第65話 言ってくれて、分かった
雨待ちへ送った文章は、一か所だけ直って戻ってきた。
俺が、途中で休める場所を決めておくと外出を続けやすい、と書いたところだ。
『私は、休んだあと帰ることもあります。続けるためだけじゃなくて、そこで決め直せると楽、のほうが近いです』
読み直して、俺は頷いた。
一緒に本屋へ行った日も、ベンチで休んだあと、俺は本屋へ戻らなかった。飲み物を買って帰りたいと言い、雨待ちはそれでいいと答えてくれた。
そのとき助かったことを、文章にすると、もう一度頑張るための工夫へ変えかけていた。
俺は直した文を送り、雨待ちがこれならと言ってくれたものをSNSへ載せる。前回の配信で本人が話した経験として、固定した案内の帽子の項目にもつないだ。
しばらくして、こよりから個別に返事が来た。
『姉にも送りました。今度の休み、二人でこれを見てから出ます』
俺は、いってらっしゃい、と打ちかけ、まだ当日ではないので消した。
よい買い物になりますように、とも少し違う。買うかどうかを確かめに行く人へ、先に袋を持たせるような気がした。
結局、読んでもらえて嬉しいです、と返した。
*
その数日後、俺も雨待ちと昼飯を食べに出かけた。
前に行った商業施設のパスタ店へ、今度は買い物の用事なしで向かう。駅で落ち合うと、雨待ちは俺のグレーのパーカーを見て、小さく笑った。
「今日はその服なんですね」
「袖、ちゃんと折ってきました」
「好きなんだなと思っただけです」
言い訳を先に出してしまい、俺は片方の袖を引く。男だった頃の服だと、自分には説明が必要な気がする。でも、雨待ちはただ、俺が気に入っている一着として覚えていた。
「好きです。あと、今日は飯なので」
「飯だと?」
「気楽な服がいいなって」
雨待ちが頷き、二人で店へ向かった。
途中で子どもが俺のしっぽを見つけ、隣の大人へ何か話している。エスカレーターでは先を持ち上げ、降りてから人の流れを外れて下ろした。雨待ちは少し先で待ち、歩き出した俺の横へ並ぶ。
店に入ると、俺はしっぽを置ける壁側の席が空いているか尋ねた。案内された席で横を確かめてから座り、二人とも帽子をかぶったままでよいか聞く。
注文は決めていたとおり、俺がきのこのクリームソースで、雨待ちはトマトソースにした。
「今日は迷わなかったですね」
「前から食いたかったので」
胸を張ったあと、メニューの別のページに目が止まる。デザートの写真を見ていると、雨待ちが食後ですねと言った。
「顔に出てました?」
「メニュー、まだ離してないです」
俺は笑って閉じ、机の端へ置いた。
配信の話になったのは、料理を待っている間だった。自分で直した文章が案内に加わっているのを見て、雨待ちは少し不思議だったという。
「前は、どれを見ればいいですかって聞いてた側なので。自分の話もそこにあるんだなって」
「俺も、書いてもらえて助かりました。休んだら続けるって、勝手にまとめてたし」
「でも、言ったら直してもらえたので」
雨待ちは水を飲み、こよりが姉と出かける日も近いんですよね、と尋ねた。
本人が配信で話していた約束だ。俺は、そうですね、と頷き、それ以上の個別のやり取りは出さず、料理を運んできた店員へ手元を空けた。
皿が置かれると、まず匂いを確かめる。きのこを巻き込んだ麺を口へ運び、俺は、こっちも好きだ、と言った。
「私もです。前のと違うのにしてよかった」
雨待ちが笑う。
誰かへ話せる役に立つ経験を作ろうとしなくても、こうして好きなものは増える。俺はもう一口食べてから、やっぱり食後のメニューも見よう、と言った。
*
こよりから買い物へ行ったと連絡が来たのは、帰宅して上着を掛けたあとだった。
雨待ちとは食後に小さなプリンまで食べ、店を出て駅で別れた。まだ腹が満ちているところへ、今なら少し話せますか、と届く。
