第60話 その先の、昼飯の話
ハルから、文章を送りました、と届いたのは翌日の昼だった。
男だった身体が女性のように変わり、声も違うこと。受診しているが、元へ戻るかは分からないこと。昨夜のうちに書き、朝になって読み直してから上司へ送ったという。
『読んでおきますって返事が来ました。夕方、話してきます』
俺は食堂の入口を離れ、壁際で返信した。
『はい。終わったあと、話したくなったら連絡ください。俺も夕飯の頃には家にいます』
送って顔を上げると、少し先で三浦が待っている。その隣を通る学生が俺のしっぽを見て、連れの袖を引いた。通路へ出ていた先を自分の側へ寄せ、俺は三浦に追いつく。
「今日、うちで飯食わない?」
「いいけど。何かある?」
「冷凍してた肉を出した。二人分くらい」
「くらいって、また多いほう?」
前に出した量を覚えているらしい。今日は野菜もあると言うと、量が減る説明になってない、と返された。
俺が笑ったところで、三浦はスマホをしまう。
「帰り、一緒でいい?」
「うん。あと、夜に一本、電話来るかもしれない」
「そのときは片づけとく」
何を聞かれるでもなく話が決まり、俺もスマホを鞄へ戻した。ハルが話す夕方を、画面の前で待って過ごすつもりになっていたことに気づく。
まず自分の午後の講義があって、そのあとに飯がある。三浦と食券の列へ並びながら、夕飯は味噌汁も作ろうと考えた。
*
帰宅して手を洗い、三浦に皿を出してもらう間に、俺は玉ねぎを切った。
薄く切った肉と炒め、生姜を入れたたれを絡める。フライパンから湯気が上がると、三浦が換気扇のほうを見た。
「もううまそう」
「まだ食うなよ」
「取れる位置にいないだろ」
振り返れば、あいつはちゃんと机にいる。俺だけが落ち着かず、さっきから冷蔵庫の上のスマホを確かめていた。
たれを煮詰めて火を止める。盛りつけようと皿を取ったところで通知が鳴り、耳がそちらへ向いた。
『終わりました。あとで、少し聞いてもらいたいです』
俺は皿を置いて返信する。これから夕飯なので、そのあとでもいいかと聞くと、ハルも今から食べるという。
『昼、あんまり入らなかったので。今になって腹減りました』
よかった、と思ってから、それだけで話がうまくいったと決めないようにした。聞きたいことはある。でも、今すぐ聞かなければ消えてしまう話でもない。
食べ終わったらこちらから連絡すると送り、スマホを伏せる。
「飯、冷めるぞ」
「分かってる。今、盛る」
皿を運んで座ると、三浦が肉と俺を交互に見た。
「二人分くらい、の意味が分かった」
「玉ねぎで多く見えるだけ」
「じゃあ、そっちの山は?」
俺は自分の皿を少し引き寄せる。男だった頃のつもりで盛ると多いのは分かっているのに、腹が減っていると、食べられる気がしてしまう。
「残す前に、分ける」
「それなら食う」
手をつける前に少し渡すと、三浦はいただきますと言って箸を持った。俺も味噌汁を飲み、それから肉を口へ運ぶ。生姜は少し強い。でも、飯と一緒ならちょうどよかった。
「これ、また作って」
向かいから言われ、俺は次の肉を取りかけて顔を上げる。
「たれ、適当に入れたんだけど」
「じゃあ今のうちに覚えといて」
「大さじ、どこまで数えたかな……」
三浦が笑うので、俺も笑ってしまった。しっぽが椅子の横で揺れ、机の脚に先が触れる。
「うまいって言っただけで、そんな嬉しい?」
「また作ってって言っただろ」
言ってから、箸先へ目を戻す。こういう返事が今の声で出ると、昔よりずっと素直に聞こえる気がして困る。
三浦はそこをからかわず、うん、また食いたい、と肉を取った。俺ももう一口食べ、忘れないうちに、たれの分量を二人で思い出した。
*
食器を流しへ運んでから連絡すると、ハルは話せると返してきた。
三浦が洗い物を引き受けてくれたので、俺は先に礼を言い、イヤホンを持って机へ移る。つながった向こうでは、ハルが一度咳払いをした。
「ご飯、食べられました?」
「はい。冷凍してたの、温めて。きつねさんは?」
「肉を焼きました。今、友達が洗い物してくれてます。イヤホンにしてるので、声はこっちにしか聞こえないです」
「じゃあ、あんまり引き止めないように」
「大丈夫です。話したいところから、どうぞ」
急いでまとめようとした声が止まる。少しして、ハルは、最初が一番変でした、と言った。
「仕事の電話だから、お疲れさまですって言ったんです。そしたら、向こうも同じように返して。そのあと、急に静かになって」
事前の文章で声が変わったと読んでいても、実際に聞くのは初めてだった。ハルが聞こえますかと尋ねると、聞こえている、読んだつもりだったが驚いている、と返ってきたという。
「そこで俺も、何か説明しなきゃって。でも、もう書いたことしか出なくて」
「同じこと、話したんですか」
「はい。今朝の文章、自分でも開いてました。急に身体が変わって、声もこうなって、病院には行ってますって」
上司は途中で結論を求めず、今もその状態なのかと聞いた。ハルはそうですと答え、顔も前とは違うと付け足した。
それから、映像をつないだら今の姿を見てもらえる、と自分から言ったという。
「見せたんですね」
「はい。最初からカメラつけるのは無理だったけど、声を聞いてもらったあとなら、できそうで」
