第7話 洗うより、乾かすほうが長い
明日使う鞄を決めたのは、三浦が帰る少し前だった。
いつものリュックを背負ってみると、歩くたびに底の部分がしっぽの根元に当たる。肩紐を短くすれば位置は上がるが、今度は背中に重さが寄りすぎる。大学へ持っていく資料を入れる必要はないので、結局、棚にあった小さな肩掛け鞄を使うことにした。
こちらは財布とスマホを入れても余裕があり、ボトルも横にすれば収まる。身体の前へ持ってくれば、しっぽともぶつからない。
「明日、何持っていくんだっけ」
三浦に聞かれ、病院の電話でメモしたものを確かめる。書類と財布を入れ、説明するときに見せられるよう、変化する前の写真もスマホで探しておく。昨日までの自分が友達と並んで写っているのを見つけたが、今は長く眺めていられなかった。
画面を消すと、三浦が折り畳んだレシートを差し出している。
「これ、今日買った分。急がなくていいから」
「今やる。あとにすると忘れる」
金額を足して送金し、受け取ったことまで確かめてから、ようやく今日の買い物が終わる。机に残った袋を片づけると、見慣れないものがずいぶん増えている。どれも自分が必要だと言って買ってもらったものだ。
三浦は靴を履いたあと、玄関で少し迷うようにこちらを見る。
「夜、大丈夫そう?」
「たぶん。飯は冷凍のがあるし、寝る場所もどうにかなった」
「何かあったら連絡して。起きてる間は見る」
頷くと、あいつはいつものように、じゃあ明日、と言う。俺も同じ言葉を返したが、扉が閉まったあと、少しのあいだ玄関に立っている。
半日もいなかったはずなのに、三浦のいない部屋は急に広く感じる。あいつが座っていた場所には、何も残っていない。それでも、椅子の横にクッションがあり、玄関には明日履ける靴があった。
夕食の冷凍うどんを温めるときは、しっぽを脚に沿わせ、ゴミ箱から離れて立つ。朝と同じ失敗をしなかったので、少しだけ気分がよかった。器を机へ運び、椅子に浅く座って食べ始めると、昼に残しておいた卵も一つ加えたことを思い出す。
母さんに夕飯を聞かれたとき、うどんだけと言うよりは、ちゃんと食べた気がする。そんな理由で卵を入れたことが、我ながら少し子供っぽかった。
食器を片づけていると、母さんから父さんが帰ったと連絡が来る。
夕方よりは落ち着いて話せる気がしたので、もう一度ビデオ通話をつないだ。画面の中には両親が並んでいて、俺の姿を見た父さんは、しばらく何も言わなかった。
母さんに説明したことを繰り返すと、父さんは何度か頷き、明日の受診の予定を確かめる。それから、少し低い声で聞いてきた。
「困ってることは、ちゃんと向こうで話せそうか」
「三浦も一緒に行く。メモも作った」
「そうか。分からないことを、無理に分かったふりはしなくていいからな」
その言い方には覚えがあった。小さい頃、学校で何かあっても、説明が面倒で大丈夫だと言ってしまうと、よくそう注意された。
今日の父さんは、それ以上をすぐ聞こうとはしなかった。何も思っていないわけではないのだろう。母さんが口を開きかけるたび、明日会ってから聞こう、と小さく言っている。
明日の夕方、母さんが来る予定は変わらなかった。父さんは家で待ち、受診後に俺から連絡することになった。
夕飯には卵を入れたと伝えると、母さんは少し笑う。通話が終わってから、俺は翌朝のアラームをいつもより早めに設定した。出かける前に服を着るだけでも、まだ時間がかかりそうだ。
*
風呂の支度を始めたところで、俺は足を止める。
脱いだ服を置く場所や、着替えの大きさだけでも、昨日とは違う。さらに、腰の後ろにあるしっぽが洗面所の扉を擦り、毛の中から小さな埃が落ちる。
「……これも洗うんだよな」
しっぽを持ち上げて眺めると、昼より少し毛が乱れている。階段を下りたとき、先のほうが触れたのかもしれない。身体を洗って、この部分だけそのままにするのも落ち着かなかった。
