第34話 卵焼きは、最後に
買ってきた弁当を冷蔵庫へ入れる前に、もう一度、蓋の上から中身を見た。
焼いた鮭と、卵焼きが二切れ。端には煮物と漬物が入っている。店では食べたいものを選んだはずなのに、家へ帰ると、これを映して何を話せばいいのだろうと考えてしまう。
鮭の説明をするために買ったわけではない。
袋から割り箸を出して机へ置き、先に鞄を片づけることにした。
三浦が来たのは、約束の時間より少し前だった。
玄関へ出ると、片手に弁当の袋を提げている。唐揚げが見えたので、今日もそれか、と言うと、今日はこれが食いたかった、と返された。
「配信の名前に合わせたわけじゃないからな」
「分かってる」
笑って部屋へ通してから、今のやり取りを、始めてからもできるだろうかと思った。
三浦は鞄を置き、折りたたみ椅子をいつもの場所へ開く。俺も冷蔵庫から弁当を出し、順番に温めた。先にできたほうの蓋を軽く載せ直し、二つとも机へ運ぶ。
今日は袖の余らない服にした。
グレーのパーカーは嫌になったわけではなく、弁当の汁を袖につけたくなかった。カメラの範囲を確かめると、二つの弁当と手元、その横へ寄せたしっぽの一部が入る。
机の端には、話すことを書いた紙を置いてある。
三浦が、これ、と目で示したので、最初に少し話したいことだと答えた。あいつは読んでいいか聞き、俺が頷いてから目を通す。
「俺、途中で何か言う?」
「最初は、俺が話す。分かんなくなったら、お前見るかも」
「うん」
その返事を聞き、紙を自分の側へ戻した。
二日前は、言ってしまったことへ追いつこうとしていた。今日は、最初にどこまで話すかだけは決めてある。それでも配信を始めるボタンの上へ指を置くと、すぐには押せなかった。
「弁当、冷めるかな」
「冷めたら、また温めればいいだろ」
三浦が蓋へ手を置く。
俺は頷き、マイクを確かめてから、配信を始めた。
*
「こんばんは。今日は、買ってきた夕飯を食べながら話します」
「こんばんは。からあげです」
挨拶が少しずつ届く。
ねじまきとパンのみみの名前を見つけ、その下に糸日和もいると分かった。返事をしてから、弁当の横へ置いた紙に目を落とす。
「食べる前に、少しだけ。この前、途中で話が変わって、そのまま終わってしまったので」
そこまで言うと、コメントが止まった。
待ってくれているのだと思おうとしても、二日前と同じように喉が狭くなる。俺は紙の端を指で押さえ、続きの一行を確かめた。
「俺は、前は男の身体で暮らしていました。朝起きたら今の身体になっていて、声と、耳としっぽも、そのときからです。病院には相談しています。でも、どうして変わったかとか、戻れるかは、まだ分かっていません」
息を継いで、顔を上げる。
画面には、聞いてます、と一つ届いていた。
「最初に配信したのは、本当に座り方が分からなくて、誰かに聞きたかったからです。服とか、しっぽの置き方を教えてもらったのも、助かってます」
ここまでは紙に書いてきた。
その下には、今も楽しい、と短く書いてある。昨日、それ以上うまく文章にできなかったところだった。
「それで、最近は、困ってる話だけじゃなくて。友達と喋ったり、皆さんのご飯の話を聞いたりするのも、楽しかったので。今日も、そういう時間にしたいです」
最後は紙を見ずに言えた。
隣で三浦が頷くのが視界に入り、俺は握っていた紙の端を離す。
『前の配信は途中からだったので、聞けてよかったです』
『耳のことも、まだ不思議だけど』
『今日はご飯、ってことでいい?』
「はい。あの、何を聞かれても全部答えられるわけじゃないですけど。分からないことは、分からないって言います」
『男だった頃の写真はありますか?』
やっぱり来たと思い、一瞬、三浦のほうへ顔を向けた。あいつは答えずに待っている。昨日二人で話したことを思い出し、俺からマイクへ返した。
