第42話 この前と、違う挨拶
数日後、講義が早く終わる日に、三浦ともう一度あの喫茶店へ行った。
前の日のうちに時間を合わせていたので、今日は門へ着いてから迷わなくて済んだ。昼食から夕飯までも間がある。三浦も、今日はケーキ頼む、と言っている。
「レモンのやつ、あるかな」
「日によるって言ってたな」
「なかったら、チーズケーキ二つでもいいか」
答えたあとで、別のものを選ぶつもりなのに、もう同じものを食べる理由を探していると気づいた。
三浦が、まず黒板見よう、と笑う。
道では、すれ違った学生がこちらを振り返った。
俺は肩へ掛けた鞄を持ち直し、通行人とぶつからない側へしっぽを寄せる。目が合った人には小さく会釈したが、遠くから見ている人まで一人ずつ確かめるのはやめた。
今日は店へ行く。そのために、この道を歩いている。
黒板には、チーズケーキとレモンのパウンドケーキが並んでいた。
俺が立ち止まると、三浦も横から覗く。
「両方ある」
「よかったな」
扉を開けると、鈴が鳴った。
カウンターの杉原が顔を上げ、俺を見て少し目を細める。
「あ、こんにちは。この前はどうも」
俺は返事をする前に、一瞬止まった。
前は、しっぽで視線と手が止まっていた。今日は、俺の顔を見て、先に挨拶が来た。
「こんにちは。また、来ました」
「ありがとうございます。お二人ですよね」
三浦も会釈する。
杉原は店内を見てから、壁沿いの席へ目を向けた。前に座った場所には、既に二人の客がいる。
「今日は、あちら埋まっていて。入口側だと、少し狭いんですけど」
俺も空いている席を見る。
入口に近いテーブルなら、横を人が通ることになる。しっぽを椅子の脇へ置くと、通路にはみ出しそうだった。
前と同じ席へ座れるつもりで来ていたので、そこで少し困る。
「奥の、一人用のほうはどうですか」
俺が指すと、杉原が窓から離れた小さなテーブルを確かめた。
「ああ、そちら。椅子を一つ寄せても大丈夫ですか」
「はい。俺が壁のほうへ座れば、横に出せそうなので」
三浦が自分の座る位置を見て、椅子を寄せるのを手伝った。
俺は座る前に通れる幅を確かめる。少し狭いが、背もたれへ押しつけずにしっぽを下ろせた。
杉原にもこれなら大丈夫ですと伝えると、よかった、と水を持ってきてくれる。
席へ向かう間、前のテーブルにいた男性が、連れの女性へ何か言っていた。
男性は俺より年上に見え、鞄の上へ片手を置いたまま、しっぽを目で追っている。杉原が席を相談する様子も、気になったらしい。
女性は一度見てからメニューへ戻ったが、男性はまだこちらを見ていた。
俺は鞄を置き、目の前へ水を引き寄せる。
杉原には二度目の客でも、ほかの客には今日初めて見る人だ。その違いは、同じ店へ来ても変わらなかった。
*
メニューを開く前に、杉原が、今日はレモンもありますよ、と言った。
俺が顔を上げると、この前、気になってるって言ってくださったので、と続ける。
「それ、覚えてくれてたんですか」
「はい。次に来てもらえたらと思って」
俺は少し笑い、じゃあ、それをお願いしますと答えた。
三浦はチーズケーキを選ぶ。飲み物も頼み、メニューを返したところで、二人で食べ比べたかったことを伝える。
「前、俺だけ食べたので。今日は、二つ頼んで少し分けようって」
杉原は三浦へ目を向け、そうだったんですね、と笑った。
「では、取り皿もお持ちしますね」
カウンターへ戻る背中を見送り、俺は水を一口飲む。
この前は、見かけたしっぽを覚えていた人だった。今日は、俺が食べたがっていたものも覚えている。
そのことが嬉しくて、三浦へ、何かいいな、と小さく言った。
「何が?」
「気になってたって、覚えてくれてたの」
「うん。頼めてよかったな」
俺が頷くと、隣のテーブルから声がした。
「あの、すみません」
顔を向けると、先ほどの男性が身を少しこちらへ傾けていた。連れの女性も、困ったように俺と男性の間を見ている。
「それ、どうやって動かしてるんですか。さっきから気になって」
俺はしっぽを壁側へ寄せ、言葉を探した。
杉原と話していたから、店のほかの人も何となく分かっているような気になっていた。でも、この人は俺が何と説明したかを聞いていない。
「身体につながってるので、自分で少し動かせます」
男性の目が丸くなる。
「え。じゃあ、作り物じゃなくて?」
「はい。外せないです」
返事を聞いても、すぐには頷かなかった。
連れの女性が、本当に、と小さく声を出す。俺もそう思うだろう、と頭では考えていても、二人から見られると喉に力が入る。
「原因は、俺にも分からなくて。今日は、お茶を飲みに来たので」
そこまで言うと、女性が男性の腕へ軽く触れた。
「急に色々聞いたら困るでしょう」
「あ、そうですね。すみません。珍しかったので」
俺は会釈を返した。
相手の興味が全部なくなったわけではない。男性はカップを持ってからも、一度こちらへ視線を向ける。でも、椅子を近づけたり、また質問を続けたりはしなかった。
三浦が、ケーキ、もうすぐ来るかな、と俺へ声をかける。
