第36話 それを着て、出かけたい
服の話をした二日後、三浦がうちへ来た。
今日は夕飯の袋を持っていない。代わりに、玄関で靴を脱ぎながら、昼はもう食った、と先に言う。
「俺も食ったよ。今日は服って言っただろ」
「一応。ここ来ると最近、何か食ってるから」
それは確かにそうだった。
笑って部屋へ通すと、三浦は机に並んだ服を見て、こんなにあったっけ、と足を止める。俺も、引き出しから出すまでは、全部でどれくらい持っているか把握していなかった。
薄い青のTシャツに、グレーのパーカー。茶色の巻きスカートと、薄手の生成りのカーディガン。
カーディガンは、今の身体になってから買ったものだ。店では羽織ったけれど、うちでは出番が少なかった。袖を折らずに着られるのに、つい、前から知っている服へ手が伸びる。
「こっち、着ないの?」
三浦がカーディガンを指した。
「着たいんだけど。これに合うのか分かんなくて」
「青いやつ?」
「それと、スカート」
服だけなら机へ並べられる。でも、自分が着るとどう見えるのかは、まだよく分からない。
男だった頃も、何でも似合っていたとは思わない。ただ、いつもの色を選んでおけば、それ以上はあまり考えずに外へ出られた。
今は、好きだと思って買ったものを着る直前に、これでいいのかと迷うことがある。
「じゃあ、今日着てみればいいだろ」
「そうするつもりで呼んだんだよ」
「うん。俺、服の詳しいことは分かんないけど」
分かってる、と返して、椅子を開いてもらう。
服を選ぶ配信をすることは、前日に告知していた。三浦にもそのとき声をかけ、午後なら空いていると返ってきたので、見てもらうことにした。
配信画面の端には、今日することを短く入れてある。
手持ちの服を合わせます。その下に、身体の事情は説明欄から、と添え、SNSに書いた文章への案内を置いた。
表示が服へ重ならないか確かめていると、三浦が画面を覗く。
「先に何するか分かるな」
「前、喋ろうとしてるうちに時間なくなったから」
今日は、用意した服をちゃんと着たい。
そのことまで声に出すと、三浦は、じゃあ始めるか、と自分の椅子を机へ寄せた。
*
「こんにちは。今日は、うちにある服を合わせてみます。友達にも来てもらいました」
「こんにちは。からあげです」
挨拶をし、まず二枚の上着を机へ広げる。
いつものカメラの位置からは、俺の胸より下と手元が映る。茶色のスカートは腰から下の見える範囲だけにして、椅子の横へしっぽの場所を作ってある。
三浦の顔も入らない。青のTシャツを着た俺が手を置くと、画面の中では二枚の上着の間から指が見えた。
『青いほう、今日も着てるんですね』
夕凪の名前を見つけ、思わず返事が早くなる。
「はい。前のと同じやつです。今日も来てくれたんですね」
『合わせる服が気になって。今日は間に合いました』
前の配信では、事情を説明した投稿から来たと言っていた。
今日は服の続きが気になって来たという。その違いを、俺は返事をする間にも何度か頭の中で確かめてしまう。
「ありがとうございます。今日は、こっちも出しました」
カーディガンの袖を広げると、糸日和から、明るい色もあるんですね、と届く。
ねじまきは、机が服屋になってる、と書いていた。三浦が、店員も客も本人です、と言うので、俺は、売らないから、と返す。
『初めて来ました。耳は映ってないんですか?』
新しい挨拶のあとに、問いが一つ届く。
俺は顔と耳は映していないと答え、詳しい事情は説明欄から読めると伝えた。その人が、読んできます、と返すのを見てから、パーカーへ手を戻す。
「まず、前から持ってるほうを合わせます」
Tシャツの上へ羽織り、袖を折る。
膝の上では、パーカーの裾がスカートへ重なっている。後ろの布をしっぽの付け根から逃がして座り直すと、前の裾も少し持ち上がった。
「これだと、上はずっと前の俺の服なんですよね」
「その組み合わせで着てるのは、初めて見た」
三浦が言う。
