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男だった俺の、しっぽのある暮らし  作者: あわいしゅん
第章4「この暮らしが誰かに届く」

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第58話 選んだのは、俺です

 翌日の昼、三浦は俺のトレーを見てから、服を見た。


「会計は早かったな」

「決めるのも、今日は早かっただろ」

「入口で一回、メニュー見に戻った」


 それは早いほうだと主張しながら、俺は椅子を引く。しっぽの先を通路へ出さないよう横へ寄せてから座ると、隣の席の学生が箸を止めた。目が合って、相手は少し会釈する。俺も軽く頭を下げ、トレーを手前へ動かした。

 青いTシャツに、生成りのカーディガン。昨日決めた服で食堂まで来ても、視線はある。けれど、袖を気にせず箸を持てるのは、やっぱり楽だった。


「昨日の服の話、最後のほう見た」


 三浦が水のコップを置く。


「財布出してたとこ?」

「そこは終わってた。しっぽで色選ぶなって言ってた」

「あそこか……」


 俺は味噌汁へ目を落とす。肝心な説明より、照れたところだけ見られたらしい。


「これ、似合うって言ってもらったんだよ」

「知ってる。だから着てきたんだろ」

「手も使いやすいから」

「うん。両方だろ」


 あっさり返され、俺は否定する理由を失った。男だった頃に似合っていたかどうかではなく、今の俺が着たいと思って選んだ服だ。それを人に見てもらって嬉しいと、昨日は自分でも話している。

