第31話 前から、俺の服
生姜焼きを作った翌日、乾いた服をしまおうとして、引き出しが閉まらなくなる。
端に挟まっていたのは、前から着ていたグレーのパーカーだった。持ち上げると、その下にもTシャツが何枚か重なっている。今着る服を手前へ入れるたびに、奥へ押していたらしい。
床へ座り、膝の上に広げる。
男だった頃、ちょっと買い物へ出るときによく羽織ったものだ。袖口には、洗っても取れなくなった薄い染みがある。捨てるほど傷んでいないし、また着るかもしれない。それで残していたけれど、この身体になってからは一度も袖を通していなかった。
試しに羽織ると、手が出ない。
袖を引き上げて立ち、鏡の前で裾を直す。肩の縫い目は腕のほうへ落ち、前を閉めると、後ろの布がしっぽの付け根へ引っかかる。
前なら、何も考えずに着て出られたのに。
ファスナーを開け、後ろの裾を少し持ち上げた。これなら立っている間は着られる。ただ、フードをかぶる気にはならない。耳の場所は、昔の服には用意されていなかった。
スマホで三浦とのやり取りを開く。
昨日、次は自分が持ってくると言っていた。その返事も兼ねて、今度来るとき、前の服を少し見てほしいと送った。
『着られそうなのがあれば持ってって。まだ分けてないけど』
『捨てるの?』
『全部じゃない。引き出しが閉まらない』
『それは片づけろ』
正しい返事だったので、開いたままの引き出しを写真に撮る。送る前に部屋の散らかり方が気になり、結局やめた。
三浦は明日の夕方なら寄れるという。飯は買っていく、と続いたので、俺は飲み物を用意して待つことにした。
*
翌日の夕方、三浦は惣菜の袋を持って来た。
玄関で受け取ると、中にはコロッケとサラダが入っている。米は炊いてあると伝えると、それならよかった、と靴を脱いだ。
「服、どれ?」
「その前に飯。コロッケ、温かいうちに食べたい」
「昨日の話だと、服に埋まってるのかと思った」
「そこまではいってない」
言いながら、床の端へ寄せた服の山を足で隠しかける。
三浦は見ていたが、何も言わずに手を洗いに行く。俺は皿を出し、二つの茶碗へご飯をよそった。
今日は配信をつけずに食べる。
コロッケを一口かじると、思っていたより中が熱い。水へ手を伸ばした俺を見て、三浦が、急ぐから、と笑う。そっちも同じように齧ってから、しばらく黙っていた。
食後、皿を片づけてから服を広げると、三浦はまず黒いTシャツを手に取る。
「これ、まだ着ない?」
「丈が長いんだよな。家では着られるけど、全部部屋着にしても余るし」
「じゃあ、もらう。こっちは?」
「そっちは残す」
グレーのパーカーへ伸びた手を見て、すぐに答えてしまう。
三浦は途中で手を止め、俺の顔を見た。
「気に入ってたもんな、それ」
「昨日着てみたら、着られなくはなかった」
「でかいだろ」
「でかかった」
もう一度羽織ると、三浦は袖の先を見て笑う。
俺が手を振れば、中で指が布に引っかかった。袖口を二回折ってようやく出すと、そっちのほうがいい、と言われる。
「前、俺が着たときは短かったのにな」
「あれ、お前が勝手に引っ張ったからだろ」
「雨降ったから借りただけだって」
思い出して、俺も笑う。
一緒に外へ出た帰り、急に雨が降った日があった。屋根のあるところまで三浦がこれを頭に載せて走り、部屋へ戻ってから、濡れたシャツの代わりにしばらく着ていた。俺の服なのに袖が短いと文句を言うので、返せと取り上げた。
今は俺のほうが、同じ袖から手を出せずにいる。
三浦は何か言いかけ、それからTシャツを畳むほうへ戻った。俺もパーカーを脱がず、残す服を膝の横へ積む。
似合うかどうかはまだ分からない。でも、あのときの服を今も自分が着たいのだとは、はっきりした。
引き出しへ戻す量が減ると、ようやく奥まで閉まった。
残す服を全部押し込まなくても入ったことが嬉しくて、二度ほど開け閉めしていると、三浦に、もう閉まってる、と言われる。
「見れば分かる」
「じゃあ、何で二回やったんだよ」
答えずに立ち上がる。引き出しが閉まった写真なら、今度は撮ってもいい気がした。
*
お茶を入れ直していると、スマホにSNSの通知が届く。
一昨日の食事配信への返事だった。今夜もあるかという問いを見て、三浦へ声をかける。
「このあと、少し喋ってもいい? 片づいたって話」
「俺も?」
「まだ時間あったら。帰るなら、一人でやるけど」
「三十分くらいなら大丈夫」
俺は今から短く話すと告知し、机の上を空けた。
服の山は片づけ終わっている。昔の写真や名前の入ったものも出ていない。カメラをいつもの位置へ戻し、胸より下と手元が映るように確かめる。三浦には画面を見せ、ここから先は入る、と机の端を指した。
椅子へ座ると、パーカーの裾がしっぽを押す。
後ろを持ち上げてクッションへ逃がす間に、三浦がマイクへ向かって声を出す。前回と同じ距離なら拾えている。俺も一言喋り、音量を確かめてから配信を始めた。
「こんばんは。今日は片づけが終わったので、その休憩です」
「こんばんは。服をもらいました」
『からあげさん、今日もいる』
『こんばんは。ご飯は?』
「今日はもう食べました。そっちは、食べながらでもどうぞ」
ねじまきとパンのみみへ返事をし、コップを持ち上げる。
折った袖が緩み、指へかぶさった。反対の手で引き上げると、糸日和から、今日はずいぶん大きい服ですね、と届く。
