第53話 顔を見ても、その続きへ
その夜は、スマホを伏せて課題を進めていた。
ハルと石田が話す時刻は知っている。けれど、俺が通話へ入る予定はなかった。文章の一段落を書いては時刻を見そうになるので、通知だけ聞こえるようにして机の端へ置く。
三浦から、今、何してる、と連絡が来た。
課題と返すと、あいつも同じものを開いているらしい。途中の書き方について短く言い合い、俺は元の資料へ戻る。
誰かの返事を待っていても、自分の提出物が勝手に終わるわけではなかった。
書き直した段落を保存したところで、通知が鳴った。
『終わりました。顔、見せました』
ハルからだった。
俺はスマホを持ち上げ、続きが来るのを待つ。
『石田、すごくびっくりしてました。でも、最後まで話せました。今、少し聞いてもらえますか』
俺は通話ならできると返し、パソコンの資料を閉じた。
何があったか、先に幾つも聞きたくなる。でも、俺が結果を知りたい順番と、ハルが話したい順番は違うかもしれない。ノートは開かず、まず声を聞くことにした。
つながった声は、昨夜より少し掠れている。疲れているのか尋ねると、ずっと喋ってました、と返ってきた。
「最初、カメラをつけたら、石田、何も言わなくなって」
ハルが話し始める。
「こっちも、声が出なくなりました。昨日は、ちゃんと名前呼んでくれたのに。顔を見たら、また知らない人になったみたいで」
俺は机の端へ手を置いた。
自分が三浦へ顔を見せたときも、声で話せたあとに、もう一度驚かれた。声だけの会話が進んだからといって、今の顔まで一度に受け止められるとは限らなかった。
「石田は、何て言ったんですか」
「最初は、何も。そのあと、ちょっと待って、って。本人へ代われとは、言わなかったですけど」
ハルはそこで一度黙り、少し息を吸う。
「自分も、切ろうかと思ったんです。でも、石田が、切らないでくれって言ったので」
その言葉を聞き、俺は少し肩を下げた。
相手も驚いている。でも、驚いたまま話を終えたいわけではなかったのだ。
「自分、何が分からないか言ってほしいって頼みました。黙って見られてると、どこから説明すればいいか分からなくて」
「うん」
「そしたら、顔が全然違うって。そうだよねって、二人で言って。変な会話だったんですけど」
ハルが少し笑った。
俺もつられて笑い、自分たちで違うと認めたところから話せたのか尋ねる。相手は、はい、と答えた。
*
ハルは通話の中で、変わった日のことをもう一度話したという。
朝、鏡を見たこと。服が合わなくなったこと。会社へ連絡するときにも言葉が出なかったこと。
昨日より、途中で何度も石田が尋ねたらしい。
「怖かったのかって聞かれて、怖かったって答えました。誰にも分かってもらえないまま、ずっとこの顔でいるのかと思ったので」
俺は水へ手を伸ばし、一口飲んだ。
ハルの話を聞いていると、自分も変わった朝へ戻りそうになる。でも、俺が思い出している間にも、向こうは続きを話している。
「石田も、今でも不思議だって言ってました。自分、そこで、じゃあ駄目なのかなって思ったんですけど」
「駄目って?」
「前みたいに話すのは、無理かなって」
ハルは少し言葉を探した。
「でも、石田は、分かんないのと、話したくないのは違うって。昨日、次に話すって決めたんだから、今日も話すつもりでかけたって言って」
俺は黙って頷き、遅れて、はい、と返す。
今までと同じ見た目になることも、理由を全部説明することも、その夜にはできなかった。それでも、石田が今話す相手としてハルを選ぶことはできた。
「そこから、何を話しました?」
「今、ご飯、ちゃんと食べてるかって」
答えが日常のほうへ来て、俺は少し笑う。
「自分、外へあまり行ってないので、買い物どうしてるか聞かれて。何日分か買って、あと冷凍のやつとかで済ませてるって言いました」
「食べては、いるんですね」
「はい。でも、何を食べたいか考えるのが、面倒になってて」
ハルはそこで、石田が昔の冷蔵庫の話をしたと教えてくれた。
前に一緒に作った料理をハルが多めに冷凍し、石田が来るたび同じものを温めて出したことがあったという。
「お前、食べ物を冷凍するのは前からだろって。それは身体が変わったせいじゃないって言われて」
相手が笑い、俺も笑った。
困っていることの全部を、変わった身体のせいにしなくてもよかった。好きだったものも、面倒くさがっていたことも、以前からそこにあった。
「その返し方、自分も普通に言い返しちゃったんです。食べるって言ったから出したんだろって」
「昨日の本棚の話みたいですね」
「はい。石田も、そういうところは前からだって」
ハルの声が、そのところだけ少し速くなった。
俺が返事をする前に、もう一つ続く。
「それで、日曜、うちへ来ることになりました」
俺は顔を上げた。
「会うんですね」
「はい。今度は直接、顔見て話したいって。ついでに飯、持ってくって言われて」
声がまた少し慎重になる。