 椅子の横を見下ろし、しっぽが動いていないことを確かめてから飯へ戻る。


「そこ確認するの、もう遅いと思う」

「飯食えよ」


 三浦が笑って、俺も釣られた。

 食べ終わる頃には、午後の講義と課題の話になっている。次に出すレポートで使う資料を図書館で探すというので、俺も自分の分を見ていくことにした。

 服の相談をした翌日にも、やることは普通に積み上がる。その中で袖のことを忘れていられる時間が増えるのは、思っていたより助かった。


     *


 ハルから買い物へ行くと届いたのは、それから数日後だった。

 石田と時間が合い、一緒に服を見に行くという。俺が講義を終えてスマホを開くと、少し前に送られた文章が残っている。


『この前試したTシャツで行きます。下は今あるもので、今日は探すほうを決めました』


 俺は、いってらっしゃい、と返した。

 そのあとに何か助言を足そうとして、入力欄を閉じる。鞄も靴も、もう自分で確かめた人だ。今から思いつく注意を全部送ったら、玄関で引き止めるような気がした。


 夕方、帰宅して洗濯物を取り込んでいると、買えました、と連絡が来た。

 俺は干していたTシャツを畳み、今なら話せると返す。つながった音声の向こうで、がさがさと袋が鳴った。


「まだ片づけてなかったですか」

「今、出してます。帰ってきて、もう一回着てみたくなって」


 ハルの声に、少し息が混じる。

 俺は自分の膝へ畳みかけの服を置いた。どんなものを買ったのか尋ねると、濃い紺のパンツだと返ってくる。


「裾が、広すぎないやつです。最初は黒にしようと思ったんですけど」

「変えたんですか」

「二つ並べたら、紺のほうがよく見えて。Tシャツと一緒に」


 言い終わってから、ハルが小さく笑う。

 選んで着ていった一枚が、店でもちゃんと使えたらしい。俺は、合わせて見られたんですね、と返した。


「でも、最初、売り場で止まりました」


 袋の音がやみ、声が少し近くなる。


「今までだったら素通りしてたほうへ、石田が行こうとして。調べてた店だから分かってたんですけど、自分もそこへ入るのかって」


 俺は膝の布を撫でる。

 前なら自分のものを探さなかった場所で、今日は自分の服を選ぶ。男だった頃の歩き方が、その手前で足を止めるのは、俺にも想像できた。


「石田は、戻るかって聞きました。顔見て、無理そうだと思ったみたいで」

「うん」

「戻りたいのかって言われると、そうじゃなくて。どれから見ればいいか、分かんなかったんです」


 ハルはそこで、昨日まで考えたことを思い出したという。

 何でもいいから似合うもの、ではなく、今着ているTシャツに合わせる下の服。何をしに来たかは、家で一度言葉にしていた。


「だから、それ、石田にもう一回言いました。そしたら、じゃあパンツから見るかって。スカートじゃなくてもいいんだなって、そこで思って」


「俺がいつも穿いてるから、そっち考えてました?」

「少し。きつねさんみたいにしないと、今の身体に合わないのかなって」


 俺は巻きスカートの腰へ手を置く。

 しっぽを通すために試し、今は自分でも気に入って使っている。画面で何度も見せてきたものが、相手には、変わった身体の暮らし方の見本に見えていたのかもしれない。


「俺、後ろにこれがいるので、腰を合わせるのが大変だったんです。ハルさんは、そこ、違いますもんね」

「はい。店にあったの、そのまま穿けました」


 その言い方に、俺はつい笑った。


「そこ、羨ましいです」

「あ、そうか。きつねさんは、まずしっぽなんだ」

「まずしっぽです。気に入っても、そのままだと駄目なことがあって」


 相手も笑う。似たように変わって困っていても、俺が羨ましいと思うところまで同じではない。

 ハルの買ったパンツには、しっぽの場所を作らなくてよかった。本人が穿いて楽かどうかを、そのまま試せたのだ。


     *


「試着は、すぐできました?」

「それが、石田に先に聞いてもらおうとして」


 ハルは少し声を落とす。

 棚の前で二本を選んだあと、試着室の近くまで行って、店員へ声をかけられずにいたという。石田は気づいて、これ、試着できますか、と聞いてくれた。


「そしたら、店の人、石田のほうじゃなくて、自分に何点ですかって聞いて。普通に、自分が穿くんだって分かってるんですよね」


 俺は、はい、と返す。

 鏡を見なくても他人には今の姿が見えている。そのことを忘れかけて、何でもない返事の途中で、もう一度自分の身体へ気づかされることがある。


「二点です、って言ったら、それで入れて。何か、もっと聞かれると思ってました」

「何をですか」

「何でお前がここにいるんだ、みたいな。言われるわけないって、今なら思うんですけど」


 笑おうとした声が途中で止まる。

 俺はすぐに大丈夫だと言わず、膝の服へ目を落として待った。


「入ったら、鏡が大きくて。服も着替えるし、結構、困りました」


 今の自分を見慣れるために来たのではない。それでも、服を確かめるには、今の自分を見なくてはいけなかったのだろう。


「石田、外からどうだって聞くから、まだって返して。ちょっと待ってもらいました」

「待ってくれたんですね」

「はい。そのあと、自分で裾見て。一本目、立ってるとよかったんですけど、しゃがんだら腰が気になって」


 ハルの声が、少しずつ普通の速さへ戻る。

 店では許された範囲で腰を落とし、膝を曲げ、裾を確かめたという。二本目は同じ動きをしても、一本目ほど引っ張られなかった。


「配信のとき、座ってるだけじゃ分かんないって言ってたから。鏡の前で立ったまま決めないでよかったです」


 俺は、膝へ置いていた服をそっと横へ移した。

 映像を見た人が、自分の試着室で同じことを考えている。俺が財布へ手を伸ばしたときの話は、向こうでは、腰を曲げる動作になっていた。


「外へ出て、石田に見せたんですか」

「うん。そしたら、そっちのほうがいいって。でも、何がって聞いたら、何となくだって言うから」


 今度は、はっきり笑い声が聞こえた。


「こっちは腰が楽だって言いました。あと、色も、こっちが好きだって」

「言えたんだ」

「はい。石田も、じゃあそれでいいじゃんって。自分のほうが理由あったんだなって思いました」


 俺まで笑ってしまう。

 前の自分ならどちらを選ぶか、今の姿なら何が正しいか。その二つの間で止まっていた人が、今穿いている自分の腰と、好きな色を理由にできた。

 選んだ服の形は俺と違っても、その返事はよく分かった。


「会計、自分でしました」


 ハルが付け足す。


「店の人、普通に袋くれて。ありがとうございましたって言われて、終わって。石田と外出たら、急に腹減って」

「何か食べたんですか」

「パン買って帰りました。服は今日は一着でいいって、自分で言いました。店、もう一個あるって石田は言ったんですけど」


 全部揃えようとすれば、まだ探すものはあったのだろう。でも、今日使う分の力がどれだけ残っているかも、自分で決められた。

 俺は、買って帰ってきたなら、今日は洗濯物が一枚増えますね、と言う。ハルは一拍置いてから、そこまで考えてなかった、と笑った。


「買うときばっかり考えてました」

「俺も。最初、洗ったら次に何着るんだってなったので」

「次、それか……。でも、今日のやつ洗ってる間は、今までのがあるから」


 話しながら、ハルが明日の服を考えている。

 買えた、という報告の先にも、その一枚を穿いて暮らす日が続く。それを聞いていると、俺も早く洗濯物を片づけたくなった。


     *


 通話を終える前に、ハルが写真を送ってもよいかと尋ねた。

 俺がいいですよと返すと、しばらくして、平らに置いたTシャツと紺のパンツが届く。顔も、身体も写っていない。

 Tシャツは白で、前に小さな模様がある。落ち着いた紺と並ぶと、明るいところがはっきりした。


「こういうのです。変じゃないですか」


 俺は写真を少し拡大する。


「俺、この組み合わせ好きです。Tシャツの模様も見えて」

「そこ、前から好きだったので」

「じゃあ、残せてよかったですね」


 はい、と返る声が、少し弾んだ。

 新しく選んだものと、好きだから着続けたいもの。両方が写った写真を見ながら、俺は自分のグレーのパーカーを思い出す。


「今度、これ穿いて出ようと思います。買い物以外でも」

「どこか行きたいところ、あります?」

「まだ考えてないです。今日は帰りたかったけど、今、見てたら、もう一回着たいなって」


 俺は、その気持ちなら分かります、と答えた。

 次の行き先は決まらないまま、疲れたので今日は休みます、とハルが言う。お疲れさまでしたと返し、通話を切った。


 写真は個別のやり取りの中へ残し、SNSは開かずにスマホを置く。

 今日は誰が何を買えたかを伝えなくても、俺の中には、聞けてよかった会話があった。

 畳みかけの洗濯物を膝へ戻すと、青いTシャツの袖が裏返っている。直して畳み、引き出しへ入れる前に、カーディガンを手に取った。

 ハルは、また着たいと言った。

 俺も、誰かへ服の話をするためだけでなく、この服でまた出かけたい。今度は昼飯以外にも用事を一つ作ろうかと考えながら、明日も着られるよう、上着をハンガーへ掛け直した。

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