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男だった俺の、しっぽのある暮らし  作者: あわいしゅん
第1章「しっぽのある暮らしを始めます」

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第6話 昨日まで、ただの階段だった

 扉を開けた途端、部屋の中では気にならなかった音がいくつも聞こえた。

 道路を走る車の音と、どこかのベランダで揺れている物干しの音。階下では自転車のスタンドが跳ね、もう少し遠くで誰かが笑っていた。

 俺は玄関の境目に立ったまま、思わず首を動かした。どちらを見ればいいか決める前に、頭の上の耳が別々の方向へ向いている気がする。


「……外って、こんなに音したっけ」


 三浦は廊下を見回し、少し考えてから、いつもくらいだと思うと答えた。それなら俺のほうが違うのだろう。耳へ手をやりかけたが、触ったところで音が小さくなるわけでもないので、そのまま下ろした。


 廊下には、今のところ誰もいなかった。

 いつも俺が大学へ行くときと同じ、少し幅の狭い通路だ。壁の汚れも、隣の部屋の前に置かれた傘立ても変わっていない。それなのに、自分の部屋から出たばかりのところで、借りている場所へ勝手に入り込んだような気分になった。


「ドア、閉める?」


 三浦に聞かれ、俺は振り返った。まだ開いている扉の向こうに、いつもの机が見える。閉めたら急に帰る場所がなくなるわけではないのに、少し迷ってしまった。


「うん。鍵、持ってる」


 小さなポーチから鍵を取り出してみせた。財布とスマホを入れるために、引き出しから出したものだ。今までズボンのポケットで済んでいたものが、今日は別の持ち物になっている。

 三浦が扉を押しかけたので、俺は慌ててしっぽを身体の横へ寄せた。扉の縁が毛の先をかすめ、そのまま閉まる。


「悪い。そこまで見てなかった」

「俺も。まだ、ドア出たら全部出たつもりになる」


 毛を挟まなかったことを確かめ、鍵をかけた。部屋へ戻るときにも気をつけようと思いながら、初めて今日の靴で廊下を歩いた。


 踵は抜けない。スカートの裾も、普通に歩くぶんには脚にまとわりつかなかった。ただ、いつものつもりで足を出すと、身体が少し先へ行きすぎるような感じがする。歩幅を小さくすると、ようやく自分の足で歩いている気がした。

 三浦は隣を歩きかけたあと、半歩ほど後ろへ下がった。俺の速度に合わせようとしているのだと分かり、ありがたいのに、少し落ち着かなくなる。


「そんなに気にしなくていいぞ」

「いや、普通に歩いたら、お前置いていく」

「なら気にしてくれ」


 返すと、三浦が小さく笑った。その声を聞いてから、俺も肩の力を少し抜いた。


 廊下の端には階段がある。ここまで来たら下を見て戻ろうと思っていたが、手すりから覗くと、建物の入口の脇にある自動販売機が見えた。

 昨日も、その前を通っている。大学帰りに飲み物を買うこともあるし、夜、冷蔵庫に何もないときに降りてきたこともあった。


「……あそこまで行ってみようかな」


 口にすると、三浦も手すりから下を見た。


「自販機?」

「うん。飲み物、一個買って帰る」

「いいと思う。財布あるし」


 廊下へ出るだけのつもりだったのに、ポーチへ財布まで入れていた。自分で思っていたより、もう少し行く気があったのかもしれない。


     *


 階段は、昨日と同じ高さのはずだった。

 ところが一段目へ足を下ろすと、思っていたより膝を曲げることになった。手すりを握り、次の段を確かめる。新しい靴底が階段を擦る音がして、俺は普段より慎重に足を置いた。


「急がなくていいよ」


 下へ先に降りた三浦が、振り返って言った。俺は頷いてから、持っていたポーチを手首へ通す。片手は手すりに使い、もう片方でしっぽを少し持ち上げた。下の段を毛が掃く感じがして、どこまで後ろへ伸びているのか気になったのだ。