ただ、水をかけてからどうすればいいか分からなくなるのは避けたい。昼に服を切る前に聞いたように、今日の報告をしながら、手入れの経験がある人にも聞いてみようと思った。
机へ戻ってカメラをつなぎ、昼の紙や書類が映らないことを確かめる。画面には手元と、横に置いたクッションの一部だけが入っている。タイトルの候補に書いていた帽子や階段の相談は後回しにし、『服を着て外へ出られました。次は手入れの相談です』と打ち直す。
始めてしばらくは、また視聴者がいなかった。俺は画面を眺め、誰も来なければ今日は報告だけ残して終えようと考えている。
昼の配信の公開範囲を自分だけに変え、今の配信も、終わったら同じようにするつもりで設定を確かめていると、コメントが一つ届く。
『着られたんですね』
糸日和だ。文字を見た途端、俺は思っていたより嬉しくなった。
「はい。巻くやつ、買ってもらいました。ちょっと歩いてきても、ずれなかったです。ありがとうございました」
腰の後ろへ重なりを持ってきたこと、座る前に布の余裕を直したことも話す。身体を映す代わりに、昼に描いた絵の一枚を出し、今着ている服はここが開く、と指で示す。
糸日和は、最初に作ろうとした短パンはどうなったかと聞く。切らずに引き出しへ戻したと答えると、『よかったです』と返ってきた。
「言われなかったら、たぶん大きい穴開けてました」
『直し方を考えるより、先に着られるものを用意できたなら何よりです』
その返事を読むうちに、午前中の自分が思い出される。どこへ出すかも分からないまま、しっぽを膝へ乗せていた俺が、夕方には階段を歩いている。服だけでなく、考える順番も教えてもらったのかもしれなかった。
手入れの話を出すと、糸日和は先に、材料によって扱いが違うと言う。作り物のしっぽを洗う相談として聞いているのだろう。
俺は少し迷い、身体についていて、簡単に外せないものだという昼と同じ説明に戻った。具体的な素材の話へ進むと、どうしても嘘を足すことになる。
「すみません。材料は、うまく説明できなくて。洗うところは自分で確かめます。毛が多いものを乾かすとき、どうしてるかだけ聞いてもいいですか」
コメントが途切れた。変な聞き方だっただろうかと思っていると、少し長い文章が届く。
『私の話なら、作業するときに乾いたタオルを何枚か先に出しておきます。途中で取りに行かなくていいように。洗い方の助言はできませんが』
「あ、それは助かります。俺、風呂場から手伸ばして探すところでした」
声に出すと、用意していなかったことがよく分かる。濡れたしっぽを抱えたまま、タオルのある棚まで歩くのは大変そうだ。
そのあと視聴者が二人になり、ねじまきから『また増えてる、困りごと』とコメントが来る。
「そうなんです。でも、椅子はもう大丈夫です。服も。今日は水買って帰ってきました」
『外まで行けたのか』
今まで出られなかったのだと受け取られるような報告をしていることに、言ってから気づいた。向こうがどんな事情を想像しているのかは分からないが、ねじまきは理由を聞かなかった。
自分の身体で起きたことを全部話さなくても、座れるようになったことや、買い物ができたことは話せる。それが今の俺には、ちょうどいい距離だ。
手入れについて知っているか聞くと、ねじまきは『分からない』と返し、それから『終わる時間は余裕見たほうがよさそう』と付け加える。時計を見ると、いつも風呂へ入るより早い時刻だったので、今なら時間はあると答える。
『その毛量で?』
俺はクッションの上のしっぽを見る。手で抱えれば収まるし、乾いている今は、それほど重くもない。
「そんなにかかります?」
糸日和から『急ぐ予定がないときに試すのはいいと思います』と返ってきた。二人ともはっきり分からないと言っているのに、俺より準備のことを考えてくれている気がする。
明日の朝に慌てなくて済むよう、今夜のうちにやってみる。そう伝えて礼を言い、配信を終える。終了後の公開範囲も、自分だけへ変更する。
*
洗面所へタオルを三枚並べ、着替えも手の届く位置へ置く。
