第41話 見かけた人と、話している人
喫茶店へ寄った日の夜、机の前へ座ると、袖にまだ紅茶の匂いが残っている気がした。
実際にはこぼしていない。店でカップを持ったときの温かさを、服を見るだけで思い出しているのかもしれなかった。
俺はカーディガンを椅子の背へ掛け、ノートを開く。
今日、話したいことは三つあった。
チーズケーキがおいしかったこと。しっぽを横へ置ける席があったこと。それと、店の人が、前から通りで俺を見たことがあると言っていたこと。
最後の一つは、書いてから少し迷った。
店の名前を話せば、同じケーキを食べたい人には役立つ。
でも、大学の帰りに寄ったとまで話したら、普段どのあたりへいるかも分かってしまう。俺の配信には、その街を全く知らない人も、知っている人も来るのだろう。
今日は名前を出さずに話すことにした。
ノートにも店名は書かず、ケーキ、席、とだけ残す。夕飯を済ませ、SNSへ短い雑談をする予定だと告知してから、いつもの画角を確かめた。
配信を始めると、パンのみみと夕凪が挨拶をしてくれる。
俺も返事をし、今日は外でケーキを食べてきたと話す。
『チーズケーキ?』
「はい。上が少し香ばしくて、中がしっとりしてるやつです」
『いいな。飲み物も一緒に?』
「紅茶にしました。友達は、コーヒーだけで」
言いながら、三浦が、今度は飯まで時間のある日に来ると言っていたことを思い出す。
あいつが食べるなら、俺は別のものを頼んでみてもいい。今日のケーキをもう一度食べたい気持ちと、レモンの焼き菓子も気になる気持ちが、まだ両方あった。
「今度、違うのも食べてみたいです」
『お店、どこですか?』
初めて見る名前から、問いが届く。
俺は水を一口飲んでから、店名は出していないと答えた。
「よく行く場所に近いので。今日は、食べた話だけでお願いします」
『了解です。味の話だけでもお腹減る』
返事を読んで、少し笑う。
名前を言わずに、おいしかったと話してもいい。そのことを自分でも確かめてから、椅子の話へ移った。
「席も、座りやすかったんです。背もたれへしっぽを押しつけずに、横へ出せて」
自分の椅子で、今置いている場所を指す。
カメラには手と、クッションに載ったしっぽの一部が入る。店ではクッションを使っていないので、同じ置き方だったというわけではない。その違いも話すと、夕凪が、座れるか分かっている店があるのはいいですね、と返した。
「はい。次も、空いてたら同じ席を使っていいって言ってもらいました」
『よかったですね。外だと椅子を替えるのも難しいでしょうし』
糸日和も来ていた。
俺は礼を言い、店へ入るときに少し緊張したことも話す。客の顔が入口へ向き、店の人の手が止まった。帽子をかぶっていても、しっぽへ目が行く。
「でも、席の話をして、注文して。ケーキが来たら、そっちを食べることも考えられたので」
そこまで言うと、別の名前から文字が届いた。
『自分も、街でしっぽのある人を見たことあります』
俺は一度、その行を読み返した。
まだ新しいコメントは続いている。けれど、ケーキへ伸ばしたフォークの話が、頭から抜けてしまった。
『帽子かぶって、普通に歩いてました。もしかして、きつねさんだったりします?』
自分の帽子は、今、玄関の棚に置いてある。
配信では顔も耳も見せていない。それでも、帽子としっぽで外を歩く人の姿を、その人は覚えていた。
「……外では、帽子かぶってます」
そこだけ答え、続きの言葉を探す。
見た場所を聞けば、俺だったかもしれないと分かる。でも、その答えをここで返したら、見ているほかの人にも場所が伝わる。
「ただ、どこで見かけたかは、ここには書かないでもらえると助かります。俺かどうかも、この話だけでは分からないので」
自分の声が少し固くなった気がした。
相手から、すみません、とすぐに届く。
『同じみたいな人がいるんだと思って、つい。場所は書かないです』
「ありがとうございます。聞きたくなるのは、分かります」
礼を言ってから、肩へ入った力を少し抜く。
この人が見たのが俺なら、顔まで見ていたかもしれない。しっぽだけが目に入ったのかもしれない。ここで確かめない限り、俺にも分からなかった。
『街で見かけたって投稿も、最近見ました』
また別の人から届き、俺は画面へ目を戻す。
『写真はなかったけど、動くしっぽの子がいたって。配信してる人のことかなって思って』
俺が書いた説明文や動画とは、違うところで話されている。
今朝は、大学の入口でそれを聞いた。夜には、配信にも似た話が来ている。しっぽのある姿が目立つなら、こういうこともあるのだと、今になって実感した。
「そういう投稿があるのは、俺はまだ見てないです」
答えると、画面にその投稿への案内を貼ろうかという問いが届く。
俺は、今日は大丈夫です、と返す。
「まず、俺が何を話すか決めたいので。見かけた人の話より、今日はケーキの続きを話させてください」
ノートの、ケーキ、という文字を指で押さえる。
