第5話 ご飯は食べたのね
「母さん、俺。先に言っとくけど、今から話すこと、冗談じゃないから」
言い終わってから、最初の一言としてはよくなかったと気づいた。電話の向こうで母さんの返事が止まり、少し間を置いて、どちら様ですか、と聞かれた。
三浦との通話では覚悟していた質問なのに、今度は胸の奥が冷えるような感じがした。いつもなら、もしもしのあとで、ちゃんとご飯を食べているかと聞かれる。それが今日は、自分の母親にまで名乗らなければならなかった。
「俺の番号からかけてる。スマホ見て」
「……番号はそうだけど。本人は、そこにいるの?」
「俺が本人なんだって」
言い方が強くなり、三浦がこちらを見た。俺は息を吐いて、パーカーの袖から出ている指を握り直す。責めたところで、母さんに分かるわけがなかった。
「ごめん。声が変わってて。顔も身体も、昨日と違うんだ。今、三浦が来てくれてる。明日は病院に行く予定で」
「何があったの。事故?」
「そういうのじゃなくて……映像、つなげる?」
母さんは、つなげて、と短く答えた。三浦が立ち上がって机の向こうへ移動する。俺は部屋の中が映るようにスマホを持ち、通話を切り替えた。
画面に現れた母さんは、家の食卓に座っていた。後ろに見える戸棚も、湯飲みも、知っているものだ。その中で母さんだけが、俺を知らない人を見る顔で見ていた。
「……その耳、何?」
「朝、起きたらあった。しっぽも。ほら」
顔だけ映すよりはと思って、少し離れて横を向いた。しっぽが見える位置を探っていると、母さんが何度か俺の名前を呼んだ。返事をするたびに、その顔が困ったように歪む。
三浦のときと違って、思い出話で確かめようという流れにはならなかった。母さんは画面を見つめたまま、髪をどかして顔を見せて、と言った。
頬にかかった髪を耳の後ろへ押しやろうとして、いつもの場所に指をやってしまった。収まりが悪く、結局、手で脇へよけて顔を上げる。
母さんは目を細め、何か言いかけて口を閉じた。それから、顔は違うけど、と呟いた。
「……困ったとき、下の唇を噛むの、やめなさい」
俺は慌てて口元を緩めた。無意識にやっていたらしい。
「それ、今言う?」
「切れちゃうから」
いつもの注意だった。返事をした途端、喉の奥に変なものがつかえて、俺は画面から目をそらした。
母さんが俺だと認めたのかどうかは、まだ分からない。ただ、今見えている顔にも、いつもと同じように注意してくれた。それだけで、今朝から無理に平らにしていた気持ちが、少し崩れそうになった。
「今から行くから。住所、変わってないね?」
俺が返事をする前に、母さんは立ち上がっていた。画面が揺れ、戸棚が遠ざかる。鞄を探しているようだった。
「待って。今日じゃなくて大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょう。そんなことになって、ひとりで」
「今はひとりじゃない。三浦もいるし、病院には明日の午前中に行く。今から来たって遅くなるだろ」
母さんの手が止まった。スマホを持ち直して、もう一度こちらを見る。
「……来てほしくないの?」
「そういうことじゃないって」
来てほしくないのではなかった。けれど、今日これ以上、誰かの驚く顔を正面から受け止める余裕があるかと言われると、分からなかった。
母さんが目の前にいたら、何を言われても返事ができず、そのまま全部任せてしまいそうな気もした。困っているのは確かだが、まず俺が、今の自分に追いつきたかった。
「来てくれるなら嬉しい。でも、今、俺も何も分かってないから。明日、病院に行ってから、ちゃんと話したい」
そう伝えると、母さんはしばらく黙っていた。隣から三浦が顔を出し、明日は一緒に行きます、と言った。
母さんは驚いたように三浦を見たあと、何度も礼を言った。あいつが困って首を振っているのを見て、俺も、ちゃんとお金は返すから、と余計なことを口にしてしまう。
「お金の話じゃないでしょう」
「いや、弁当とか買ってもらったから」
「ご飯は食べたのね?」
