第10話 母さんにも、分からない
母さんは、予定していた時刻より少し早く着いた。
階段を上がる足音が止まり、呼び鈴が鳴るまでの短い間に、俺はTシャツの裾を直す。さっきまで机を拭いていたのに、急に服の後ろが気になったのだ。
扉を開けると、肩掛けの鞄と大きな布袋を持った母さんが立っている。何か言いかけた口が、そのまま止まる。
「……入って。荷物、置けるから」
俺が半歩下がっても、母さんはすぐには動かなかった。顔を見て、頭の上へ目を向け、それから服の脇へ出ているしっぽを見る。
画面越しでは何度も見せていたが、目の前にいると違うのだろう。三浦も、最初は玄関で固まっていた。
母さんが靴を脱ぐのを待ち、袋を受け取ろうと手を出すと、その手を見られた。昨日までより小さくなった指を、母さんは何かを確かめるように眺める。
「これ、重いよ」
「机までだろ。持てる」
そう言うと、ようやく袋を渡してくれた。受け取ると意外に重く、俺は両手で抱え直す。裁縫道具だけではなく、食べ物も入っているらしい。
しっぽを上げようとしたが、荷物へ気を取られた途端、先が下がった。今度は何も言わず、そのまま机まで運ぶ。床はさっき掃除したばかりだった。
「座るところ、ここでいい?」
母さんが椅子を見て聞いたので、俺は少し迷う。普段なら母さんを椅子へ座らせ、自分は床に座る。今日はしっぽをクッションへ置くため、椅子の横に箱まで出してあった。
「俺、こっち使いたい。今、この形だと楽に座れるから」
「ああ、そうか。いいよ。私は床で」
母さんは持ってきた鞄を下ろし、机の脇へ座る。俺がしっぽをクッションへ乗せるところを見て、小さく息を吐く。
その音が気になったが、何のため息かを確かめる勇気はない。
袋から出てきたのは、保存容器がいくつかと、卵や牛乳、それから裁縫道具の入った缶だ。冷蔵庫へ入れるものを教えられ、俺はすぐ立ち上がった。
「私がやるから、座ってていいよ」
「置く場所は分かるし。俺が入れる」
言い方が少し強くなり、母さんの手が止まる。別に、やってもらうのが嫌なわけではない。昨日からずっと助けてもらっているし、食べ物もありがたい。ただ、部屋に来た途端に全部やってもらうと、もう自分では何もできないような気がしてしまった。
容器を一つ入れたあと、冷蔵庫の前で振り返る。
「持ってきてくれたのは、助かる。ありがとう」
母さんは少し驚いた顔をして、それから、うん、と頷く。俺は残りも冷蔵庫へ入れ、空になった袋を畳んで机へ戻す。
*
向かい合ってから、今日の診察の話をもう一度した。
電話では伝えきれなかった受付でのやり取りや、先生が耳としっぽを確かめたことも話す。母さんは控えを読み、病院からの連絡が来ていないかを聞く。
俺はスマホを確かめたが、着信はない。画面を机へ戻すと、母さんが少し言いにくそうに口を開く。
「一度、家へ帰ってこない?」
その話になることは、どこかで分かっていた。それでも、すぐに答えられなかった。
「向こうなら、着るものもご飯も、私たちが手伝えるし。病院へ行くときも車で送れるでしょう」
「今、ここで次の病院を探してもらってるから」
「それは、連絡をもらってから戻ってきてもいいし」
母さんの言うことは分かる。実家なら、階段を下りて食事を買いに行く必要はない。困ったらすぐ聞ける人もいる。
けれど、今日パン屋で会計をしたことを思い出すと、全部を置いて帰るのは、まだ早いように感じる。
「大学もある。今日と昨日は休んだけど、このままずっと休むって決めたわけじゃない」
「今の姿で行くつもりなの?」
その言葉には、思ったよりはっきりした不安があった。俺は耳へ手をやりかけ、膝の上へ戻す。
行けば何とかなる、と言えるほどの自信はない。友達や先生へ、ひとりずつ昨日の朝の話をするところを想像すると、それだけで疲れてしまう。
「まだ分かんない。でも、行けないって決める前に、大学にも相談したい」
母さんはしばらく黙っている。その間、俺は次の言葉を探して、今度は黙ったまま待つ。
「一人で暮らせるか、私は心配なの。昨日から何が起きたかも分からないし、戻るのかどうかも分からないでしょう」
「俺も、分かんないよ」
少し強く返してしまい、口を閉じる。母さんを困らせたいわけではない。俺より分かっているように話しているわけでもないのに、同じ不安をもう一度聞くと、どうしていいか分からなくなった。