『姉がまだ家にいます。一緒にお礼を言ってもいいですか』
俺は二人でどうぞと返し、机へ座った。
通話がつながると、こよりの挨拶のあとに、初めまして、と少し低い女性の声が続く。
「姉です。今日は、妹と帽子を見てきました」
「こんばんは。きつねです」
配信で使う名前を名乗ると、姉が一瞬黙り、あ、本当に同じ声だ、と言った。
「同じです。普段もこれで喋ってます」
「すみません。動画で先に聞いてたので」
謝る声に悪気はなく、俺も大丈夫ですと笑った。自分が男だった頃には、動画の声と同じだと知らない人から言われる日が来るとは思わなかった。
こよりが隣で、お姉ちゃん、と小さく呼び、姉がごめんと返す。その短いやり取りだけで、二人が今、同じ部屋へ帰ってきたことが分かった。
「帽子、今日は買わなかったです」
こよりが先に言った。
「でも、試せました。三つ。前みたいに入口で帰らずに」
俺は、どんなところが違いましたか、と尋ねる。
出かける前に、姉と休憩の話を読み直した。店は一か所、合うものがなければ買わなくてもいい。そう話していたので、入口で姉に急いでついていくことはしなかったという。
「私、先に入って、一回戻りました」
姉が言った。
「いつもの感じで、あっちにあるよって行っちゃって。振り返ったら妹がまだ入口にいて」
「だって、そこに人がいたから」
こよりの声が重なる。
入口近くの客がしっぽを見ていた。それだけで帰りたいわけではなかったが、その人の横をどう通ればいいか、すぐには足が出なかったらしい。
「お姉ちゃんに、先に行かないでって言いました。ここ通るまで横にいてって」
「うん。それで、二人で入って」
姉の返事が、そこで少しゆっくりになった。
「手を引いたほうがいいのかと思ってたんです。でも、そうじゃなかった」
「引っ張られたら、しっぽの先、見られないから」
こよりが答え、俺も自分の足元へ目を落とす。
歩けないから止まるとは限らない。しっぽの場所と人の動きを確かめる時間が、以前より要るのだ。
「俺も、先に行ってもらうより、少し待ってもらいたいことあります」
そう返すと、姉は、今日、初めて分かりました、と言った。
*
店では、こより自身が帽子を試してよいか尋ねた。
耳が当たるのでゆとりのある形を見たいと伝えると、店員は棚からいくつか出してくれた。鏡の前で一つずつ試し、すぐ外さず、顔を左右へ向けたりして確かめたという。
「二つ目、見た目はよかったんです」
こよりが言うと、姉が、似合ってた、と付け足した。
「私、もうそれにすればって言っちゃって。妹も鏡見てたから、気に入ったんだと思って」
「色は好きだった。でも、横が気になって」
こよりは少し黙り、そのあと、自分でも分からなくなったのだと言った。
姉が似合うと言い、鏡でも変には見えない。外したくなるのは、まだかぶるのに慣れていないせいなのか。せっかく一緒に来てもらったのに、また駄目だと言っていいのか。
「そこで、雨待ちさんの話、思い出しました。見た目はちゃんとかぶれてたって」
俺は机へ置いた手を止めた。
「だから、似合うのは嬉しいけど、今ちょっと外したいって言いました」
向こうで、はい、と姉が答える。
「それ言われるまで、外したいほどだと思ってなかったです。似合うって言ったら、喜ぶかなとしか」
「嬉しかったよ。似合わないから返すんじゃないって、言いたかったの」
二人の会話を聞きながら、俺は頷いた。
気に入ったことも、合わなかったことも、同じ一つの帽子について言ってよかった。片方をなかったことにすると、店を出てからも、うまく説明できなかった気持ちが残りそうだった。
こよりは店員へ礼を言い、三つ目も試したあと、今日は決めないと伝えた。
