第52話 最初の十分間
ハルから返事が届いたと知らされたのは、翌日の昼だった。
『友達が、声が変わったってどういうことか聞いてきました。電話なら、今日の夜に少し話せるって』
俺は大学の廊下で、その文章を二度読む。
昨日、ハルが送った言葉へ、向こうから言葉が返ってきた。俺が頼まれたのでも、相手を説得したのでもない。ハル自身が、もう一度連絡した結果だった。
『よかったです。最初に声が変わっていると書いたことは、伝わったんですね』
そう返すと、少しして、はい、と届く。
続く文章は、それより長かった。
『でも、話したらまた違う人だと思われそうで。最初の十分だけでも、一緒にいてもらえませんか。友達にも、今の身体のことで話を聞いてくれた人がいるって書きました』
俺は通り過ぎる学生へ道を空け、窓の近くへ寄った。
電話の向こうに一緒にいる。それは、俺が知っている経験を、昨日とは違う相手の前で話すことになる。
ハルが話したことは、俺にはまだ確かめられていない。友人へ、絶対に本人ですと言える立場でもなかった。
『俺が全部説明することはできないです。でも、最初に一緒に話すことならできます。友達もそれでいいと言ってくれたら』
送ると、ハルが聞いてみますと返してくれる。
午後の講義へ向かう前に、俺は今夜の予定を確かめた。配信の告知はしていない。食事を済ませてからなら、時間を取れそうだった。
*
夕方、ハルから改めて連絡が来た。
相手も一緒に話すことを了承したという。友人は石田という男性で、以前同じ職場で働いていた。今も時々、食事や互いの引っ越しを手伝うくらいの仲だと教えてくれる。
俺はハルと先に短く通話をした。
昨夜より声が速い。友人へ送った文章を説明し始め、途中で、何から言えばいいんだろう、と止まった。
「まず、今聞こえるのが自分の声だって、伝えるところからでいいと思います」
「はい。そこは、書きました」
「じゃあ、電話でもそれを言って。俺は、聞かれたら自分のことを話します」
ハルが頷いたような返事をする。
通話は声だけなので、相手がどう座っているかは分からない。それでも、言いながら手元の何かを触っているらしく、小さく擦れる音が聞こえた。
「きつねさんも、最初、こうだったんですか」
「俺は、もっと何も考えずに電話しました。だから、向こうも何が起きたか分かんなくて」
答えると、ハルが少しだけ笑う。
俺は大丈夫だと約束する代わりに、伝わらなかったときは一度止まっていいと話した。
「今夜だけで全部分かってもらわなきゃって思うと、言葉出なくなるので」
「……自分、そう思ってました」
ハルは一息ついてから、石田も待っていると伝えた。
俺は自分のマイクを確かめ、三人で話せる通話へ入る。映像はつけず、公開も録音もしない。相手の友人へ自己紹介するため、表示名はいつもの配信の呼び名にしておいた。
画面へもう一つの表示が増え、男の声が届く。
「こんばんは。石田です」
「こんばんは。きつねって呼んでもらってます。ハルさんから、少し一緒に話してほしいと頼まれました」
返事のあと、間が空く。
石田は、そっちも女の人なんですね、と言いかけ、違ったらすみませんと付け足した。
俺は今の声はそう聞こえると思いますと答え、先にハルさんの話を聞いてもらえますかと返す。
「石田、昨日書いたの、読んだよね」
ハルが声を出した。
さっき俺へ話したときとは違う、短い言い方だった。
「読んだ。でも、今喋ってるのが、お前ってこと?」
「うん。これが今の声。前の声は、出せない」
石田の返事が止まる。
俺は黙って待つ。ここで自分が続きを足したら、ハルが言ったことを相手が考える時間まで取ってしまいそうだった。
「……声変えるやつとかじゃなくて?」
「使ってない。身体が変わったって、書いたでしょ。男から、女の身体になった」
ハルが一息つく。
石田は、待って、と短く返した。
「ごめん。いきなり言われても、どういう話か分かんない」
「分かんないと思う。でも、前の電話も自分だった。説明できなくて、切ったけど」
俺はコップへ手を伸ばしかけ、そのまま机へ戻す。
ハルはちゃんと自分の言葉を続けている。それを途中でやめずに聞くことも、今の俺にできることだった。
*
石田が、朝から急に変わったのかと尋ねた。
ハルはその日のことを短く話し、病院へ相談したこと、仕事を休んでいることも伝える。原因を聞かれたところで、分からないと答えた。
「隣にいる人は、何が起きたか知ってるんですか」
石田の声が、こちらへ向く。
俺は、昨日初めて話を聞きました、と答えた。
「ハルさんの変わるところを見たわけではないです。俺自身にも身体と声が変わることが起きたので、その話をしました」
「そちらも?」
「はい。元は男です。今は、この声と身体で暮らしてます」
石田が小さく息を吸う。
俺の話まで加われば、分かりやすくなるとは限らなかった。むしろ、疑う理由が増えたかもしれない。
「本当に、そういうことがあるっていう話なんですね」
「俺が話せるのは、自分に起きたことです。ハルさんがどんなふうに変わったかを、俺から証明はできません」
答えてから、声を少し落とす。
「ただ、俺も友達へ電話したとき、知らない人だと思われました。知ってもらいたくてかけたのに、声だけじゃ分からないの、結構きつかったです」
そこで話を止める。
石田が、そうですか、と返し、また少し間ができた。
「前の電話、からかわれてるのかと思った」
今度はハルへ向けた声だった。
