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第四話 辺境伯様、契約書を読まずに竜を飼っていました

北へ向かうほど、空の色は薄くなった。


 王都を出たばかりの頃は、雨に濡れた街道の両脇にまだ石造りの民家や宿場町が並んでいた。けれど、二日目の昼を過ぎる頃には景色が変わった。畑は少なくなり、代わりに黒い針葉樹の森が増える。遠くには雪をかぶった山脈が見え、馬車の窓に触れる空気は、肌を刺すように冷たかった。


 エリスは、膝の上で羽根ペンを握っていた。


 眠っている間も、何度か目が覚めた。

 目を開けるたび、王宮の大広間が頭に浮かぶ。

 王太子ユリウスの怒声。

 父の沈黙。

 黒く滲んだ契約書。

 金属の枷が手首に閉じた感触。


 そして、最後に聞いた言葉。


 ――君は今日、すべてを失った。


 エリスは自分の指を見る。

 婚約指輪があった右手の薬指には、薄い跡だけが残っていた。


 何もない指。

 それは、ひどく心細くもあり、少しだけ軽くもあった。


「眠れなかったか」


 向かいの席から、レオンハルトが言った。


 彼は馬車の揺れの中でも姿勢を崩さない。黒い軍装の上に厚手の外套を羽織り、膝の上には北方領の地図を広げている。


「少しは眠りました」


「少し、の顔ではない」


「辺境伯様も、お休みになっていないのでは」


「慣れている」


「慣れていいものではないと思います」


 言ってから、エリスは少しだけ驚いた。

 王宮では、こんなふうに言い返すことはほとんどなかった。相手の機嫌を損ねない言葉だけを選び、余計な感情を挟まないようにしていた。


 レオンハルトは怒らなかった。


「正論だな」


 それだけ言って、地図へ視線を戻す。


 馬車の外で、御者が声を上げた。


「閣下、前方にヴァイスベルグ城が見えます!」


 エリスは窓へ身を寄せた。


 森が切れた先に、巨大な岩山がそびえている。

 その岩山に食い込むように、黒灰色の城が建っていた。王都の白い宮殿とはまるで違う。尖塔も彫刻も少なく、壁は厚く、窓は狭い。美しさよりも、防ぐこと、耐えることを目的に造られた城だった。


 城の背後には、山脈が続いている。

 その一番高い峰の頂に、奇妙な影が見えた。


 岩のようにも、塔の残骸のようにも見える。

 けれど、エリスの目には、何か巨大なものが眠っているように見えた。


「あれは何ですか」


 彼女が尋ねると、レオンハルトは一瞬だけ沈黙した。


「あれか」


「はい。山頂の黒い影です」


「竜だ」


 エリスは聞き間違えたかと思った。


「竜、ですか」


「ああ。古代竜グラナート。三百年前から、あそこで眠っている」


 レオンハルトの声は、あまりにも平静だった。


「……辺境伯様」


「何だ」


「竜を、領地で飼っていらっしゃるのですか」


「飼っているわけではない。封印している」


「それは、飼っているよりも危険なのでは」


「否定はしない」


 エリスは窓の外を見つめた。


 山頂の黒い影は動かない。

 だが、近づくほど、その輪郭がはっきりしてきた。翼を折り畳み、首を丸め、巨大な獣が眠っている。雪をかぶった背中は岩山と一体化しているが、時おり赤黒い光が鱗の隙間で瞬いた。