「店の人、また見に来てくださいって言ってくれて。それで出ました」
「うん。出られたんですね」
「はい。買わないって言うほうが、入るより緊張しました」
そこで初めて、こよりがはっきり笑った。
俺も笑い、試しに来たって最初に決めてましたもんね、と返した。
*
店を出てから、二人は施設の案内を見て、買い物客の流れから離れた椅子へ移った。
こよりはしっぽを横へ出せる位置を選び、姉に周りを確かめてもらって、かぶってきた帽子を少し外したという。
「休んだら、もう一軒行けるかなって、私が聞きました」
姉の声に、こよりがすぐ、悪い聞き方じゃなかったよ、と返した。
「うん。でも、今日は帰るって言ってもらって、あ、選ぶのはそっちもあるんだなって」
俺は数日前に書いた文章を思い出した。雨待ちに直してもらわなければ、俺も休憩を、次の店へ行くためのものにしていた。
「私、帽子のほうはもう考えられなくて。でも、帰る途中でパン買いたくて」
こよりが少し恥ずかしそうに続ける。
「それ言ったら、お姉ちゃんが笑って」
「さっきまで何も欲しくないみたいな顔してたから」
「帽子とパンは違うよ」
俺はつい声を出して笑った。
「違いますね。俺も、そういう帰り方したことあります」
休んでから、二人は帰り道にある店へ寄った。姉がトレーを持ち、こよりが食べたいものを選んで指した。袋は姉に持ってもらい、こよりはしっぽを気にしながら歩けたという。
全部自分で運ばなくても、好きなものは自分で選んだ。
「今、そのパン食べてます。お姉ちゃんと」
こよりの声の後ろで、紙袋が鳴った。
帽子の袋はない。でも、二人で持ち帰ったものがあって、今日はそれを食べながら話している。
「帰ってきてから、何であの帽子駄目だったのって聞かずに済みました」
姉が言った。
「その場で言ってくれたので。次も、分からなかったら聞いていいんだなって。私、変わったところの話をしたら嫌がるのかと思って、言わないようにしてたんです」
「何でも全部聞かれるのは困るけど、今日みたいなのは聞いてほしい」
こよりは少し考えてから続けた。
「私も、見てたら分かると思ってた。お姉ちゃんが先へ行くと、待つの嫌なのかなって」
「そこは言って。気づかないで行ってるだけだから」
俺はその返事を聞き、今日は俺が間へ入らなくてもいいのだと思った。
配信で誰かの経験を聞いた二人が、今、自分たちの言葉で次の出かけ方を話している。
*
通話の終わりに、こよりは雨待ちにもお礼を送りたいと言った。
公開しているアカウントから自分で連絡してみるというので、俺は、今日話せたことを聞けたら喜ぶと思います、と返した。
俺から二人の話をまとめて渡す必要はなかった。
「きつねさんの配信、今度は姉と見ます」
「はい。帽子じゃない話の日もありますけど」
「パン食べながらでもいいですか」
「もちろん。俺が腹減るだけです」
二人が笑い、ありがとうございました、と順に言って通話が切れる。
俺はイヤホンを外した。机の横にしっぽを預けたまま、しばらくさっきの会話を思い返す。
似合うと言われて嬉しかった。でも外したかった。
待ってほしかった。でも手を引いてほしいわけではなかった。
俺の話だけでは届かなかったかもしれないところへ、雨待ちの経験が届いた。そして、こよりが自分の言い方へ変えて、姉へ伝えた。
夜、雨待ちから短いメッセージが来た。
『こよりさんから連絡をもらいました。私も、また話したいです』
俺は、俺も一緒に話したいです、と返す。
次に何を話すかは、今すぐ決めなくてよかった。今日の昼飯の味も、誰かが持ち帰ったパンの話も、俺の中にはまだ残っている。
グレーのパーカーをハンガーへ掛け直し、夕飯は少し軽めにしようと台所へ向かった。昼にプリンまで食べたことは、さすがにしっぽのせいにはできなかった。




