第39話 俺のいないところで
次に大学へ行った日、講義棟の入口で、俺の話が聞こえた。
「昨日じゃないけど、ここ通ってたよ。しっぽのある子」
「本当に学生なの?」
「教室入ってったから、そうじゃない?」
ガラスの扉へ手を伸ばしかけて、止まる。
少し先の案内板の前に、二人の学生が立っていた。長い髪を後ろで結んだ女子学生と、紙のカップを持った男子学生。どちらも、俺のほうはまだ見ていない。
俺は別の扉から入ろうかと考え、そのために歩く向きを変える自分まで想像して、足を出せなくなった。
「衣装ってこと? 何かの宣伝かな」
「分かんない。でも、普通に鞄持ってた」
その言葉を聞き、肩へ掛けた鞄の紐を掴む。
俺が誰かに覚えられるなら、しっぽだろうと思っていた。普通に鞄を持っていたことまで、見た人の話に残っている。
自分では講義を受けに来ただけの姿が、別の人には説明したくなる出来事だった。
後ろから来た学生が、もう一枚の扉を開ける。
立ち止まっていては邪魔になるので、俺も扉を押した。その音で二人が振り向き、女子学生の目が俺の顔から腰の後ろへ動く。
男子学生もそちらを見て、持っていたカップを少し下げた。
「あ……」
女子学生が、そこで口を閉じる。
目が合ってしまい、俺は小さく会釈した。相手も会釈を返したが、男子学生の視線はまだしっぽに残っている。
帽子の中に耳を収めていても、後ろは隠れない。扉が閉まる前にしっぽを自分の側へ寄せ、二人の横を通った。
「すみません」
背中へ声が届き、振り向く。
女子学生は一歩こちらへ近づいてから、距離を残して止まった。
「今、聞こえてましたよね」
「……少し」
「ごめんなさい。見かけたことあったので、つい話してて」
俺は、どう返せばいいか迷う。
聞こえなかったことにはできないし、悪口を言われたわけでもなかった。謝られると、自分のことを話されるのは全部嫌だった、と答えることになりそうだった。
「びっくりは、しました」
言うと、相手の肩が少し下がる。
「そうですよね」
「俺がいないところでも、そういう話になってるんだなって」
男子学生が、すみません、と続けた。
女子学生は鞄を持ち直して、何かの活動でそういう格好をしているのかと思った、と言う。俺は帽子の縁へ触れかけ、手を下ろした。
「宣伝とかではないです。今日は、講義に来ました」
「あ、そうなんですね」
二人とも、まだしっぽを見ないようにしているのが分かった。
全部を説明しようとすると、今度は、帽子を取って耳も見せなければならない気がした。そんなつもりで来たのではない。
俺は時刻を確かめ、そろそろ教室へ行きます、と伝えた。
「引き止めてごめんなさい」
「いえ。……じゃあ」
歩き始めても、後ろが気になった。
振り返れば、今どんな顔で見られているか分かる。でも、確かめたらまた足が止まりそうで、そのまま階段を上がる。
鞄の中には、いつものノートがある。俺は今日の教室の番号を頭の中で繰り返した。
*
教室では、通路へしっぽが出ない席を選んだ。
鞄を置き、椅子の横へ先を寄せていると、後ろの席から、ここ、ぶつからないですか、と尋ねられる。振り向くと、知らない男子学生が椅子を少し引いていた。
「そっちは大丈夫です。こっちへ置くので」
「分かりました」
返事を聞いて、俺もノートを出す。
それだけのやり取りでも、さっきよりは息がしやすかった。何も気にされないわけではなく、座る場所を確かめてから、それぞれ講義の支度へ戻れた。
開始の少し前、扉から入ってきた女子学生が、俺を見て一度止まる。
入口で話していた人だった。
同じ教室なのか、と俺も顔を上げてしまう。相手は空席を探すように見回し、二列ほど前に座った。こちらへは来ずに、資料を出している。
講義が始まると、俺は黒板とノートの間へ視線を戻した。
時々、前の席の人が振り返る。入口の人とは別だったが、目が合うとすぐに前を向いた。気にしていないふりを続けると疲れるので、しっぽが動いて通路へ出ていないかだけを確かめる。
あとは、今の説明を書こう。
先生が話した例を一つ写し、その下へ、自分で考えた疑問を残した。
終了後、資料をしまっていると、さっきの女子学生が通路の端へ来た。
「同じ講義だったんですね」
俺が先に言うと、相手は頷く。
「私も、入ってきて気づきました。森野です」
「瀬川です」
名前を返したあと、少し緊張する。
配信では、顔も耳も、名前も出していない。けれどここでは、同じ講義を取っている学生同士だった。名前を言うことまで避けたら、どうやって話しかければいいのか分からなくなる。
「前に見かけたのも、ここの建物です。今日、話してたの、それで」
「そうだったんですね」
森野は鞄を肩へ掛け、少し言葉を探す。
「一緒にいたのは、別の講義の友達で。ここで何回か見たって言ったら、気になったみたいで」
何回か。
俺はその言葉で、また自分のしっぽを見る。
俺が気づかないうちに、森野は何度も俺を見かけて、覚えていた。その話を聞いた友達も、俺のことが気になっていた。二人が話しているところへ、今朝、俺が通りかかったのだ。
「……動くので、びっくりしますよね」
口にすると、森野の視線が腰の後ろへ移る。
「はい。さっきも、扉が閉まるときに動いたから。どうなってるのかなって」
「身体につながってるので。外すとかは、できないんです」
相手の返事が止まった。
俺は、それ以上を急いで足さずに待つ。配信でも、すぐに分かってもらえたわけではない。