結局、いつもの質問まで戻ってきた。唐揚げ弁当を食べたと答えると、母さんは少しだけ肩を下ろした。
明日の夕方に来ることにして、病院から帰ったら俺から連絡する。それを決めるまでにも、母さんは何度か、本当に今日でなくていいのかと聞いた。
俺は、そのたびに大丈夫だと答えた。何もかも大丈夫という意味ではなかったが、今夜を越すための買い物は三浦が手伝ってくれる。それだけは、ちゃんと伝えられた。
「父さんには、俺から話す。今すぐじゃないけど」
「帰ってきたら、あなたから連絡があるって言っておくね。説明は待つから」
母さんはそう言い、少し迷ってから、着るものはあるのかと聞いた。今着ている大きなパーカーを見ていたらしい。
これから買うところだと話すと、母さんは画面越しに頷いた。
「何を着たらいいか分からなかったら、写真送って。私でよければ見るから」
「……頼む。しっぽのところも、あとで相談したい」
「ああ、そうか。普通の服じゃ、そのまま着られないのね」
そこで初めて母さんがしっぽを見直した。少し変わった服を用意すれば済むわけではないと、実感したようだった。
電話を切る前に、もう一度顔を見せてと言われ、俺はスマホを持ち上げた。母さんは何かを言いたそうにしたが、最後には、夜に連絡してね、とだけ言った。
通話が終わると、しばらく画面を消せなかった。自分の顔が映っているわけでもないのに、まだ母さんに見られているような気がしていた。
「……お母さん、明日来るんだな」
三浦が静かに言った。俺は頷き、ようやくスマホを机へ伏せた。
「帰ってこいって言われるかと思った」
「帰れる格好じゃないだろ、今」
「そうなんだよな」
二人で笑うと、さっきまで噛みしめていた口元が緩んだ。母さんは俺をどう見ているのだろう、と考え始めると止まらなくなる。ひとまず明日、直接会える。そのとき聞けばいいこともあるはずだった。
*
三浦を買い物へ送り出してから、俺は財布とスマホを机へ並べた。
弁当とクッションの分を送金すると、すぐに受け取ったという通知が来た。これからの買い物代もまとめて返すつもりだったので、必要なものを増やすたび、だいたいの金額をメモした。
母さんからは、『上着は急いで全部買い替えなくてもいいからね』とメッセージが届いた。今朝まで普通に着ていた服が使えなくなったからといって、一度に揃えたら、何が合うかも分からないままお金がなくなりそうだった。
明日、外に出られる分だけ。そう決めて、机に残った短パンを引き出しへ戻した。今日は服を切らずに済んだことが、改めてありがたかった。
しばらくして、三浦から写真が届いた。棚に並んだ黒や茶色のスカートだったが、どれも腰が閉じていて、巻くタイプに見えて実際には違うらしい。
『これ、前が重なってるだけだった』
『店員さんに聞いてる。ちょっと待って』
画面を見ながら、俺も検索していた商品を確かめた。写真だけだと、布がどう重なっているのかよく分からない。三浦が近くへ行ってくれたから、そこで気づけたのだ。
次に届いた写真では、一枚の長い布を店員の手が広げていた。腰を巻いて留める形で、脇には長い紐がついている。三浦が送ってきた丈の数字を、部屋にあるメジャーで脚へ当ててみた。
膝より下、足首までは届かない。俺は測った位置を指で押さえ、こんな長さの服が脚のまわりにあるところを想像した。
『こっちがいいと思う』
送信してから、母さんにも同じ写真を転送した。返事はすぐには来なかったが、三浦には先に、濃い茶色のほうを頼んだ。
紺のクッションを選んだときより、決めるまでに時間がかかった。自分が着るものだと思うと、色だけの話ではなくなる。明日、知らない人に見られる姿を、スマホの写真から選んでいた。
靴は紐で調整できるスニーカーにし、足を測った紙を参考に三浦が店で相談してくれた。実際に履いてみるまでは分からないが、少なくとも今の靴ほど大きくはない。白いものにしようか迷ったあと、手入れに自信がなくて黒を選んだ。
靴下も買ってもらうことになり、その次に、普通のTシャツの写真が届いた。
『これ、長めのやつ。色どうする?』
