第40話 次は、何を頼もうか
午後の講義が終わると、三浦から、正門のほうで待ってる、と連絡が来た。
俺はノートを鞄へしまい、建物の外へ出る。門へ向かう途中、ベンチに座っていた学生が顔を上げ、隣の人の袖を引いた。
声までは聞き取れなかったが、二人の視線が腰の後ろへ向いているのは分かる。
しっぽを自分の側へ寄せ、そのまま歩く。
今朝聞いた話のせいで、誰かが顔を寄せ合っているだけでも気になってしまう。けれど、目が合うたびに立ち止まっていたら、門へも着けなかった。
三浦は掲示板の横にいた。
俺が近づくとスマホをしまい、今日、あの店寄る、と尋ねる。
「時間ある?」
「うん。お前は?」
「ある。今日は、見てから決めたい」
気になっていたのは、大学から駅へ向かう途中の小さな喫茶店だった。
窓際に丸いテーブルが並び、入口の黒板には飲み物と、その日の焼き菓子が書いてある。変わる前から前を通ったことはあるが、入ったことはない。
最近、帰り道に見えるチーズケーキの文字が、ずっと気になっていた。
門を出ると、自転車を押していた人が俺の後ろを見て、通る幅を空ける。
俺は会釈し、三浦の隣へ戻った。今日は生成りのカーディガンを羽織っている。歩きながら袖を気にしなくていいのは助かるが、後ろを見られることまで減るわけではなかった。
「入れそうだったら、入ろうか」
三浦がそう言ったので、俺は頷いた。
店の前まで行くと、黒板にまだチーズケーキとある。ガラス越しには二組の客が見え、窓際の席が一つ空いていた。
「ある」
「何が?」
「ケーキ」
三浦が黒板を見て、じゃあ行くか、と扉へ手を掛ける。
俺はちょっと待ってと言いかけたが、窓際の空席をもう一度見て、後ろへついていった。
*
扉の上の鈴が鳴る。
カウンターにいた女性が顔を上げ、いらっしゃいませ、と言った。俺たちよりずっと年上に見える人で、短い髪を耳へ掛け、濃い色のエプロンをつけている。
「お二人ですか」
「はい」
俺が答え、扉が閉まる前にしっぽを寄せる。
女性の目がそちらへ下がり、持っていた布巾を畳む手が止まった。
「あ……後ろの、それ」
店内の客も、入口へ目を向ける。
窓際にいた女性二人のうち一人が、小さく、しっぽ、と口にした。俺は鞄の紐を掴み、立ったまま、邪魔になりそうなところを探した。
「すみません。椅子の横へ出すので、広めの場所、空いてますか」
カウンターの女性が、俺の顔へ視線を戻す。
「ええと……こちらなら」
窓際ではなく、壁沿いの席を示された。
丸いテーブルと、背の低い椅子が二つある。横には少し余裕があり、しっぽを通路へ出さずに済みそうだった。
俺はそちらを見て、ありがとうございます、と答えた。
移動する間も、客の視線がついてくる。
椅子を少し引き、腰を下ろす前にしっぽを脇へ逃がした。三浦は向かいへ座り、俺の足元を見てから自分の鞄を椅子の下へ置く。
「これなら、通れますか」
水を持ってきた女性へ聞くと、相手はテーブルの横を確かめて頷いた。
「はい。そこなら大丈夫です。……動くんですね」
「はい」
答えると、女性はもう一度しっぽを見た。
そこへ、窓際の客の声が届く。
「すごい。あれ、どうなってるんだろう」
俺はメニューへ手を伸ばしかけ、止める。
耳を帽子へ収めていても、声は聞こえていた。相手は聞かれていると思っていないらしく、連れへ小さく笑っている。
女性は水を置き、困ったように俺へ顔を向けた。
「聞いてもいいのか迷ったんですけど、何かの衣装なんですか」
俺は膝の上で手を組み、少し息を吸う。
「外せるものじゃないんです。詳しいことは、ちょっと、説明しにくくて」
女性は、そうなんですね、と答えてから黙った。
それで全部分かった顔ではなかった。けれど、しっぽを引っ張ってみようとしたり、帽子も取るように言ったりはしない。
「座るとき、ここが痛かったりします?」
「背もたれへ押しつけると、少し。今の位置なら平気です」
「分かりました。椅子、動かしてもらって大丈夫ですから」
メニューを二人へ渡して、女性はカウンターへ戻った。
俺は水を一口飲み、ようやく肩の力を少し抜く。
「どうする?」
三浦がメニューを開く。
俺も手元を見ると、目当てのチーズケーキが載っていた。飲み物は紅茶にしようと思ったが、セットの説明を二度読んでも頭へ入らない。
しっぽが床を擦る音に反応して、窓際の客がまたこちらを見たからだった。
「先に、決めよう」
自分でそう言い、メニューの一行を指す。
「これ、食べたい」
「いいじゃん。俺、コーヒーだけでいいかな」
「ケーキ、食わないの?」
「晩飯、早めに食べる予定だから」
俺は頷き、店の女性へ声をかけた。
チーズケーキと温かい紅茶を頼むと、女性は一度俺の顔を見てから、はい、と注文を書いた。三浦はコーヒーを頼み、メニューを返す。
注文を言う間は、しっぽの説明を考えずに済んだ。
*
待っていると、小さな男の子が母親らしい女性と入ってきた。
子どもは店内を見回し、俺のしっぽに気づいたところで足を止める。
