第32話 まだ、うまく話せない
膝の上で握った手をほどいて、コップへ伸ばす。
残っていたお茶は冷えていた。一口飲んでも喉の奥に何かがつかえていて、もう一度飲もうとしたら、縁に前歯が当たる。小さな音がしただけなのに、三浦がこちらを向いた。
「……服の、好みの話じゃなくて」
声が出ると、画面に新しい文字が増えた。
俺は途中まで読んで、マウスから手を離す。全部を見ようとすると、今言いかけたことまで分からなくなりそうだった。
「俺の話です。前は男で、この服も、そのときに買ってて。今は、身体が変わってます」
言い終わってから、袖口を見る。
さっきはこれを見せながら笑えた。今も同じ布なのに、手を引っ込めてしまいたくなる。
『女の子になったってこと?』
『え、身体が?』
『そういう設定の話をしてる?』
「設定っていうか……俺には、本当に起きたことで」
そこで口を閉じる。
本当だと言ったところで、向こうには確かめようがない。俺だって、あの朝、誰かに同じことを言われたら、何かの冗談だと思ったはずだ。
しっぽがクッションの端を擦る。いつもなら位置を直すところを、そのままにして続けた。
「朝、起きたらこうなってて。声も、そのとき変わりました。前の日までは、普通に男の身体で暮らしてました」
『一晩でってこと?』
『ごめん、ちょっと話が追いつかない』
「……はい。一晩で、です」
説明を足したつもりが、もっと分からなくさせている。
隣の三浦へ目を向けると、あいつも画面を見ていた。何かを探すように唇を動かしてから、俺へ視線を戻す。代わりに話してほしいのか、黙っていてほしいのか、自分でも決められずに目を伏せた。
コメントが一度途切れる。
配信が止まったのかと思い、マイクの表示を確かめた。お茶を置く音は拾っているし、画面の中の手も動いている。
返事がない時間を、こんなに長く感じたことはなかった。
『声を変えるやつを使ってるわけではなく?』
ようやく届いた問いを、声には出さずに読む。
「使ってないです。普段も、この声です」
『からあげさんにも、その声で話してるの?』
「うん。今も、ずっと」
返事をしてから、普段の言い方になっていたことに気づく。
三浦は机へ置いていた手を少し動かし、マイクのほうへ向いた。
「今ここで聞いてる声も、皆さんに聞こえてるのと同じです」
そこまで言って、俺を見る。
俺は頷いた。今の声についてなら、あいつが知っていることを話してもらって大丈夫だった。
『前の姿も知ってるんですか』
「知ってます。前から友達なので」
『変わるところを見た?』
「そこは見てないです。連絡をもらって、会いに来たら変わってました」
三浦の答えは短かった。
俺が一人で困っていた朝へ、あいつが来てくれた。その話を前にしたときは、弁当の梅干しで笑えたのに、今は続きをどこから話せばいいのか分からない。
『じゃあ、最初に座れないって言ってたのは』
ねじまきの名前だった。
俺はその一行を二度読んでから、顔を上げる。
「しっぽが、急にあったからです。どこへ置けばいいか分からなくて」
『作り物だと思ってた』
「……そう思いますよね」
ねじまきの文字の下へ、耳もなのかと届く。
俺は耳も同じ朝からあると答えた。説明しながら、映っていない頭へ手をやりかけて、途中で止める。ここでカメラを上げたら分かるだろうか。けれど、耳が映っても、前は男だった証拠にはならない。
『最初から、そう言ってた?』
「耳としっぽが外せないって話は、してました。男だったことは、配信では言ってないです」
自分が言わずにいたことを、初めて声にする。
嘘をついていたつもりはなかった。でも、女の子だと思って話しかけてくれているのは分かっていた。そのたびに何をどこまで言うか迷って、返せるところへだけ返事をしていた。
「言い方が分からなくて。そのまま、今日まで……」
語尾が小さくなり、マイクのほうへ少し顔を寄せる。
「今日も、これを話すつもりで始めたわけじゃなかったです」
『だから、さっき止まったのか』
『ごめん、びっくりして質問ばっかりした』
『聞いたけど、まだちょっと信じられない』
最後の言葉で肩に力が入った。
分かっている。俺もそう思うだろうと、さっき考えたばかりだ。それでも、文字で向けられると、もう一度、本当なんですと言いたくなる。
言って、どうするんだろう。三浦に何か言ってもらえば、それで信じてもらえるのか。名前も顔も知らない俺たち二人が、同じ話をしているだけなのに。
コップへ伸ばしかけた手を、机の上に戻す。
「すぐには、無理だと思います。俺も、理由は分かってないので」
病院には行ったのか、と尋ねられた。
相談はしていること、原因や戻し方はまだ分からないことを答える。どんな検査をしたかという質問もあったが、今ここでどこまで話していいのか考えがまとまらず、すみませんと首を振った。
画面には顔が映っていない。それを思い出して、今日はそこまで話せないです、と言葉を足す。
パンのみみから、急がなくて大丈夫です、と届いた。
礼を言おうとして、その上にあった昔の声は残っていないのかという問いを読んでしまう。スマホの中に何かあっただろうか、と一瞬考え、それを探し始める自分が怖くなった。
「……今日は、このへんにしてもいいですか」
隣で三浦が頷く。
コメントを待つ間、終わっていいと言ってもらおうとしていることに気づいた。自分の配信なのだから、俺が決めていいはずなのに、まだ返していない問いが目に入ると、指が動かなくなる。