「名前言われたけど、誰かにスマホ渡したんだと思って。だから、本人に代われって言った」
「代わる人、いなかったんだよ」
ハルが答える。
「ずっと自分だった。どう言えばいいか分かんなくなって、そのまま切った」
言葉の最後が少し震えた。
石田は、ああ、と声を出す。俺にはその表情が見えない。でも、今聞いた言葉を、先ほどの電話へ結びつけようとしているように感じた。
「それで、あれから連絡なかったのか」
「うん」
「俺も、どうなったか聞けばよかったな」
石田がそう言ってから黙る。
ハルもすぐには返さなかった。二人が一度切れた会話のところへ戻っている。俺は画面の時間を見たが、もう十分を過ぎていた。
最初の十分だけと頼まれていた。
今抜けると声を出すべきか迷ったところで、ハルが、まだ聞いてもらっててもいいですか、と俺へ尋ねる。
「はい。います」
短く返して、また二人の話を聞いた。
*
「前の顔は、もう全然違うのか」
石田に聞かれ、ハルは違うと答えた。
写真を送ったほうがいいかと続けると、石田が、それを見ても分かるかな、と呟く。
「俺、今の声聞いても、まだお前だって、全部は思えないんだよ。ごめん」
「うん。自分でも、そうなるだろうなって思う」
ハルはそこで一度息を吸い、でも、と続けた。
「覚えてることは、変わってない。石田の引っ越し、手伝ったのも」
声が先ほどより少し強くなる。
「本棚、組んでから部屋へ入れようとして、廊下で動かせなくなったでしょ」
「……ああ。あれ、結局またバラした」
「上の板から外そうって言ったら、石田、もう一回倒してみようって。あそこで通れるなら、最初から困ってないのに」
石田が、小さく笑った。
「その言い方、お前っぽいな」
俺は机の端を見たまま、少し息を吐いた。
あの出来事を知っているから、全てが証明されたわけではない。でも、石田の中で、今の声と前から知っている相手が少し近づいたのだと思う。
「今、家にいるんだよな」
「うん」
「明日、顔、見て話せるか。今夜は、俺も頭が追いつかない」
ハルはすぐ返事をせず、映像でということか尋ねた。
石田は頷くような声で答え、会いに行ったほうがいいならそれでもと続ける。ハルは今夜から急に外へ出ることまで考えられないらしく、明日の夜に映像をつなぐほうがいいと伝えた。
「分かった。じゃあ、そのとき、もう一回ちゃんと話そう」
石田が時刻を確かめ、二人で明日の約束を決める。
俺は口を挟まなかった。何をいつ話すかを、今度は本人たちが決めている。
「きつねさん、今日は、ありがとうございました」
石田に言われ、俺は自分は少し話しただけですと返す。
相手はそれでも、ハルが最初に何を言いたかったかは分かりました、と答えた。
「声が変わった本人が、電話してたってことですよね」
ハルが、そう、と短く返す。
そこまで聞いてから、石田は明日なと挨拶し、通話を抜けた。
画面には、俺とハルの表示だけが残る。
*
ハルはしばらく黙っていた。
俺もすぐに感想を聞かず、自分のコップへ口をつけた。向こうで椅子が小さく鳴り、ようやくハルが声を出す。
「……また、連絡していいんですね」
俺は、はい、と答えた。
「明日、もう一回話すって言ってました」
「うん。そうでした。自分、そこまで行くと思ってなくて」
声の中へ、少し笑いが混じる。
全部信じてもらえたわけではない。今の顔を見た石田がどう反応するかも、まだ分からない。でも、次の電話をかける相手は、もう知らない女性が出たとだけ思って待つのではなかった。
「昨日の話、聞いてなかったら、あの文章も送れなかったと思います」
ハルに言われ、俺はコップを置いた。
すぐに、役に立ててよかったですとは返せなかった。自分が渡したのは、三浦へ電話したとき困ったという、少し前まで話すのをためらっていた経験だ。
「俺も、最初は、うまくできなかった話なので」
「だから、言ってみようと思えました。最初からちゃんと説明できなくても、次に話せるかもしれないって」
俺はその言葉を、頭の中で一度繰り返した。
失敗したまま終わったと思っていた時間が、別の人の最初の言葉に使われている。
それなら、俺が話すことにも、少し違う意味があるのかもしれない。
「明日は、二人で話してみます」
ハルが言い、俺は頷いた。
次の約束には、俺が同席すると決まっていない。本人が自分で行ってみたいと思えるなら、それがよかった。
「終わったら、また聞いてもらってもいいですか」
「はい。聞きたいです」
答えると、相手が礼を言い、今日は通話を終えることにした。
俺も挨拶し、静かになった部屋で、画面の時間を見る。十分だけのつもりが、ずっと長く話していた。
三浦へ終わったと連絡した。
ハルの友人の名前や具体的な話は出さず、相手が次の約束を自分で決めたことと、俺の話を聞いて連絡できたと言ってくれたことを伝える。
『よかったな。お前が最初に俺へ電話した話も、何かに使えるんだな』
返事を読んで、俺は笑ってしまう。
あのときは、使える経験を作ろうとしていたわけではなかった。困って、友達へ電話して、どうにか今日まで来た。
でも、同じところで困っている人へ、その続きを話すことはできる。
俺はノートを開き、今夜のことを短く書いた。
話す前に、声が変わったと伝える。今夜だけで全部分かってもらおうとしない。二人が話している間は、俺が答えを足しすぎない。
書き終わってから、一行だけ下へ足した。
明日は、ハルが自分で話す。
俺はその文字を見て、次の連絡を待ちたいと思った。