 片足を出すたびに布が動くので、足元を見る回数も増える。段差を怖がるような場所ではなかったのに、今日は手すりがあって助かった。


 途中の踊り場で、下から扉の開く音がした。

 続いて紙袋の擦れる音と足音が近づいてくる。俺の身体が止まったのを見て、三浦も足を止めた。


「人、来る」

「うん。端、よけよう」


 三浦は俺を壁際へ押したりせず、自分が一歩下がって通り道を空けた。俺もしっぽを身体へ寄せ、壁に触れない位置で立つ。

 顔を上げるか、下げるか。そんなことを考えているうちに、買い物袋を持った女の人が角を曲がってきた。


 見たことのある人だった。同じ建物に住んでいて、今までも何度か挨拶したことがある。向こうは俺の顔を見てから、頭の上へ目を向け、ほんの少し歩く速度を落とした。


「こんにちは」


 三浦が先に言ったので、俺も続いて頭を下げた。自分の声が思ったより小さく、挨拶になっていたか自信がなかった。

 女の人も挨拶を返し、袋を少し持ち替えながら、階段を上っていった。


 足音が上の廊下へ消えるまで、俺は同じ姿勢で立っていた。しっぽを握っていた手に力が入っているのに気づき、毛を少しずつ離す。


「……見てたよな」

「そりゃ、耳があるから」

「もう少し、言い方」

「でも、挨拶して通っただけだったろ」


 それはそうだった。驚いた顔をされたし、見られたことにも間違いはない。けれど、そのまま呼び止められたり、何かを聞かれたりはしなかった。

 見られたら何が起きるのか、自分でも具体的に考えていなかったらしい。ただ、全部がそこで駄目になるような気がしていた。


 上の廊下で鍵の音がした。俺はようやく息を吐き、三浦の後ろへ一段下りた。


「明日は、耳を隠すものも考えたい」

「帽子?」

「普通の、入るかな」


 三浦は俺の耳と頭を見比べ、今日は買っていないから、部屋にあるもので試そうと答えた。帽子をかぶれば全部解決するとは思えない。それでも、明日の病院までこのまま歩くよりは、少し気が楽になるかもしれなかった。


 階段を下りきると、外の風が耳の毛を撫でた。

 部屋でも廊下でも気にならなかった感触で、思わず頭を引いた。風に匂いが混じっている。誰かの夕飯らしい、醤油の匂いだった。


「なんか、腹減る匂いする」

「ああ、するな」


 三浦にも分かると聞いて、少し安心した。今日は何かを感じるたび、自分だけがおかしくなったのかと考えてしまう。

 道路に面した入口まで来ると、視界が急に広くなった。走る車を眺め、向こうの歩道を歩く人を見て、俺は自動販売機の前へ急いで移動した。ここでただ立っているより、何かを買うために来たほうが、落ち着いていられた。


 財布から小銭を出し、いつも買う缶コーヒーを見た。

 手を伸ばしかけてから、今日はもう少し落ち着くものがいい気がして、隣の水を選ぶ。百円玉を入れた音が意外に響き、俺はもう一度周りを見てしまった。


 三浦が後ろで待っている。道を歩いていた人はこちらへ一瞬目を向け、そのまま通り過ぎた。

 俺はボタンを押し、落ちてきたペットボトルを取ろうと屈んだ。しっぽが後ろへ動いたらしく、三浦が一歩離れる靴音がした。


「ごめん」

「大丈夫。取れた?」

「取れた」


 身体を起こすと、握ったボトルが冷たかった。自分の金を使い、自分で選んで買った水だ。そんなことで安心する日が来るとは思わなかった。


「お前のは?」

「俺、さっき店で飲み物買った」

「そうだったか」


 俺は水をポーチに入れようとして、入らないことに気づいた。スマホと財布で、もういっぱいだったのだ。小さなポケットに収まっていた昨日の荷物と違い、今日は片手で抱えなければならない。

