第9話 パンを一個、買いに来ました
店へ入ると、焼いたパンの匂いがすぐ近くにあった。
入口の脇に積まれたトレーへ手を伸ばしてから、俺はしっぽを抱えていることを思い出す。空いている手でトレーを持ってみるが、これではトングを取れない。
「持とうか」
三浦が隣から言う。昨日の階段でも、俺は買った水を持ってもらった。何か一つ持つたびに手伝ってもらうのでは、ひとりで買い物をするのは難しそうだ。
「……うん。今日は頼む」
あいつへトレーを渡して、俺はトングを取る。しっぽは反対の腕へ寄せ、先が棚へ触れない位置で支える。入口を塞がないように横へ動いたところで、ようやく商品を見られた。
前に来たときは、奥のカレーパンへ真っ先に向かった気がする。今日は入口近くの丸いパンにも、目が止まる。手書きの札に、ミルクパンと書いてある。少し離れたところには、胡桃のパンや、長いバゲットも並んでいる。
昨日まで選んでいたものを選ぶべきか、今食べたいものを選ぶべきか。一瞬そんなことを考え、自分で面倒なやつだと思った。昼飯を買いに来ただけなのだから、どれでもいいはずだった。
カレーパンを一つ、トレーへ載せる。慣れない手でトングを握るので少し力が入りすぎたが、潰さずに済んだ。
三浦も自分の分を取り、ほかの棚を眺め始める。俺は一個で帰るつもりだったのに、さっきのミルクパンがまだ気になっていた。
「それも取る?」
「……二個は多いかな」
「残したら、あとで食えばいいだろ」
そう言われて取ったものの、これから身体に合わせて食べる量も変わるのかと思った。昨日の弁当も、食べ終えるまで前より時間がかかった。分からないことはパンの棚の前にまであるらしい。
通路の奥から別の客が来たので、俺は三浦のほうへ寄った。しっぽの先が腕から滑り、慌てて抱え直す。
その人の視線が一度止まったのは分かったが、今は確認する余裕がなかった。毛をパンへ触れさせるほうが困る。棚から少し距離を取り、列の最後へ並んだ。
レジには、エプロンをつけた店員がいた。三浦がトレーを置くと、俺の頭のあたりへ目を向け、それからしっぽを見る。
「こちら、全部ご一緒でよろしいですか?」
「あ、別で。この二つが俺のです」
自分のパンを指で示すと、店員は頷いてトレーを二枚へ分けた。驚いたかどうかより、注文を間違えずに伝えるほうへ気持ちが向く。
財布を取るために鞄を開けようとすると、今度はトングをまだ持っていることに気づく。三浦に小さく指摘され、返却する場所へ置く。
店員は二つのパンを紙袋に入れ、カウンターへ置く。
「持ち帰り用の袋もご利用になりますか?」
紙袋には持ち手がなかった。このまま受け取ると、片腕でしっぽを抱え、もう片方の手でパンを持つことになる。俺は肩に掛けた鞄を見て、中に入れることにした。
「いえ、鞄に入れるので大丈夫です」
先に会計を済ませようと財布を開いたが、小銭をつまむ指にまだ慣れず、十円玉を一枚取り損ねた。落とさないように出し直し、店員へ渡す。時間はかかったものの、三浦に頼まず支払いを終えられた。
財布をしまってから鞄の中を整える。水のボトルを端へ寄せ、書類は折れないよう背面へ立てる。空いた場所へ紙袋を入れ、パンが潰れないことを確かめてから、店員に礼を言う。
「あの、しっぽのお客様」
鞄を閉めて振り向きかけたところで、声をかけられた。俺は肩を跳ねさせ、しっぽを抱えた腕に力を入れる。
店員が床のほうを指している。
「お財布の紐、垂れてます。扉に引っかかるかもしれないので」
見ると、ポーチから移した財布の短いストラップが、鞄の外へ出ている。慌てて入れ直し、もう一度礼を言う。
俺が入り口へ向かうと、店員は次の客の注文を聞き始める。しっぽのお客様、と呼ばれたことが、出てからじわじわ気になってきた。
「今の、俺のことだって分かった」
三浦へ言うと、あいつは自分の袋を持ったまま、少し笑う。
「ほかにいなかったからな」
「そうだけど」
普通のお客様として買い物をして、その中でしっぽが目印になっている。聞き返す前に自分だと分かったことまで含めて、何だか妙な気分だ。
でも、パンの入った鞄は俺が持っている。袋が潰れないように位置を直し、俺は三浦の横へ並んだ。
*
帰ってフードを下ろすと、耳のまわりが急に涼しくなった。
