第66話 同じじゃない、三人で
ハルから、雨待ちと話してみたいと届いた。
講義の資料を机に広げ、ようやく明日までの課題に手をつけたところだった。俺は読んでいた行へ印をつけてから、スマホを取る。
『配信で、途中で休む話をしてた人です。自分も、外へ行ったあと何もできなくなる日があって。少し聞いてみたいです』
続きを待つと、もう一通来た。
『でも、俺には耳もしっぽもないので、話が違いますよね』
俺は自分のしっぽへ目を落とした。
ハルと話すたび、これがないから同じ話はできないと思ったことはない。むしろ、店で売っているパンツをそのまま穿けた話を、羨ましく聞いたくらいだ。
『同じところも違うところもあると思います。俺から、話してみたい人がいると聞いてみましょうか』
送ってから、何を伝えていいかを尋ねる。ハルは声と身体が変わり、暮らしを相談していることまではいいと答えた。会社へ行ったことや、石田との話は、自分が話したくなったら話すという。
俺は分かりましたと返し、雨待ちへ連絡した。
返事は、その夜のうちに来る。
『お話ししてみたいです。ただ、私も、うまく答えられるかは分からないです』
俺は、そのままで大丈夫だと思います、と打った。
そこまで書いてから、少し考える。何か答えを用意した人だけが集まる場にしたら、俺自身だって座りにくい。
最初は配信にせず、三人でお茶でも飲みながら話せないかと提案した。雨待ちにもハルにも同じように聞き、三日後の夜に時間を決める。
課題へ戻ると、さっき引いた線の場所をもう忘れかけていた。
俺はスマホを裏返し、まず自分の一ページを終わらせた。
*
約束の日、俺は夕飯の皿を洗ってから、お湯を沸かした。
机へお茶を置き、買ってあった小さな焼き菓子を皿へ出す。誰にも映らないのに盛りつけを気にしている自分に気づき、一つくらい減らすか迷った。
結局、そのままにした。
先につながった雨待ちが、何か食べてますか、と聞く。
「まだです。皿にはあります」
「私も用意しました。お茶って聞いたので」
向こうでカップを置く音がする。そのあとハルが入り、こんばんは、と少し高い声で挨拶した。
俺は二人を紹介し、今日は三人だけの音声で、配信も録音もしていないと伝える。
「雨待ちです。配信では、帽子の話をしました」
「ハルです。見てました。あの……耳はないです。俺には」
挨拶の次にそこが出て、俺は口を開きかけた。でも、雨待ちの返事のほうが早かった。
「はい。私はしっぽがないです」
一拍、静かになった。
「俺だけ、両方あります」
つい付け足すと、ハルが少し笑った。雨待ちも、そうですね、と声を緩める。
俺は椅子の横のしっぽへ手を置いた。三人が同じものを持っている必要は、最初からなかった。
「何を用意しました? お茶のほう」
俺が聞くと、雨待ちは紅茶、ハルは麦茶だと答えた。ハルの机には何も食べ物がなく、俺が焼き菓子を出したと言うと、聞いてないです、と少し慌てる。
「なくても大丈夫です。俺が食いたかっただけなので」
「ちょっと待ってください。何かあったと思う」
声が遠くなり、戸を開ける音がした。戻ってきたハルは、袋のビスケットがありました、と言う。
三人とも食べるものがあると分かったところで、俺はようやく自分の皿から一つ取った。
*
「会って話すだけでも、疲れるんですね」
麦茶を飲んだあと、ハルが言った。
最近、久しぶりに行った場所で、人と話す用事があった。帰宅したら思っていたより疲れていて、着替えたあと、しばらく何もしたくなかったという。
俺は会社へ行った日のことだろうと思ったが、名前を足さずに聞いた。
「買い物できたし、一回行けたし、次はもうちょっと普通にできるかと思って。でも、その日の夜まで使えなくなると、進んでるのか分からなくて」
雨待ちはすぐには答えなかった。
俺も菓子を飲み込み、待つ。やがて、行けたことはなくならないと思います、と声が返った。
「ただ、私の疲れ方と同じかは分からないです。耳が気になる日と、人にどう見られるか考えすぎる日でも違うので」
「はい」
「私は、出かけたあとに片づけまで全部するつもりで、帰ってから嫌になることがありました。出る前は、できる気がするんです」
俺は、分かります、と言った。
自分の予定を書いているのに、帰宅後の自分だけ、なぜか疲れないつもりで並べてしまう。
「今日も俺、通話のあとに課題の続きやろうとしてました」
「明日までなんですか」
「いえ。今日は話が長くなるかもしれないから、先にやっておこうと思って、夕方に進めました」
少し誇らしく言うと、ハルが、それは偉い、と返した。聞き慣れた敬語が崩れ、俺も笑ってしまう。
「褒められると、もう全部終わった気になりますね」
「まだ残ってるんですか」
「残ってます」
雨待ちまで笑ったあと、今日はその残りをやるつもりなのかと聞いた。
俺は開きかけていたノートを閉じる。
「やめます。今決めました」
ハルが息を吐き、俺も帰ってからの飯は先に考えたいです、と言った。
次に出かける日を今夜決める話ではなく、帰ったときにどこまで残っていたら楽かを、三人で話した。
*
「でも、俺、前と同じ量を作っちゃうんですよね」
ハルが続けた。
以前は多めに料理をして冷凍し、何回か同じものを食べていた。今もそのつもりで作ると、一食分として詰めた量が多く、食べ終える前に箸が止まることがあるらしい。
「きつねさんの、盛りすぎた話、笑えないんです。本当は」
「いや、笑ってましたよね」
「分かるから笑ったんです」