 ボトルを持ち直して階段へ戻ろうとすると、三浦が手を出した。


「戻る間だけ、持つ?」


 一瞬、いいと言いかけたが、階段では手すりとしっぽで両手を使ったことを思い出した。


「頼む。部屋戻ったら返して」

「人の水、持って帰らないって」


 三浦へ渡し、俺は来た道を見上げた。下りより上りのほうが足は出しやすかったが、上まで着くと少し息が弾んだ。いつもの何でもない階段が、今日は服も荷物も確かめる場所になっていた。


 部屋の前まで来たところで、鍵を持ったまま少し止まった。さっき女の人が通った廊下には、もう誰もいない。

 俺は朝からずっと、外に出たら変化したことが周りへ広まってしまうように感じていた。実際には、今はまだ、同じ建物の人に一度挨拶しただけだった。それが明日どうなるかは分からないが、今日の外出がここで終わることは分かった。


「三浦。開けたら、しっぽ見てて」

「了解」


 扉を押さえてもらい、身体を横向きにして入る。俺がしっぽの先を玄関の内側へ寄せてから、三浦も入り、ドアが閉まった。

 靴を脱いで振り返ると、あいつがペットボトルを差し出している。俺は受け取り、少し笑って礼を言った。


     *


 部屋へ戻ってから飲む水は、やたらうまかった。

 歩いた距離はほんの少しだったのに、椅子へ座ると脚も肩も疲れている。しっぽをクッションに乗せ、しばらくボトルを両手で抱えていた。


「どうだった?」


 三浦に聞かれ、俺はどこから話すか迷った。音が多かったこと、階段の高さが違って感じられたこと、知らない顔で知っている人に挨拶したこと。全部まとめて話すと、自動販売機まで行っただけとは思えないくらい長くなる。


「……靴、痛くはなかった」

「そこはよかった」

「服も、歩いてるときは大丈夫。階段でちょっと、しっぽが気になった」


 三浦は昼に作ったメモへ戻り、荷物を入れる鞄もあったほうがいいなと言った。俺は頷いて、棚にあるいつものリュックを見る。

 しっぽが出ている背中に、今までと同じように背負えるだろうか。今日はもう外へ出る気にはなれないが、部屋の中で確かめることはできそうだった。


 その前に、明日の欠席連絡を済ませた。受診するために休むと書き、送信してからスマホを机へ戻す。三浦も課題について届いていた返事を見せてくれた。急いで今日中に出さなければならないものはなく、それだけで少しほっとした。


「明日、途中で立ち止まっても、待ってくれよ」

「今日も待っただろ」

「うん。分かってるけど」


 もう一度確認しておきたかった。三浦は少しだけ真面目な顔になり、いつもより早めに出ればいいと答えた。俺の歩く速度を予定の中へ入れてくれたのが、ありがたかった。


 あいつと明日の待ち合わせを決めたあと、俺は配信チャンネルを開いた。今すぐ始めるつもりはなかったが、次に何を聞きたいかだけ、忘れないうちに書いておこうと思ったのだ。

 最初に『帽子』と打ち、それから『しっぽを出したまま階段を歩く方法』と付け加えた。


 座ることができ、服も着られた。そのあとには、また違う困りごとがある。朝だったら、きりがないと途方に暮れただろう。今も少しそう思うが、今日は聞く前より楽になったことも、ちゃんとあった。


「次、それ聞くの?」


 画面を見た三浦が言った。俺はまだ下書きの欄を眺めながら頷く。


「誰か、いい方法知ってるかもしれないし。あと、服買えたって言いたい」

「うん。言ったらいいと思う」


 ねじまきと糸日和が、また来るかは分からない。それでも、今朝から言われたことを試した結果を、どこかに残しておきたかった。

 俺はタイトルの候補を保存して、冷たい水をもうひと口飲んだ。


 玄関には、今日初めて外で履いた黒いスニーカーが並んでいる。明日もこの靴を履いて、今日より少し遠くへ行く予定だ。

 帰り道で何を買うかまでは考えられなかったが、ボトルを入れられる鞄は持っていこうと思った。


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