第63話 行ってきました
翌日の夕方、三浦に動画を見てもらうと、最初の十秒で止められた。
「これ、箱どこ?」
「しっぽの下」
「見えないんだって」
俺は隣から画面を覗き込む。自分では箱を指したつもりだったが、映っているのは毛へ沈んだ指だけだった。
こよりに見せたかったところを、また隠している。
「先に何も載ってない状態で撮るか」
「うん。そのあと座れば、何してるか分かると思う」
三浦はスマホを返し、机の端へ飲み物を寄せた。今日は短い説明を撮るのを手伝ってもらい、そのあと一緒に課題を進めることにしている。
俺は椅子から立ち、支えだけが見える画角へ戻した。箱とクッション、椅子との間。そこまで見せてから腰を下ろすと、置く前と置いたあとを比べられる。
「俺はここへ、しっぽを預けてます。高さは……」
言いながらクッションを押し、沈むところを見せる。毛の陰へ手が隠れかけ、俺はもう一度しっぽを持ち上げた。
「待って。ちょっとどいて」
三浦が吹き出す。
「自分に頼んでる?」
「頼む相手、俺しかいないだろ」
笑ってしまって説明が止まり、いったん撮影を切った。椅子へ座るだけの動画なのに、協力者が自分の身体にも必要らしい。
撮り直した分では、何も載せる前にクッションを押すことにした。俺は高さを数字で決めず、自分の椅子としっぽに合わせて置いたことを話す。最後に立ち、足の出る場所と支えの位置も映した。
三浦に通して見てもらうと、今度は最後まで止まらなかった。
「分かった。座ってるだけのときより、立つとこあるほうがいいな」
「俺も、動いて初めて邪魔だって分かったことあるから」
「あと、さっきの『どいて』は入れないの?」
「そこ、説明じゃないだろ」
「好きだけど」
あっさり言われ、俺は削ろうとしていた手を止める。今の高い声で自分のしっぽへ文句を言っているところを、面白がられるのは恥ずかしい。でも、嫌ではなかった。
少し迷い、説明が全部終わったあとへ、その短いやり取りを残した。
*
動画は二分ほどになった。
顔や部屋の余計なものが映っていないか確かめ、SNSへ載せる。紹介文には、自分が座るために使っている工夫で、しっぽの形や椅子によって高さも広さも変わると書いた。
誰かのコメントを貼る代わりに、置く前の支えと、座ったあとの位置が分かる静止画も添える。
投稿してからノートを開くと、三浦がもう課題の資料へ線を引いていた。
「できた?」
「うん。今度こそ、こっちやる」
スマホを伏せ、自分の資料を引き寄せる。動画を作っている間には気にならなかった締め切りが、紙の上では急に近く見えた。
一緒に読んで分からないところを確かめ、三浦が帰る頃に通知を開くと、こよりから返事が届いていた。
『何も載っていないところ、よく分かりました。昨日は手元を見るのに必死で、立つところを見逃していたので、戻して見られるのも助かります』
机では予定どおりお茶も飲めたという。まだ一度に長く座らず、途中で休んでいるらしい。
俺は返事をしてから、もう一度自分の動画を再生した。生配信なら聞き返せる。でも、自分の部屋で試している間に説明が進んでしまうこともある。
今はその人が手を空けたときに、同じところへ戻れる。
末尾で俺がしっぽへ頼みごとをすると、画面の外の三浦が笑った。ねじまきからも、そこだけ妙に生活感ある、と返信がついている。
俺は、最初から最後まで生活です、と返した。
*
ハルが会社へ行く日になったのは、それから数日後だった。
朝、鞄へ講義の資料を入れていると、短いメッセージが届く。
『今日、行ってきます。あの紺のパンツにしました』
俺は手を止め、買った服の写真を思い出した。店で選んだときには、仕事にも着ていけるかと考えていた一着だ。
『いってらっしゃい。俺は夕方には帰ります』
送ってから、自分も鞄を持つ。今日の行き先を決め、迎えてもらう約束をしたのはハルだ。俺が画面を見つめていても、一緒に入口を通れるわけではない。
それでも、帰ってきたら聞きたいと思った。
午後の講義が終わり、教室から出るときにスマホを確かめたが、まだ連絡はなかった。廊下で立ち止まりかけ、後ろから来る学生へ道を空ける。
しっぽを見た相手が一度視線を戻し、俺が先に行ってくださいと言うと、軽く頭を下げて通り過ぎた。
俺も鞄を掛け直し、階段へ向かう。ここへ最初に来た日は、帰り道まで歩けるかも気にしていた。今日は、その途中で別の人の帰りを待っている。
帰宅して米を研いでいると、机のスマホが鳴った。
『行ってきました。今、家です』
手を拭き、俺は画面の前へ座る。お帰りなさいと返すと、少し話してもいいですか、と続いた。
炊飯のスイッチを入れてから、音声をつなぐ。
「お疲れさまです」
「……疲れました」
ハルが言い、二人で少し笑った。俺は自分のしっぽを支えへ載せ、相手が息を整えるのを待つ。
「入口、着いてから、一回通り過ぎました」
最初の言葉に、俺は頷いた。
いつもなら迷わず入っていたところで足が止まり、そのまま少し先まで歩いたという。戻ると人が出てきそうで、鞄からスマホを出すのにも時間がかかった。
「迎えに来てもらうって、自分で頼んでたのに。着きましたって送ったら、もう帰れない気がして」
「うん」
「でも、帰るなら連絡しないとって思って。それで画面開いたら、入口まで行きますって、前の返事があって」
ハルは、着きました、少し先にいます、と送った。
その場所まで上司が来てくれたが、近づいてすぐには声をかけられず、互いに顔を見たまま止まったという。
「俺から、お疲れさまですって言いました。そしたら、待たせたねって」
