第35話 今日は、服の話を
翌朝、昨日の説明文に、見覚えのない名前から返事がついていた。
耳としっぽのある人だと聞いて来た、という人。男から女になったとはどういうことか、と尋ねる人。少し下へ送ると、別の人が俺の投稿を紹介しているのも見つかる。
『昨日、配信で本人が話していました。事情はまだ驚いてるけど、そのあと友達と普通に弁当を食べてた』
その文章に、弁当、という短い返事がついていた。
俺は画面を見たまま、ちょっと笑う。変わった身体のことを説明したら、そこから夕飯へ話がつながるのは、聞いた人にも妙だったらしい。
紹介された先には、次はいつ話すのかという問いもある。
自分で書いた説明が、自分の知らない相手まで届いていた。いつもの告知にも知らない人が来ることはあったが、今日は服の写真でも、三浦と笑っている動画でもない。
男だった俺のことを知りたくて、ここを開いている。
返せそうなものへ短く返事をしてから、朝飯を食べた。
大学へ行く支度の途中、引き出しからTシャツを取ると、その下に畳んだパーカーが見える。服の片づけは終わったのに、着てみた話は、まだ途中のような気がした。
昼休み、三浦へ、今夜は服の話をするつもりだと送った。
今日は夕方から用事があるという返事に、一人でやるつもりだから大丈夫と返す。あいつが来られる日まで話せない、と決めたくはなかった。
『あの袖、また落ちてくるんじゃない』
『昨日は着てなかったから、今日は確かめる』
やり取りを終え、配信用のSNSへ告知した。
今夜は前から持っている服と、今着ている服の話。顔を映す予定はなく、いつもの手元の画角で話します、と添える。送信してから、最初に来た人にも分かるよう、昨日の説明文をプロフィールから開ける場所へ置いた。
*
帰宅後、夕飯を済ませてから、机へ二枚の服を並べた。
グレーのパーカーと、今の身体に合わせて買った薄い青のTシャツ。どちらも自分で着るものなのに、畳んだ大きさまで違う。
袖だけなら大きいほうでも折ればいい。でも、肩の位置や、動いたときに裾がしっぽへ乗る感じは、着てみないと分からなかった。
最初はTシャツを着て座り、パーカーを膝へ置いた。
カメラには胸より下と手元が入る。服を持ち上げるときも顔が入らないよう、映る端を一度確かめておく。椅子の横にしっぽを置き、ノートへ「袖」「裾」「色」と三つ書いた。
説明する順番まで決めると、またそれを読むばかりになりそうで、今日はそこまでにする。
「こんばんは。今日は、服を二つ出してます」
配信を始めると、挨拶が続けて届いた。
ねじまきへ返事をしようとしたところで、別の文字が下から増える。昨日の投稿から来たという人と、紹介を見たという人が、続けて初めましてと書いている。
「初めまして。来てくれてありがとうございます」
『男だったって書いてあった人?』
『声、今のままなんですか』
俺ははいと答え、声を変えるものは使っていないと伝える。
次に年齢を聞かれ、詳しくは出していないと返した。どのくらい前に変わったのか、昔の写真はないのか。見覚えのある問いが、知らない名前から届く。
「前の写真は出してないです。身体のことは、プロフィールから説明を読めるようにしました」
そこまで言ってから、糸日和の挨拶を見落としていたと気づく。
慌てて返事をすると、今日は青い服ですね、と届いた。俺は胸元を見下ろし、はい、これ、と話し始める。
「前に買ったもので、今はこれくらいの大きさが――」
『耳は見せないんですか?』
言葉が止まる。
画面に映っていない耳へ、つい意識が向いた。今まで見せていないことを、今日来た人は当然には知らない。
「顔と耳は映してないです。今見えてるのは、胸から下と、しっぽの一部です」
『しっぽは自分で動かせる?』
「少しなら。まだ、思ったとおりにいかないこともあります」
『動くところ見たい』
見せようかと思って、椅子の横を見る。
クッションに載せた先が、少しだけ動いた。画面の中では端が揺れるくらいだったが、動いた、とコメントがつく。もう一度、と続いたところで、俺は膝のパーカーを掴み直した。
今日は、何をしようとしていたのだったか。
ノートには、まだ一つも話せていない言葉が三つ並んでいる。
変化の説明を聞いて来てくれたのだから、気になるのは分かる。初めての人には、俺が何度答えたかも関係ない。それでも、一つ返すたびに次が届き、俺の服は膝の上から動かないままだった。
『服の話の途中だったかな。ごめん』
耳について尋ねた人の名前だった。
俺はすぐに、大丈夫です、と返しかけて口を閉じる。困っていないふりをしたら、またどの質問へも順番に答えようとしてしまいそうだった。
「聞きたくなるのは分かります。俺も、知らなかったら聞くと思うので。ただ、今日はこの服の話もしたくて」
パーカーを机へ載せる。
画面の真ん中にグレーの袖が広がり、さっきまで自分の手があった場所を隠した。
「身体の話で、今答えられることは説明文に書いてあります。今日は、こっちを先にやってもいいですか」
言ってから、返事を待たずに袖を一本持ち上げた。
「これ、前は普通に手が出る長さだったんですけど」
顔を画角の外に保ったまま羽織り、肩へ布を落とす。
Tシャツの上からでも、袖は手をすっぽり隠した。腕を前へ伸ばすと、指の位置より先で布が垂れる。