俺は、そういうことにしましょう、と返した。
雨待ちはそのやり取りを聞いてから、そこは自分と違うのだと言った。
「私は身体の大きさは変わってないので、前の服も食器も、そのまま使ってます。食べる量も、二人みたいには変わらなくて」
ハルが、そうなんですね、と返す。
その声は驚いていたが、さっきの挨拶ほど硬くはなかった。
「俺は、身体が女の人みたいになって、声も変わったので。服も、前のままじゃ困って」
そこで一度止まり、少しして続きを話す。
「でも、耳はないから、外では普通の女の人に見えるみたいで。何が大変なのって、言われそうな気もしてました」
俺は自分の手を見た。
何も知らない人の前では、今の姿のままで受け取られる。前の自分がいるつもりで喋り始めると、相手の目に映る自分との違いへ、あとから気づく。
「俺も、耳としっぽの説明じゃないところで止まること、あります。男友達と飯食ってるだけなのに、前と同じ並び方じゃない気がしたり」
「あります。それ、あります」
ハルの返事が早かった。
「相手は普通にしてくれてるんですけど。俺だけ変に意識して、そんなつもりじゃないのにって」
俺は頷き、音声だけなのを思い出して、うん、と言った。
雨待ちは少し考えてから、自分にはその経験はないと答えた。
「だから、今聞けてよかったです。私、外で耳が見えなければ楽なのかなって、自分の困り方で考えてたかもしれないので」
ハルは、はい、と返したあと、ありがとうございますと言った。
俺たちが言い切れずにいたところを、雨待ちは急いで同じだとは言わなかった。それでも、話を聞くのをやめるわけではなかった。
「私も、家なら帽子を外せるから大丈夫って思われることがあります。でも、帰ってすぐ元気になるわけじゃなくて」
「うん。今のは、ちょっと分かります」
ハルの返事に、雨待ちが笑った。
全部同じではない。でも、一つ話すごとに、相手へ届くところが見つかる。そのたびに三人の返事が少しずつ速くなった。
*
「帰ったあとの飯、私は逆に、何も用意しなくて困ります」
雨待ちが話を戻した。
買って帰ろうと思っていても、帰り道で店へ寄るのが面倒になり、家にあるものを探すところから始まる日があるという。
「ハルさんは、冷凍してあるんですよね。帰って、何にするか選ぶところも済んでるんですか」
「大体、同じのしか入ってないです」
正直な返事に、俺は笑った。ハルも釣られ、でも、迷わなくていいです、と続ける。
「前は一回分を大きくしてたから、そこは変えないとなんですけど。少ないのをいくつかにしたら、その日で足せるかなって」
「私、何種類か作らなきゃって考えてました。同じのでもいいんですね」
「俺は平気です。飽きたら、別のもの食べます」
ハルが言い切り、少し照れたように笑う。
俺は、好きなのを多めに作るほうが楽しそうですね、と返した。誰かにとって手抜きに見えるかもしれない癖が、別の人には使いたい方法になる。
雨待ちは、今度作るときに帰宅後の分を先に取っておくと言い、ハルへ何をよく作るのか尋ねた。
「カレーです。具はそのときあるもので」
「それなら私も作ります」
二人の会話が続く。
俺が次の質問を用意しなくても、雨待ちが聞き、ハルが答えている。ハルはじゃがいもの大きさで迷うらしく、俺が大きいほうが好きだと言うと、火が通るまで待てるんですかと返された。
「待てますよ。何で待てないと思ったんですか」
「配信で、もう腹減ったってよく言うので」
雨待ちが、それは聞きます、と加わった。
二人とも視聴者だったのを忘れていた。俺は反論しかけ、自分の皿からもう一つ取ったところだったので、先に菓子を口へ入れた。
*
予定していた時間が近づき、俺はそろそろ終わりにしましょうかと声をかけた。
ハルは、もうそんな時間ですか、と言い、雨待ちも時計を確かめているらしい音を立てる。
「相談したいって言ったのに、途中からカレーの話になってました」
ハルが言った。
「俺、それも聞けてよかったです。ハルさんが前からやってたこと、俺はまだあんまり知らないので」
俺が返すと、雨待ちも、帰ってからのご飯、試してみます、と続ける。
ハルはしばらく黙った。
「俺でも、話せることあったんですね」
「ありましたよ。少なくとも、私は一つ聞けました」
雨待ちの声に、ハルが小さく笑う。
この通話を誰かへの支援の場だと名づけなくても、来たときと帰るときで、持っている話が少し変わっていた。
「また、こういうのしてもいいですか」
ハルが尋ねたので、俺は、俺もしたいです、と答えた。雨待ちも時間が合えばと応じ、そのときは自分で選んだ菓子を用意するとハルが言う。
次の日時は決めず、今日はここまでにした。
通話を切ると、机の上は相変わらず俺一人分だった。
空いた皿を流しへ運び、残りのお茶を飲む。今夜聞いた身体や友人の話を、配信の話題としてノートへ移すことはしなかった。
スマホには、ハルから短いメッセージが来ている。
『雨待ちさんに、後日、自分からお礼の連絡をしてもいいか聞きそびれました』
俺は勝手に連絡先を渡さず、その希望を雨待ちへ伝えた。公開しているアカウントへどうぞと返ってきたので、ハルへ知らせる。
俺がずっと二人の間へ立っていなくても、続きを話せる。
返事を終え、ノートを開きかけて、さっき自分で決めたことを思い出した。
今日は残りの課題をやらない。
表紙を閉じたまま鞄の横へ置き、明日使う服を出す。次のお茶には、少し甘くないものも買っておこうか。二人が何を持ってくるかを、今度は俺も楽しみにしたかった。