「封印は安全なのですか」


「安全なら、君を連れてくる必要はなかった」


 エリスはゆっくりとレオンハルトを見た。


「最初から、それが目的だったのですか」


「目的の一つだ」


「王都で私を助けたのは」


「助けたことは事実だ。だが、君の力が必要だと判断したことも事実だ」


 隠さない人だ、とエリスは思った。


 王宮の人々は、優しい言葉の下に別の意図を隠した。

 レオンハルトは逆だった。

 利用すると言う。必要だと言う。

 だからこそ、奇妙に信用できた。


「竜の封印に、何か問題があるのですね」


「ああ。三日前から、封印環が鳴っている」


「鳴る?」


「山の麓に監視塔がある。そこに封印状態を示す魔導鐘が据えられている。本来なら十年に一度、封印更新の時だけ鳴る。だが、今は毎晩鳴っている」


「封印更新の時期ではないのですか」


「違う。次の更新は、来年の冬のはずだった」


「封印契約書はありますか」


「ある」


「拝見できますか」


「そのために呼んだ」


 エリスは息を整えた。


 古代竜。封印契約。異常な鐘。


 王都を追放されて二日で、今度は竜の契約書を読むことになるとは思わなかった。


 馬車は城門をくぐった。


 ヴァイスベルグ城の中庭には、武装した兵士たちが整列していた。王都の近衛騎士と違い、装飾は少ない。革鎧の上に毛皮を重ね、腰には実戦用の剣や斧を提げている。


 彼らの視線が、エリスへ向いた。


 好奇心。警戒。疑い。


 王都と同じだ。


 けれど、そこには嘲笑がなかった。


「閣下、その方が王都から来た書記官ですか」


 兵士の列から、赤毛の女性が歩み出た。年は二十代半ばほど。鎧の上からでも分かるほど背筋が伸び、腰には細身の剣を帯びている。


「副官のカレンだ」


 レオンハルトが紹介する。


「カレン・ローヴェ。領軍の実務を見ている」


「エリス・フォーマルハウトです」


 エリスは頭を下げた。


 カレンは遠慮なく彼女を上から下まで見た。


「失礼ですが、想像より細いですね」


「よく言われます」


「竜の契約書を読む前に倒れられては困ります。まず食事を」


「いえ、先に契約書を確認させてください」


 エリスが即答すると、カレンは少し目を細めた。


「王都の貴族令嬢は、食事より書類を優先するのですか」


「王都の貴族令嬢としてではなく、書記官として来ました」


 カレンは一拍置いて、レオンハルトを見た。


「閣下、この方、本当に使えそうです」


「本人の前で言うな」


「本人に聞こえるように言ったのです」


 エリスは少しだけ困った。

 敵意ではないが、遠慮もない。

 北方とはこういう場所なのかもしれない。


 城内へ案内されると、すぐに執務室へ通された。


 部屋は広いが、華美ではなかった。壁には武器と地図。机の上には書類の山。暖炉には火が入っているが、それでも空気は冷たい。


 中央の大机に、一本の長い筒が置かれていた。


 黒い竜皮で覆われた保管筒。

 封蝋には、ヴァイスベルグ家の双剣紋と、古い竜の紋章が重ねられている。


 エリスは筒を見た瞬間、喉が詰まった。


 封蝋の周囲に、黒い染みが見えた。


 まだ契約書を開いてもいないのに。


「辺境伯様」


「何だ」


「この契約書、最後に確認されたのはいつですか」


 レオンハルトとカレンが顔を見合わせた。


「先代の時代だ。十五年前の封印更新時だと聞いている」


「その後、一度も?」


「ああ」


「契約書を読まずに、竜を封印していたのですか」


「封印契約は代々引き継がれてきた。書庫に保管し、更新時には決められた手順で魔力を流す。それで三百年保ってきた」


「それは、契約書を読んでいることにはなりません」


 部屋が静かになった。


 カレンが小さく口笛を吹く。


「閣下、怒られていますよ」


「分かっている」


 レオンハルトは眉間を押さえた。


「正論だ」


 エリスは保管筒に手を伸ばした。


「開封してもよろしいですか」


「頼む」


 封蝋を傷つけないよう、慎重に筒を開く。

 中から現れたのは、普通の羊皮紙ではなかった。赤黒い薄膜のような紙。おそらく竜の鱗の内側を加工したものだ。文字は古王国語と竜語が混ざっている。


 読みにくい。


 だが、読めないほどではない。


 エリスは深く息を吸い、第一条から目を通した。


 古代竜グラナートは、ヴァイスベルグ山脈北峰において眠りにつく。

 ヴァイスベルグ辺境伯家は、王国北方の安寧と引き換えに、竜の眠りを守る。

 十年に一度、辺境伯家当主は封印環に魔力を注ぎ、竜の怒りを鎮める。

 竜は目覚めぬ限り、王国の民を焼かない。

 王国は竜の眠りを乱さない。


 ここまでは、分かる。


 封印というより、休戦契約に近い。

 ヴァイスベルグ家は竜を閉じ込めているのではなく、竜が眠る条件を守っている。


 だが、第五条に差しかかったところで、エリスの手が止まった。


 第五条。

 竜の心臓が三度赤く鳴る時、封印環は更新を求める。

 更新なき場合、辺境伯家は代償として血を捧げ、竜の怒りを鎮める。


 文字の周囲に、黒い染みが広がっていた。


「血を捧げる、とは何ですか」


 エリスが問うと、カレンが答えた。


「古い表現です。実際には、当主が指先を切って封印環に血を一滴落とす儀式を指します」


「本当に一滴ですか」


「儀式書にはそうあります」