「服、片づいたって話をするつもりで。うまく説明できなくて、すみません」
『こっちも驚いた。今日は分かったところまでで』
ねじまきの返事に、分かりました、と答えてしまう。
何が分かったのかは、互いに違うと思う。それを確かめるだけの言葉は、今の俺には残っていなかった。
糸日和から、お疲れさまでした、と届く。
パンのみみも挨拶をしてくれた。その下では、途中から来たので何の話か知りたいという文字が増えている。
「来てくれて、ありがとうございました。今日は終わります」
三浦が短く挨拶を添え、俺は終了のボタンを押した。
確認の画面でもう一度押すと、配信中の表示が消える。三浦が口を開きかけたので、ちょっと待って、と止めた。
終了したことを確かめ、マイクのスイッチを切る。録画の公開先も、いつもどおり自分だけに戻してから、ようやく椅子へ背中を預けた。
*
「……切れてるよな」
「うん。切れてる」
三浦の返事を聞いても、もう一度画面を見てしまう。
いつもはすぐに片づけるマイクを、今日は触りたくなかった。手前のコップだけ持ち上げると、中身はほとんどなくなっている。
「水、いる?」
「いる」
コップを渡し、三浦が台所へ行くのを目で追う。
椅子の横へ目を落とすと、しっぽの先がクッションから落ちていた。引き上げようとしてもうまく力が入らず、手で持って載せ直す。その間に水が戻ってきた。
両手で受け取って飲む。
三浦は折りたたみ椅子へ座り直し、自分のコップにも口をつけた。何も言われないのがありがたいのか、何か言ってほしいのか、分からない。
「俺、普通に言ったよな」
「何を?」
「男だった頃って。ほんとに、何も考えてなかった」
三浦は少し黙ってから、そう見えた、と答える。
「お前の顔見て、やっと気づいた。あれ、今、どこまで聞こえたんだろうって」
「うん」
「袖の話に戻そうと思ったんだけど。戻せなかった」
笑おうとすると、息だけが鼻から出た。
袖はまだ長い。引き出しも閉まっている。さっきまで面白かったことが、全部そのまま部屋に残っていた。
「俺、服の話、続けすぎたかな」
三浦の言葉に、首を振る。
「俺が言ったんだろ」
「でも、前に借りたときの話、何回もしたし」
「それは、さっきもしてたじゃん。片づけながら」
あいつは頷いたが、すぐには何も返さなかった。
責めたいわけではないのに、俺の声まで強くなっている。コップを置き、机に載った二人分の手を見る。
「……お前がいて、助かった。声のこと、答えてくれたのも」
「勝手に喋ってよかったか、迷った」
「よかった。あそこ、俺、一人だったら、同じことしか言えなかったと思う」
話すと、三浦の手が少し動いた。
指先でコップの縁を撫でてから、見たところしか言えないけどな、と答える。俺は、それでいい、と頷いた。見ていない変化の瞬間まで説明されるより、ずっとよかった。
しばらく水を飲んでいると、スマホが震える。
俺は反射的に手を伸ばし、通知の一行だけを見た。今日の配信について尋ねる文だった。画面を開く前に伏せたが、もう頭には残っている。
「何か、書いたほうがいいかな」
「今?」
「途中から来た人もいたし。何も言わないと、分かんないだろ」
「今なら、書けそう?」
聞かれて、返事に詰まる。
言ったことを文字でもう一度並べる。それだけのはずなのに、最初の一文を考えると、さっきの質問が全部戻ってきた。
「……分かんない」
「じゃあ、水飲んでからでいいんじゃない」
「飲んでる」
「もう一口」
言われたとおり飲んで、少しだけ息が抜ける。
三浦は俺の代わりにスマホを取らなかった。机の端に伏せたままの画面を、俺もそのままにしておいた。
「次、何喋ればいいんだろ」
口にしてから、もう次のことを考えているのかと思う。
また配信したいと胸を張れるほど落ち着いてはいない。でも、これで終わりにしたいとも思えなかった。さっきの、お疲れさまでした、が最後のやり取りになるのは嫌だった。
「次って、また飯とか?」
「分かんない。服も、まだ話の途中だったし」
「袖、どうするかも決まってないしな」
俺はパーカーを見下ろす。
切らずに留める方法を教えてもらっていた。あの返事を聞いたときは、もう少しこのまま着てみようと思っていたのだ。
「これ、脱ごうと思った」
「暑い?」
「違う。さっき、見られてるのが、急に嫌になって」
三浦がこちらを見た。
俺は片方の袖を引っ張り、それ以上うまく言えずに手を離す。好きで残した服なのに、映っている自分ごと隠したくなった。今すぐ脱いでも、聞かれた言葉が消えるわけではないのに。
「今は?」
「……まだ着てる」
「うん」
答えになっていない返事を、三浦はそのまま聞いた。
しっぽを押さえないよう裾を直し、袖をもう一度折る。今度は両方、同じくらいになった。
時計を見ると、約束の三十分は過ぎていた。
三浦の足元には、今日渡したTシャツの袋がある。帰らなきゃいけないよな、と言いかけた俺より先に、あいつが袋を椅子の下へ押し戻した。
「もうちょっと、いるよ」
「用事、大丈夫?」
「帰って洗濯するくらい。少し遅くなっても平気」
俺は頷いてから、やっぱり声に出した。
「じゃあ、いて。もう少しだけ」
三浦が、分かった、と答える。
次に何を話すかも、届いている問いにどう返すかも決まらないまま、俺はコップを持ち直した。まだ帰らない友達の分も残っているのを見て、水がなくなったら、今度は俺が注ぎに行こうと思った。




