<13:恋と畳と柔道着(2)>
平井悟・・・柔道部員の高校2年生。
小原輝雄・・・平井の親友。
小原弥生・・・小原輝雄の姉。学校のOB。
秋田隆三・・・柔道部の主将。
瀬田伊織・・・テニス部員の高校1年生。
「いちにっ、いちにっ」
威勢のいい掛け声と共に、柔道部員がグラウンドをランニングしている。
放課後の稽古は、まず走ることから始まる。
他の部員に混じって、悟も足を振り上げている。
ランニングの時は下駄ではなく、運動靴を履いている。
本人は入部した時に、ランニングも下駄でやりたいと申し入れたのだが、それは顧問の教師に却下された。
部員はグラウンド5周のノルマを果たし、そのまま道場へ向かう。
そんな中、悟は最後列にいる主将の秋田に近付き、
「主将、自分、もう1周走りたいんですが、よろしいでしょうか」
と申し出た。
「どうした、平井?」
秋田は、怪訝な表情を浮かべる。
いつも練習熱心な悟ではあるが、そんなことを言うのは初めてだった。
「自分、まだ汗をかき足りません。それに最近、気持ちに緩みが出ています。もう少し走って、体を苛めておきたいんです。お願いします」
「分かった、もう1周、走ってこい。こっちは先に、道場で稽古を始めているからな」
秋田は承諾し、他の部員と共に道場へと走っていった。
それを確認した後、悟はグラウンドとは全く違う方向へ駆け出した。
そしてキョロキョロと辺りを見回しながら、何かを捜す。
「いた」
悟は立ち止まり、嬉しそうに呟く。
彼の視線の先には、文科系のクラブ棟へと歩く弥生の姿があった。
先程、ランニングをしている最中に、悟は彼女の姿を発見していたのだ。
悟は弥生に向かって、ランニングを始めた。
そして接近すると、たった今、気付いたようなフリをして、
「あっ、輝雄のお姉さんですよね」
と声を掛けた。
「あらっ、確か貴方は」
「輝雄の親友の、平井悟です。以前、お会いしました」
「ええ、覚えてるわ」
弥生は涼やかに微笑み掛ける。それだけで、悟はポッと顔を赤らめた。
「あ、あの、お姉さんは」
「お姉さんはやめてよ、弥生でいいわ」
「弥生さんは、今日は何の用事ですか」
「前に言ったかしら、演劇部の練習に付き合ってるって」
「はい。ああ、そうか、それですか」
「ええ、そういうこと。それより平井君は、どうして、こんな場所に?ここって、体育会系の部室は無いわよね」
弥生はクラブ棟を見上げる。
「えっと、ああ、その」
悟は、しどろもどろになった。
彼女を見た途端、無性に会いたくなってしまい、走ってきた。だが、そこにいる理由までは考えていなかった。
「気分転換で、いつもと違うコースを走っているんです」
咄嗟に彼は、口から出まかせを言った。
「へえ、そうなの。でも、他の部員の人達は?」
「自分だけ、普通のランニングとは別に、余計に走っているんです」
「練習熱心なのね。そうか、確か平井君は、2年で唯一、対抗戦のメンバーに選ばれたのよね」
「対抗戦のメンバーに選ばれたこと、知ってるんですか」
悟は驚いた。同時に、それを知ってくれていたことに感激した。
「ええ、輝雄から聞いたわよ。すごいわね」
「いえ、それほどでも」
誉められて、悟はポリポリと頭を掻く。
「いつなの、対抗戦は?」
「来月の12日です」
「それじゃあ、練習に熱も入るわけだ。だったら、こんな所で私と喋って、時間を無駄遣いしない方がいいわ」
弥生は冗談めかして言う。
「いえ、無駄遣いなんて、そんなことは」
「どうせ私も、これから演劇部だし。それじゃあね」
弥生は悟に手を振り、クラブ棟の階段を上がろうと手すりに手を掛けた。だが、すぐに振り返り、
「対抗戦、頑張ってね」
とエールを送った。
その言葉と微笑みは、悟の胸のド真ん中にズキュンと来た。
「は、はい」
悟は、なぜか直立不動で敬礼した。階段を上がる弥生を見つめながら、
「必ず勝ちます」
と、悟は宣言した。
その言葉は、もう2階に到達していた蘭の耳には届いていなかったが、そんなことは、どうでも良かった。
悟は、自分に誓ったのだ。彼女のために、必ず勝つと。
弥生が部室に入るのを確認して、悟はクラブ棟に背中を向けた。
急いで道場へ行こうとはせず、ゆっくりと歩きながら、弥生と話した余韻を楽しんだ。
「対抗戦、頑張ってね」
という弥生の言葉を脳内でリフレインして、悟は頬を緩ませる。
だが、どこからか、嫌な意見が心に飛び込んで来た。
(あれだけの美人なんだから、恋人がいるはずだ)
悟の顔が、一瞬にして不安に曇った。
そうだ、その通りだ。その恋人から奪うことなんて無理だろう。
所詮、自分なんかが惚れても叶わぬ恋なのだ。
そこまで心で呟いて、彼はハッと気付く。
(これは恋なのか)
今まで彼は、それを自覚していなかった。
「おい悟、何をやってるんだ」
不意に呼び掛けられ、悟はビクッとした。
声の方向に目をやって、輝雄だと分かり、とりあえず安堵する。
「何って、ランニングだよ」
怒ったように悟が答える。
「ランニングって、歩いている奴の言うことかよ」
「さっきまで走ってたんだよ」
「早く道場へ行った方がいいんじゃないのか。もう練習、始まってる時間だろ」
「言われなくても分かってる」
道場へ急ごうとした悟だが、
「なあ、輝雄」
と言って振り向いた。
「実は、知り合いから訊いてくれと頼まれたんだが、お前の姉さんには、付き合っている人はいるのか」
「姉貴の付き合ってる人?」
「ああ」
「それだったら、つい最近、恋人と別れたらしい」
唐突な質問だったが、輝雄は軽い感じで返答する。
「じゃあ、今はフリーってことか」
晴れやかな表情になった悟は、弾んだ声で確認を取る。
「そうなるな」
「そうか。いや、別に俺はどうでもいいんだが、知り合いから頼まれたもんだから。そうか、そうなのか。そうだ、もう俺は稽古に行くからな」
悟は言い終わるや否や、道場へと駆けて行った。
「何が知り合いだよ」
昌彦は呆れた表情で言った。
「あいつ、嘘が下手すぎるだろ」




