第二話 署名した瞬間、王宮の金庫が閉じた
四度目の鐘が鳴り終えたあと、大広間から笑い声は消えていた。
ほんの少し前まで、扇の陰でエリスを嘲っていた貴族たちは、今は誰も口を開かない。天井の水晶灯は青白く明滅し、王家の紋章を浮かべていた壁の魔法陣は、インクを水で薄めたように輪郭を失っている。
エリスは、手の中の婚約破棄契約書を見下ろした。
王太子ユリウスの署名が、まだ青い光を帯びている。その下で、第四条の文字だけが黒く滲んでいた。
――王家管理下にある全財産、領地、鉱山、港湾使用権、魔導資産、ならびに王国中央金庫の管理権を、署名者双方の承認により正統継承者へ委譲する。
本来なら、エリスの署名がなければ契約は完全には成立しない。
だが、王宮の中央金庫はすでに閉じた。王家の財産管理魔法も停止している。
つまり、この契約書には、王太子の署名だけで発動する隠し条項がある。
どこかに、まだ別の罠がある。
「何をした、エリス」
ユリウスの声は震えていた。
怒りのためではない。恐怖のためだ。
だが、王太子である彼は、自分が恐れていることを認められない。
「私は何もしておりません」
「嘘をつくな!」
ユリウスは大股で近づき、エリスの手から契約書を奪おうとした。
エリスは反射的に一歩下がる。
「殿下、契約書に触れないでください。すでに発動しています。術式の流れが不安定です」
「黙れ! すべて君の仕業だろう!」
「私は署名していません」
「だからどうした」
「この契約は、殿下お一人の署名で発動しました。つまり最初から、殿下の署名だけで王家財産を動かせるよう設計されていたということです」
ユリウスの顔が歪んだ。
「詭弁だ」
「契約文書の構造上、そう判断せざるを得ません」
「黙れと言っている!」
彼が手を振り上げた、その時だった。
「殿下!」
財務院の官吏が、侍従に支えられるようにして駆け込んできた。儀礼服は乱れ、額には汗が浮かんでいる。
「中央金庫第一扉、第二扉、第三扉、すべて閉鎖されました! 王印による開錠命令も、財務卿の副署名も受け付けません!」
「ありえん。王印はどこだ」
「こちらに」
侍従長が、銀の小箱を差し出した。
中には王家の紋章を刻んだ青い指輪がある。国王の魔力を代行する、王国最高位の認証具――王印である。
ユリウスはそれを乱暴に掴むと、財務官へ突きつけた。
「これを使え。すぐに金庫を開けろ」
「すでに試みました」
「ならばもう一度やれ!」
「殿下、王印が……反応しないのです」
広間がざわめいた。
王印が反応しない。
その意味を理解できない者は、この場にいない。
王印は王家の正統性を示す魔導具だ。それが沈黙しているということは、少なくとも財産管理魔法の上では、王家が管理者ではなくなったということだった。
「馬鹿な……」
ユリウスは王印を握りしめた。
だが青い指輪は光らない。むしろ鈍い灰色に沈んでいる。
「殿下、第四条は発動済みです。今すぐ契約停止処理を行う必要があります。法務官長を呼んでください。王宮書庫の古王国条約集と、契約塔の主任術師も――」
「黙れ!」
ユリウスは王印を床へ叩きつけた。
硬い音が響き、青い指輪が絨毯の上を転がる。
「君がやったのだろう、エリス。君は王宮書庫に出入りしていた。契約文書にも触れていた。魔力がないふりをして、何か邪法を仕込んだに違いない」
「殿下、私は――」
「そうだ。そうに決まっている」
ユリウスの声が、少しずつ確信めいていく。
しかし、それは真実を見つけた者の声ではなかった。
自分の失敗を認めないため、責任を押しつける相手を見つけた者の声だった。
「王家を侮辱し、国家財産を奪うために、婚約破棄の場を利用した。そうだろう!」
数人の貴族が、息を呑んだ。
やがて、囁きが広がっていく。
「まさか、フォーマルハウト家が……」
「王宮書庫に出入りしていたなら、細工もできるのでは」
「魔力なしというのも、偽装だったのか」
「恐ろしい娘だわ」
エリスは、その声を一つずつ聞いた。