俺は鏡で見た全体を思い出しながら、画面にはどこまで分かるか確かめる。顔も頭も映らないけれど、グレーと青と茶色が重なるところは見えていた。
『ゆったりしてて、家で過ごすのによさそう』
『スカートと合わせるのもいいね』
俺は袖の折り目へ指を入れ、もう少し整える。
そう言ってもらえるなら、この組み合わせで着てもいいのかもしれない。前は男物の服と女物の服が混ざった感じがしていたのに、今の画面では、どちらも俺が着ている服だった。
「こっちは、手を隠して落ち着く用です」
「手、出す練習したんじゃなかったのか」
「使うときは出す」
返すと、ねじまきが、収納できる手、と書いた。
俺は笑って、隠しかけた指を机へ出す。夕凪も、前回より出し入れが早い、と続けるので、そんなところまで覚えなくていいです、と言ってしまった。
嫌だったわけではないのが声に出たらしく、コメントにも笑う文字が並んだ。
パーカーを脱いで畳み、今度はカーディガンを羽織る。
下のTシャツは着たままなので、上着だけを替えればいい。顔が画面へ入らない姿勢を保ち、袖へ腕を通すと、すぐに手が出た。
「早い」
「普通、そうなるんだよ」
三浦の返事に、俺も、そうだった、と笑う。
生成りの布を前で合わせ、鏡へ顔を向けかけて止まる。カメラから見える範囲は変えず、まず座ったまま自分の手元を見た。
『青がさっきより明るく見える』
『そっち、春っぽい感じがする』
実際に見える色は画面越しだと少し違うかもしれない。それでも、グレーのときより明るい組み合わせなのは俺にも分かった。
糸日和から、前を開けたところも見たい、と届き、留めかけた指を離す。
「こうですか」
『そのくらいが好きです。青が見えて』
俺は前の端を整えてから、隣を見る。
三浦は腕を組むでもなく、いつものように座っていた。俺が黙っているので、画面からこちらへ目を向ける。
「どう?」
「こっちもいいと思う」
「さっきと、どっちがいい?」
「何するとき?」
聞き返され、返事が止まる。
どっちが似合うかだけを聞くつもりだった。でも、着てどうしたいかは、まだ考えていなかった。
「……出かけるなら」
「じゃあ、こっちかな。袖、気にしなくてよさそうだし」
袖口を見て、俺は少し笑う。
それはそうだけど、聞きたかったのは、それだけではない。言おうか迷っていると、夕凪から文字が届いた。
『似合ってるって、もう少し聞きたいんじゃないかな』
俺は画面を見たまま固まった。
三浦がその行を読んでから、こちらを見る。手を隠すために袖を引きかけたが、こっちはちょうどいい長さなので、指までは隠れなかった。
「……そこまで言ってないです」
「じゃあ、言わなくていい?」
「それも違うだろ」
返事が早くなり、三浦が笑った。
コメントにも、やっぱり、と届く。自分で聞いておいて、答えるなとは言えない。俺はカーディガンの端を持ったまま、三浦のほうを向いた。
「似合ってるよ。青いやつも、こっちと合わせるのいいと思う」
「うん。……ありがと」
もっと気の利いた返しをしようと思ったが、礼しか出てこなかった。
画面の向こうからも、今の返事いいな、と届く。男だった俺がこんなふうに感想を待っているところを、知っている友達にも、知らなかった人にも聞かれている。
恥ずかしい。それでも、言ってもらわなければよかったとは思わなかった。
『お出かけ用、決まり?』
ねじまきの問いを読んで、三浦を見る。
「このあと、まだ時間ある?」
「あるけど」
「ちょっと外、行かない? 飲み物買うくらいでいいから」
あいつは一度俺の服を見てから、いいよ、と答えた。
家で着て終わるつもりだった服を、このまま外でも着ていたくなった。画面へ向き直り、今日はこっちで出かけてみます、と伝える。
パーカーを畳み直しながら、二つの服の好きなところを話した。
前から知っている手触りと、今の手首に合う袖。どちらか片方を選んで、もう片方をしまいきりにしなくてもよかった。