グレーを頼むと、三浦は『だと思った』と返してきた。昨日まで着ていたものにも同じ色が多いからだろう。誰が着てもおかしくないようなTシャツを選べたことに、俺は少しほっとした。
母さんから返事が来たのは、三浦が会計を終える頃だった。
『これなら、布の重なりを後ろに持っていけそうね。着たら立つだけじゃなく、座っても確認して』
俺はそのメッセージを三浦に転送し、もう一度、明日でいいからね、と送った。すぐに『分かってます』と返ってきたので、念を押しすぎたかもしれないと思った。
*
三浦が帰ってきたのは、窓から入る光が少し傾いた頃だった。
机に袋を置くと、あいつは妙に疲れた顔で床へ座り込んだ。何軒か回ってくれたらしく、俺が礼を言うと、まず着られるか確かめてくれと言った。
「店員さんに、しっぽがある衣装で着たいって説明したら、いろいろ考えてくれた」
「そこまで言ってくれたのか」
「変な説明になったけどな。俺が使うのか聞かれた」
思わず三浦の体格を見てしまった。あいつはすぐに、サイズはメモを見せたから大丈夫だと付け加えた。
服を持って洗面所へ行き、扉を閉めた。新しいTシャツは頭を通すときに耳が引っかかりかけ、首元を広げてゆっくり下ろした。普通のシャツを着るだけでも、昨日と同じにはいかない。
それでも肩の位置は合っていて、袖からちゃんと手が出た。長めの裾が腰を覆ってくれることを確かめ、次にスカートを広げる。
腰へ布を巻き、重なりを後ろへずらして、しっぽの上で紐を結ぶ。最初は緩すぎ、次はしっぽを挟みすぎた。三度目でようやく、根元を圧迫せず、布の間から外へ出せる位置が見つかった。
開いた部分をTシャツの裾で隠し、鏡に背中を向けて確かめる。これまで腰の後ろを下げていたスウェットよりは、ずっと落ち着いて見えた。
鏡の前で少し歩くと、脚に布が触れた。ズボンとは違う感触に歩幅が狭くなり、足を止める。自分が着ているのだと分かっているのに、最初は借り物を試しているような気分だった。
もう一度歩いてから、俺は扉を少し開けた。
「……一応、着られた」
三浦は顔を上げ、こちらを見たあと、後ろは大丈夫かと聞いた。感想を言われると思って身構えていたので、少し拍子抜けした。
身体を横へ向けると、あいつはしっぽと服の重なりを見て頷いた。それから、さっきの母さんのメッセージを思い出したように、椅子を指した。
「座ってみよう」
クッションを段ボールに戻し、しっぽを横へ逃がして座る。布が引っ張られたので、いったん立って、後ろに少し余裕を持たせてから座り直した。
今度は根元も痛くないし、服の腰が下がる感じもなかった。机へ近づいてみても、膝を締めつけられない。
「どう?」
「着て座れる。立っても、落ちない」
「服の感想としては最低限だな」
「今はそこが一番大事なんだよ」
三浦が笑い、俺も少し笑った。けれど、扉を閉める前に、もう一つ聞いてしまった。
「見た感じは、変じゃない?」
「変じゃないよ。普通に似合ってる」
そういう返事をもらうとは思わず、スカートの脇をつまんだ。昨日までなら、着られればいいと答えていたはずなのに、今は鏡へ戻って確かめたくなっている。明日、これを着て病院へ行くところを、初めて想像できた。
新しい靴も履いてみた。立って足を踏み替えても踵が抜けず、玄関の狭いところで二歩歩くぶんには、妙な窮屈さもなかった。靴紐を結ぶために屈むと、しっぽが後ろへ持ち上がって三浦の脚へ当たった。
「悪い」
「いい。俺、もう避けるの上手くなった」
たった半日で身につけたというのが可笑しくて、頭を下げたまま笑ってしまった。紐を結び終え、立ち上がってみると、三浦との目の高さはやっぱり昨日とは違っていた。
身体は戻っていない。それでも、足元を気にせず立てるようにはなった。
玄関へ出した靴を履いたまま、俺はドアを見た。明日の朝まで、一度も外へ出ないでいてもいい。でも、病院へ行く直前に初めて出るより、少しだけ歩いてみたほうがいいような気もした。
「三浦。廊下まで、一回出てみてもいい?」
あいつは俺を見て、すぐに頷いた。鍵を開ける手が止まりそうになったので、俺は今度は止めずに回した。




