第一話 婚約破棄契約書に、王国滅亡の誤字がありました
王宮の大広間には、今夜のためだけに磨かれた銀の燭台が百二十本、天井からは水晶のシャンデリアが七基、そして中央には王家の紋章を織り込んだ深紅の絨毯が敷かれていた。
春告げの舞踏会。
王都に住む貴族ならば、誰もが一度は招かれることを夢見る、王国最大の夜会である。
けれど、エリス・フォーマルハウトにとって、その夜は最初から居心地の悪いものだった。
笑い声が、遠い。
香水の匂いが、濃すぎる。
絹のドレスが擦れる音、グラスの縁が触れ合う音、楽団の弦が震える音。そのすべてが美しく整っているはずなのに、エリスの耳には、どこか契約書の紙面をこする羽根ペンの音に似て聞こえた。
「エリス様、壁際にばかりいらっしゃるのね」
「だって、あの方は魔力なしでしょう?」
「王太子殿下の婚約者というだけでも、身に余るお立場ですもの」
扇の陰から漏れる声に、エリスは反応しなかった。
反応しない訓練なら、もう何年も積んでいる。
魔力測定で「零」と判定された日から、貴族社会での彼女の扱いは決まっていた。名門フォーマルハウト家の令嬢でありながら、魔法の一つも使えない娘。王太子ユリウスの婚約者でありながら、王宮の片隅で契約文書を写すだけの下級書記官。
人々は彼女を憐れみ、侮り、時に忘れた。
だが、忘れられることは、エリスにとって必ずしも悪いことではなかった。
忘れられていれば、書庫にいられる。
書庫にいれば、紙の匂いがする。
紙の上では、誰も彼女に魔力を求めない。ただ、文字が正しいかどうかだけが問題だった。
エリスは、自分の白い手袋に視線を落とした。
右手の薬指には、王太子から贈られた婚約指輪がある。細い金環に、小さな青い魔石が一つ。王家の魔力を象徴する澄んだ青。
けれどその石は、エリスの指では一度も光ったことがない。
魔力を通せない婚約者。
それが、王宮での彼女の呼び名だった。
「エリス」
名を呼ばれて、エリスは顔を上げた。
大広間の中央、深紅の絨毯の上に、王太子ユリウスが立っていた。
黄金色の髪。王家特有の青い瞳。礼服の肩には白銀の飾緒がかかり、胸には第一王位継承者の勲章が輝いている。まるで肖像画から抜け出したような、美しい青年だった。
その隣には、淡い桃色のドレスをまとった少女が寄り添っていた。
ミリア・クレイン。
半年前、神殿で「聖女」と認定された平民出身の娘である。癒やしの魔力を持ち、王太子の後援で貴族社会に迎え入れられた。
彼女は不安そうにユリウスを見上げていたが、その手はしっかりと王太子の腕に添えられていた。
楽団の演奏が止まった。
広間のざわめきも、潮が引くように消えていく。
招待客たちの視線が、一斉にエリスへ向けられた。
エリスは息を吸った。
嫌な予感がした。
契約書を扱う者として、彼女は「違和感」を見逃さない。それは文面の中に潜む一語の不自然さであったり、日付の位置であったり、署名欄の余白であったりする。
今夜の違和感は、広間全体に漂っていた。
誰もが何かを知っている。
知らないのは、自分だけだ。
「エリス・フォーマルハウト」
ユリウスは、芝居がかった低い声で言った。
「私は本日をもって、君との婚約を破棄する」
誰かが小さく息を呑んだ。
だが、驚きの声はほとんど上がらなかった。
つまり、やはりそういうことなのだ。
エリスはまばたきを一つした。
胸の奥が痛むのではないかと思っていた。泣きたくなるのではないかとも思っていた。
けれど実際には、心は妙に静かだった。
まるで、長いあいだ机の上に積まれていた未処理の書類が、ようやく決裁箱に移されたような感覚だった。
「理由を、お聞かせいただけますか」
声は思ったよりも平坦に出た。
ユリウスの眉がわずかに動く。もっと取り乱すと思っていたのだろう。
「君には王太子妃たる資質がない。魔力を持たず、社交も不得手で、民の前に立つ華もない。王家の隣に立つべきは、王国を照らす力を持つ者だ」
彼は隣のミリアを見た。
ミリアは頬を赤らめ、けれど視線を床へ落とした。
「私は、真実の愛を見つけた」
広間の空気が変わった。
扇が開く音。小さな囁き。愉快そうな笑いを噛み殺す気配。
エリスは静かにそれを受け止めた。
王太子の婚約破棄。
真実の愛。
魔力なし令嬢の失脚。
貴族たちにとって、これほど分かりやすい見世物はない。
「承知いたしました」
エリスがそう答えると、ユリウスは一瞬、言葉に詰まった。
「……ずいぶんと潔いな」
「殿下のご意思は確認いたしました。婚約は王家とフォーマルハウト家の契約に基づくものです。破棄されるのであれば、相応の書面が必要です」
「もちろん用意してある」