つい先ほどまで、彼らはエリスを無能だと笑っていた。
いまは、彼女を危険な魔女だと恐れている。
どちらにせよ、彼らはエリス自身を見ていなかった。
「父上」
エリスは、広間の端に立つフォーマルハウト侯爵を見た。
父は顔をこわばらせていた。
「父上は、ご存じのはずです。私は魔力測定で何度も零と判定されています。王宮書庫への出入りも、書記官として許可された範囲内です」
父は答えなかった。
「父上」
「エリス」
侯爵は、重々しく口を開いた。
その声は、父親のものではなく、貴族家の当主のものだった。
「お前は、いつからこのようなことを企んでいた」
「……父上?」
「殿下のおっしゃる通りだ。お前は幼いころから、書物と契約書に異常な執着を示していた。魔力がないことを恨み、王家に不満を抱いていたとしても不思議ではない」
エリスは何も言えなかった。
父は、エリスを見ていない。
見ているのは、自分の家を守るための逃げ道だった。
「フォーマルハウト家は、この件に一切関与しておりません。娘エリスの行動が王家に損害を与えたのであれば、当家は王家のご裁可に全面的に従います」
広間の空気が決まった。
貴族社会では、空気が証拠になることがある。
王太子が告発し、父が否定しなかった。
それだけで、人々の中ではエリスが犯人に近づいていく。
「よく言った、侯爵」
ユリウスは息を吐いた。
ようやく、自分が立つ場所を見つけたような顔だった。
「近衛。エリス・フォーマルハウトを拘束しろ。容疑は王家契約破壊、国家財産移譲未遂、および王太子への反逆だ」
「未遂ではありません、殿下」
エリスは思わず言った。
言ってから、失敗したと思った。
ユリウスの目が燃え上がる。
「では認めるのだな」
「違います。契約はすでに発動しています。未遂として処理している場合ではありません。今すぐ停止処理を――」
「聞くな!」
ユリウスは近衛騎士へ命じた。
「その女の言葉はすべて呪言だ。口を封じろ」
二人の近衛騎士がエリスへ歩み寄る。
彼女は後ろへ下がろうとしたが、すぐに柱へ背が触れた。
逃げ場はない。
騎士の一人が手首を掴んだ。
もう一人が、彼女の手から契約書を取り上げる。
「いけません! 契約書は保全してください。術式解析に必要です」
「黙れ」
「乱暴に折れば、残留術式が――」
「おとなしくしろ!」
手首に金属の冷たさが触れた。
魔封じの枷だった。
魔力を持つ犯罪者を拘束するための道具である。魔力ゼロのエリスには、本来意味がない。
しかし枷が閉じた瞬間、彼女の視界が白く揺れた。
契約書の黒い染みが、一瞬だけ見えなくなる。
見えない。
嘘が、見えない。
エリスは初めて、本当に恐怖を覚えた。
これは通常の魔封じではない。認識阻害を混ぜた拘束具だ。
彼女の力が魔力ではなく「見る力」だとしても、視界そのものを濁されれば意味がない。
「殿下、その枷は誰が用意したものですか」
「まだ喋るか」
「近衛騎士の標準装備ではありません」
「口を塞げ」
白い布が口元に押し当てられた。
薬品の匂いがした。
眠らせるほど強くはないが、声を奪い、頭を鈍らせる類のものだ。
「やめてください!」
声を上げたのは、ミリアだった。
淡い桃色のドレスを震わせ、彼女はユリウスを見上げている。
その首元には、金色のチョーカーがあった。
エリスには、その装飾品の奥に黒い染みが見えていた。
「彼女は、少なくとも警告しました。ユリウス様が署名なさる前に、止めようとしていました。拘束するにしても、まず契約書の内容を調べるべきです」
「君は優しすぎる」
「でも――」
「ミリア」
ユリウスの声が低くなった。
瞬間、ミリアのチョーカーが淡く光る。
彼女は苦しげに喉を押さえた。
言葉が途切れる。
エリスは目を見開いた。
やはり、あれは服従契約具だ。
王太子に逆らう発言を制限している。
ミリアは涙を浮かべながら、口を閉ざした。
ユリウスは満足そうに頷く。
「聖女は混乱している。誰か、彼女を休憩室へ」
「お待ちください、ユリウス様」