少し蒸れていたらしい。長くかぶるなら、ほかの方法も考えたかった。三浦は持ってきた飲み物を出し、俺は買ってきたパンを机へ並べる。
「まだ温かい」
袋を開けて呟くと、三浦が座る前に笑う。
「帰り、そこそこ早かったよ」
「そうだった?」
「うん。行きより止まらなかった」
帰る場所を知っていたからかもしれない。パンを潰したくなくて、鞄へ気を取られていたせいもあっただろう。病院で聞いたことを思い返していたら、もっとゆっくりになっていた気がする。
俺は手を洗い、カレーパンを半分に割った。いつも一口で食べようとして熱い思いをするので、今日は最初から小さくする。
中から湯気が少し出て、見慣れた具が見える。
病院へ行っても、戻る方法は分からなかった。明日も、明後日も、この身体かもしれない。さっき医師へ聞いたときの気持ちが、食べ始める前に戻ってきた。
「……何も分かんなかったな」
三浦は袋を畳む手を止める。分かったこともある、と言ってくれるかと思ったが、あいつはすぐには答えなかった。
「今日、答え出なかったのは、きついな」
俺は頷く。平気なふりをして帰ってきたつもりはないが、ちゃんと落ち込んでいていいと言われたような気がする。
「昼飯買ってる場合かって、ちょっと思った」
「……でも、食わないと腹減る」
「そうなんだよ。もう腹減ってる」
口にしたら、少し笑える。原因が分からなくても、買ってきたパンを食べていい。俺は小さく割ったほうをかじり、いつもの味だと確かめる。
ミルクパンは半分だけ食べ、残りを袋へ戻す。今の腹にはそのくらいでよかった。何でも以前と同じ量にしなくていいのだと、紙袋を閉じながら思った。
食べ終えて母さんへ電話し、診察のことを伝える。原因や戻り方は分からず、ほかの検査や診てもらう先を確認して連絡をくれる予定だと説明する。
母さんは一度、受け入れ先の返事はいつ頃なのかと聞く。まだ聞いていないと答えると、ああ、そう、と言ったあと、俺が困っている様子を見て、急いで追加の質問をするのをやめる。
「帰って、ご飯食べたのね」
「パン買った。俺が選んで、会計もした」
「そう。帰りに寄れたんだ」
母さんの声が少し和らいだ。これが受診の結果とは別の報告だということを、ちゃんと聞いてくれた気がする。
訪問の時間を確かめ、持ってきてほしいものを聞かれたので、裁縫道具はあるが何を使えばいいか分からない、と答える。母さんは家の道具も少し持ってくると言う。服を改造するかどうかは、見てもらってから考えることになった。
三浦の午後の講義に間に合うよう、電話は短めに終える。あいつを玄関まで送ると、次は一緒にトレーを持たずに済む方法を考えよう、と言われる。
「そこまで手伝わせる気はないけど」
「お前が考えたら、俺にも教えてってこと」
そういう意味かと思って頷く。三浦は自分の靴を履き、じゃあ、と手を上げる。俺はしっぽを扉からよけ、今日は昨日より迷わずに見送れた。
*
母さんが来るまで、まだ時間があった。
少し休んでから、俺は机へ鞄とタオルを並べる。帽子や階段の相談はしたかったが、一度に全部話すと、何を聞きたいのか分からなくなりそうだ。まず、今日一番手が足りなくなった場面からにした。
配信のタイトルは、『しっぽを持つと、買い物の手が足りません』にした。
カメラに映すのは、机と鞄、それから膝へ寄せたしっぽの先まで。買ったパンの袋は店の名前が入っていたので、先に引き出しへしまった。病院の控えも映らない場所へ置く。
始めてしばらくすると、ねじまきが来る。今日は糸日和の名前はない。二人とも、俺が配信をするたびに来られるわけではないのだろう。
『昨日、乾いた?』
最初のコメントに、俺はメモを見ずに答えられる。
「乾きました。その毛量で、って言われたの、正しかったです。俺、甘く見てました」
『だいぶかかった?』
「風呂より、乾かしてるほうが長かったです。三枚出したタオルも使いました」
机へ畳んで置いたタオルは、今朝、鞄へ入れたものだ。昨夜の三枚は洗濯かごにある。乾くまで時間がかかるものが身体に増えたうえに、洗濯するものまで増えている。
俺はそこまで話してから、今日の相談へ戻った。病院の話はしないで、店へ行ってパンを買ったことと、トレーを友達に持ってもらったことだけを伝える。