「この契約書には、量が書かれていません」


 レオンハルトの表情が変わった。


「どういう意味だ」


「『血を捧げる』とだけあります。量、方法、対象が明記されていません。これでは、当主の一滴から、辺境伯家全員の命まで解釈の幅が出ます」


「三百年、そんな危険な文で運用してきたのか」


「通常時なら、儀式書の慣例で制限されていたのだと思います。ですが、契約本文に欠陥がある以上、異常発動時には危険です」


 カレンの顔から血の気が引いた。


「毎晩鳴っている封印鐘は……」


「竜の心臓が三度赤く鳴る時、という条件に関わっている可能性があります」


 エリスは続きを読んだ。


 第六条。

 王国は竜の眠りを乱さない。

 第七条。

 鉱山、祭壇、封印環の周囲三里において、王国は火の魔石を掘らない。

 第八条。

 ただし、王家の名において必要と認めた場合、この限りではない。


 そこで、黒い染みが一気に濃くなった。


「……見つけました」


 エリスの声に、レオンハルトが机へ近づく。


「何を」


「第八条です。王家の名において必要と認めた場合、火の魔石を掘ってよい、とあります」


「そんな採掘許可は出していない」


「辺境伯家は、出していないのでしょう。ですが、王家の名なら可能です」


 カレンが低く呟いた。


「三か月前、王都の商会が北峰の麓に調査隊を入れました。王宮財務院からの許可状を持っていたので、通しました」


「何の調査ですか」


「温泉脈の調査だと」


 エリスは首を横に振った。


「おそらく、火の魔石です」


 レオンハルトの拳が机を叩いた。

 契約書が揺れる。


「財務院が、俺に知らせずに竜の封印地を掘ったのか」


「その可能性が高いです。そして第八条がある以上、契約上は完全な違反と断定できません。しかし、竜から見れば、王国は眠りを乱したことになる」


「封印鐘が鳴り始めたのは、その後です」


 カレンの声が硬くなる。


「最初は月に一度。それが週に一度になり、三日前から毎晩です」


 エリスは第五条へ戻った。


 竜の心臓が三度赤く鳴る時、封印環は更新を求める。


「辺境伯様、封印鐘は一晩に何度鳴りますか」


「三度だ」


 答えたレオンハルトの顔も、すでに事態を理解していた。


「竜の心臓が、三度赤く鳴っているということか」


「はい。そして更新なき場合、辺境伯家は代償として血を捧げる。今のまま放置すれば、封印契約は代償の徴収に移ります」


「いつ」


「契約文の周期が古王国暦なら、最初の連続発動から七夜目。今が三日前からなら――」


「あと四夜」


 カレンが言った。


 部屋の暖炉が、ぱちりと音を立てた。


 四夜。


 それだけで、古代竜の封印が代償を求める段階に入る。


 しかも、その代償が一滴の血で済む保証はない。


「止める方法は」


 レオンハルトが問う。


「第八条を無効化するか、竜に対して王国側の違反を補償する必要があります」


「契約の修正か」


「はい。ただし、竜語を含む契約です。勝手に書き換えれば、封印そのものが破れます」


「では、どうする」


 エリスは契約書に視線を落とした。


 文字の奥で、黒い染みが動いている。

 まるで、眠る竜が紙の向こうで息をしているようだった。


「まず、封印地を見せてください」


「危険だ」


「契約書だけでは判断できません。封印環、監視塔、採掘跡。この三つを確認する必要があります」


「君は昨夜まで追放の身で、二日まともに休んでいない」


「それでも、見ます」


 エリスはまっすぐにレオンハルトを見た。


「私は王都で、契約書を読まなかった人たちが何を起こすか見ました。ここで同じことをしたくありません」


 レオンハルトは黙った。


 その目に、初めて少しだけ別の色が浮かぶ。

 評価とも、驚きともつかないものだった。


「分かった。日没前に監視塔へ向かう」


「ありがとうございます」


「ただし、護衛をつける。カレン、準備を」


「承知しました」


 カレンはすぐに動き出した。


 エリスは契約書を慎重に巻き戻そうとした。


 その時だった。


 遠くから、鐘の音が聞こえた。


 一度。


 低く、腹の底に響く音。


 部屋の窓ガラスが震える。


 続いて、二度目。


 暖炉の火が赤く揺れる。


 そして、三度目。


 机の上の封印契約書が、内側から赤く光った。


 エリスの視界で、黒い染みが一気に広がる。


 竜語の文字が、赤黒く浮かび上がった。


 ――眠りを乱す者あり。

 ――約束を破る者あり。

 ――血をもって、釣り合わせよ。


 レオンハルトが窓へ向かう。


 山頂の竜の影が、遠くで赤く明滅していた。


 眠っているはずの翼が、ほんのわずかに動いたように見えた。


「辺境伯様」


 エリスは契約書を押さえながら言った。


「四夜ではありません」


 レオンハルトが振り返る。


「どういうことだ」


「契約の発動が、早まっています」


 赤い光が、文字の上を走る。


 紙面の端が熱を持ち始めた。


「このままでは、今夜にも竜が目を覚まします」


 その言葉が終わると同時に、山の方角から、低いうなり声が響いた。


 それは風でも、雷でもなかった。


 三百年眠っていた竜が、夢の中で怒りを漏らす声だった。

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