財務官が震える声で口を挟んだ。
「エリス様の拘束はともかく、契約書の解析は急務です。中央金庫が閉じたままでは、明朝の軍費支払い、港湾税収、神殿への供出金、すべてが停止します」
「ならば法務官にやらせろ」
「法務官長が所在不明です」
「何?」
「執務室にも契約塔にもおりません。副官たちも数名、姿が見えません」
エリスは布越しに息を呑んだ。
法務官長がいない。
契約書を作成した者もいない。
王太子が署名する直前に、関係者が消えている。
これは事故ではない。
計画された罠だ。
「隣国の使節団は」
エリスは布を押しのけながら、かすれた声を出した。
「今夜、王宮内にいますか」
「黙れと言ったはずだ」
「確認してください。ヴァルドニアの使節が王宮を出ていたら、もう――」
「連れていけ!」
ユリウスの命令で、騎士たちはエリスを引きずるように歩かせた。
貴族たちが左右に割れる。
その視線は、刃よりも冷たかった。
「怖いわ」
「王家の財産を奪うなんて」
「魔力なしのふりをしていたのね」
違う。
そう言いたかった。
だが、口元を押さえられ、声は形にならない。
大広間の扉が開かれた。
廊下には、すでに兵士たちが走っていた。
「財務院へ伝令!」
「契約塔を封鎖しろ!」
「ヴァルドニア使節団の所在を確認せよ!」
「王都門を閉めろ!」
王宮は混乱していた。
それでもユリウスは、まだ自分が失敗したとは認めていない。
エリスを犯人にすれば済むと思っている。
騎士たちはエリスを地下へ連れていこうとした。
王宮の地下には、魔法犯罪者を一時的に拘留する石牢がある。そこへ入れられれば、外の情報は届かない。
契約の発動は進み続ける。
エリスは足を止めた。
「歩け」
「……契約塔の鐘が、まだ鳴っていません」
布をずらし、彼女はどうにか声を出した。
「中央金庫が完全に移譲されたなら、契約塔の承認鐘が鳴るはずです。でも、鳴っていない。つまり、契約は途中で止まっています」
「それがどうした」
「今なら、まだ間に合います」
騎士は一瞬だけ迷った。
彼も王国の騎士だ。
王家への忠誠と、王国そのものへの責任は、完全には同じではない。
だが、その迷いは長く続かなかった。
「命令は拘束だ」
騎士がエリスの背を押した。
階段の冷たい空気が頬に触れる。
その時、廊下の奥から別の足音が響いた。
重く、速い。
近衛の足音ではない。
もっと実戦に慣れた者の足音だった。
「その令嬢をどこへ連れていく」
低い声が廊下に響いた。
騎士たちが振り返る。
エリスも顔を上げた。
廊下の向こうに、黒い軍装の青年が立っていた。
銀灰色の髪。左頬の薄い傷。王都の貴族たちとは違う、飾り気のない鋭さを持つ男だった。
胸章には、北方辺境伯家の双剣紋。
レオンハルト・ヴァイスベルグ辺境伯。
「王太子殿下の命令により、反逆容疑者を拘束中です」
「反逆容疑者?」
「王家契約破壊の容疑です」
「その女が?」
レオンハルトはエリスを見た。
侮蔑はなかった。
疑念はある。警戒もある。
だが、少なくとも最初から犯人と決めつけてはいなかった。
「彼女は契約書の危険を警告していたはずだ。広間の後方から聞こえた」
「しかし殿下のご命令です」
「王宮の金庫が閉じ、王印が沈黙し、法務官長が消えた。その状況で、唯一契約書を読める者を地下牢に入れるのか」
騎士たちは答えられなかった。
「その令嬢に聞く。お前は、金庫を閉じたのか」
「いいえ」
「契約書に細工をしたのか」
「していません」
「では、止められる可能性はあるのか」
エリスは、かすれた声で答えた。
「あります。契約塔の承認鐘がまだ鳴っていません。完全移譲前です。発動先の定義を崩せば、少なくとも中央金庫の管理権は凍結状態で止められます」
「必要なものは」
「契約書。古王国条約集。契約塔の主任術師。できれば、王家以外の高位貴族の証人」
「時間は」
「分かりません。でも、長くはありません」
レオンハルトは短く息を吐いた。
「その令嬢の口を塞ぐな。少なくとも、今は喋らせた方が王国のためになる」