母さんは控えを机へ置き、小さく頷く。
「そうだね。私も分からないのに、帰ってくれば大丈夫みたいに言っちゃった」
その言葉で、ようやく顔を上げられた。
母さんが来れば、何かを決めてもらえる気がしていたのかもしれない。帰りたいわけではないのに、帰ってこいと言われれば迷ってしまう。それを俺自身も、うまく整理できていなかった。
「病院の連絡と、大学の相談。それをやってから、もう一回考えたい。困ったら、帰るのも考える」
そう伝えると、母さんは今度はすぐに頷く。ただし、無理をしているのに平気と言わないことと、何か変わったら連絡することを約束させられた。
俺も、ここへ来てくれたことまで無駄になるわけではないと伝える。明日は病院の連絡を待つ間、母さんにもいてもらえたら助かる。
母さんは駅の近くに部屋を取ったから、明日も来られると言う。今日中にそのまま帰るつもりではなかったらしい。
少し安心して、俺は机の脇の引き出しを開ける。病院のことは、今、二人で考えても返事が出ない。でも、来てくれた母さんと相談したかったものは、ほかにもあった。
「服。これ、見てもらっていい?」
*
古い短パンと、配信で描いた紙を机へ並べると、母さんはまず紙を手に取る。
後ろに丸を描いただけの最初の案から、腰を開いて最後に留める形へ直したものまで、順番に見比べる。俺がどこから着るつもりだったかを説明すると、母さんは腰の縫い目を指でなぞった。
「最初の丸、ずいぶん大きいね」
「しっぽの先から通すつもりだったから」
「そこまで開けたら、座ったとき困ったかも」
切らないでよかった、とまた思った。母さんは持ってきた缶を開けたが、すぐにハサミを出すことはしなかった。
「私も、こんな服を直したことないから。まずは、どこが当たるか見せて」
俺は立ち上がり、しっぽの出ている位置を横から見せた。触って確かめたいと言われ、先に場所を教えてもらってから頷く。
母さんの指が根元の近くへ来ると、身体に力が入った。それに気づいたらしく、母さんは一度手を引き、指で示すだけでもいいよと言う。
「痛いわけじゃない。でも、人に触られるの、まだ変な感じがする」
「分かった。じゃ、ここって教えて」
自分の手で位置を示すと、母さんは紙へ短い線を引く。腰の高さだけではなく、座るときにどの辺が動くかも聞かれる。椅子へ戻ってしっぽを横へ出すと、先生の前で身体を確かめたときより、説明する言葉が出てきた。
痛む場所と、布が引っ張られる場所。昨日から何度も直したところだったので、どうすると嫌なのかは分かっていた。
母さんは短パンの後ろの縫い目を見て、開く場所を決めても、腰がずり落ちない工夫が要ると言う。俺には、しっぽを出せることしか頭になかった。
持ってきた袋から余り布を出し、母さんは机へ広げる。いきなり服に手を入れるより、開く部分だけ別の布で試してみよう、という話になった。
「今夜、これで着替えられると思ってたんだけど」
「今着てるのは使えるんでしょう。急いで一枚駄目にするより、ちゃんと考えたい」
それもそうだ。糸日和に聞いたときは、作れる人ならすぐ形にできるのかと思っていたが、母さんだってしっぽのある服を縫ったことはない。
普段のボタンつけや裾直しとは違うのだろう。俺は紙を引き寄せ、布へ写すための位置を一緒に確かめる。
途中で、母さんが毛の量を見ながら呟いた。
「お風呂、大変そうだね」
「洗うより、乾かすほうが大変だった」
昨夜のことを話すと、母さんはタオルを三枚使ったところで眉を上げた。乾いたら元の大きさに戻ったと説明し、しっぽの先を少し持ち上げてみせる。
「これ、少しなら自分で動かせるんだ」
「自分で?」
「でも、ほかのこと考えると落ちる」
母さんへ説明しようとした瞬間、しっぽは案の定下がった。二人で同じところを見てから、俺が先に笑ってしまう。
「ほら、今みたいに」
「……本当だ」
母さんも小さく笑う。その顔を見て、さっき玄関で言葉が止まったときより、少しだけ安心する。
俺の耳やしっぽを見て驚くことと、俺と同じことで笑うことは、両方できるのだ。変わってしまった姿を見ないふりしてもらう必要までは、ないのかもしれなかった。
