第8話 戻し方は、まだ分からない
アラームが鳴るより先に、廊下の足音で目が覚めた。
誰かが階段へ向かい、しばらくして自転車の音がする。そこまで聞いてからスマホを見ると、起きるつもりだった時刻まで、あと十数分あった。
寝返りを打ちかけ、途中で身体を止める。しっぽはクッションの上に載ったままで、昨夜より少し毛が乱れていた。今日も変わっていないことを確かめるのに、鏡は要らなかった。
そのまま枕へ顔を伏せる。昨日は目覚めたときに驚いて、次に何をすればいいか考えるので手いっぱいだった。今朝は、これが続いていることに、最初から気づいてしまった。
それでも今日は病院へ行く予定がある。スマホに入れた時刻を見てから起き上がり、まず朝食を用意した。
食パンを焼き、残っていた牛乳を飲む。椅子の横へしっぽを置いて食べるところまでは、昨日よりずっと早かった。
支度には、まだ手間取る。スカートを巻き直すうちに紐がねじれ、Tシャツを着るときには耳をよけるのを忘れそうになる。棚から出した帽子は頭の上まで下りず、無理に押す前に諦めた。
結局、前から持っていたパーカーを羽織ることにした。袖は折り返す必要があったが、フードには耳の入る余裕がある。少し深めにかぶると、鏡の中では耳の形が目立たなくなった。
顔の脇に布が触れ、外の音も少し違って聞こえる。ただ、頭を下げると視界が狭くなるので、紐は締めずにおいた。
三浦が来たときには、鞄を身体の前へ下げて玄関に立っている。
「早いな」
「早く起きた。あと、帽子は駄目だった」
フードを少し持ち上げると、三浦が頷く。耳が潰れていないか確かめてから、いつもよりゆっくり玄関の鍵をかける。
しっぽを完全に隠すものは、まだなかった。身体の脇へ寄せて手で支えると、昨日より整った毛が腕に触れた。せっかく時間をかけて乾かしたので、道へ擦りたくなかった。
「歩きにくくなったら、途中で止まる」
「うん。間に合う時間にしてるから」
三浦はスマホで道を確かめ、先に階段を下りた。俺も手すりを握り、昨日と同じ順番で足を置く。
今日は自動販売機の前で引き返すわけではない。入口の向こうで車が通り過ぎたのを見て、俺はフードの端を少し直す。
*
病院までの道は、知らない場所ではない。
大学とは逆の方向だが、スーパーへ行くときに通る。曲がる角も、途中にあるパン屋も覚えている。それなのに、歩道の縁が近く感じられ、向こうから人が来るたびに足を止めそうになった。
最初は三浦の後ろを歩いていたが、しばらくすると、あいつが振り返る回数が増える。
「横でいい?」
「うん。しっぽ、そっちに当てないようにする」
並んで歩くと、通り過ぎる人を見る回数が少し減る。代わりに三浦の肩や腕が視界に入る。信号の手前では、あいつが止まったので俺も止まれた。
車の音が途切れてからも、耳は別の音を拾っている。店のシャッターを開ける音、掃除をしている箒の音、誰かのスマホの着信音。気になるたびに首を向けると疲れそうだったので、なるべく足元と前を交互に見ながら歩く。
パン屋の前を通ったところで、俺は初めて予定とは別のことを考える。昼に何か買って帰ってもいいかもしれない。昨日の買い物より遠い場所まで来ているのに、そんな考えが浮かんだことに少し驚いた。
「休む?」
三浦に聞かれ、首を振った。立ち止まっていたのは疲れたからではなかったが、説明するのも変な気がして、店の中を見ていたとだけ答える。
病院の入口へ着くと、ガラスに今の自分が映る。フードをかぶり、鞄を前へ下げ、腕にしっぽを載せている。昨日用意した服を着た姿で、ちゃんとここまで来ていた。
扉が開いたので、俺はそのまま中へ入った。
待合室には何人かいた。受付へ近づいたところで、フードを外すか迷う。しっぽを見てから顔へ目を上げた人がいて、俺は先に、昨日電話した瀬川です、と声をかけた。