夕凪は、家用と外用、両方決まりましたね、と返してくれる。前回言っていた使い分けの続きを、今日は実際に試せた気がした。
「見てくれてありがとうございました。これ着て、ちょっと行ってきます」
『いってらっしゃい』
『袖に飲み物こぼさないように』
「今日は大丈夫です。多分」
三浦が、多分かよ、と付け足す。
俺は笑って配信を終え、全編の履歴を自分だけが見られる設定へ戻した。
*
マイクを切ってから立ち、鏡の前へ行く。
配信では見えなかった顔まで含めて、今の自分が映っていた。カーディガンの前を開けたまま、横を向いてスカートとしっぽの位置を直す。
頬がまだ少し熱い。
「さっきの、分かってて言った?」
「どれ?」
「言わなくていいかってやつ」
三浦は少し笑って、あそこまで言ったら聞くだろ、と答える。
俺は返す言葉を探し、結局、もういい、と帽子を取った。耳を収め、鞄を肩へ掛ける。今日は服を着替えず、そのまま玄関へ向かった。
外へ出ると、風がTシャツと上着の間を通る。
パーカーより軽くて、歩くたびに前の端が揺れた。店の窓で服を確かめかけると、ガラスには、向こうから来る二人連れも映っている。
二人とも、俺の腰の後ろを見ていた。
「……あれ、動いてる」
すれ違う直前、小さな声が聞こえる。
しっぽを自分の側へ寄せると、片方が振り返った。俺は窓から目を離し、三浦との間を少し詰める。角を曲がった先でも、買い物袋を持った人の目が顔から帽子、しっぽへ動いた。
俺がこの道を歩くことに慣れても、初めて見る人には、そうではない。
「狭いほう、通る?」
三浦が脇の道を指す。
俺は先の店を見てから、こっちでいい、と答えた。飲み物を買うだけだからと、何も起きないつもりで出てきたわけではない。それでも、服より先にしっぽへ目が行くことを、部屋では忘れていた。
店の入口へ近づいたとき、後ろから、すみません、と呼ばれる。
振り向くと、俺たちと同じくらいの年頃に見える女性が、スマホを胸の前で持っていた。
「そのしっぽ、衣装ですか? すごくかわいくて。写真、撮ってもいいですか」
隣で三浦も足を止める。
かわいいと言われて嬉しいのと、顔まで写真に残るのは困るのとが、一緒に来た。俺は帽子の縁へ触れ、首を振ってから言葉を足す。
「ありがとうございます。でも、写真は、すみません」
「あ、はい。ごめんなさい、急に」
相手がスマホを下ろす。
衣装なのかには答えないまま、俺は会釈して店へ入った。三浦は後ろからついてきて、入口でしっぽの先が人へ当たらないよう、一緒に列の端へ寄ってくれた。
飲み物を売っている店で、俺は冷たい紅茶を選ぶ。
注文を聞いた店員の目がしっぽで止まり、メニューへ伸ばしかけた手も止まる。
「あの、後ろ、踏まれないように気をつけてくださいね」
「はい。こっちへ寄せます」
言われて、先を自分の足元へ引き寄せた。後ろに並んだ人もそれを見て半歩下がり、俺は小さく礼を言う。店員はもう一度しっぽを見てから、サイズを尋ねた。
小さいほうを頼み、財布を出す。袖を引き上げなくても、指がそのまま硬貨へ届いた。
受け取ったカップを両手で持ち、先に買い終えた三浦と店を出る。
店の前では立ち止まらず、少し歩いて、人の通りを避けられる場所へ移った。通りすがりの視線が外れてから、ようやく一口飲む。甘さが喉へ残り、俺はもう一度カップを持ち直した。
「どう?」
「うまい」
「服のほう」
そっちか、と笑い、通りのほうへ目を向ける。
さっきは、しっぽを見られていることばかり気になっていた。誰かに見つけてもらわなくても、外へ出れば、今の俺は目を引く。
鞄を掛けた肩も、飲み物を持つ手も、いつもより気にならなかった。しっぽのために裾を直す必要はあっても、この服で出てこなければよかったとは思わない。
「着やすい。……結構見られたけど、出てきてよかった」
三浦が頷き、自分の飲み物へ口をつける。
帰ったら、そのことを今日見ていた人にも伝えようと思った。次に配信で話したいことが、もう今日の続きとしてできていた。