名前を呼んでもらい、ハルは返事をした。
映像で見たときとも違って驚いたと上司が言うので、自分もまだ鏡を見ると驚くと返す。上司はそうかと言い、それから、こちらへ、と建物のほうを向いた。
「前は、用事ある人を俺が案内してたのに。今日、逆で」
「入り方、違ったんですね」
「はい。でも、一人で入れなかったから駄目だとは、今日は思わなかったです。来てもらうために連絡したんだし」
最後のところだけ、少しはっきりした声だった。
俺は机へ置いた手を緩める。昨日までできなかったことを、一人でできるようになる。その形だけが、先へ進むやり方ではなかった。
*
「部屋に入っても、最初、仕事の話が出てこなくて」
ハルは続けた。
椅子へ座り、持ってきたメモを出す。上司から今日ここまで来てどうだったかと聞かれて、駅から歩けたことより、入口が怖かったことを先に答えたという。
「来られたから、もう大丈夫って言いそうになったんです。でも、次に一人で来てってなったら困るから」
俺は、はい、と返す。
今日の一回を、明日からの全部にされるのは怖い。ハルはその場で、まだ人が多いところへ出る自信はないと伝えた。
上司はメモを取り、働き方を考える前に、担当の人とも今の状況を話していこうと答えたという。
「そこで、誰に何を話すか、聞きました」
休みや今後の相談を担当する人へ、外見と声が変わっていること、受診が続いていること、まだ勤務を再開する見通しは決められないことを先に伝える。そのうえで、次は上司にも入ってもらって話すことにした。
同僚全員へすぐ説明する話にはならなかったが、仕事へ戻るなら、ほかにも考えることはある。今日の面談だけで決まらなかった部分も、ハルは一つずつ話した。
「全部自分で説明しますって言わなかったです。最初、今日までのことは上司から話してもらって、違ってたら俺が言いますって」
「それ、頼めたんだ」
「うん。声出して言ったら、そうしようって返ってきて」
向こうで紙をめくる音がする。
自分が話す順番を、ほかの人と決められた。俺はノートへ何か残したくなったが、手を伸ばさず、続きを聞いた。
「それで、一つだけ仕事のこと聞きました。休む前に引き継いだ分、どうなりましたかって」
上司はもう済んだものと、今も続いているものを教えた。ハルが以前気にしていたところにも話が及び、説明を聞いているうちに、あれはどうなったのかと自分から尋ねていたという。
「しばらく、顔のこと考えてなかったです。向こうも、いつもみたいに続き話すから」
「仕事の話ができたんですね」
「はい。もう担当に戻れますって意味じゃないですけど。俺、あそこにいたんだなって」
少し声が詰まり、ハルは水を飲むと言った。
俺もコップを取る。返事ができるまで待ちながら、大学へ借りたノートを返したときのことを思い出した。前の自分がいた場所に、今の声で続けられる話が残っている。
ハルが戻ってきたので、帰りはどうしたのかと聞いた。
「あの店、寄りました」
「定食の?」
「はい。昼、緊張してあんまり食べてなくて。まだ入れる時間だったから」
会社を出たあと、通りの途中で立ち止まり、店の前まで歩いた。そこでメニューを見ていたら、店員から一人かと声をかけられたという。
「はいって言ったら、中へどうぞって。それで入れました。会社より、先に声かけてもらったほうが楽でした」
店員が以前の自分を覚えていたかは分からない。ハルも、前に来ていたと説明はしなかった。
席へ座り、食べたかった定食を頼む。ご飯は少なめにできるか尋ね、できますと言われたので、そうしてもらった。
「値段、ちゃんと上がってました」
「そこ、確かめたんですね」
「上司が言ってたとおりでした。でも、うまかったです」
やっと、ゆっくりした笑い声が聞こえた。
俺も笑って、何よりです、と返す。前と同じ量を食べられたかではなく、食べたかった味がどうだったかを聞けるのが嬉しかった。
*
「服、あれにしてよかったです」
通話の終わり際に、ハルが言った。
「座ったり立ったりしても、今日は服のこと考えなくてよかった。配信で言ってたの、こういうことかって」
鏡の前で立つだけで決めず、動いて確かめる。石田と買いに行った日に試したことが、会社の椅子でも使えていた。
俺は画面のない通話へ頷いた。
「俺のスカートと同じの、買わなくてよかったですね」
「本当に。俺、あのとき全部真似しようとしてたから」
二人で笑い、少ししてハルが、ありがとうございます、と言った。
「服もですけど、相談してから行っていいって話、聞けてよかったです。戻れるって言えるまで、連絡の画面閉じてたと思うので」
俺はすぐ返せず、クッションに載ったしっぽを見た。
ハルにはこれがない。大学と会社も違う。それでも、俺の暮らしから持っていけるものを、本人が選んでくれた。
「今日、行けた話を聞けて、俺も嬉しいです」
ようやく返すと、ハルは、また配信見に行きます、と言った。今日は休むと決めた声へ、お疲れさまでしたと返して通話を切る。
炊飯器の表示は、とっくに保温へ変わっていた。
俺は夕飯をよそい、いつもの椅子へ座る。SNSへ誰かの成果を知らせる代わりに、自分が公開した動画の紹介文を読み直した。
これを見ただけで何もかもできるようになるわけではない。でも、今困っている一つを試すために、戻ってこられる場所にはできる。
明日は服の工夫も探しやすいよう、投稿をまとめようと思う。俺が通ってきた順番に、全員を並ばせる必要はなかった。
まず飯を食べてから、とスマホを置き、俺は両手を合わせた。