受付の人は予約の一覧を見て頷き、持ってきた書類を確かめる。記載されている情報と今の俺を見比べ、少し待っていてほしいと言ったが、声を大きくすることはない。
渡された用紙には、名前や連絡先を書く欄があった。椅子へ座ろうとして、背もたれと壁の間が狭いことに気づく。俺が迷っていると、端の席を使ってもらっていいと言われる。
しっぽを横へ寄せ、鞄から出したタオルを膝へ広げる。昨夜、ボトル以外にも使うかもしれないと思って入れたものだった。少し窮屈だったが、毛を床へ垂らさずには済んだ。
用紙へ普段の名前を書き、説明が必要な欄では手が止まる。
俺は書類にある情報を変えるべきなのか。それとも、今見えている身体に合わせるべきなのか。隣の三浦へ見せると、あいつも少し考え、空けておいて聞こう、と言う。
受付へ戻って相談すると、その欄は医師へ話してから確認することになった。すぐ決めなくていいと分かり、俺はようやく用紙を渡せた。
待っている間、テレビから朝の番組の声が聞こえている。壁の時計の音も、その横で小さく続いている。
三浦はスマホを見ずに座っている。俺が何か言うのを待っているのかもしれないと思ったが、今は言葉が出てこなかった。
名前を呼ばれると、立つ前にしっぽを持ち上げ、タオルを畳んだ。昨日から何度もやった動作だったので、その部分だけは迷わずにできた。
*
診察室にいたのは、眼鏡をかけた女性の医師だ。
机の名札には新田と書かれている。俺を見て一瞬手を止めたあと、医師は三浦にも目を向け、付き添いの友人かと聞く。
「はい。昨日から、いろいろ手伝ってもらってます」
「診察中も、一緒に聞いてもらって大丈夫ですか」
俺は頷く。三浦がいて困ることより、ひとりで全部説明するほうが今は怖かった。
新田先生は背もたれのない丸椅子を少し動かし、座れるか確かめてくれた。しっぽを身体の横へ出せるので、待合室よりは楽だ。
フードを下ろすと、先生の視線が頭の上へ止まる。
「……失礼。電話で伺っていましたが、実際に見ると、驚きますね」
驚いているのだと口にされて、俺はなぜか少し安心した。さっきから受付でも待合室でも、相手がどこまで気にしているかばかり考えていたからかもしれない。
先生は手元のメモへ目を戻し、いつから何に気づいたのかを尋ねた。
昨日の朝から順番に話した。痛みで目が覚め、身体が小さくなっていることに気づき、鏡を見たこと。声も顔も変わり、服や靴の大きさが合わなくなったこと。しっぽを触ると感覚があり、耳は音に反応して動くこと。
説明の途中で、思ったより話すことが多いと気づく。配信や買い物の話へ逸れそうになったところでメモを見ると、聞かれたことへ戻れた。
三浦は、変化する前の俺を知っていることと、昨日から一緒にいた間の様子を話した。先生は俺が用意した写真も見たが、それだけで何かを決めたような顔にはならなかった。
「朝、急に変わったということについて、今ここで原因を説明するのは難しいです。まず、現在の状態を確かめさせてください」
そう言われてから、身体の具合について幾つか聞かれる。寝られたか、食事を取れたか、今困っている痛みがあるか。しっぽを挟んだときは痛かったが、今は特に痛まないと答える。
昨夜の風呂について話すと、先生は乾かすときに熱く感じた場所が残っていないかも聞いた。何もないと答えたあと、俺はふと、毛量だけでなく、身体についているものだと改めて考える。
耳としっぽを実際に確かめる前には、そのたびに触れていいかと聞かれる。根元を見るため少し服をずらす場面では、三浦に待合室へ戻ってもらった。
俺が自分で服を整えるあいだ、先生は手元の記録を見ている。手順が一つずつ分かるだけでも、ずっと身構えたままではいられずに済んだ。
