<39:あの人に勝ちたい(5)>
加藤大輔・・・陸上部員の高校2年生。
加藤大介・・・陸上部員の高校3年生。
上野正秀・・・陸上部のキャプテン。
森保・・・陸上部員の高校3年生。
安藤弘堅・・・加藤大輔の親友。
「おっ、もう来てたのか」
大輔が陸上部の部室でユニフォームに着替えていると、加藤が姿を現した。
「ええ、大事な日ですから」
大輔はクールに言う。
「上野は、まだ来てないのか」
加藤がキョロキョロと室内を見回す。
「キャプテンなら、もう来てますよ。準備をするって、先にグラウンドへ行きました」
「早いな、あいつ。さすがキャプテン」
感心しながら、加藤は自分のロッカーを開けた。
今日は日曜で、陸上部の練習は休みだ。
だが、大輔と加藤、上野の3年だけは、学校に来ている。
それは、臨時のレースを実施するからだ。
加藤の風邪もすっかり治り、記録会の勝負をやり直すことになったのだ。
「この前は、悪かったな」
加藤は制服を脱ぎながら言った。
「何がですか」
「俺が風邪をひいたせいで、お前に嫌な思いをさせてしまって」
「嫌な思いはしてないですよ。ただ、万全の先輩と戦いたいと思っただけです」
「でも、そのせいで、こうやって休日に登校させることになってしまって」
「部活に迷惑が掛からないように、日曜を選んだのは俺ですから。大体、この臨時レースを持ち掛けたのも俺なんですよ」
ややトゲトゲしい口調で、大輔が告げる。
何も悪くないのに謝罪する加藤の態度に、苛立ちを覚えたのだ。
加藤に悪気があるわけではないし、実際、嫌な態度ではない。
だが、ずっと「ダメな方」として比較されている大輔としては、学業やスポーツだけでなく性格的にも欠点が無く、まぶしすぎる加藤の存在が、癪に障るのだ。
素晴らしい先輩であることは承知しているのだが、ひねくれた気持ちになってしまう。
そんな身勝手な態度を取ってしまった自分が嫌になり、ますます大輔は苛立つ。
だが、コンプレックスとは、そういうものだ。
「ところで、本当に、今回で終わりにしていいんだな」
加藤が言いながら、ユニフォームに着替える。
「ええ、男に二言はありません」
「言うじゃないか。よし、全力でぶつかって来いよ」
加藤は笑った。
「ええ、もちろん」
大輔は目を合わさず、ベンチに座ってシューズの紐を結び始めた。
加藤もユニフォーム姿になり、隣に座る。
それから靴を履き替えようとしたが、チラッと大輔の方を見やり、その視線が止まった。
「おい、ちょっと待て」
「何ですか」
すると加藤は、ベンチから降りて地べたに座り込み、大輔の脚部をジロジロと見つめる。
「な、何のつもりですか」
「ダイ、お前、どこか怪我してないか」
「えっ」
大輔はギクッとする。
「いえ、してませんよ」
冷静を装って否定する大輔。
だが、加藤は疑念の顔で、
「ちょっと立ってみろ」
と促す。
「何も無いですよ」
そう言って大輔が立ち上がる。
加藤は改めてじっと凝視し、
「その場で足踏みしてくれないか」
と持ち掛けた。
「怪我なんかしてないですって」
「いいから、やってみてくれ」
「分かりましたよ」
大輔は面倒そうに、足踏みをする。
その様子を注意深く観察していた加藤は、
「ストップ、もういい」
と告げた。
「靴を脱げ」
「えっ」
大輔は動揺しつつ、ベンチに座る。
「右足だけでいい」
「何を言ってるんですか、先輩。そんなことで俺を精神的に揺さぶって、負けさせようというつもりですか」
意図的に荒っぽく大輔が言うが、加藤は構わず、
「いいから、早く脱げ」
と要求する。
渋々ながら、大輔は右足の靴を脱いだ。
すると、その親指には包帯が巻かれていた。
「ほら、やっぱり怪我してるじゃないか」
「どうして、分かったんですか」
大輔はバツが悪そうに尋ねる。
「俺は将来、フィジカル・トレーナーを目指してるんだよ。そういうのを見抜くのは得意なんだ。それに、そもそも、お前は隠すのが下手すぎる」
「けど、こんなの、階段でつまずいて、ちょっと痛めただけです。走るのには何の支障も無いですよ。平気です」
「平気なわけがないだろ、親指を怪我してるのに。今日の勝負は中止だ」
「そんな、やりましょうよ」
大輔が抵抗する。
「先輩、前に言ってたじゃないですか。コンディション調整も勝負の内だって。だったら、俺が怪我をしたのも、言い訳にはなりません」
「言い訳にならなくても、お前は風邪をひいた俺に勝った時、納得できなかっただろ。だったら今回は、それの逆だよ」
加藤が静かに諭す。
「今日じゃなければいけないってことも無いんだ。ダイの怪我が治るまで、延期すればいいじゃないか」
「だけど、一刻も早く、決着を付けたいんです」
大輔は悔しそうに拳を握る。
「そう焦らなくてもいいだろう。まだ時間は、充分にあるさ」
「でも」
そこで少し逡巡してから、大輔は言葉を続けた。
「先輩は受験勉強で、本当なら、とっくに部活動を辞めているはず。なのに、俺に付き合って引退を先延ばしにしているのに、また延期なんて」
「どうして、それを知ってるんだ」
加藤は驚くが、すぐに察知して苦笑する。
「そうか、上野の奴が喋ったんだな」
「俺、先輩にそこまで迷惑を掛けて、それで勝っても、あんまり素直に喜べる気がしないです」
「そんなの気にするなよ。心配しなくても、俺はお前に付き合って陸上部を辞めないわけじゃない」
加藤は穏やかに言う。
「陸上部を続けながらでも、受験勉強はやってるよ。勉強ばかりだと息が詰まるから、気分転換も兼ねて走っているんだ」
「けど、やっぱり陸上を辞めた方が、勉強に専念できるじゃないですか」
「おい、俺を見くびるなよ。陸上を続けたせいで受験に失敗するなら、その程度だったってことだよ」
加藤は爽やかに笑った。
大輔は先輩の姿を真っ直ぐに見つめ、黙り込む。
「それじゃあ、延期にするからな。俺は上野に事情を知らせてくる」
そう告げると、加藤は部室を出て行った。
大輔は先輩の背中を見送り、閉まったドアに視点を向ける。
その姿勢のまま、彼はしばらく無言で座っていた。
不意に大輔は、フッと笑いを漏らした。そして、ポツリと呟いた。
「ちくしょう、あの人、どこまでもカッコ良すぎるぜ」




