第3話 いつもの弁当と、いつもじゃない俺
三浦が来る少し前、俺はようやく着替えのことを思い出した。
朝からずっと寝起きのTシャツとスウェットのままだ。相手が三浦なら、今まで気にしたこともなかったが、今日は腰のところからしっぽが出ている。玄関で身体の向きを変えた拍子に、ずり落ちないとも限らなかった。
引き出しから別のスウェットを出したものの、問題は同じだった。紐を締めれば腰には合う。しかし、そのまま穿くとしっぽが中に入ってしまうし、外へ出すには腰を少し下げる必要がある。
背中のほうだけ下げてから紐を結び直し、Tシャツの裾を引っ張ってみる。鏡に映すと、前から見れば何とか服を着ているようだった。後ろは、なるべく見ないことにした。
上から何か羽織ればいいと思ってパーカーに腕を通すと、今度は袖から指が出なかった。二度折り返しているところで、廊下から足音が聞こえた。
この部屋の前で止まった、と思った直後に呼び鈴が鳴る。いつもは音がしてから気づくのに、今日は先に玄関へ目が向いていた。
「……今、開ける」
声をかけてから、知らない女の子の声で返事をしていることを思い出した。ドアの向こうの三浦にもそう聞こえているのだと思うと、鍵を回す手が少し鈍った。
扉を開けたところで、目が合わなかった。
三浦はいつも俺の顔がある高さを見ていて、俺は普段より上を向いていた。あいつの視線が下がってきて、ようやく互いの顔を見た。
「……瀬川?」
「ほかに誰が住んでるんだよ」
返してから、写真と電話だけでは信じきれなかったのだと思い出す。三浦は弁当の袋と、もう一つ大きな袋を持ったまま、玄関の外で固まっていた。
その視線が顔から頭の上へ移り、次に足元へ落ちる。しっぽを確認したいのだろうが、狭い玄関で振り返るのは怖かった。
「とりあえず入って。廊下に見せるものでもないだろ」
「あ、うん。そうだな」
三浦が入ったのを確かめてから扉を閉めると、やっと息がつけた。人に会うのは朝から初めてだった。友達を部屋に上げるだけなのに、買い物をひとつ済ませたくらい疲れている。
靴を脱いだ三浦は、こちらの背中を見て立ち止まった。俺も後ろを振り向き、しっぽを手で脇へ寄せる。
「踏まないでくれよ。普通に痛いから」
「分かった。……思ってたより、でかいな」
「俺もそう思う」
昨日までは存在しなかったものが、今は友達の通り道を塞いでいる。その事実に何とも言えない気持ちになったが、三浦が壁際をそっと通っていくのを見て、少し可笑しくもなった。
あいつは部屋へ入ると、手に持っていた大きな袋を床に置いた。
「クッション、これでよかった? 長いやつ、思ったより選べなくて」
袋から出てきたのは、紺色の細長いクッションだった。抱き枕ほど大きくはなく、片腕で持てるくらいのものだ。俺は受け取って指で押し、弾力を確かめた。しっぽの先まで支えるには少し短いが、寝るときにも使えそうだった。
「いい。助かる。いくらだった?」
「レシート入ってる。弁当も一緒」
いつもどおり、あとでまとめて送金することにした。その話をしている間は、三浦もあまり耳を見なかった。
椅子の隣の段ボールへクッションを置こうとすると、三浦が手を伸ばしたので、一瞬だけ身構えてしまった。あいつはそのまま箱を少し動かし、机から遠ざけた。
「ここだと、椅子のタイヤで箱を潰しそう」
「ああ、そっちか」
「そっち?」
「いや。何でもない」
耳やしっぽに触られると思った、とまでは言えなかった。自分が気にしているせいで、相手の動きまで気になっているのかもしれない。
箱の位置を直し、座ってしっぽを乗せると、タオルだけのときより身体の置き方が楽になった。途中が少し沈むので、先がずり落ちにくい。俺が小さく息を吐いたところで、三浦も床へ腰を下ろした。
「とりあえず、飯にするか」
*
買ってきてもらった唐揚げ弁当は、いつものものだった。大学近くの店の、唐揚げが四つ入っているやつだ。三浦とそれぞれ一つずつ開けると、狭い部屋に揚げ物の匂いが広がった。
割り箸を持った手が、容器の前で止まった。
朝のパンよりも、違いがよく分かった。いつもなら一口で食べている唐揚げが、今日は妙に大きく見える。持ち上げてかじると、熱い油が口に広がり、俺は慌てて箸を下ろした。
「熱い?」
「いや、食べられる。ちょっと、口まで変わってんだなって」