「殿下の命令に逆らうおつもりですか」
「違う。王国を守るために確認している」
その時、遠くで五度目の鐘が鳴った。
大広間ではない。
契約塔の方角からだった。
「今のは?」
レオンハルトが問う。
「第一承認鐘です」
エリスは声を絞り出した。
「移譲契約が、次の段階に入りました」
「あと何段階だ」
「三段階です。第三承認鐘の後、中央金庫の管理権は完全に固定されます」
「猶予は」
「鐘の間隔から考えて、半刻もありません」
廊下の空気が変わった。
もはや、反逆容疑だけを口にしている場合ではない。
だが、階段の上から怒声が響いた。
「エリスを逃がすな!」
ユリウスだった。
彼は数人の侍従と近衛を引き連れ、顔を怒りに歪めている。
その手には、婚約破棄契約書が握られていた。
「その女は王家を混乱させるために嘘を重ねている。辺境伯、そこを退け」
「殿下、今は彼女の知識が必要です」
「君もその女に惑わされたか」
「事実を確認しているだけです」
「ならば私が確認する」
ユリウスは契約書を掲げた。
「エリス・フォーマルハウト。王太子たる私が命じる。この契約をただちに解除しろ」
エリスは、静かに王太子を見た。
「できません」
「なぜだ!」
「契約は、命令では解除できません」
「黙れ……」
「解除には条件と手続きが必要です。そして殿下は、その条件を知らないまま署名されました」
ユリウスの手に力がこもる。
契約書の端が、嫌な音を立てた。
エリスは叫んだ。
「破らないで!」
しかし、遅かった。
羊皮紙の端が、王太子の手の中で裂けた。
廊下の魔法灯がすべて消えた。
床下から低いうなりが響く。
契約書の裂け目から黒い光が噴き出し、ユリウスの手首に絡みついた。
「ぐっ……!」
ユリウスが膝をつく。
侍従たちが悲鳴を上げた。
「残留術式が逆流しています! 契約書を床に置いてください!」
「触るな!」
「そのままだと、殿下自身の王族認証まで奪われます!」
ユリウスは契約書を離そうとしない。
王太子としての誇りが、まだ邪魔をしている。
レオンハルトが動いた。
彼は迷わずユリウスの手首を掴み、契約書を床へ叩き落とした。
黒い光が一瞬膨らみ、羊皮紙の上へ戻っていく。
「辺境伯……貴様……」
「不敬は後で受けます」
レオンハルトは冷たく言った。
「今は、王国を先に救いましょう」
エリスは床に落ちた契約書を見つめた。
裂けた端から、隠し条項が覗いている。
枷で濁った視界にも、黒い染みがはっきり見えた。
――本契約は、王太子の単独署名をもって第一発動条件を満たす。
やはりそうだった。
そして、その下にもう一文。
――異議を申し立てる権利は、婚約者エリス・フォーマルハウトの署名完了まで保留される。
エリスは息を止めた。
まだ終わっていない。
彼女が署名していないから、契約には異議申し立ての余地が残っている。
だが、彼女が拘束されたままでは、その権利を使えない。
「辺境伯様」
エリスは顔を上げた。
「私の枷を外してください」
「外せば何ができる」
「異議申し立て条項を使います。私だけが、この契約を止められる可能性があります」
「危険は」
「あります。失敗すれば、私の署名権ごと奪われます」
レオンハルトは一瞬だけ沈黙した。
それから、騎士たちに向かって言った。
「枷の鍵を」
「できません。殿下の命令が――」
「鍵を出せ」
レオンハルトの声は静かだった。
だが、その静けさが剣より鋭かった。
その背後で、契約塔の第二承認鐘が鳴った。
時間が、ない。
エリスは目を閉じ、深く息を吸った。
誰も彼女を信じていない。
父も、王太子も、貴族たちも。
けれど、契約書だけは違う。
契約書は、書かれたことを裏切らない。
悪意も嘘も、すべて文字の形で残る。
ならば、読むしかない。
たとえ犯人にされても。
たとえこの場の全員に疑われても。
エリスは目を開けた。
「急いでください。第三承認鐘が鳴る前に、私がこの契約に異議を申し立てます」