「前から持ってたやつです。片づけてたら出てきて」
『袖、余ってる』
『からあげさんの借りたのかと思った』
「俺のです。むしろ貸したことがあります」
三浦が横で頷き、俺にはちょっと小さかった、と付け足す。
コメントに笑う文字が並ぶ。俺は袖をもう一度折り、これで大丈夫、と両手を机へ置いた。
『その手の出し方、かわいい』
『ぶかぶかもいいね』
「手、出そうとしただけなんですけど」
「出るまで、結構かかったな」
「さっきからそればっか言う」
横を向いて返すと、三浦が笑っている。
着替えてから始めればよかったとは思わなかった。鏡の前ではただ大きすぎた服を、かわいいと言ってもらえる。それなら、このまま着ていようかと思ってしまう自分が、隣に知られるほうが恥ずかしい。
俺はカメラの下で裾を少し直す。
しっぽを押さえなければ、座っている間もそう悪くない。手首が隠れるぶん暑くなるかと思ったけれど、前を開けていれば平気だった。
『お気に入りなら、直して着るのもありですよ』
糸日和の文字を読み、袖を見下ろす。
「これ、短くしたら、あとで戻せます?」
『切らずに留めるなら。ただ、厚いので折る場所によってはごろごろします』
「そっか。じゃあ、しばらくこのままで着てみます」
元の身体へ戻ったら、と続けそうになり、お茶を飲む。
そこまで聞いたつもりではなかった。切ってしまうのが惜しいだけでも、同じ質問はできる。三浦は俺を急かさず、もらった服を入れた袋を椅子の下へ寄せていた。
画面には、うちにも捨てられない服がある、と流れてくる。
寝るときだけ着ているTシャツ。ポケットの形が好きで残している上着。もう着ないのに、引っ越しのたびに持っていく一枚。
「引っ越しても持ってくなら、もう残していいやつじゃないですか」
『毎回、次こそ捨てようと思うんだよね』
「今日も、分けるつもりで出して、結局残したのあります」
「俺がもらおうとしたら、すごい早さで止めた」
「これは、最初から残すほうだっただろ」
言い合っていると、ねじまきが、服にも取り分がある、と書く。
三浦まで、コロッケはちゃんと半分ずつでした、と返すので、俺は笑ってしまう。食い物の話をしていたわけではないのに、パンのみみが、今日もおいしそうなもの食べてる、と加わった。
そこから、三浦が買ってきたコロッケの話になった。
ソースをかけるか、そのまま食べるか。俺は最初の一口は何もつけないと言い、三浦は途中でかけ忘れて全部食べたじゃん、と余計なことを言う。
「うまかったから、それでよかったんだよ」
「俺も別に、悪いとは言ってないだろ」
新しく挨拶した人が、友達との動画から来ました、と書いている。
俺は見てくれてありがとうと返し、今日も同じ友達が来ていると伝える。三浦が、また呼ばれました、とマイクへ顔を向けるので、服をもらいに来たんだろ、と言い返した。
そんな話をしているうちに、袖がまたずり落ちた。
机へ手をついた俺を見て、三浦が折り目を指す。
「それ、逆側も同じくらい折ったら?」
「同じにしたつもりなんだけど」
「こっち、もう一回いけるだろ」
自分で直してから画面へ両手を並べると、今度は揃っていた。
糸日和が、そのくらいなら手を洗うときも楽そう、と書く。俺は頷き、普段は脱いでから洗うことになりそうだと返す。
『最初から大きめを買ったの?』
「買ったときは、普通だったんですよ」
「俺が借りたとき、手首出てたしな」
「まだ言うか」
笑いながら三浦を見る。
あいつも、あの雨の日を思い出しているらしかった。さっき床で話したのと同じ顔をしていて、俺も袖口の染みをつまむ。配信の前と同じように、昔の自分が着ていたところが頭に浮かんだ。
「男だった頃は、これでちょうどよかったんだよ。お前と比べるから――」
三浦の笑いが止まった。
俺は袖をつまんだまま、何、と聞きかける。あいつの目が俺から画面へ動いて、そこでようやく、自分が今どこへ向かって話していたのか思い出した。
マイクの表示は動いている。
服が擦れる小さな音まで拾って、緑の線が伸びていた。
『男だった頃?』
『今、そう言った?』
喉が詰まり、唾を飲み込む。
別の話へ戻そうとしても、さっき何の話をしていたのか出てこない。手元には袖があって、三浦が隣にいる。それは何も変わっていないのに、画面の文字だけが急に読みにくくなった。
『昔は男の子っぽい服を着てたってこと?』
『からあげさんの話?』
違う、と言えば、何を違うことにするのだろう。
三浦のことでも、服の好みのことでもなかった。俺が何も考えずに口にした、俺自身の話だった。
三浦がこちらへ少し身を寄せる。
「……いったん、止める?」
小さな声だったが、机のマイクには届いている。
俺は返事をしようとして、うまく息を吸えずに一度口を閉じた。画面の端で、終了のボタンへカーソルを動かす。
押す前に、糸日和の名前が見えた。
『ごめんなさい、服の話の続きなのか、私もちょっと分からなくて』
謝ってほしかったわけではなかった。
さっきまで一緒に袖の長さを考えていた人を、俺の一言で困らせている。そのことに気づくと、黙ったまま切ることもできなくなる。
「……すみません。ちょっと、待ってください」
言えたのは、それだけだった。
カーソルを止めたまま、俺は袖から出した手を膝の上で握る。今夜話すつもりのなかったことを、画面の向こうでは、もう何人もの人が聞いていた。