母さんが布へ仮の縫い目をつける間、俺は針の入った小さなケースや、糸の色を見せてもらった。裁縫道具を一式持っているのに、それぞれ何に使うかはほとんど知らなかった。
用意してもらうだけでなく、自分でも直せるようになりたいと言うと、母さんは針へ糸を通すところからやってみようと答える。
糸は思ったところへ行かなかった。指が小さくなったせいにしたくなったが、昨日までだって上手くできた自信はない。
何度かやり直してようやく通ると、母さんは布の端を押さえ、ここなら外へ縫い目が出ても大丈夫だと場所を示す。
最初の一針を入れるために身を乗り出すと、横に置いたしっぽが箱からずれた。俺は針を置いて位置を直し、もう一度布を持つ。
「いちいち、こっちも面倒見なきゃいけない」
「クッション、もう少し近づけたら?」
母さんに言われたとおり動かすと、腕を伸ばしても落ちにくくなった。ひとつ直したらずっと同じでいいわけではなく、やることに合わせて変える必要もあるらしい。
机へ向かって縫うには、この位置のほうが楽だ。
*
夕飯は、持ってきてもらった煮物と、部屋にあったご飯を温めて食べる。
母さんは床に座り、俺は椅子に座っていたので、見下ろすような形になってしまった。少し落ち着かないが、今日はこのほうがしっぽを置ける。母さんもそのことを分かっていて、座る場所を替えようとは言わなかった。
布で作った試しの形は、まだ机の上にある。紐を留める位置は分かったが、実際の服で着たり座ったりできるかは、これからだ。今夜中に完成しなくても、次にやるところは見えている。
母さんが食器を持って立ちかけたので、俺は半分受け取り、台所まで運んだ。全部自分でやるとも、全部任せるとも決めず、二人で少しずつ片づける。
「配信の人にも、お礼言った?」
皿を洗っていると、後ろから聞かれる。どんな相談をしたかを話す途中で、配信のことも説明していたのだ。
「服買えたって、昨日言った。今日も買い物の話した」
「話せる人がいるのは、よかったね」
母さんはそう言ってから、俺の顔を見る。
「喋り方は変わらないのね」
「自分じゃ、同じつもりだけど。声は全然違うだろ」
「声はね。でも、説明するときに早口になるところ、前からそうだった」
皿へ目を戻して、俺は少し笑う。自分の声を聞くたびに、知らない誰かが話しているような気がしている。母さんには、今の声でも俺の癖が分かるらしい。
母さんはそれから少し迷い、ちゃんとした事情はどこまで話しているのかと聞く。
俺は顔も本名も出していないこと、しっぽについても詳しく説明していないことを伝える。母さんが心配するのは分かったし、俺も、今は何でも話せばいいとは思っていなかった。
「どこまで続けるか、まだ分かんない。でも、昨日は本当に助かったから」
母さんは頷く。気をつけてね、と言われ、俺も分かってると返す。大学へ行く話のときほど、互いに急いで何かを決めようとはしなかった。
駅の近くへ向かう母さんを玄関で見送ったあと、俺は机へ戻った。針はケースにしまい、試しの布を紙の上へ重ねる。今日縫ったところは、よく見ると長さが揃っていなかった。
それでも、自分で入れた縫い目だった。次はもう少しまっすぐにできるか、試したくなる。
その前に、大学の学生相談窓口のページを開く。どこまで書けばいいかはまだ迷ったが、身体に急な変化があり、受診を続けることになりそうなことと、今後の授業について相談したいことを短くまとめた。
書いて読み返すと、耳もしっぽも、性別の変化も説明していない文章だった。これで用件が伝わるか不安になり、母さんへ相談することも考えた。
けれど、最初から全部をメールへ書かなくても、話す機会を作ることはできる。受付で空欄について聞いたときのように、分からないところは、その場で相談してもいいのだろう。
もう一度だけ文章を確認し、俺は送信した。返信が来るのは明日以降だろう。今夜のうちに何かが解決するわけではなかったが、大学へどう話すかを考えるところから、一つ進めた。
母さんへ『大学に相談のメール送った』と連絡すると、しばらくして『明日、また一緒に考えよう』と返ってきた。
俺はその返事を読んでから、机の上の布を畳んだ。母さんにも分からないことはある。それでも、一緒に考えてくれる人がもうひとり増えたことは、今日ここへ来てもらってよかったと思えた。




