばらく黙っていた。
やがて、口元に歪んだ笑みを浮かべる。
「よかろう。ならば、正式な裁定を下す」
彼は近衛へ向き直った。
「エリス・フォーマルハウトは、王家契約破壊の重要参考人として王都から退去させる。王宮内に置けば、再び契約に干渉する危険がある。身柄は北方辺境伯レオンハルト・ヴァイスベルグに預ける」
エリスは耳を疑った。
「王都から、退去……?」
「追放だ」
ユリウスは冷たく言った。
「ただし、慈悲をもって処刑はしない。辺境にて監視下に置き、調査が終わるまで王都への帰還を禁ずる」
周囲の貴族たちが、ようやく息を吹き返したように囁き始めた。
「追放ですって」
「当然でしょう」
「王宮に残すわけにはいかない」
「あの娘がいなければ、こんな騒ぎには……」
違う。
そう叫びたかった。
けれど、エリスはもう叫ばなかった。
叫んでも、この人々は聞かない。
レオンハルトが一歩前へ出る。
「殿下、それは処罰ではなく、証人の隔離ですか」
「そうだ」
「ならば、彼女への暴行、私刑、財産没収は認められない。身柄を預かる以上、こちらで保護する」
「好きにしろ。どうせ王都には二度と戻れまい」
ユリウスはエリスを見下ろした。
「君は今日、すべてを失った。婚約者の地位も、王宮での居場所も、フォーマルハウト家の名誉も」
エリスは父の方を見た。
フォーマルハウト侯爵は、すぐに視線を逸らした。
「父上」
エリスは呼んだ。
「私は、家に戻ることも許されないのですか」
父は沈黙した。
その沈黙だけで、答えは分かった。
それでも、エリスは待った。
ほんの一言でいい。
信じるとは言わなくていい。
せめて、調査を待つと言ってほしかった。
だが、父が口にしたのは別の言葉だった。
「フォーマルハウト家は、エリスを当面のあいだ遠縁扱いとし、家中の決定権から外します。王家のご裁定に従い、身柄は辺境伯様にお預けいたします」
遠縁扱い。
つまり、娘ではないということだ。
必要なら切り捨てられる、名前だけの親族。
エリスは、思ったよりも冷静にそれを聞いた。
胸の奥が痛まないわけではない。
けれど、どこかで分かっていた。
父はいつも、家の名を守る人だった。娘の名を守る人ではなかった。
「承知しました」
自分の声が、驚くほど静かだった。
ユリウスはそれが気に入らなかったのか、眉を寄せた。
「強がるな。君にはもう何もない」
「いいえ」
エリスは、床の契約書を見た。
「私の署名は、まだ私のものです」
ユリウスの顔が歪んだ。
だが彼は、もう言い返さなかった。
その夜、エリスは王宮書庫に戻ることを許されなかった。
私室にも戻れなかった。
持ち出しを許されたのは、侍女が慌ただしくまとめた小さな鞄一つだけだった。中には替えの下着と、古い上着、書記官用の黒いインク瓶、そして使い込んだ羽根ペンが一本。
婚約指輪は、その場で外すよう命じられた。
指から抜いた青い魔石の指輪は、侍従の銀盆に載せられた。
結局、その石は一度も光らなかった。
夜明け前。
王宮の裏門に、護送用の馬車が用意された。
貴族令嬢の旅立ちにしては、あまりにも質素だった。紋章のない黒い箱馬車。窓には鉄格子。御者台には王宮騎士が二人。
空はまだ暗く、冷たい雨が降っていた。
石畳に落ちる雨音が、細かな針のように耳へ刺さる。
エリスが馬車へ乗ろうとした時、背後から足音がした。
「エリス」
振り返ると、ミリアが立っていた。
桃色の舞踏会用ドレスではなく、白い外套を羽織っている。首元の金色のチョーカーは、外されていなかった。
「ミリア様」
「ごめんなさい」
彼女は、雨の中で震えていた。
「私、何も言えませんでした。あなたが正しいって分かっていたのに」
「……首の契約具のせいですか」
ミリアは目を見開いた。
そして、苦しげに頷いた。
「言えないことが多すぎるのです。助けを求めることも、逃げることも、ユリウス様に逆らうことも」
「それは、聖女契約ですか」
「分かりません。私は、契約書を見せてもらっていません」
エリスは息を呑んだ。
契約書を見せずに署名させる。
それは王太子だけでなく、聖女にも行われている。
ミリアは小さな布袋を差し出した。
「これを。王都の焼き菓子です。辺境は寒いと聞いたので」
「受け取れません。あなたまで疑われます」
「もう疑われています」
ミリアは、かすかに笑った。
「でも、私はあなたに謝りたかった。あなたは、私を責めませんでした」
「責める理由が、まだ分かりませんから」
「それでも、ありがとうございます」
エリスは布袋を受け取った。
温かくはなかった。
けれど、雨の中で差し出されたそれは、奇妙なほど胸に残った。
「ミリア様。首元の契約具には、触らないでください。外そうとすると逆流する可能性があります」
「……やっぱり、分かるのですね」
「少しだけです」
「辺境から、戻ってきますか」
「分かりません」
「私は、待っています」
その言葉を最後に、ミリアは侍女に連れられて戻っていった。
エリスは布袋を鞄へ入れ、馬車に乗った。
扉が閉まる。
鍵がかかる。
馬車が動き出した。
王宮の裏門が遠ざかる。
石壁の上に掲げられた王家の旗は、雨に濡れて重たげに垂れていた。