毛をよけて触れられると、三浦が表面を撫でたときより、どこを確かめているかはっきり感じられた。引っ張られなければ痛くはない。でも、自分に昨日までなかった場所を診てもらうのは、思っていたより変な気分だった。
先生は途中で一度、手を離して考え込んだ。
「この耳もしっぽも、身体の一部になっているようです」
俺はしっぽへ目を落とす。触れば感覚があるし、取れないことも分かっている。それでも、先生に身体の一部だと言われると、これからもこの姿で暮らすことになるのかもしれないと思った。病院に来れば、元に戻す方法を何か教えてもらえるのではないか。そんな期待をしていたぶん、返事をするまでに少し時間がかかった。
服を直して三浦を呼び戻したあと、先生は椅子へ座り、こちらへ向き直った。
「ここでできる確認だけでは足りません。ほかの検査や、診てもらう先も相談したいです。情報をまとめて、受け入れ先を確認してから、また連絡します」
俺は膝へ置いた手を見た。どうしてこうなったか分かるものだと思っていたわけではない。けれど、ここへ来れば、分からないことが少し減るのではないかとは思っていた。
耳も、しっぽも、昨日よりよく扱えるようになっている。その一方で、身体そのものについて分かったことは、まだほとんどなかった。
「……戻る方法って、ありますか」
質問すると、先生はすぐに答えず、俺を見る。横の三浦も、身体を少しこちらへ向けたのが分かる。
「今は、あるとも、ないとも言えません。私には初めての状態ですし、調べる前に約束はできないです」
俺は頷く。期待した答えではなかったが、戻れないと決まったわけでもない。そう考えようとしても、今は気持ちがうまくついてこなかった。
「生活で困っていることも、メモに残しておいてください。どう動くと痛むか、何が以前と違うか。分からないところは、分からないままで構いません」
父さんにも同じようなことを言われたなと思った。俺はスマホを出して、昨日から書いていたメモを見せる。
先生は『階段』『帽子』と続く文字を読み、こちらを見て、外へ出る準備にも時間がかかったでしょう、と言う。
それは診断ではない。でも、服を着て靴を履くところから、ここへ来るまでの話まで聞いてもらえた気がする。
*
受付で書類と支払いについての説明を聞き、確認が残る部分は後から連絡をもらうことになった。俺は控えを鞄へしまい、三浦と一緒に外へ出た。
フードをかぶり直すと、診察室で下ろしていた耳へまた布が触れる。行きより風が少し強く、しっぽを持った腕にも毛が揺れる。
「疲れた?」
三浦に聞かれ、俺は頷く。歩いたことより、戻れるかと聞いたあとのほうが、ずっと疲れている。
先に母さんへ連絡しようと思ったが、文章を考えると、その場で立ち止まってしまいそうだ。ひとまず『診察終わった。帰ってから電話する』とだけ送る。
角を曲がると、さっき見ていたパン屋があった。入口の横へ、本日のおすすめと書いた小さな看板が出ている。
俺はその文字を読み、足を止める。三浦も少し先で止まり、振り返る。
「寄る?」
返事をするまでに、少し時間がかかった。
先生は戻せると言わなかった。今日中に原因を調べることも、次の病院を決めることもできない。それなのに昼飯のパンを選ぶのは、何か間違っているような気がする。
でも、朝に食べたのは食パン一枚と牛乳だ。昨日も、元へ戻る方法が分からないまま弁当を食べ、風呂へ入っている。
自分が変わってしまったことを、考え続けていれば戻れるわけではないのだろう。
「……一個、買って帰りたい」
「いいよ。俺も昼の分、買う」
三浦が扉へ手を伸ばしかけ、俺のほうへ譲った。自分で開けるか、と聞かれたような気がして、俺は鞄の位置を直し、空いている手で取っ手を握る。
昨日の自動販売機より、少し先まで来ていた。焼いたパンの匂いを吸いながら、俺はしっぽが扉に挟まらないよう、ゆっくり中へ入った。