「えっと……触ったら、分かるものですか」
「触られると、びっくりするので」
「あ、ごめんなさい。触って確かめたいって言い方でしたね」
森野が両手を自分の鞄へ置く。
俺は、聞いてくれたのは助かります、と答えた。相手は一度頷き、離れたまま、帽子のほうも何かあるんですか、と尋ねる。
「耳です。でも、今はかぶったままで」
「はい」
帽子を取ってほしいとは、続かなかった。
それでも森野は、どういうことか頭の中で組み立てようとしている顔をしている。俺にも原因は分からないと伝え、鞄の持ち手を握り直した。
教室を出る人が、俺たちの間を通る。
森野が壁側へ寄ったので、俺も通路を空けた。廊下へ出ると、足音も話し声も増え、さっきほど静かには話せなくなる。
「今日、もう一つ講義あります?」
森野に聞かれ、午後もあると答える。
相手も同じらしく、昼食を買いに行くところだと言った。俺も食堂へ向かうつもりだったので、階段を下りる間、並んで歩くことになる。
自分の知らないところで俺の話をしていた人が、今は俺へ話しかけている。その違いには、まだ慣れなかった。
*
外へ出ると、何人かの視線がこちらへ向く。
階段の先にいた二人連れが会話を止め、後ろへ回るしっぽを目で追った。森野もそれに気づいたらしく、途中で言いかけたことを止める。
「結構、見られるんですね」
「はい。まだ、気になります」
俺が答えると、相手はすぐに、私も見てました、と言う。
その返事で少し笑ってしまい、俺は、分かってます、と返した。森野も困ったように笑う。
「目立ちたくて、そうしてるのかと思ってたんです。でも、今日、ちょっと違うのかなって」
「隠したくても、全部は隠れないので」
人の流れへ入る前に、しっぽを体の近くへ寄せる。
森野はその動きを見て、隣の間隔を少し空けた。わざわざ大きく避けるのではなく、鞄同士がぶつからないくらいの距離だった。
「さっきの話、友達にも訂正しときます。宣伝じゃなくて、同じ講義の人だったって」
俺は頷きかけて、止まる。
「……身体のことは、俺が話すので。そこまでは、広げないでほしいです」
森野が俺の顔を見る。
「分かりました。今聞いたこと、詳しく話さないようにします」
「ありがとうございます」
頼んだあとも、もう話されていることが消えるわけではなかった。
あの子、何の活動なのだろう。帽子の下はどうなっているのだろう。本人を知らないまま、話せることはたくさんある。
それを全部止めてほしいと言う言葉は、俺には出てこない。でも、自分で伝えたいところがあることは、今、言えた。
食堂の前で、三浦からスマホへ連絡が届く。
今日は昼が少し遅くなるという。俺は先に買って待っていると返し、森野へは、友達と食べる予定だと伝えた。
「じゃあ、私も先に買ってきます」
そこで別れると、相手はしっぽをもう一度見る代わりに、俺の顔へ会釈した。
俺も返し、列へ並ぶ。何を食べるか決めるまで、頭の中ではまだ、森野の言葉が続いていた。
*
昼食を買って座ると、三浦が少し遅れて来た。
隣の椅子を引く前にしっぽの位置を確かめる。その仕草を見て、さっき森野にも説明したことを思い出す。
「今日、入口で、俺の噂聞いた」
声を落として言うと、三浦が顔を上げる。
「何て?」
「しっぽの子、学生なのかって。宣伝か何かだと思われてた」
「……何回も来てるもんな」
俺は頷き、相手と同じ講義だったことも話す。
悪い人だったわけではない。会って話したら、少し分かったこともある。それでも、自分がいないところでどれくらい話されているかを考えると、箸を持つ手が止まった。
「この前、配信に来た人は、投稿見て知ったんだろ。俺が何を書いたかは分かるけど」
「外だと、何見て何話したか、分かんないな」
「うん」
三浦はすぐに大丈夫とは言わず、俺の返事を待った。
俺は一口食べてから、森野に身体の話までは広げないでほしいと頼んだことを伝える。
「言えたなら、よかったんじゃない」
「そうかな」
「そいつとは、また会うんだろ。同じ講義なら」
そう言われて、来週もこの教室へ来ることを思い出す。
今日限りなら、驚かれたまま別れて終わる。でも、森野とは次にも会うかもしれない。そのとき、また最初からしっぽの説明をするのだろうか。
それとも、講義の話から始められるのだろうか。
午後の教室へ向かう途中、廊下の角で森野を見かけた。
今度は別の女子学生と並んでいる。俺が先に気づいたが、声をかけるか迷う間に、向こうが顔を上げた。
「瀬川さん」
呼ばれ、俺は足を止める。
隣の学生がしっぽを見て目を丸くしたので、体を少し壁側へ寄せた。森野はそちらを見てから、俺へ話しかける。
「さっきの講義、最後に言ってた提出日って、来週でしたよね」
「はい。次の講義までに、だったと思います」
「ありがとうございます。メモしそびれて」
俺はノートを開き、書いていた一行を見せる。
相手もスマホへ日付を残し、じゃあ、また、と言った。隣の学生の目はまだしっぽへ向いていたが、森野は、自分の教室のほうへ歩き始めた。
俺も鞄へノートを戻す。
今日、初めて俺を見た人は、まだ驚いている。同じ日に二度話した人は、提出日を聞いてきた。
どちらも、同じ廊下で起きたことだった。
次の教室の扉を開ける前に、俺は帽子の位置を少し直した。
自分の知らないところで育っている話は、まだ気になる。それでも、次に森野へ会ったら、俺から挨拶してみようと思った。