ユリウスが片手を上げると、控えていた侍従が銀盆を持って進み出た。
盆の上には、一通の羊皮紙が載せられている。
厚手の上質紙。王家の透かし。右下には青い封蝋。
その時点で、エリスの背筋に冷たいものが走った。
封蝋の位置が、少し低い。
王家契約文書の封蝋は、署名欄の右上から三寸の位置に置く決まりだ。だが、その羊皮紙ではわずかに下へずれている。
普通の者なら気づかない。
だが、王宮書庫で何千枚もの契約書を写してきたエリスには分かる。
これは、正規の雛形ではない。
「ここに婚約破棄契約書がある。君が署名すれば、今夜をもって我々の婚約は正式に解消される」
侍従が羊皮紙をエリスの前へ差し出した。
エリスは受け取る前に、まず王太子を見た。
「殿下。この文書は、どなたが作成されたものですか」
「王宮法務官だ」
「法務官長のグレイ卿でしょうか」
「細かいことを尋ねるな。内容に不満があるなら、今ここで読めばいい」
読めばいい。
そう言われた瞬間、広間の何人かが笑った。
婚約破棄を突きつけられた令嬢が、大衆の前で契約書を読まされる。屈辱としては十分だった。
しかし、エリスはむしろ安堵した。
読んでいいのなら、話は早い。
「では、拝見いたします」
エリスは羊皮紙を受け取った。
指先に、かすかな痺れが走る。
魔法契約書特有の反応だった。署名者の意思と魔力を結び、条文を現実に作用させるための術式が、紙そのものに編み込まれている。
契約書の文字が、黒く揺れた。
エリスの目にだけ見える、もう一つの文字の層。
普通の人間には整った法文にしか見えない。けれど、彼女の視界では、条文の奥に潜む偽装や矛盾が、墨をこぼしたような染みになって浮かび上がる。
それが、エリスの唯一の力だった。
魔力はない。
だが、魔法契約の嘘だけは見える。
彼女自身、その力を誰かに自慢したことはない。自慢できる力でもなかった。見えるのはいつも、誰かの悪意や、誰かの怠慢や、誰かの保身ばかりだったからだ。
第一条。
王太子ユリウス・アルトレインとエリス・フォーマルハウトは、両者の合意に基づき婚約を解消する。
第二条。
解消に伴い、フォーマルハウト家は王家に対し、今後一切の異議申し立てを行わない。
第三条。
エリス・フォーマルハウトは、王太子妃候補として得た権利、称号、儀礼上の優先権を放棄する。
ここまでは、冷酷だが通常の範囲だった。
問題は第四条だった。
第四条。
本契約の成立をもって、王家管理下にある全財産、領地、鉱山、港湾使用権、魔導資産、ならびに王国中央金庫の管理権を、署名者双方の承認により正統継承者へ委譲する。
エリスは眉をひそめた。
奇妙な条文だった。
婚約破棄契約に、王家財産の委譲など必要ない。しかも「正統継承者」という表現が曖昧すぎる。王太子自身を指すようにも読めるが、契約書では曖昧さこそが罠になる。
視界の端で、第四条の文字がじわりと黒ずんだ。
さらに下へ視線を滑らせる。
注記。細字。通常なら読み飛ばされる部分。
そこに、染みはあった。
ただし本契約における「正統継承者」とは、古王国暦一一七年締結のアルトレイン・ヴァルドニア間相互承認契約に定められた継承権保持者をいう。
エリスの呼吸が止まった。
ヴァルドニア。
隣国の名だ。
古王国暦一一七年の相互承認契約は、王宮書庫の禁書庫に写本がある。王家と隣国が一時的に同盟を結んだ際、互いの王族に限定的な継承権を認めた古い条約だ。現在では失効しているとされているが、完全に破棄された記録はない。
つまり、この婚約破棄契約が成立した場合。
王家財産は、現王国の王太子ではなく、古い条約上の「正統継承者」――隣国ヴァルドニア王家の誰かへ移る可能性がある。
いや、可能性ではない。
条文の染みが濃すぎる。
これは、そう読ませるために作られている。
「エリス」
ユリウスが苛立った声を出した。
「いつまで黙っている。署名しろ」
エリスは顔を上げた。
広間中の視線が突き刺さる。
父であるフォーマルハウト侯爵の姿も見えた。彼は青ざめていたが、助けに入る気配はない。むしろ、早く署名して終わらせろとでも言いたげだった。
エリスは、羊皮紙を持つ指に力を込めた。
「殿下。一点、確認してもよろしいでしょうか」
「まだ何かあるのか」
「第四条の財産委譲条項についてです」
「財産委譲?」
ユリウスは露骨に顔をしかめた。
どうやら、読んでいない。
エリスの中で、失望とも諦めともつかない感情が静かに沈んだ。
王国の第一王位継承者が、自分の署名する契約書を読んでいない。
「本契約には、婚約破棄に伴う権利放棄だけでなく、王家管理下の全財産、領地、鉱山、港湾使用権、魔導資産、中央金庫管理権の委譲が含まれています」
「何を馬鹿な」
「文面にそうあります」
