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男だった俺の、しっぽのある暮らし  作者: あわいしゅん
第章4「この暮らしが誰かに届く」

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第59話 戻る前に、話したい

 ハルから、買ったパンツを穿いて近くの店へ行ったと届いた。

 俺が講義を終え、帰り支度をしているときだった。鞄へノートをしまってから、廊下の端で続きを開く。


『石田とは別の日です。買うものは少なかったんですけど、一人でも行けました』


 俺は、もう着て出られたんですね、と返した。

 写真で見た紺と白の組み合わせを思い出す。あのとき次の行き先は決まっていなかったが、自分で用事を作れたらしい。

 返信を待っていると、三浦が教室から出てきた。俺が少し遅れると伝えると、あいつは自分も鞄を開き、プリントの角を入れ直す。


『でも、仕事の連絡は、まだです』


 次の文章を読んで、俺はスマホを持ち直した。


『休むって連絡はしてるんです。今も。ただ、いつ戻れそうかって聞かれると、分かりませんとしか返せなくて』


 俺はすぐには打ち返せなかった。

 服を買いに行けたら、次は職場へ行ける。そんなふうに一段ずつ同じ高さの階段が並んでいるわけではない。今の姿で初めて会う人と、男だった頃の自分を知っている人では、玄関の手前で考えることも違う。


『今夜、少し話せますか。俺が大学へ相談したときのことなら、話せると思います』


 送ってから、時間は都合のいいときで大丈夫だと添えた。

 お願いします、という返事に頷き、スマホをしまう。


「待たせた」

「大丈夫。帰る?」

「うん。今夜、前に話した人と、もう少し話すことになった」


 三浦へは詳しい事情を出さず、大学へ戻る前の連絡を振り返りたいと伝えた。あいつは歩き始めながら、最初、自宅で練習したんだよな、と言う。


「その前に、窓口へメールしてた。行けるかどうかも分かんない頃」

「じゃあ、そっちからだろ」


 俺は頷く。

 今こうして講義のあとに廊下を歩いている自分より、行けないかもしれないと思いながら文章を送った自分のほうが、今夜は話せることがありそうだった。


     *


 夕飯を済ませ、机で昔のメールを開いた。

 学生相談窓口へ送った文章には、身体の急な変化と受診のこと、これからの授業について相談したいと書いてある。画面を下へ送ると、その後のやり取りが続いた。

 最初の一通に、今の通い方まで書いてあったわけではない。

 俺はノートへ、最初に頼んだこと、と書く。相手へメールを転送するのでなく、当時どう考えていたかを、自分の言葉で話したかった。


 約束した時間につながると、ハルが先に、すみません、と言った。


「この前、買い物できたって言ったばかりなのに。また、できない話で」

「買い物できたのは、そのままでいいと思います。今日、なくなったわけじゃないので」


 俺はそう返し、コップを机の奥へ寄せる。


「仕事は、誰に連絡してるんですか。名前じゃなくて、話せる相手なのか、聞きたくて」

「直属の上司です。休む連絡も、その人にしてます」


 身体を崩して休んでいると伝え、今も受診していることは話したという。姿と声が変わったことは、まだ説明できていなかった。

 休みの扱いや手続きは会社とやり取りしているが、今後の見通しを聞かれるたび、返事の画面を閉じてしまう。


「戻れる日を聞かれてるのに、身体が変わったって返したら、休みを延ばす言い訳みたいで」


 ハルの声が小さくなる。


「でも、元へ戻ったら出ますって言っても、いつ戻るか分かんないし。このまま行けるかも、分かんないです」


 俺は机のノートを見た。

 行けると決まっていなかった頃の自分も、先にそこを答えなければ相談できないと思いかけていた。


「俺、最初は大学へ、これからの授業について相談したいって送りました。いつから普通に通えます、とは書けなかったです」

「それで、話せたんですか」

「はい。最初は自宅からで。受診してることと、今、通学が難しいことから話して。講義の担当の先生への連絡も、案内してもらいました」


 大学へ行けるようになった結末から話すと、簡単だったように聞こえるかもしれない。俺はそこで区切り、まだ戻る方法も、どこまで通えるかも分かっていなかったと付け足した。