画面で話せたから、対面も全部平気だと決まったわけではない。それでも、次は家へ来ると言われ、自分も会いたいと答えたのだという。
「日曜までに、一回買い物へ行っておこうと思います。飲み物くらいは用意できるので」
俺は、その言葉を聞き直したくなった。
数日前は、友人へもう一度電話をかけるのも難しかった人が、今日は自分の家へ迎えるための買い物を考えている。
そこまで進んだのは、ハルが自分で話したからだった。
「よかったです。次に会うための支度ができるの、俺も嬉しかったので」
返すと、ハルが、はい、と答えた。
その声を聞き、俺もようやく、今夜話せてよかったと思えた。
*
ハルは、しばらくしてから、自分の顔も俺に見せようかと尋ねた。
俺は少し迷ってから、顔を見せようと思った理由を尋ねた。
「昨日、話を聞いてもらったのに、きつねさんは自分がどんな顔か知らないから。何も変わってないみたいに見えるかもしれないですけど」
俺は首を振ってから、声で答える。
「今、全部見せなくてもいいです。俺に、変わった証拠を出さなきゃって話ではないので」
「……そうですか」
相手の声が少し下がり、俺は言葉を足した。
「いつか会いたいと思ったときなら、俺も顔を見て話したいです。でも、今日は、石田さんと話せた続きを聞けたのが嬉しいです」
ハルは少し黙ってから、分かりました、と答える。
俺にも相手の変化を目で見た記憶はない。けれど、知らないところを埋めるために、今夜もう一人へ顔を見せるよう求めたくはなかった。
通話の終わりが近づいたとき、ハルが、きつねさんの友達もご飯持ってきてくれたんですよね、と尋ねる。
「はい。最初の日に、弁当を」
「その話、昨日も聞いてて。自分にも、そういう続きがあるんだなって思いました」
俺は机へ置いた帽子を見る。
最初、しっぽに合う服もなく、座れる場所も分からなかった。あの日は、誰かへ経験を話せるようになるなど考えていなかった。
「俺は、今も分かってないことあります。でも、飯は食うし、友達も来るので。そこは、続いてます」
答えると、相手が少し笑う。
「そういう話、配信でも聞けると助かります。全部できるようになった話だけだと、自分はまだそこまで行けないので」
俺はその言葉を、すぐには返せずに聞いた。
今夜のハルが誰かを全部理解させた話ではなく、黙った時間を挟んでも会話を続けた話だったように、自分の暮らしも、途中のまま話してよかったのかもしれない。
「考えてみます。今日のハルさんの話は、勝手には出さないですけど」
「はい。でも、自分もまた聞きたいです」
俺は頷き、通話を終える前に、日曜の買い物はどこまで行くつもりか尋ねた。
ハルは家の近くの店で飲み物を買う予定だと答える。遠出するつもりではなく、前に使っていた鞄を出したとも話してくれた。
俺はそれならと答え、夜も遅くなってきたので、今日は挨拶をして切った。
*
三浦へ、今、少し話せるかと送った。
返事は、課題の続き? と来たので、そっちもあるけど違う、と返す。
つないだ通話で、相手が自分の友人と次に会う約束を作れたことを話した。ハルの友人の名前や会話の細部は伝えず、自分が何を感じたかを言葉にする。
「俺が全部何とかしたわけじゃない。でも、最初に俺の失敗した話を聞いたから、もう一回連絡してみようって思えたんだって」
三浦は最後まで聞き、うん、と答えた。
「そのあと、自分で話したなら、ちゃんと役に立ったんじゃない」
「そうかな」
「お前だって、俺が弁当持ってっただけで、その後全部決まったわけじゃないだろ」
俺は少し笑った。
確かに、三浦が来てからも困ることはあった。服や椅子、大学、外の人の反応。あいつが全部代わりに決めたわけではない。
でも、最初の弁当があったから、その日の飯を食べ、次のことを考えられた。
「助けるって、全部解決してからじゃなくていいんだな」
俺が言うと、三浦は、それなら俺も最初から何もできてないことになる、と返した。
俺は違うとすぐに答え、返事が早すぎて二人で笑う。
「それは、助かった。ほんとに」
「じゃあ、同じように考えてもいいんじゃない」
俺は椅子へ座り直し、ノートを開いた。
今夜、配信を始める予定はない。ただ、話せることを探すとき、うまくいった結果だけを探さなくてもいいのだと思えた。
電話で通じなかったこと、友人へ顔を見せたあとに黙ったこと、その日うまく食べられたもの。
どれも、今の俺へつながっている。
「次の配信、そういう話もしてみたい」
「最初の頃の話?」
「うん。どこで困って、何からやったか。耳の形だけじゃなくて」
三浦は、俺が覚えてる分なら一緒に話せる、と言った。
俺はまだ日程を決めず、まずノートへ、変わった日の次に何をしたか、と書く。
ハルへしてもらった話を借りなくても、俺自身の中に、渡せるものがまだある。
通話を終えて、書きかけの課題へ戻った。
提出する文章と、配信で話したいことは別のページにある。でも、どちらも、今の俺が自分の言葉で続きを書くものだった。
俺は止まっていた段落へ一文足し、次の行へ進んだ。




