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男だった俺の、しっぽのある暮らし  作者: あわいしゅん
第2章「いつもの場所に、今の俺で」

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第33話 それは、嫌じゃなかった

 朝、目が覚めて最初に確かめたのは、しっぽの位置ではなくスマホだった。

 昨日の配信について、いくつか返事が来ている。途中から見たので何があったのか知りたいという人も、驚いてうまく書けなかったという人もいた。順に開きかけて、枕元の時計が目に入る。

 このままだと、朝飯を食べる時間がなくなる。


 スマホを伏せて起き、湯を沸かした。

 三浦は昨夜、俺が二人分の水を注ぎ直してから、もうしばらくいてくれた。帰るとき、譲ったTシャツの袋を忘れそうになって、俺が玄関まで持っていく。ありがとうと受け取ったあと、あいつは、明日も大学だよな、と確かめた。

 行くつもりだと答えたから、というだけではない。今日出る講義には、今日の続きがある。


 パンを食べ、着替えを選ぶ。

 グレーのパーカーは椅子の背に掛けてある。迷ったが、外へ着ていくには袖が落ちてきすぎるので、今日は別の上着を取った。鞄へノートを入れ、帽子の中に耳の場所を作る。

 玄関で靴を履いたところで、スマホがまた震えた。


『昨日は急に色々聞いてしまって、すみません。前に服のことを勧めたときも、今の姿ならこういうものがいいだろうと、勝手に考えていたかもしれません。着たくないものまで勧めていたら、ごめんなさい』


 糸日和からの個別メッセージだった。

 靴のつま先を見たまま、最後まで読む。違いますと打ちかけ、何が違うのか考えたところで手が止まる。

 何も嫌ではなかったと言ったら、あの頃の戸惑いまでなかったことになりそうだった。


 でも、勧めてもらったものを嫌々着ていたわけでもない。

 返事の途中で時刻が変わり、俺は書きかけを消す。あとで返そうと思って画面を閉じても、その文章は駅へ向かう間、ずっと頭に残っていた。


     *


 午前の講義では、ノートの一行を二度書いた。

 同じところをなぞっていると気づいて、下のほうへ線を引く。前の席の学生が資料をめくる音で顔を上げると、先生の説明はもう次へ進んでいた。

 慌てて見出しだけ書き写す。昨日の配信を考える時間と、目の前の話を聞く時間が、うまく分かれてくれない。


 終了後、鞄を肩へ掛けて廊下へ出たところで、黒田から連絡が来る。

 昼、食堂にいるかという短い文に、今から行くと返した。三浦にも送ると、あと十分くらい、と届く。


 食堂は席を探す人で混んでいた。俺も昼食を買い、トレーを両手で持って奥へ進む。

 空いた椅子へしっぽを避けて座ろうとすると、通りかかった学生がこちらを見て足を緩める。帽子の下へ視線が動いた気がして、思わず俯いた。

 昨夜のことを知っているのだろうか。

 そんなはずはない、とも言い切れなくて、膝の上の鞄を置き直す。相手は友達に呼ばれ、そのまま別の席へ歩いていった。何を見ていたのかは、結局分からない。


「そこ、座れる?」


 黒田の声に顔を上げる。

 俺が頷くと、向かいへトレーを置き、椅子を引いた。いつもより顔を見られた気がして、先に口を開く。


「何?」

「いや。眠そうだなと思って」

「……ちょっと」

「課題?」


 黒田は箸の袋を開けながら聞く。

 俺は水を一口飲み、隣の席へまだ誰も座っていないことを確かめてから、声を落とした。


「昨日、配信で、前の身体のこと話した」


 袋を丸めていた手が止まる。


「話したのか。昨日、見られなかったんだよな」

「話すつもりじゃなかった。三浦と服の話してて、俺が、つい」


 そこまで言うと、黒田はスマホを出しかけた手を戻した。

 録画は今も俺だけしか見られないと伝える。じゃあ後で見る、とは返さずに、そうか、と俺のほうを見た。


「大丈夫だった?」

「分かんない。質問には少し答えたけど、途中で終わった」


 黒田は頷き、何か言いかけて箸を置く。

 俺も話すことを探した。配信でどんな言葉が来たか、三浦が何を答えてくれたか。全部説明しようとすると、また飯が冷めそうだった。


「お前、俺の声聞いたとき、後ろに誰かいるのかって言ったよな」

「ああ……言ったな」

「昨日も、声変えてるのかって聞かれた」


 黒田が少し眉を寄せる。


「俺も、あのときはそうとしか思えなかったから」

「分かってる。責めてるんじゃなくて」


 言いながら、茶碗を持ち上げる。

 あのときの黒田も、すぐに全部分かったわけではなかった。それでも今は、俺の前で箸を持っている。昨日の人たちも同じようになると決まったわけではないが、返事が止まったところだけで終わりを決めなくてもよかった。


 黒田が自分の皿へ目を落とす。


「昼、何食うか聞こうと思って連絡したんだけど。結局、俺が先に買っちゃった」

「俺も、もう買った」

「だよな」


 二人でトレーを見る。

 ほとんど手をつけていなかったことに気づき、俺はようやく一口食べた。


 少し遅れて来た三浦は、俺の隣へ座った。

 しっぽの場所を見て椅子をずらし、それから、昨日、洗濯できた、と言う。


「何の報告だよ」

「気にしてるかと思って」

「……ちょっと気にしてた」


 俺が答えると、三浦は、だろ、と箸を取る。

 黒田へは、昨夜うちに残ってもらったことだけ足した。あいつは深く聞かず、三浦の皿を見て、それ量多くないか、と別の話を始める。俺もそちらを見て、午後眠くなるぞ、と言った。