「前の写真とか声は、今は出すつもりはないです」
『今の顔も見てみたい』
『そういえば、耳も映ってないよね』
俺は配信の画面へ目を向ける。
映っているのは胸より下と、机の上の弁当、横へ寄せたしっぽだけだ。向こうには、この声でどんな顔をして喋っているのかも分からない。耳のことも、俺が話すのを聞いているだけだった。
「はい。顔と耳は、まだ映してないです。今日も、この範囲で話させてください」
カメラの位置は変えず、机へ手を戻す。
「今日話したことは、あとで短く文章にもして残します」
その返事で信じてもらえたかどうかは分からなかった。
別の人が、了解、と書く。最初の質問をした人からは続きがなく、俺は次の言葉を探す代わりに、弁当の蓋へ手を掛けた。
「じゃあ、食べます。いただきます」
三浦もいただきますと言い、二人で蓋を外す。
画面の向こうからも、いただきます、と返ってきた。
*
最初の一口を飲み込むまで、誰も次の話をしなかった。
鮭はまだ温かい。箸でほぐしてご飯へ載せ、もう一口食べる。その間に三浦が唐揚げを取り、俺は何か聞こうとして口を開いた。
「そっち、どう?」
「うまい」
「よかった」
そこで会話が切れる。
俺が作ったものでもないのに、よかった、と言っている。普段なら、そうだろうな、と返すくらいの問いへ、二人で妙に丁寧に答えていた。
『鮭のお弁当、おいしそう』
パンのみみへ礼を言ってから、俺は端の煮物を取る。
紙に書いた説明は終わった。もう普通に食べていい。そう考えるほど、一口食べるたびに、次に何を言うかを探してしまう。
三浦が、そういえば、と言いかけて止まった。
そちらを見ると、俺の弁当へ目を落としている。
「何?」
「いや、あとでいい」
前の話をしていいか迷ったのだろうか。
俺も聞き直しかけたところで、ねじまきから文字が届く。
『卵焼き、さっきから一個も減らないな』
弁当を見ると、確かに二切れとも残っていた。
ほかのおかずは触っているのに、そこだけ買ってきたときのままだ。
「最後に食べようと思って」
「俺も、今それ言おうとした」
三浦がすぐに続け、俺はそちらを向く。
「だったら言えよ」
「いや。ずっと残ってるから、食べないのかと思って」
「食べるよ。好きだから取ってるんだろ」
言い返すと、ねじまきが、保管中だったか、と書く。
思わず笑ってしまい、俺は口元を手で押さえた。食べている途中ではなかったのに、何となくそうしてから、もう一度弁当を見る。
「ちゃんと食べます。あとで」
『好きなもの先に食べる派です』
『最後に残すの分かる』
『二個あるなら、一個今食べれば?』
最後の一行に、三浦が小さく吹き出した。
「そうじゃん」
「……それは、そう」
俺は箸を持ち直し、一切れ取った。
端が少し崩れたが、そのまま口へ運ぶ。思っていたより甘くて、鮭の塩気が残っていた舌にちょうどよかった。
「あ、うまい」
「よかったな」
「うん」
『急に返事が素直』
パンのみみの文字を見て、俺は笑う。
さっき同じことを言ったときより、ずっと簡単に返事ができた。何を話すかを考えるより先に、もう一個も食べたくなる。
三浦がその箸を見て、最後に取るんじゃなかったのか、と聞く。
「まだ食べてないだろ」
「すごい見てた」
「見ただけで食ったことにするなよ」
返しながら、箸を鮭のほうへ戻した。
画面に笑う文字が増える。その間へ、糸日和が、残りの一個まで楽しみにしてる声ですね、と書いた。
「そんな分かります?」
『最初の一口のあと、すごく嬉しそうでした』
俺は返事をする前に水を飲む。
男だったことを知っている人にも、この声が嬉しそうに聞こえる。昨日、個別に文章で返したときとは違って、今はその場の声で返さなければならなかった。
「……卵焼き、好きなんです」
「知ってる」