俺は、机の端に置いたコップを持つ。
ハルの顔を俺はまだ知らない。今この声を聞きながら思い浮かべられるのは、前に送ってもらった白いTシャツと紺のパンツだけだった。
「映したら、やっぱり止まりました。石田のときもそうだったから、ちょっと待てたんですけど」
その間にハルは、自分から名乗り直したという。仕事の連絡ではいつも使っていた名前を、今の顔で、今の声で言った。
「向こう、確認することがいろいろあるから、今日だけで全部決められないって。俺、それ聞いて、今日は無理なのかと思っちゃって」
「うん」
「でも、何を決めたいのか聞かれたんです。戻る日じゃなくて、今日、相談したかったこと」
ハルが息を吸う。俺も相槌を急がず、続きを待った。
「会社へ、一回行きたいって言いました」
俺はコップを置いた。
「働き始める前に、ですか」
「はい。家からの道は分かるんです。でも、あの入口からこの格好で入るとこが、どうしても想像できなくて。みんながいるところへいきなり行くのは、まだ怖いですって」
その話は、昨夜は出ていなかった。
復帰できるかと聞かれたら答えられなくても、まずどこへ行ってみたいかなら言葉にできたらしい。俺は自分が三浦と大学へ行く練習をした日を思い出す。講義を受ける前に、道を歩き、座れる場所を探した。
「そしたら、最初は上司とだけ会えるように、時間と部屋を考えるって。入口まで迎えにも来てもらえることになりました」
「日時も?」
「来週の午後です。終わったあと、メッセージで送ってもらいました。仕事はしなくて、まず会って話す日でいいって」
声の後ろで、紙を触る音がする。届いた予定を、どこかへ書き写しているのかもしれない。
俺は、そこまで決まったんですね、と返した。画面を開くのもつらいと言っていた人が、今は行く日の説明をしている。
「ただ、ずっと上司だけに話して済むわけじゃなくて」
ハルが続けた。
休みや今後の働き方を相談するには、担当する人にも事情を伝える必要があると言われたという。誰に何を話すかは、次に会ったときに確認する。ほかの同僚へどう説明するかも、まだ決まっていなかった。
「全部秘密のまま戻れるとは、思ってなかったんですけど。急に、知られる人が増えるんだなって」
「俺も、先生へ連絡するとき、毎回ちょっと違いました。相談窓口の人に話せたら終わり、とはならなかったです」
「そうですよね」
ハルは小さく息を吐いた。
俺は大丈夫になるとは言えず、次に会うとき聞きたいこととして残しておけそうか、と尋ねる。
「はい。それと、休む連絡を続けることも確認しました。今日話せたから、明日から出られるってことじゃないので」
「そこも、話せたんですね」
「うん。言うの、怖かったですけど」
少し間が空いて、向こうから椅子の軋む音がした。
「でも、最後、昼飯の話になったんです」
「昼飯?」
思わず聞き返すと、ハルが初めてはっきり笑った。
「会社の近くに、前よく行ってた店があって。俺、そこ、まだありますかって聞いて」
午後に行くなら、食べてからにするか、帰りに何か買うか。予定を見ながら考えていたら、以前よく頼んでいた定食を思い出したのだという。
上司は店が今もあると答え、最近は少し値上がりしたと教えた。
「それ聞いて、ええって言っちゃって。そしたら、そういうとこは変わらないなって」
笑いが、途中で少し揺れる。
「声聞いても顔見ても、最初は分かんないって感じだったのに。値上がりに文句言ったら、普通に返ってきました」
俺は流しのほうを見た。三浦が皿を拭きながら、置き場所を指で尋ねてくる。棚の下段を示すと、あいつは頷いて片づけを続けた。
「その定食、また食べたいですか」
「食べたいです。でも、前の量、今だと多いかも」
「それ、今日の俺です」
何をどれくらい盛ったのか話すと、ハルが笑う。俺は少しだけ抗議し、作ったときには本当に食べられると思ったのだと説明した。
「店、行くかはまだ分かんないです。でも、聞けてよかった。仕事の話だけだったら、切ったあと、もっと疲れてたと思うので」
次の約束は、会社で上司と会うことだ。定食を食べることまでは決めなくていい。
それでも、行く道の先に、怖い入口だけではなく好きだった昼飯が戻ってきた。それを思い出せるところまで話せたのが、俺は嬉しかった。
*
通話を終える頃には、三浦は鞄へ荷物を戻していた。
俺が待たせたと声をかけると、洗った皿は全部そこ、と棚を指す。礼を言ってイヤホンを外し、玄関まで一緒に歩いた。
「話せた?」
「うん。聞けてよかった」
三浦はそれだけで頷き、靴を履く。俺は後ろから、さっきの飯、と呼び止めた。
「今度、配信でも作ろうかな。ちゃんと分量残して」
「残せるのか?」
「今日お前と数えただろ。もう一回作れば、たぶん」
「たぶんの生姜焼き」
「告知に書くなよ、それ」
笑いながら見送り、鍵を閉める。
机に戻って、ハルとのやり取りを閉じてから、たれの分量をメモした。次に作るなら少し肉を減らす。その下へ、配信で作る候補、と書き足す。
相談に答えられる話ばかりを探さなくても、また作りたい夕飯があった。今の俺がうまいと言って食べるところを、見に来てほしい。
スマホを取って次の配信の予定を開く前に、俺は冷蔵庫へ残りの生姜をしまった。次に使う分は、まだ十分に残っていた。




