第48話 帽子が飛んだ日
帽子が浮いた瞬間、手を伸ばすのが遅れた。
大学の帰り、三浦と駅へ向かって歩いていた。建物の角へ差しかかったところで、横から強い風が吹き、つばの下へ入り込んだ。
「あっ」
頭から抜けた帽子が、視界の端を通る。
俺は鞄を片手で押さえ、もう片方の手を上げた。指先が布へ触れたが、掴めない。帽子は歩道を転がり、数メートル先の看板の足元で止まった。
三浦が先に走る。
俺も一歩出たところで、すれ違いかけた人の声が聞こえた。
「耳……」
足が止まる。
帽子に押さえられていた耳が、風と周りの声へ向く。いつも布の下にある部分へ冷たい空気が当たり、自分の頭の上が何も隠れていないことを、遅れて実感した。
「ちょっと、あれ見て」
「しっぽだけじゃないんだ」
歩いていた人の顔が、俺へ向く。
前から来る人も、追い越した人も、頭の上を見ていた。俺は両手を上げかけたが、耳へ強く触れるのが嫌で、途中で止める。
鞄の持ち手だけが肘へ引っかかった。
「瀬川、これ」
三浦が帽子を持って戻ってくる。
俺は受け取り、すぐにかぶろうとして、つばを耳へ当てた。痛くて肩が跳ねる。三浦が、ゆっくり、と声を落とした。
「大丈夫。取れてないから。形、戻してから」
俺は一度帽子を下げ、両手で広げた。
その間にも、すぐ近くから、動いた、という声が来る。自分が何に反応したかまで見られていると思うと、余計に耳の位置が気になった。
ようやく収めて、前を直す。
視界へ帽子のつばが戻っても、周りの視線は戻らなかった。
「それ、本物ですか?」
隣で立ち止まっていた若い女性に聞かれる。
俺は息を吸い、外せないです、と答えた。言った声まで聞かれたことで、今度は相手が俺の顔を見る。
「すごい……かわいい」
返事をする余裕がなかった。
少し離れた場所では、男性がこちらへスマホを向けているように見えた。俺がそちらを見ると、その手が下がる。
撮っていたのか、画面を見ていたのか、その一瞬では分からない。
「ここ、通る人いるから」
三浦が歩道の端を示す。
俺は頷き、鞄を持ち直してそちらへ動いた。道を空けると、止まっていた人も少しずつ歩き始める。それでも何人かは振り返り、俺が帽子を押さえる手を見ていた。
「痛かった?」
「ちょっと。今は、大丈夫」
三浦へ答えた声が、自分でも思うより細かった。
いつも見られるしっぽに、今日は耳まで加わった。どんな姿が見えたのか、俺には自分の目で確かめられなかった。
*
すぐ先に、杉原の店があった。
店へ寄る予定ではなかったが、今は駅まで人の中を歩く気になれない。俺が入口を見ると、三浦も、入るか、と尋ねた。
頷いて扉を開けると、鈴が鳴り、杉原が顔を上げる。
「こんにちは。あら、どうしました?」
俺の手がずっと帽子を押さえていたせいだろう。
三浦が、外で風に飛ばされて、と短く答える。杉原は俺の顔を見てから、奥の席を示してくれた。
「座ります? 今日はあちら、空いてます」
「……お願いします」
壁沿いへ座り、しっぽを椅子の脇へ逃がす。
水を置いてもらっても、帽子から手が離れなかった。三浦が自分の鞄を置き、俺の向かいへ座る。
「中は風ないから、もう平気だろ」
俺は頷き、ようやく手を下ろした。
帽子が落ちないと分かるまで、何度か自分の指を見てしまう。杉原は注文を急かさず、水を飲んでからで大丈夫ですよ、と言った。
店の中にも客はいる。
俺を見た女性客が連れへ顔を寄せたので、また頭の上へ視線が集まる気がした。実際には耳は隠れている。けれど、さっき見た人が店へ入ってきたら、今の俺とつながる。
水を飲み、喉へ通る冷たさを確かめた。
「俺、耳、どんな感じだった」
三浦へ聞くと、あいつは少し考える。
「普通に出てた。風で、髪も結構乱れてたけど」
「やっぱり、全部見えたよな」
「うん」
その返事で、椅子へ背中を預けかけてやめる。
しっぽを押したくなかった。落ち着こうとしていても、自分の身体の置き方をいくつも考えなければならないことが、今日は面倒だった。
杉原がメニューを持ってきた。
俺は温かい紅茶、三浦はコーヒーを頼む。今日はケーキの欄を見なかった。
「帽子、汚れてます?」
杉原に尋ねられ、俺は膝の上へ目を落とす。
外す前に迷っていると、前のところだけ少し見せてもらえますか、と言われた。かぶったまま、つばを持ち上げる。縁に小さく汚れがついていた。
「乾いたら、落ちそうですね。今、こすらないほうがいいかもしれません」
杉原はそれだけ言って、カウンターへ戻る。
耳を見せてほしいとは言われなかった。俺は水をもう一口飲み、ようやくメニューを机の端へ寄せた。
「俺、あのとき、走って帽子拾えばよかったのかな」
「走っても、その間は出てるだろ。俺のほうが近かったし」
「そうだけど」
返事を探してから、黙る。
何をしても、帽子が抜けた瞬間はなかったことにならない。三浦が先に拾ってくれたのに、違う動きをすれば見られずに済んだかと考えている自分にも、疲れてしまった。
「……拾ってくれて、ありがと」
「うん。飛んでいかなくてよかった」