 笑ったあとにまた黙ってしまっても、今度は、三人とも食べているからだと分かった。


     *


 食堂を出ると、黒田は次の講義がある建物へ向かった。

 俺と三浦も途中まで並んで歩き、人の流れが少なくなったところで、あいつが鞄の肩紐を持ち直す。


「次の配信、しばらく一人のほうがいい?」


 俺は歩くのを少し緩めた。


「何で?」

「俺がいると、また前の話になるかもしれないし。昨日、俺にも質問来てたから」

「……出たくなくなった?」

「そうじゃなくて。俺が、何を言っていいか分かんなくなってる」


 三浦は前を見たまま答える。

 それを聞いて、ようやく、あいつも昨日の続きを考えていたのだと分かった。俺が眠れたかどうかを気にするだけではなく、自分があの机へ座ることまで迷っていた。


「俺も、全部は決められてない。でも、勝手に抜けるって決めないでほしい」

「決めてないから、聞いたんだよ」

「……そうか」


 返事が早すぎたことに気づき、帽子の縁を直す。

 隣にいてほしいと言ったばかりなのに、翌日には、出ないほうがいいかと聞かれる。そう思って焦った。でも、三浦がもう出ないと言ったわけではなかった。


「また一緒に飯食いながら喋りたい。昨日の説明だけで終わるの、嫌だし」

「うん」

「ただ、俺の昔の写真とか、そういうの聞かれても、出す約束はしないで」

「それはしない」


 三浦がこちらを見る。


「昔の飯の話とかは?」

「それは、したい。名前とか場所が出そうだったら、俺に聞いて」

「分かった。迷ったら止まるから、お前が続けるか決めて」


 全部を決めたわけではない。それでも、黙っているしかないと二人で思うより、次に困ったときの返し方が一つできた。

 分かれ道で、三浦がスマホを取り出す。


「明日の夜なら空いてる。飯、どうする?」

「買ってきてもいい?」

「いいだろ。俺も買う」


 店も食べるものも決めず、うちへ来る時間だけ合わせる。

 三浦を見送ってから、俺は教室へ向かった。SNSへ告知するのは、帰ってからでいい。先に返したい相手がいた。


     *


 帰宅して帽子を外し、机へスマホを置く。

 糸日和の文章をもう一度開いた。朝は謝られていることばかり気になったが、今読むと、最後の一文の前で何度も書き直したのかもしれないと思う。

 俺が嫌だったかどうかを、向こうはまだ知らない。


『返事が遅くなってすみません。服のこと、嫌で合わせていたわけではないです』


 そこまで書いて、止まる。

 合っている。でも、これだけだと、気にしないでほしくて言っているようにも見えた。

 椅子の背に掛けたパーカーを手に取り、袖へ腕を通す。折ったところは少し緩んでいたが、もうどれくらい折れば手が出るかは分かる。


『最初は、女物を着るのも、かわいいって言われるのも、かなり恥ずかしかったです。今も恥ずかしいです。でも、教えてもらって助かったし、着てみて気に入ったものもあります。昨日の服も、大きいけど似合うと言ってもらえたのは嬉しかったです』


 読み返すと、嬉しかった、と自分で書いているところが照れくさい。

 消さずに送ってから、両手を机の下へ隠した。昨日は見られたくなくて引っ込めた手を、今日は返事を待つ間、どこへ置けばいいか分からなかった。


 洗濯物を取り込んで戻ると、返事が来ている。


『そうだったんですね。ありがとうございます。前に戻りたいと思っているなら、今の姿に似合うと言うのも、困らせるかもしれないと思っていました』


 俺はスマホを持ったまま、しばらく考えた。

 戻り方を知りたい気持ちはある。今の声を褒められると嬉しい。その二つが、自分の中でまだうまく並ばない日もある。


『戻れるかは知りたいです。でも、今着る服は要るので。それを好きで着るのまで、やめたいわけじゃないです』


 送ったあと、少し言い方が強かったかもしれないと気になる。

 付け足そうとしている間に、糸日和から届いた。


『分かりました。事情のほうは、まだ驚いています。でも、服の好みは、また聞いてもいいですか』


『はい。自分でも分からないときは、そう言います』


 そう返すと、今度は少し間が空いた。

 俺はパーカーの袖をつまみ、昨日、やりかけだったことを思い出す。机の上へ腕を置き、袖口だけを写真に撮った。顔も部屋の奥も入っていないのを確かめ、個別の返事に添える。


『今日はこれくらい折りました。左右、揃ってます?』


 送ってから、カメラ越しにもう一度自分の手を見る。

 ほどなく、右が少しだけ深いかも、と届いた。直して撮り直すほどではない気がして、やっぱりですか、と返す。


『でも、手はちゃんと出ていますね。昨日も、ぶかぶかの袖から手が出たところ、かわいいと思いました。それは、今見てもそう思います』


 口元が緩んで、俺は袖で隠しかける。

 今度は手が出る長さにしていたので、うまく隠れなかった。


『ありがとうございます。やっぱり、ちょっと照れます』


 いつもなら、手を出しただけです、と言い返したかもしれない。

 今日は、そう思ってもらえたことが嬉しいと、先に伝えておきたかった。


 返事を終えてから、三浦との約束をSNSへ書く。

 明日の夜、友達と夕飯を食べながら少し話すこと。最初に、昨日うまく説明できなかったことを少し補足したいと添えた。詳しい文章にしようとして長くなりかけ、今はそこまでにして送る。


 ほかの人への返事は、まだ残っている。

 次の配信で、また言葉に詰まるかもしれない。それでも、糸日和とのやり取りを閉じる前に、袖の写真を一度だけ見返した。

 男だったことを知った人へ、俺から今の服を見せている。その写真を消さずに置き、夕飯を用意しようと椅子を引いた。

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