「俺はトングを持って、反対の腕でしっぽを支えてました。財布を出すときには、また別の問題があって」
『しっぽを毎回持ち歩くのが大変なのか』
「そうなんです。下ろして歩けるならいいんですけど、先が道に触れるのが気になって。人がいるところだと、ぶつけそうなのもあって」
しっぽを放しているときの位置を説明したくて、紙に身体としっぽの絵を描いた。斜めに伸びていたり、気づくと下がっていたりするので、線が一本では足りない。
ねじまきから『その描き方だと、動く範囲も考えるやつだね』と届く。俺は昨日作った服の図を思い出した。止まっているときに収まればいい、というだけではないのだ。
『紐で吊るのは、どこに力がかかるか分からないから、今は勧められない』
次のコメントを見て、俺は机に出しかけていた鞄の紐から手を離した。ちょうど、輪を作って通せば支えになるかと思っていたところだ。
「それ、今やろうとしてました」
『また先にやるところだった?』
「やる前に聞いてます」
自分でも少しおかしくなった。服を切る前に聞き、濡らす前にタオルを出し、今日は身体へ何か巻く前に相談している。少なくとも、昨日よりは先を考えていた。
ねじまきは、しっぽ自体を動かせないのかと聞く。俺は画面を見たまま、根元へ少し力を入れてみた。
しっぽが持ち上がり、先がクッションから浮く。そこで止めてみると、腰の後ろに妙な力が入っているのが分かる。腕を上げたときほど、どこへ力を入れればいいかはっきりしなかった。
「少しは動く。でも、ずっと考えてないと、戻るんです」
財布を取ろうと手を伸ばしたところで、しっぽの先がまた下がった。俺が何か別のことをすると、すぐ意識から抜けてしまう。
『ああ、持てないんじゃなくて、気を取られると落ちるのか』
そのコメントを読んで、俺はしっぽへ目を落とす。手で持つ必要があると思っていたが、自分の力で持ち上げること自体はできている。
それを歩いている間や、買い物をしている間も続けられるかどうかは、別の話だ。
『じゃあ、まず何もしないで上げていられる時間を見てみたら? 無理のない範囲で』
「それなら、ここで試せます」
机を少し離し、椅子から立つ。画面にはしっぽの先だけが残るようカメラの角度を直す。最初は手で位置を確かめ、それから放した。
長くは続かなかった。スマホの時計を見ようとして首を下げると、しっぽも下がる。もう一度やっても、別のことを考えた瞬間に緩んだ。
「なんか、左手で初めて字を書くみたいです」
『使えるけど、まだ慣れてない感じか』
「たぶん。できないと思って、ずっと手で持ってました」
試してみると、楽に力が入る方向と、そうでない方向があった。自分の身体についているのに、腕や脚と同じようには動かせない。ただ、昨日、椅子に挟んでから勝手に逃げた感触には、少し近かった。
それを長く続ける前に、俺は椅子へ戻った。腰の後ろが少し疲れていて、これ以上やると雑になりそうだ。
「今日は、このくらいにします。すぐ買い物できるようにはならなかったけど、何を試せばいいかは分かりました」
『会計だけなら、先に財布を出しておくのも手』
最後に届いた助言へ、俺は大きく頷く。しっぽの扱いが上手くなるまで全部待つ必要はないのだ。鞄の中で物を探す時間を減らすだけでも、あのレジでは助かりそうだ。
礼を言って配信を終え、履歴の公開範囲を自分だけへ変える。今日のメモには、『しっぽを少し上げられる』『財布は先に出す』と書く。
机の前で、もう一度だけしっぽの先を持ち上げた。さっきより少し楽な気がしたが、気のせいかもしれない。それでも、毎回手で抱えるしかないと思っていたときよりは、試す気になれた。
母さんが来る前に部屋を片づけようと立つと、引き出しへしまったパンの袋が目に入った。残っていたミルクパンを取り出し、袋の口を折り直す。
この店なら、次も買いに行けるだろうか。トレーを持って、パンを選び、財布を出す。今日三浦に助けてもらったところを頭の中で辿ると、次に練習したいことが一つ、はっきりしていた。
俺は残りのパンをひと口かじってから、今度は両手で机を拭いた。しっぽの先は途中で下がったが、今日はここなら床についても大丈夫なよう、先に掃除をしておこうと思った。