『あ、思ったより余る』
『今のTシャツと全然違うね』
「そうなんです。だから、こうして折って」
片方の袖を折り、もう片方も揃える。
昨日までに何度かやっているので、今日はそれほど手間取らない。両手を並べると、糸日和から、今日は左右が揃っていますね、と届いた。
「練習しました」
『袖を折る練習?』
「はい。一昨日、片方だけ深かったので」
答えながら少し笑う。
個別に見てもらった写真の話まではしなかったが、糸日和には伝わったらしい。よくできました、と返され、俺は、そこまで褒められることですか、と机へ手を置く。
袖口の折り目を見ていると、知らない名前からコメントが届く。
表示名は『夕凪』。今日、投稿を見て来たと挨拶していた人だった。
『手を使うときは、青いほうが楽そう。大きいのは家でゆっくりするときによさそうです』
「確かに。食べるときは、青いほうがいいです」
『袖にソースつきそう』
「昨日、それ考えて着ませんでした」
ねじまきが、卵焼きまで袖に取られるところだった、と書く。
初めて来た人から疑問符が届いたので、昨日、弁当の卵焼きを最後まで残していた話をする。二個あるなら一個先に食べればと教えてもらった、と続けると、夕凪が、服も二つあれば使い分けられますね、と返した。
「じゃあ、飯食うときはこっちで、食べ終わったら羽織る感じで」
前を開け、下のTシャツを指す。
しっぽの付け根に布が寄っていたので、後ろへ手を回して裾を直した。そこまでして着たいのかと聞かれたら、今日は、着たいと答えられる。
「楽なのは新しいほうなんですけど。これは、前から好きだったので、残しました」
『前の身体へ戻ったとき用?』
俺は袖へ目を落とす。
そういう気持ちも全くなかったわけではない。でも、それだけなら、わざわざ今夜出してこなくてもよかった。
「戻ったら着るかもしれないです。でも、今も着たいです。今の俺には、こんなに大きいんだなって思いますけど」
『ぶかぶかで着るのも似合ってる』
夕凪の文字を読んで、袖を折り直しかけた手が止まる。
この人は、男だったという話を先に知ってから、今日ここへ来た。その人にも、今の俺が服を着ているところを、そう言ってもらえる。
「……ありがとうございます。こっちも、結構気に入ってます」
自分の声が少し高くなった気がして、水へ手を伸ばした。
コップには袖がかからない。何でもないことだが、折った分だけ使いやすくなっているのが嬉しかった。
『顔は見えないけど、今の返事は照れてた気がする』
「そこは、想像でお願いします」
そう返すと、笑う文字が届く。
顔を出さずに話すことが、相手の想像する余地にもなるのだと初めて思った。俺が実際にどう見えるかまでは、画面の向こうには分からない。それでも、返事をした声は届いている。
ノートの最後の言葉へ目を移す。
色については、まだ話していなかった。
「前は、こういうグレーばっかり選んでました。青いほうは、今の服を買うときに、少し違うのも着てみようと思って」
袖を並べて見せると、画面の上では色の違いがはっきりする。
ねじまきから、グレー好きだったな、と届いた。前に三浦と話したときのことを覚えているらしい。俺が頷くと、夕凪は、青いほうも見たいので少し前を開けてもらえますか、と書いた。
ファスナーは留めていなかったので、左右の布を少しよける。
カメラの高さは変えず、Tシャツの色が見えるくらいにした。淡い色もいいですね、と言われると、買うときに迷ったことまで思い出す。
今なら、もう一枚違う色を選ぶのも面白いかもしれない。
気づけば、予定していた終わりの時間が近かった。
結局、最初に用意した話の半分くらいしかできていない。けれど、膝で丸まっていたパーカーは、今は俺の肩に掛かっていた。
「今日はここまでにします。最初、質問に答えてるうちに何の話するか見失って、すみません」
『途中からでも服の話、聞けてよかったです』
夕凪の返事を読み、俺は礼を言う。
同じ人が、また服を選ぶときも見たいです、と続けたので、今度はもう少し比べられるようにしてみます、と答えてから配信を終えた。
*
履歴を自分だけの公開へ戻し、マイクを切る。
椅子へ深く座ったところで、三浦から連絡が届いた。今終わった? とあるので、終わったと返す。用事のあとに告知を見直して、気にしてくれたらしい。
『どうだった』
『説明してたら、服の話する時間が半分になった』
『袖、落ちた?』
『今日は落ちなかった』
そこで笑ってから、もう一つ送る。
『知らない人に、似合うって言われた』
『よかったじゃん』
短い返事が来て、俺は少し照れた。
困ったことと嬉しかったことを、続けてあいつへ送っている。配信前にどちらか一つを予想しようとしても、きっと当たらなかった。
ノートの「色」の横へ、手持ちの服をもう少し並べる、と書く。
今日は変わった身体について聞かれるたび、用意した話を後ろへ押していた。次は最初から、何をする時間なのかが見えるようにしたい。
説明文への案内も、口で何度も繰り返さずに済む場所を考えようと思う。
SNSへ今日のお礼を書き、次は手持ちの服を合わせてみたいと添えた。
送ってから着たままの服を見下ろすと、青いTシャツの裾が、パーカーの下から覗いている。次に着るならどれと合わせようか。袖を畳むより先に、俺は引き出しをもう一度開けた。




