第54話 一人で入れる店
講義が終わったあと、三浦と黒田は別の建物へ向かった。
俺は今日は午後の講義も用事もないので、そのまま門で二人と別れる。三浦が、あとで配信の話決めるか、と尋ねた。
「うん。夜、時間ある?」
「夕方からなら。お前のとこ行こうか」
「来て。俺、先に帰ってる」
そう答えて、二人を見送った。
門の前では、知らない学生が俺のしっぽへ目を向けている。少し前なら、ここで一人になることまで気になったと思う。
今日も視線は気になる。でも、駅へ歩き始めると、帰る途中で何をしたいかも考えられた。
あの店、空いているだろうか。
昼は食べたが、少しお茶を飲んでから帰りたい。ケーキを食べるかは、黒板を見てから決めてもいい。
杉原の店の前まで来て、俺は窓から中を見た。
壁沿いの席が空いている。
三浦へ、一人でちょっと店へ寄る、と送った。
返事を待たずにスマホをしまい、扉へ手を掛ける。鈴の音で、カウンターの杉原が顔を上げた。
「瀬川さん、こんにちは。今日はお一人ですね」
「はい。少し、お茶飲んで帰ろうと思って」
答えると、杉原が席へ目を向ける。
俺は、いつもの壁のほうへ座ってもいいですか、と尋ねた。空いていますよと返され、鞄を持ったまま歩く。
入口に近い客が、俺の腰の後ろを見て話を止めた。俺は小さく会釈し、椅子を引いた。
しっぽの位置を確かめるのも、今日は自分一人でできる。
*
温かい紅茶を頼んだ。
ケーキは今日はやめることにする。メニューを返すと、杉原は頷き、水の入ったグラスを置いてくれた。
「帽子、汚れ、落ちました?」
尋ねられ、俺はつばの端へ触れる。
乾いてから軽く払ったら、前より目立たなくなった。少し跡はあるが、かぶって出るのには困らない。
「はい。まだ、ちょっと残ってますけど」
「使えてよかったです」
杉原はそれだけ言って、注文を用意しに戻った。
外で見た客から何を聞いたか、耳はどうなっているか、という問いは続かなかった。俺も、今のところ全部を説明するつもりで入ったわけではない。
隣の席では、二人の男性がノートを広げていた。
一人がしっぽを見てから連れへ何か言い、もう一人も顔を上げる。俺が水を飲んでいると、片方がこちらへ声をかけた。
「すみません。これから撮影とかなんですか」
「いえ。今日は、帰りに寄っただけです」
答えると、相手は、そうなんですね、と目を丸くする。
身体の事情を話さなくても、今日ここへ来た目的なら答えられた。相手はもう一度しっぽを見るが、そのまま自分のノートへ戻っていく。
紅茶が届くまで、俺も鞄からノートを出した。
課題のページを開きかけ、昨日、配信で話したいことを書いたページへ戻る。
変わった日の次に何をしたか。
その一行の下へ、まず電話、と書いた。
すぐ横に、通じなかった、と足す。うまく言えなかった声も、三浦に本人へ代われと言われて返せなかった時間も、今の俺が覚えている。
その次は、飯。服。座る場所。
書いてみると、原因を調べるより先に、今日をどう暮らすかを考えていたのだと分かる。
最初から正しい順番で動いたわけでもない。それでも、昨日ハルが友人へ顔を見せて話せたのは、俺の失敗した話が少し役に立ったからだと言ってくれた。
今度の配信でも、完成した手順みたいには話したくなかった。
紅茶が来て、俺はノートを少し端へ寄せる。
カップを持つと、指へ温かさが伝わった。しばらく何も書かず、店の窓へ目を向ける。
外を歩く人が、店内の俺へ気づいて振り返った。
しっぽの先は椅子の脇にある。帽子もかぶったままだった。見えているものだけでも、俺の姿は十分目立つ。
でも、ここへ一人で入り、お茶を飲むことまで諦めなくてもよかった。
そのことも、俺が暮らして分かった一つのことだった。
*
店を出る前に、持ち帰れる焼き菓子があるか尋ねた。
今日は小さな袋入りのココアのクッキーが並んでいる。杉原が数を聞いたので、俺は二つと答えた。
「友達が、あとでうちへ来るので」
「この前いらした方ですか」
「三浦です。最初に一緒に来たほうの」
言うと、杉原は、コーヒー飲んでいた方ですね、と思い出した。
俺の隣へいた人も、店で何を頼んだかと一緒に覚えられている。そのことが嬉しくなり、はい、と返す。
会計をして、袋を鞄へしまった。
扉へ向かうと、杉原が、またお一人でもどうぞ、と声をかけてくれる。
「ありがとうございます。また来ます」
俺はそう答え、しっぽを挟まないよう外へ出る。
来たときと同じ道だが、帰りには友達へ渡すお菓子がある。誰かに付き添ってもらわずに店へ入れたことも、自分の中に残った。
駅へ向かう途中で、三浦から、寄れた? と届いた。
『寄れた。お茶飲んで、菓子買った』
『いいな』
『お前の分もある』
送ると、行く理由が増えた、と返ってくる。
俺は少し笑い、歩いている間はスマホをしまった。
*
夕方、三浦が来た。
玄関で鞄を受け取る必要もないのに、俺は少し端へ寄り、先に通り道を空ける。あいつはしっぽの位置を見て部屋へ上がり、机のお菓子へ目を向けた。