答えを聞き、俺は少しだけ息を吐いた。
*
飲み物が来たあと、隣の席へ若い女性が二人入ってきた。
一人が、俺を見るなり足を止める。もう一人もこちらを見てから、小さく、さっきの、と言った。
外にいた人だった。
俺の指が、また帽子へ動く。
相手は席へ座り、連れと目を合わせてからこちらへ向いた。
「あの、さっき、大丈夫でした?」
「はい。帽子、戻ったので」
俺が答えると、相手は、よかった、と頷いた。
それで終わるかと思ったが、耳、痛くないですか、と続く。帽子をかぶり直すときに俺が肩を跳ねさせたのも見ていたらしい。
「今は、平気です」
「すみません、ずっと見ちゃって。びっくりして」
俺は返事に迷い、カップへ手を添えた。
連れの女性が、髪の上の耳が本当に動いたので、と言いかけ、途中で止める。
「珍しいですよね」
俺から言うと、二人とも小さく頷いた。
「あと、すごく似合ってるというか。そういう格好をしてるのかと思ってました」
最初の女性が俺の顔を見る。
耳としっぽだけではなく、それをつけているように見えた俺の姿を、かわいいと思ったのだろう。今の身体は、向こうにはそういうふうに見えている。
困っていたはずなのに、褒められたところだけは、少し嬉しかった。
「ありがとうございます。でも、あの、帽子はかぶってたいので」
「はい。取ってくださいってことじゃなくて」
相手がすぐに答え、俺も頷いた。
顔を真っ赤にしていたら、ますます面白がられるかもしれない。でも、怒っているように見せたいわけでもなかった。
三浦が紅茶、冷めるぞ、と俺へ声をかける。
俺はカップを持ち上げ、話をいったん切った。相手も自分たちのメニューを開き、店へ来た理由のほうへ戻る。
それでも、同じ部屋に、帽子の下を見た人がいる。
紅茶を飲みながら、俺は駅までどう帰るかを考えた。
道を一本変えても、初めて見る人にはしっぽが目立つ。外で帽子が飛んだことを、知っている人がほかにもいるかもしれない。
今日は、どの道なら見られないか、すぐ答えは出なかった。
「送ってく?」
三浦が声を落とす。
俺は少し考え、駅まで一緒に来てほしいと答えた。あいつは頷き、帽子の縁を見て、持って歩けば落ちにくいだろ、と言う。
今日はそうする、と返した。
*
会計を済ませると、杉原が、気をつけて帰ってくださいね、と声をかけてくれた。
俺は礼を言い、片手で帽子を押さえて外へ出る。
入口の前では何人かが立ち話をしていた。一人が俺を見ると隣へ何か言い、二人の目が帽子としっぽへ動く。
さっきの出来事を知っていたのかは、分からなかった。
俺は三浦の隣へ寄り、止まらずに歩いた。
電車へ乗るまで、何度か後ろを確かめた。誰かがついてきていたわけではない。ただ、振り返る人の姿を、自分からも見てしまう。
家に着くと、帽子を外し、机へ置いた。
耳を隠していた布がなくなっても、今度は誰の顔もこちらへ向かない。俺はそのまま座り、両手で顔を覆った。
痛みはもう残っていなかった。
でも、耳が出たところを見られた感じだけは、頭の上へ残っている。
三浦へ着いたと送る。
返事を読んでから、今夜、配信するつもりだったことを思い出した。まだ時刻の告知はしていない。今日はうまく話せそうにないので、SNSへ今夜は休むとだけ書いた。
外で起きたことを全部、すぐに声へ変えなくてもいいはずだった。
帽子の汚れを見ていると、小山からメッセージが届く。
『これ、瀬川さんですか。違ってたらごめんなさい』
下に、SNSの投稿への案内がある。
俺は一度、画面を閉じかけた。でも、知らないままにしておくほうが気になって、開き直す。
『狐の耳としっぽの子、本当にいた。風で帽子飛んで、耳が出た。動いてたのびっくりした』
文章の下には、一枚の写真があった。
俺が帽子を広げ直しているところだった。顔は斜めから見え、髪の上には、何も隠れていない耳が写っている。
三浦の腕が端に入り、後ろには通りの建物も見えた。
写真を少し大きくして、撮られた瞬間を確かめる。
俺の手は帽子を広げている。つばを耳へ当てて、痛くて一度下げた、そのあとの姿だった。三浦はまだ隣に立ち、俺がかぶり直すのを待っている。
誰かに向けて立ち止まったわけでも、撮ってもらうために耳を見せたわけでもない。その数秒が、一枚として残っていた。
写真だけでは、身体に何が起きたかまでは分からない。
元は男だったという話も、投稿にはない。それでも、俺の顔と耳は、自分が見せると決める前に、画面の向こうへ出ていた。
小山へ、俺です、と返す。
『写真は、頼んでないです。教えてくれて、ありがとうございます』
送ったあと、三浦にも投稿への案内を送った。
すぐに、見た。電話していいか、と返ってくる。
俺はいいと答え、スマホを机へ置く。
昨日まで、残しておきたい写真を、自分で選んでいた。今日は、誰かが残した俺の姿が、知らない人の間を回り始めている。
投稿の下には、場所を尋ねる返事と、かわいいと書いた返事が並んでいた。
呼び出し音が鳴る。
俺は通話を取って、最初に言った。
「これ、俺から消してって言いたい」