エリスは格子窓から外を見た。
王都の街路は、まだ眠っている。パン屋の煙突から細い煙が上がり、夜警が眠そうに槍を抱えている。
この街で十九年生きた。
けれど、別れを惜しむ相手はほとんどいない。
馬車の中は寒かった。
エリスは上着を膝にかけ、指先を握りしめた。
薬品の匂いがまだ喉に残っている。手首には枷の跡が赤く残っていた。
魔力ゼロ。
役立たず。
反逆者。
追放令嬢。
呼び名はいくらでも増えていく。
だが、そのどれも、エリス自身が署名した名前ではない。
しばらくして、馬車が止まった。
王都の北門を出たところだった。
外で短い会話が聞こえる。
護送騎士の声。
それに答える、低い声。
扉が開いた。
雨に濡れた黒い軍装の男が、そこに立っていた。
レオンハルト・ヴァイスベルグ辺境伯だった。
「乗り換えだ」
「乗り換え、ですか」
「王宮の護送馬車はここまででいい。ここから先は、俺の馬車で行く」
エリスは戸惑った。
護送騎士が不満そうに言う。
「辺境伯様、我々は殿下より監視を命じられております」
「監視対象は、私が預かると命じられた。ならば、移送の責任も私にある」
「しかし――」
「王宮の鉄格子付き馬車で北方まで行けば、途中の宿場で反逆者として晒し者になる。それは正式裁判前の私刑だ。殿下の裁定にも反する」
騎士は黙った。
レオンハルトはエリスへ手を差し出した。
「降りられるか」
「はい」
彼の手を借りて馬車を降りる。
手袋越しに触れた手は、冷たい雨に濡れていたが、力強かった。
掴まれるのではなく、支えられる感覚だった。
少し離れた場所に、灰色の馬車が停まっていた。
豪華ではないが、頑丈そうな造りだ。扉に小さく双剣紋が刻まれている。
「私は、囚人ではないのですか」
エリスは思わず尋ねた。
「少なくとも、俺の前では証人だ」
レオンハルトは答えた。
「それに、契約書を読める者を鎖で運ぶほど、北方は人材に余裕がない」
「利用する、ということですか」
「そうだ」
あまりに率直な答えに、エリスは瞬きをした。
レオンハルトは続けた。
「君を可哀想だから助ける、とは言わない。俺は聖人ではない。辺境には契約の問題が山ほどある。竜の封印、傭兵団との雇用契約、商会の借款、開拓民の土地証文。王都の法務官どもは遠いからと放置してきた。君の力が本物なら、必要だ」
「もし本物でなければ」
「その時は、普通に保護対象として扱う。王都に戻せば殺されるか、罪を着せられるかのどちらかだろう」
エリスは返事に詰まった。
優しい言葉ではない。
しかし、嘘ではなかった。
「どうして、そこまで」
「王太子が嫌いだからではない」
彼は淡々と言った。
「読まずに署名した者より、読んで止めようとした者の方が信用できる。それだけだ」
その言葉に、エリスは目を伏せた。
泣くつもりはなかった。
けれど、まぶたの裏が熱くなった。
父は信じなかった。
婚約者は責めた。
貴族たちは笑った。
なのに、ほとんど初対面の辺境伯だけが、彼女の行動を見て判断した。
「ありがとうございます」
「礼は早い。北方は寒いし、王都ほど上品でもない」
「構いません」
「それと、俺の領では働かない者は食えない」
「働けます。文書仕事なら」
「なら十分だ」
レオンハルトは馬車の扉を開いた。
「乗れ、エリス・フォーマルハウト。王都は君を追放したが、北方はまだ君を裁いていない」
エリスは、その言葉を胸の中でゆっくり繰り返した。
北方はまだ、私を裁いていない。
それは、無罪だと言われたわけではない。
歓迎されたわけでもない。
だが、初めて与えられた保留だった。
決めつけではなく、判断を待つ時間だった。
エリスは灰色の馬車に乗り込んだ。
座席には厚手の毛布が置かれている。窓に鉄格子はない。
小さな机と、固定されたインク壺まであった。
レオンハルトが向かいに座る。
「まず眠れ。王都を離れるまで、まともに休めなかっただろう」
「眠れるか分かりません」
「では目を閉じるだけでいい」
馬車が動き出す。
車輪が泥を踏む音が、雨音に混じった。
王都の城壁が、少しずつ遠ざかっていく。
エリスは窓の外を見た。
高い尖塔も、王宮の屋根も、灰色の雨に霞んでいく。
すべてを失った。
そう言われた。
実際、多くを失ったのだろう。
けれど、膝の上には鞄がある。
中には一本の羽根ペンがある。
そして、彼女の名はまだ、彼女自身のものだ。
エリスはそっと手を握った。
手首の痛みは残っている。
それでも、枷はもうない。
馬車は北へ向かう。
王都の華やかな灯りから離れ、雨に煙る街道へ入っていく。
その先に何があるのか、エリスには分からない。
辺境。
竜の封印。
山積みの契約問題。
そして、自分を利用すると正直に言った若き領主。
不安がないはずはなかった。
だが、不思議と、息はしやすかった。
王宮では、いつも誰かの署名の下に生きていた。
父の名。
王太子の名。
家の名。
王家の名。
けれど、北へ向かうこの馬車の中で、エリスは初めて思った。
次に書く契約書には、自分の意思で、自分の名前を書きたい。
雨はまだ降っていた。
だが、夜明けの空は、ほんの少しだけ明るくなり始めていた。