三浦が言ったので、今はそっちに言ってない、と返す。
今度はあいつも遠慮せずに笑った。
コメントには、甘い卵焼きが好きな人と、甘くないほうが好きな人が並び始める。
俺が今日は甘いほうだったと話すと、三浦は、どっちでも飯に合えばいい、と言う。ねじまきが、からあげさんの基準はそこか、と返した。
俺も、いつもご飯だけ残すくせに、と続けかけて、少し止まる。
これは、前から知っているあいつの話だ。
三浦を見ると、何、と目で聞き返された。
「前から、おかず先に食うよな」
「俺?」
「うん。最後にご飯だけ残してる」
「配分考えてる間に食いたいんだよ」
その答えがおかしくて、俺はまた笑った。
どこで一緒に食べたかも、いつのことかも言っていない。でも、ずっと前から友達だったことは、この会話の中に残っている。
『今もご飯、多めに残ってない?』
三浦が自分の弁当を見下ろした。
俺も覗き込み、まだ唐揚げ一個あるから大丈夫だろ、と言う。あいつは頷いて、今度はご飯から食べ始めた。
しばらくすると、食べ終わりました、と書く人がいた。
俺も最後の卵焼きを口へ入れ、空いた容器へ箸を揃える。いつの間にか、三浦の弁当もご飯までなくなっていた。
「今日は、ちゃんと最後まで食べました」
『卵焼きもなくなった』
「なくなりました。ごちそうさまです」
全員が笑っていたわけではない。
さっきから何も書いていない人もいるし、今日初めて見たという挨拶には、すぐに返せなかった。それでも、空の弁当を前にしてから、もっと食べている間に聞きたかった話を思いつく。
「皆さんの夕飯、あんまり聞けなかったですね」
『カレーでした』
『今からです。何買うか迷ってる』
卵焼き、と勧めかけて、夕飯がそれだけになりそうなのでやめた。
三浦が俺の顔を見て、今、卵焼きって言おうとしただろ、と言う。俺は、よく分かったな、と笑い、また時間が合ったら一緒に食べましょうと画面へ返した。
終わりの挨拶をして、配信を切る。
終了と履歴の設定を確かめてから、三浦へ顔を向けた。
「さっき、言いかけてやめたの、本当に卵焼き?」
「うん。あの空気で、何残してんだよって言っていいか分かんなくて」
「俺も、何喋ろうって考えてた」
二人で空の容器を見て、少し笑う。
最初からいつもどおりだった、と言うには、途中の沈黙をよく覚えていた。でも、最後に何を話していたかも、今日は思い出せる。
*
三浦が帰ってから、SNSの入力欄を開いた。
マイクの横に置いた紙を見ながら、配信を聞けなかった人へ何を残すか考える。食事の話だけを書けば楽だったが、さっき文章にすると言ったことは、自分で書いておきたかった。
『配信で話したことについて。俺は以前、男性の身体で暮らしていました。ある朝、今の身体と声になり、耳としっぽも現れました。病院には相談していますが、原因や戻り方はまだ分かっていません。前の写真や声は、今は公開しません。暮らしの工夫や雑談、食事の配信は、これからも続けたいと思っています』
読み返し、原因のところをもう一度確かめる。
俺に起きたこととして話せるのは、ここまでだった。ほかの人の事情を足さなくても、この文章は書ける。
送信を押してから、別の投稿に、今日一緒に食べてくれた人への礼を書いた。弁当の卵焼きがおいしかったことも、一行だけ添える。
水を飲んで戻ると、食事の投稿に返事がついていた。
『さっき何を買うか迷ってた者です。卵焼き入りのお弁当にしました』
写真には、俺のとは違うおかずと、黄色い卵焼きが並んでいる。
もう食べ終えたのに、味を思い出して少し腹が減った気がした。
『二個あったら、一個は先にどうぞ』
そう返して、スマホを机へ置く。
説明の投稿にはどんな返事が来るだろうと、まだ気になっている。それでも今夜、最後に送った言葉は、誰かの弁当についてだった。