手元で迷っているのが映っているかもしれない。でも、黙って配信を切りたいわけではなかった。
「友達が、晩飯前だからケーキ頼まないって言ってたんですけど。俺が食べてると、すごい見てました」
『味、気になったんだね』
「今度、自分の分を頼めばって言ったら、今日はコーヒーだけでいいって」
『一口ほしかったのでは』
パンのみみの返事に、俺は笑う。
その可能性は、その場では考えていなかった。
「聞いてくれればよかったのに」
『感想待ってるときに、聞き方が難しいって言ってた人だ』
まめもちも来ていた。
俺は、あ、と声を出してしまい、画面へ顔を近づける。
「それとこれ、同じなんですか」
『欲しい返事があるのに、直接言えないところは似てるかも』
何と言い返すか考えたが、三浦もそんなふうに迷っていたのなら、ちょっとおかしかった。
俺ばかりが、うまく聞けずに返事を待っているわけではないのかもしれない。
「じゃあ、次は俺から聞いてみます。一口食べたいかって」
そう答えると、夕凪が、二種類頼んで分けるのもいいですね、と続ける。
次に頼むものの候補が、また増えた。
店の話をするのは、難しいところもある。
それでも、しっぽを見られたことだけで今日を終えなくてもよかった。注文したものの味や、友達の見ていた顔も、俺には残っている。
話が戻ってきたところで、俺は水を飲み、少しだけ雑談を続けた。
最後に、また外で食べた話をしたいと伝える。
初めての店へ入るのはまだ緊張するけれど、気に入った場所が一つできたことは嬉しかった。
「今日は聞いてくれて、ありがとうございました。また話します」
挨拶をして配信を切り、履歴を自分だけの公開へ戻した。
*
マイクを切ったあと、三浦へ連絡した。
ケーキの話をしたことと、街で似た人を見たというコメントが来たことを送る。数分して、今、電話できる、と返事が届いた。
俺はできると答え、通話をつなぐ。
「場所、聞いた?」
「聞かなかった。ここには書かないでって言った」
「うん」
三浦の返事を聞き、今日の続きを話した。
大学の入口で噂を聞いたことは昼にも伝えている。今度は、俺が声で話している場所にも、外で見たという人が来た。
「顔、出してないからって、外で見た人には分かんないと思ってたかも」
「声、聞いたことある人なら、気づくかもしれないな」
「しっぽだけでも、似てるって思うだろうし」
俺は椅子の横へ目を落とす。
クッションから少しずれた先を載せ直すと、三浦が、今のところ、見た人に何か言われた、と尋ねた。
変なことをされたわけではないと答える。
「むしろ、気になって話した感じだった。でも、いつか知ってる道の名前とか出たらって、考えた」
「そのときに、全部答えなくていいだろ。今日も答えなかったし」
俺は頷き、遅れて、うん、と声で返した。
画面へ顔を映すかどうかを決めたときのように、一度線を引けば全部済むわけではない。外で何を見られ、何を覚えられるかまでは、俺が決められなかった。
「店の名前は、まだ出さないで話したんだ」
「うん」
「俺の行くところだからって、店まで急に人が来たら困るかもしれないし」
三浦は少し黙ってから、店の人と話せるようになったら、そのへんも聞けるかもな、と言った。
今すぐ許可を取りに戻るような話ではなかった。次にケーキを食べに行って、顔を覚えてもらって、それから話せることが増えるかもしれない。
「……次は、一口食べる?」
「何の話?」
「ケーキ。今日、見てたって配信で話したら、そう言われた」
三浦が、ちょっとだけ気になってた、と笑った。
俺も笑い、じゃあ、次は二つ頼んで分けようと返す。チーズケーキと、レモンの焼き菓子。まだ両方ある日かどうかは分からないが、店で聞けばいい。
通話を終え、机のノートをもう一度開いた。
今日の配信のお礼には、話していたら甘いものが食べたくなった、と返事が届いている。俺はそれへ返し、次の配信でも場所を書かないでほしいことは、説明欄へ短く残しておこうと考えた。
入力欄を開き、今日言ったことを文字にする。
『外で似た人を見かけても、場所や時間はコメントに書かないでください。本人かどうかも、ここではお答えしません』
読み返すと、思ったより固い文章だった。その下へ、外で食べたものや着た服の話はこれからもしたいです、と一行加える。
保存してから、もう一度表示を確かめた。今日の相手を叱るためではなく、次に来る人にも先に分かるようにしたかった。見られることが気になるからといって、ケーキの話までしなくなるのは嫌だった。
窓の外で、人の声がする。
帰宅する人たちが、道を歩いているだけなのだろう。俺も少し前まで、三浦とああして歩いていた。
誰かがその姿を覚えていて、今日の俺の声へたどり着いたのかもしれない。
帽子としっぽだけで、俺だと決まったわけではない。
それでも、街と画面の向こうを、別々の場所として考えることはできなくなっていた。
俺はノートの空いた行へ、次は二人で違うケーキ、と書き足す。気になることと、楽しみにしたいことを、今夜は同じページへ残した。