「そんなものは、君が王太子妃候補として持っていた権利を返還するという意味だろう」
「いいえ。主語はフォーマルハウト家ではありません。王家管理下にある全財産です」
広間がざわめいた。
数人の貴族が顔を見合わせる。
ユリウスは侍従を振り返った。
「法務官を呼べ」
「そ、それが……本日の式典後まで席を外しておりまして」
「なぜだ」
「殿下のご命令で、婚約発表後の新契約準備に向かわれました」
新契約。
エリスはミリアを見た。
彼女は唇を噛みしめている。知らなかった顔ではない。だが、すべてを知っている顔でもない。
「エリス、君は自分が捨てられるのが悔しくて、契約書に難癖をつけているのか」
ユリウスの声が低くなった。
その言葉は、広間の空気を味方につけるためのものだった。
惨めな令嬢が、婚約破棄を受け入れられずに騒いでいる。
そういう構図にすれば、貴族たちは安心して笑える。
だが、エリスは笑わなかった。
「殿下。私は婚約破棄そのものには異議を申し立てません」
「ならば署名しろ」
「できません」
「なぜだ」
「この契約書は、王国を売り渡す文書だからです」
一瞬、音が消えた。
次に起こったのは、怒号ではなく笑いだった。
誰かが耐えきれず吹き出し、それがいくつもの乾いた笑いへ広がる。
魔力なし令嬢が王国を語るなど、滑稽だ。
そう言いたげな笑いだった。
ユリウスの顔にも、冷たい笑みが浮かんだ。
「ついに正気を失ったか」
「失っていません」
「では証明してみせろ。君の言うとおりなら、この契約書に署名しただけで王国が売られるのだな?」
「正確には、王家管理資産の移譲が発動します。中央金庫の管理権も含まれていますので、国家財政は即時凍結されます」
「馬鹿馬鹿しい」
ユリウスは侍従から別の羽根ペンを奪い取った。
青い魔石を軸に埋め込んだ、王族専用の署名ペンだった。
「ならば私が署名してやる。これで何も起こらなければ、君は王族を侮辱した罪で拘束する」
「お待ちください、殿下」
エリスは一歩踏み出した。
その瞬間、近衛騎士が剣の柄に手をかけた。
刃は抜かれていない。けれど、それだけで十分な威圧だった。
「エリス様」
ミリアが初めて声を出した。
震える声だった。
「もう、やめてください。ユリウス様を困らせないで……」
エリスは彼女を見た。
その首元に、薄い金色のチョーカーがある。
装飾品に見えるが、違う。
魔法契約具だ。
そこにも、黒い染みが見えた。
聖女の首にも、何かがある。
だが、今はそれを追う余裕がなかった。
ユリウスは契約書の署名欄にペン先を置いていた。
「殿下。最後に申し上げます」
「聞かん」
「署名されれば、王宮の金庫は閉じます」
「黙れ」
「王家の鉱山権も、港湾使用権も、魔導資産も、すべて隣国側へ移ります」
「黙れと言っている!」
ペン先が、羊皮紙を走った。
ユリウス・アルトレイン。
王太子の名が、青い光を帯びて署名欄に刻まれる。
直後。
大広間のシャンデリアが、一斉に青白く明滅した。
笑っていた貴族たちの声が止まる。
床下から、重い鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
王宮の奥、中央金庫のある方角から、巨大な扉が閉ざされる音がした。
それは舞踏会の音楽よりもはるかに低く、王宮全体を震わせるほど重かった。
「な、何だ……?」
ユリウスが顔を上げる。
彼の胸に下げられた王家の勲章から、青い光が抜け落ちていく。燭台に灯っていた魔法火が次々と細くなり、壁に浮かぶ王家の紋章が薄れていった。
侍従の一人が駆け込んでくる。
顔面蒼白だった。
「殿下! 中央金庫の封印が、王家の命令を受け付けません!」
「何だと?」
「財務院の魔導台帳が書き換わっています! 管理権者の欄が――」
「誰だ!」
「ヴァルドニア王家、第一継承権者、となっております!」
広間が凍った。
今度は誰も笑わなかった。
ユリウスはゆっくりとエリスを見た。
その顔から、先ほどまでの余裕は消えている。
「エリス……君は、何をした」
「私は何もしておりません」
エリスは静かに答えた。
手の中の婚約破棄契約書では、第四条の文字が黒々と燃えるように浮かび上がっている。
「私はただ、読んだだけです」
ユリウスの手から、羽根ペンが落ちた。
青い魔石が床に当たり、乾いた音を立てて割れる。
エリスは羊皮紙を広げ、王太子と、貴族たちと、そして青ざめた父に向かって言った。
「殿下。この契約書、署名した瞬間に王家の全財産が隣国へ移りますと、申し上げました」
その言葉が終わるより早く、王宮の外から四度目の鐘が鳴った。
それは、国家非常事態を告げる鐘だった。