「これ?」
「うん。店で作ってるやつ」
俺はお茶を入れ、二人で袋を開けた。
カップを置いたところで、三浦へ今日の店のことを話す。誰かに撮影かと聞かれたことも、杉原が帽子を気にしてくれたことも。
「一人で入って、困らなかった?」
「席が分かってたから。知らない店だったら、また迷ったと思う」
答えると、あいつは頷く。
俺が今日できたのは、最初から一人で何でもできるようになったからではない。一緒に行った日があり、杉原へ相談した日があり、今日はその続きへ行けたのだ。
「そういうのも、話したい」
俺が言うと、三浦がノートへ目を向けた。
ページを開き、店で書いたところを見せる。
「変わったあと、最初に何をしたか。次の配信、これを一緒に話してほしい」
「いいよ。どこから?」
「電話したところから。俺は、声が出たつもりだったんだけど」
三浦はお茶を飲んでから、自分が最初に電話を取ったときのことを話し始めた。
俺が説明しようとしていた間、向こうは名前を聞き間違えたのか、それとも別の人がスマホを持っているのか考えていたという。
「お前が、俺だよって言うほど、誰だよってなった」
「俺、それで、もっと低い声出そうとしてた」
「低く喋ってたの?」
「つもりでは」
あいつが、そこは分かんなかった、と笑う。
俺も笑ってから、ノートへ、声のつもりが違った、と書いた。自分が送ったつもりの言葉と、相手へ届いた言葉は、同じではなかった。
「今なら、最初に声が変わったって言うと思う」
「うん。そう言われたら、知らない声なのは、まずそういうことかって考えられる」
三浦の答えを、俺はノートへそのまま書かず、自分の言葉で短く残す。
誰にでも絶対通じる方法ではない。でも、俺のとき何が伝わらなかったかなら、二人で話せる。
次は、あの日何を持って来てもらったかを思い出した。
弁当だけでなく、しっぽを横へ置くためのものや、着るものを揃える話もあった。俺が困っていることを全部言えたわけではないので、三浦も部屋へ来てから気づいたことがある。
「お前、最初、何が一番困ってた?」
「座れないこと。あと、この声で説明するの、どうすればいいか分かんなかった」
「俺は、本人だって分かれば、あとは何が必要か聞けばいいと思ってた」
俺はその答えを聞き、少し黙った。
友人へ分かってもらえたら、変わった身体の事情を全部説明し終えなければならないと思っていた。あのとき三浦がまず知りたかったのは、俺が今日何に困っているかだった。
「昨日話してた相手も、友達が飯持って来ることになったんだって」
細かい事情は足さずに伝えると、三浦は、なら、会ってから分かることもあるな、と答える。
「うん。俺もそう思う。でも、そこへ行く前に、誰へ何て言えばいいかで止まる人がいるんだよな」
声に出すと、昨日までのハルの話が、自分の中で少しまとまった。
俺と同じ姿ではない。耳もしっぽもない。友人や仕事のことも、俺とは違う。
でも、変わった声で最初にどう話すか分からないところでは、俺の経験を少し渡せた。
「そういう人に、俺の配信、届くといいな」
俺が言うと、三浦は俺の顔を見る。
「最初、相談するために始めたのに、逆になってきたな」
「俺も、まだ相談したいことはあるよ。帽子、また飛んだら困るし」
「じゃあ、それも相談したらいいだろ」
あいつの返事で、俺は少し笑った。
人を助ける話をするために、自分はもう何も困っていない人にならなくてもいい。
今日一人で店へ入れたことも、今も帽子が気になることも、どちらも今の俺の暮らしだった。
*
配信は、翌日の夜にすることに決めた。
三浦は自宅から声で参加する。今、二人で話したことを全部台本にせず、電話したとき、部屋へ来たとき、その日の飯、という順番だけを書いた。
SNSの告知には、こう書く。
『次は、身体と声が変わった最初の日に、友達と何を話して、何から暮らしを始めたかを話します。今も困ることはありますが、その日から今日までの経験を、少し残してみたいです』
三浦にも読んでもらい、送った。
すぐにねじまきから、初日の裏側か、と届く。糸日和は、知人へ伝えるときの話も聞きたいと書いてくれた。
俺は返事をしてから、今日買ってきたクッキーをもう一つ取る。
最初の日には、友達に飯を持って来てもらった。今日は俺が、店で友達の分のお菓子を買って帰った。
そこまで来るのに、何をして、誰に何を聞いて、どこでうまくいかなかったか。今度は、それを話せる。
三浦が帰ったあと、机を片づけた。
ノートの横には、今日の店のレシートが残っている。しっぽのある人だと覚えられ、名前を知ってもらい、今日は一人で座った店。
俺はそれを財布へしまい、明日の配信のページを開いた。
助けたいという気持ちだけを、立派な言葉にするつもりはなかった。
まずは、自分が困ったところから話そう。
俺は最初の一行へ、あの朝、電話で何と言ったかを書き始めた。