俺はカウンターのほうを見る。杉原が皿を二枚並べ、焼き菓子へナイフを入れていた。
「うん。今、切ってる」
目を戻す先があると、少し楽だった。
俺は椅子の位置をほんの少し直し、机の上へ両手を戻した。
*
レモンのパウンドケーキには、薄い白い糖衣がかかっていた。
皿が近づくと、甘い匂いに混じってレモンの香りがする。俺は杉原へ礼を言い、フォークを持った。
「先に、少し分ける?」
三浦が取り皿を自分の前へ置く。
俺は頷き、端を一口分より少し大きく切った。三浦もチーズケーキを切って、別の取り皿へ載せる。
「同じくらい?」
「いいよ。大体で」
そう言いながら、二つの皿を見比べてしまう。
三浦が、俺のほうが多くないか、と聞くので、ケーキの形が違うから分かんないんだよ、と返した。あいつは笑って、そのまま俺の皿へチーズケーキを寄せる。
まず、自分が頼んだレモンのほうを食べる。
生地はしっとりしていて、上の糖衣が少しだけ歯へ触れた。酸味を想像していたが、口へ入れると甘さのあとに香りが残る。
「うまい。これも好きだ」
「お前がこれ食べたかったの、分かるわ」
三浦はチーズケーキを食べ、そう言った。
俺はこの前から味を覚えていたので、だろ、と返す。そこから二人で取り皿のほうも食べ、今度来たら逆でもいいかと話した。
隣の視線は時々気になる。それでも、今日は二つとも食べられて、ちゃんと嬉しかった。
杉原が近くのテーブルへ水を足した帰り、俺たちの皿へ目を向ける。
「いかがですか」
「おいしいです。レモンのほう、香りがすごくて」
俺が答えると、杉原は、皮も少し入れてるんです、と教えてくれた。
三浦もチーズケーキの感想を伝える。前回は味を聞いていただけのあいつが、今日は自分でも話している。
それを見ていたら、配信で話したことも伝えてみたくなった。
「あの、この前、ケーキを食べた話、配信でしたんです」
杉原が、配信、と聞き返す。
俺は頷き、家で暮らしの話や雑談をしていると説明した。
「店の名前とか、場所は出してないです。食べた味と、座りやすかった話だけ」
「そうなんですね。何か撮ってらしたんですか」
「いえ。家へ帰ってから、声で話しました」
杉原は頷き、そこで少し考える。
「うちのケーキを、おいしかったって話してくださったんですね」
「はい。次は二種類頼んで分けるのもいいって言われて、今日そうしました」
取り皿を指すと、相手の顔が緩んだ。
「それは嬉しいです」
俺は今日の皿も残したくなって、スマホへ手を伸ばしかける。
「食べ物だけ、写真に撮ってもいいですか。店の名前は、まだ出さないつもりなんですけど」
「はい。食べ物でしたら。ほかのお客様は入れないようにお願いします」
分かりましたと答え、テーブルの上へカメラを向けた。
皿とカップだけが入る位置へ少し寄せる。三浦は自分の手を引き、俺は一枚撮ってから画面を確認した。
自分のしっぽも、ほかの人の姿も入っていない。二種類のケーキと、既に少し食べた跡が残っている。
「食べる前に撮ればよかったかな」
「分けたのは分かるから、いいんじゃない」
三浦に言われ、そうかと写真を保存する。
全部きれいに並んだものより、俺たちが実際に食べたものとして話せそうだった。
*
会計のとき、杉原が、また違う焼き菓子も出しますので、と教えてくれた。
俺はまた来たいと答え、レシートを受け取る。そのまま出ようとして、少しだけ足を止めた。
「俺、瀬川です」
杉原が顔を上げる。
「この前、名前教えてもらったのに、俺、言ってなかったので」
「瀬川さん。ありがとうございます」
相手が一度、名前を声にする。
しっぽのある人として覚えてもらっているのは変わらないだろう。けれど、次に来たとき、俺を呼ぶ言葉がもう一つ増えた。
三浦も隣から名乗り、二人で挨拶をして店を出る。
外では、立ち止まっていた人が俺の後ろへ目を向けた。俺は通る側を少し変え、三浦と駅へ歩き始める。
「配信の話、してよかった?」
三浦が尋ねたので、俺は頷く。
「おいしかったって話したことは、言いたかった。名前は出してないっていうのも」
「うん」
「見られてる話ばっかりじゃなくて、俺が好きになったものも、話せるといいなって」
鞄にしまったスマホには、今日の写真が残っている。
今日の店で、俺を見て驚いた人がいた。俺の好きなケーキを覚えていた人もいた。その二つを、どちらか片方だけの話にする必要はなかった。
帰宅後、写真をもう一度確かめ、SNSへ載せた。
『この前気になっていた焼き菓子も食べてきました。今日は友達と二種類を少しずつ分けました。どっちも、また食べたい味でした』
店名や場所は添えず、撮影は店の人へ聞いてから行ったと短く書く。
ほどなく夕凪から、実行したんですね、と返事が届いた。俺は、しました、と返し、どちらがおいしかったか尋ねられて、少し迷う。
『違うおいしさだったので、次も迷いそうです』
そう送ってから、レシートをしまった。
次に扉を開けたとき、杉原が何と言うか、少し楽しみだった。