「仕事と大学は違うので、同じようになるとは言えないです。でも、行く日を決める前に、話す時間を頼むことはできないですか」


 向こうで、何かを動かす音がした。


「話す時間……」

「はい。今、分かってることを伝えて、何を相談すればいいか聞く時間」


 ハルはしばらく黙り、そのあと、今なら連絡先は開いてます、と言う。

 俺もパソコンのメールを閉じ、相手の声へ意識を戻した。


     *


「何て書けばいいんだろう。やっぱり、まず、姿が変わったって」


 ハルが言いかけて止まる。

 俺が最初の文章を全部作って渡すこともできるのかもしれない。でも、その上司へこれまでどんな言い方をしてきたかは、俺には分からない。


「今、向こうに何をしてもらえたら、話し始められそうですか」


 尋ねると、息を吐く音が聞こえた。


「いきなり電話は、やめてほしいです。出ても、声、分かんないと思うので」

「それは書いてもよさそうですね。俺も最初、友達に声のことを先に言えばよかったって話しました」

「あと、大勢じゃなくて、先に上司だけに聞いてほしい」


 俺は、うん、と返した。

 職場の全員へ同じ説明をする場面を想像すると、送る前から疲れてしまう。まず一人へ伝えたいという希望は、俺にもよく分かった。


「その二つを先に頼んでみたら、どうですか」


 少しして、文字を打つ音が始まる。

 俺は待ちながら、しっぽを椅子の横へ置き直した。文章を見せてほしいとは言わない。相手が読み上げたところで、初めて続きを聞いた。


「休んでいる間の状況と、今後のことを、一度相談させてください。受診は続けていますが、外見と声にも変化があり、電話でうまく説明できるか不安があります……」


 そこで止まり、ハルが、これじゃ何の話か分からないですよね、と言う。


「気になるとは思います。俺も、最初のメール一つで全部分かってもらえたわけじゃないです」

「男じゃなくなったって、書かないと駄目かな」


 声を聞いて、俺も少し考える。

 いつ、どこまで伝えるかを、俺が代わりに決めるわけにはいかない。


「話すときには、その説明も必要になるかもしれないです。今の文章で頼みたいのは、まず二人で話す時間、ですよね」

「はい。そうです」

「それが伝わるか、先に見てもいいと思います。相手から聞き返されることもあると思うけど」


 ハルは文章を読み直した。

 突然の電話ではなく、まずメッセージで日時を相談したいこと。詳しい事情は、最初に上司一人へ伝えたいこと。最後にその二つを足して、もう一度声に出す。


「……自分の声が違うって、会社に言うの、初めてです」


 俺は、はい、と返す。

 石田には話せた。でも、次の人にも同じ速さで話せるわけではない。


「買い物へ行った服、今、そこにあります?」

「あります。何でですか」

「いや。あの服で一回、外へ行けたんだなって、俺が思い出して。今日も、全部決まってなくても、一つ頼めることはあるのかなって」


 向こうで椅子が鳴る。手を伸ばしたのかもしれないが、映像はないので分からなかった。


「紺の、見えてます」


 ハルが言った。


「仕事にも着ていけるかなって、買うとき、少し思ったんです。石田には言わなかったけど」


 俺は膝の上で指を組む。

 買い物の先にあったのは、俺が次の課題として持ってきた話ではなかった。ハルはあの売り場で、もう少し先へ出る自分を、自分で考えていた。


「それも、これから相談できるといいですね」

「はい。……今、送ります」


 打つ音が止まる。

 俺は黙って待ち、送れました、と聞いてから、ゆっくり息を吐いた。


     *


 送信してすぐに返事が来たわけではなかった。

 ハルが何度か画面を確かめている気配があり、俺は、今日はここまでにしましょうか、と聞いた。


「きつねさん、待っててもらわなくて大丈夫です。返事、いつになるか分かんないので」

「うん。俺も、明日の支度します。今夜すぐ決まらなくても、送ったものは残ってるので」


 通話を切ってから、俺は皿を一枚洗い忘れていたことに気づいた。

 水につけて戻るとスマホへ手が伸びそうになり、先に講義の資料を鞄へ入れる。待っている側まで落ち着かなくなるのは、三浦も同じだったのだろうか。

 ノートを閉じ、明日の服を出したところで、ハルから通知が来た。


『返事が来ました。少しだけ、もう一回話せますか』


 つながった声は、さっきより速い。


「明日の夕方、二人で話す時間、取ってもらえました。最初は音声で、必要なら映像も使えるようにしておくって」


 上司からは、説明が難しいなら先に文章で送ってもよいと返ってきたという。復帰の日をその場で決めるのではなく、まず現在の状況を聞く時間にする、ともあった。


「声が違うって書いたところ、読みましたって。急に電話しないで、時間決めましょうって」


 俺は肩を下げ、よかった、と言った。

 身体の話を聞いたあとの反応は、まだ分からない。上司も今の姿を見てはいない。それでも、電話が突然鳴るのを怖がりながら待つ夜から、明日の何を話すか考える夜には変わった。


「何が変わったか、もう少し文章で送ろうと思います。今度は、自分で書いてみます」

「はい。話す前に伝えておきたいこと、ありますもんね」


 ハルが、うん、と答える。


「元へ戻る日を答えなきゃって、ずっと思ってました。でも、今の自分のことを、先に話してもいいんですね」


 俺は机のノートへ目を落とした。

 授業へ戻る前に相談したときも、俺の身体は今と同じように変わったままだった。分からないところをなくしてからでは、あの一通はいつまでも送れなかっただろう。


「俺は、そうやって話し始めました。明日も、答えられないことはあると思います。でも、何を困ってるかは、ハルさんが言っていいと思います」


 ありがとうございます、と返る声は、少し掠れていた。

 俺は水を飲むよう勧め、自分もコップを取る。さっきから俺も、ずいぶん喉が渇いていた。


「きつねさんも緊張してました?」

「してました。俺が会社に連絡するわけじゃないのに」


 正直に返すと、向こうで小さく笑う声がする。

 俺も笑って、今日は寝る支度もしましょう、と言った。明日の話す内容と同じくらい、今夜休めることも必要だった。


 通話を終え、ノートへ短く書き足す。

 復帰の日を決める前に、今の状況を話す時間を頼んだ。

 誰の会社か、どんな返事だったかまでは書かず、自分が大学へ連絡したときのページに印をつける。配信で話せるのは、まず俺自身が経験したことだ。

 その経験を聞いて、今夜、ハルが一通送れた。


 明日の約束をしたのはハルで、明日話すのもハルだ。俺が隣に座れるわけではない。

 それでも、着ていくかもしれない一着を選んだ人が、そこへ行くための相談を始めたことは、ちゃんと嬉しかった。

 俺は明日の講義の時間を確かめてから、ハルへ、今日はお疲れさまでした、と送った。

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