「きつね?」
声が店の中へはっきり響いた。
俺は顔を上げ、母親と目が合う。相手は慌てて子どもの肩へ手を置き、すみません、と頭を下げた。
「見えたんだよね。でも、指ささないで」
子どもが手を下ろす。
まだ見ていたいらしく、席へ向かう途中も何度か振り返った。俺はどうしていいか分からず、小さく手を振る。子どもも、母親の服の裾を握ったまま手を振り返した。
三浦がそのやり取りを見てから、俺へ目を戻す。
「大丈夫?」
「びっくりした。でも、あの反応は、分かる」
俺が初めて自分のしっぽを見たときも、何度も確かめた。
触られるのは困るけれど、子どもが驚いて声を出すことまで、やめてほしいとは言えなかった。
帽子の縁を直し、また水を飲む。店へ入る前より、コップの中身がずいぶん減っていた。
ほどなく、ケーキと飲み物が届いた。
白い皿に載ったケーキは、思ったより厚い。焼き色のついた上の面から、端へ向かって少しだけひびが入っている。
女性が紅茶を置き、砂糖とミルクはこちらです、と小さな器を寄せた。
「これ、お店で焼いてるんですか」
気になって聞くと、女性は頷く。
「はい。私が焼いてます。昨日焼いて、一晩冷やしたものです」
「黒板で見て、気になってたんです」
言ってから、声がさっきより自然に出たことに気づく。
女性も少し笑って、ありがとうございます、と返した。
「初めてですよね、お店へ入るのは」
「はい。店の前は、何度か通ってます」
「私も、通りでお見かけした気がして。しっぽが見えたので、覚えてたんです」
俺はフォークへ伸ばした手を止める。
大学の入口でも、何回か見たと聞いた。店の前を通るだけでも、俺が気づかないうちに覚えられている。
女性はそれを見て、じろじろ見てすみません、と続けた。
「いえ。ただ、俺からは、見られてたって分からなかったので」
「そうですよね。私、杉原といいます。店にいるのは、だいたい私なので」
俺は頷いて、よろしくお願いします、と答えた。
ここでは名前を聞かれなかったので、先に自分の姓まで言うかは迷った。杉原はそのまま、熱いので気をつけてくださいね、とカップを指し、カウンターへ戻る。
俺のしっぽを覚えていた人に、今度は俺も名前を覚えることになった。
フォークで端を切り、口へ運ぶ。
表面は少し香ばしく、中はしっとりしていた。甘さのあとに酸味が残って、俺は飲み物を取る前にもう一口食べたくなる。
「うまい」
声にすると、三浦がこちらを見る。
「よかったな」
「今度、これも食べれば」
「今、勧めるのか」
俺は笑って、皿を見る。
出てきてよかったと、ようやく店の中で思えた。しっぽに向けられた声や視線が消えたわけではない。さっきの子どもは、今も時々こっちを見ている。
それでも、目当てのケーキを食べる時間まで全部なくなるわけではなかった。
三浦の課題の話を聞き、俺も今日の講義のことを話した。
森野から提出日を聞かれたところまで言うと、三浦が、もう普通の講義の話してるな、と頷く。
「次も、そうだといいけど」
「会ったら、聞けばいいんじゃない。課題、進んだかって」
「俺も聞かれたら困るから、先に進めとく」
返すと、あいつが笑った。
俺も紅茶を一口飲み、残りのケーキをゆっくり食べる。外へ来た話を配信でするなら、今日はこの味のことも話したかった。
*
会計へ立つとき、椅子を戻す前にしっぽの位置を確かめた。
通路の客がこちらを見ていたので、小さく会釈し、三浦とカウンターへ向かう。それぞれの分を払うと、杉原がレシートを渡してくれた。
「ケーキ、どうでした?」
「おいしかったです。あの、いつもあるんですか」
「だいたいあります。焼き菓子のほうは、日によって替えてるので」
横のケースには、小さなパウンドケーキが並んでいる。
杉原が、今日はレモンです、と教えてくれた。俺はそれを見て、今度はそちらも気になる、と答えた。
「また来てください。席、空いてたら、さっきのところ使えますから」
俺は壁沿いのテーブルを振り返る。
初めての店で、どこへしっぽを置くか説明した場所が、次は座れると分かっている席になる。そのことが嬉しかった。
「ありがとうございます。また、来たいです」
扉へ向かうと、子どもがこちらを見て手を振った。
俺も一度だけ返し、しっぽを扉へ挟まないよう外へ出る。歩道にいた人が入口のほうを見て、俺を目で追った。店を出れば、また初めて見る人の中へ戻る。
少し先で、三浦と並んだ。
「次は、レモンのやつ?」
「まだ決めない。同じの、もう一回でもいいし」
「俺は、晩飯まで時間ある日に来る」
俺はいいね、と返した。
しっぽが目立つ場所へ出ることと、また行きたい店ができることは、同じ日に起きるのだと分かった。
駅へ向かう間、スマホを出そうとしてやめる。
歩きながら書くより、帰ってから今日の話を残したかった。店の場所や名前を出すかは、まだ考えていない。
それでも、ケーキの味と、次も座れるかもしれない席のことなら、今夜は自分の言葉で話せそうだった。