今日は湯船につからず、シャワーだけにした。腕を洗うだけでも、手の中へ収まる太さが前と違う。顔を洗って目を開けると、鏡には知らない女の顔があって、その頬を拭くために俺の手が上がる。耳を避ける手順は考えられても、この身体を自分のものだと思うところまでは、まだ追いつかなかった。
頭へ水をかけたときは、耳に当たる感触が思った以上にはっきりして、反射的に首をすくめる。シャワーをずらし、少しずつ髪を濡らす。昨日までのように何も考えず済ませるには、まだ慣れが必要そうだった。
しっぽは身体の横へ回し、先から少しずつ濡らしてみた。水が毛の中へ入るにつれて、ふくらみが失われ、腕にかかる重さが増える。普段と同じものを使うことにも迷いがあったので、今夜はまず汚れたところを湯で流すだけにした。
床へ置いてしまわないよう支えながら洗い終えると、今度は水が滴って止まらなかった。
「……こんなになるのか」
タオルを広げ、その上へしっぽを乗せる。毛の間にある水を吸わせるように包むと、布がすぐ重くなる。二枚目へ替えてから、配信で先に出しておけと言われた意味がよく分かる。
この状態で棚まで行っていたら、床に水が落ちていただろう。着替えのTシャツも、しっぽを抱えた手ではなかなか広げられなかった。
身体を拭いて着替え、三枚目のタオルでしっぽを包んでから部屋へ戻った。ドライヤーのコードをつなぎ、椅子の横の段ボールに乾いた布を置く。クッションは濡らしたくなかったので、ベッドへ避難させた。
温かい風を当てると、表面の毛は少しずつ広がってきた。耳元で鳴るドライヤーの音が気になったが、机から少し離して持つと、まだ我慢できた。
同じところへ風を当て続けると熱く感じたので、位置をずらし、途中で手を止めて毛の中を確かめる。外側は乾いたように見えても、内側へ指を入れると湿っている。
時計を見たところで、俺はドライヤーを止める。
もう終わるつもりでいた時間を過ぎている。髪も身体もとっくに乾いているのに、しっぽだけがまだ重かった。
スマホへ三浦から、『風呂入れた?』とメッセージが届いている。母さんと話したかどうかも気にしてくれていたので、連絡は済んだことと、洗うほうは終わったことを返す。
『乾くほうが終わらない』
送ったあと、タオルに載せたしっぽも写真に撮った。すぐに『毛量すごいな』と返ってきたので、今更それを言うなと打つ。
あいつは昼に触ったとき、ふわふわだと感心していた。あのふわふわの全部に、今は水が残っているのだ。
『明日の待ち合わせ、忘れるなよ』
『乾いたら寝る』
そう返して、もう一度ドライヤーを持つ。焦ったところで乾くのが早くなるわけではないが、朝からの出来事を思い返していると、少し気が紛れた。
しっぽを潰して目が覚め、誰にも説明できず、冷蔵庫の前でゴミ箱を倒した。そのしっぽを置く場所ができ、服の外へ出せるようになり、最後には濡らしてしまって乾くのを待っている。
昨日までの俺が聞いたら、もう少し大事なことを考えろと言うかもしれない。俺だって原因も戻り方も知りたい。でも、今夜このまま眠れるかどうかは、目の前の毛をどうにかできるかにかかっている。
何度か休んで位置を変え、ようやく内側にも湿った感じがなくなった頃には、しっぽは元のふくらみに戻っている。ドライヤーを切ると、部屋がやけに静かになる。
腕が疲れている。洗う前より少し整った毛を撫で、俺は机のメモへ『タオルを先に出す』『乾かす時間を取る』と書き足す。
それから、次の配信で話すことにも一行だけ追加した。
『その毛量で? は正しかったです』
保存してスマホを充電し、翌朝の服と鞄をもう一度確かめてから、ベッドへ入った。しっぽの下にはクッションを置く。今夜は、どこへ逃がせば眠れるか分かっていた。
目を閉じる前に、三浦へ『乾いた。寝る』と送った。返事を待たずに画面を伏せると、少しして短い振動があった。
明日も、この身体なのかもしれない。そう思うと怖さは残ったが、今日はもう、朝まで眠りたかった。