三浦は自分の唐揚げを見てから、俺の顔に目を戻した。
「身体、小さくなってるもんな」
「それ、さっき玄関で初めてちゃんと分かった。お前がでかくなったみたいで」
「俺もびっくりした。ドア開いて、顔がないから」
「あっただろ、下に」
三浦が少し笑った。俺も笑おうとして、まだ口の中に唐揚げが残っていることに気づき、先に飲み込んだ。
こうして喋っていればいつもどおりなのに、隣の腕を見ると、自分の手首の細さに気づいてしまう。三浦も俺の声にまだ慣れないのか、ときどき顔を見直していた。
目の前の弁当は変わっていないのに、食べる速さも、箸を持つ手も、いつもとは違う。それでも味は知っているものだった。半分にかじった唐揚げをご飯の上に戻すと、朝から初めて、ちゃんと腹が減っている気がした。
食べながら、起きてからのことを順番に話した。しっぽを潰して目が覚めたこと、洗面所で耳を見つけたこと、講義を休む連絡を入れたこと。三浦は相槌を打ち、ときどき箸を止めたが、途中で冗談にしてしまうことはなかった。
「鏡、最初は見るの嫌だった。でも、見ないとどこに何があるか分からないんだよ。服もこれだし」
袖を少し引っ張ってみせると、三浦が自分の手首を見た。
「俺の服貸しても、一緒か」
「むしろでかくなる」
「だよな」
そこで会話が途切れ、弁当の蓋を畳む音だけがした。俺は食べ終えた三浦を見て、これだけ変な話を聞いたあとに、何か結論を出さなければいけないような気がした。
「……まだ、信じられない?」
三浦は膝の上に置いた手を見つめ、少し考えてから答えた。
「起きたことは、分かんない。でも、今ここにいるのはお前なんだと思ってる」
「そっか」
「弁当の梅干し、蓋に逃がすのも同じだし」
自分の弁当を見ると、蓋の隅に小さな梅干しが乗っていた。ご飯が酸っぱくなるのが嫌で、最初に移しておくのが癖だった。そういえば、その動作だけは身体が変わっていても迷わずにやっている。
「お前、そんなとこ見てたの」
「今日、どこ見ればいいか分かんないんだよ」
困ったような返事がおかしくて、今度はちゃんと笑えた。笑った声はやっぱり知らない女の子のものだったが、三浦はもう、誰だとは聞かなかった。
蓋に避けた梅干しを、あいつが自分の弁当へ移す。俺は残りのご飯を食べながら、昨日もこうだったなと思った。
*
片づけを終えると、三浦は床に座ったままスマホのメモを開いた。
「今、困ってること。とりあえず書くか」
「原因とか?」
「それもだけど、今日と明日のこと。俺、そっちなら少しは手伝える」
今日と明日、と言われて、朝から頭の中で絡まっていたものが少しほどけた。元へ戻れるか分からない以上、その先を考えないわけにはいかない。でも、今から一生分の生活を決める必要もないのだ。
「服。あと、寝る場所。外出るなら靴も怪しい」
「靴、履いてみた?」
「まだ。履いても出られないし」
「サイズだけ確かめとこう。買うにしてもいるだろ」
玄関へ行ってスニーカーへ足を入れると、踵の後ろに指が何本か入りそうな隙間があった。紐を締めても、歩くたびに踵が浮く。部屋へ戻って報告すると、三浦は『靴』と打ち足した。
「大学は?」
「今日の講義は連絡した。明日もある」
「じゃ、欠席連絡。課題は俺が聞けるやつ、聞いとく」
「理由、何て言うんだよ」
「お前が休んでる理由まで、俺が説明する必要ないだろ。課題の話だけする」
それでいいのかと聞き返しかけたが、俺だって友達の欠席理由を全部知っているわけではなかった。今朝のメールのように、必要な相手へ必要な連絡をすることからなら、何とかできそうだった。
病院の話になったところで、また迷った。三浦にも、どこで診てもらえばいいかは分からなかった。少し考えたあと、俺が調べた近所の病院へ、まず電話で相談することにした。午後の受付が始まったら、俺から話す。途中で説明に困ったら三浦に代わってもらう、というところまで決めると、さっきより電話をかけるのが怖くなくなった。
「母さんにも、連絡しないとな」
口に出すと、急に気が重くなった。昼までに友達へ説明するだけでも大変だったのに、今度は家族だ。どんな声で驚かれるか、想像できるのがかえってつらかった。
「ひと息ついてからにする?」
「うん。ちょっとだけ」
三浦はそれ以上急かさず、メモを俺へ送った。画面に並んだ『服』『靴』『明日の欠席連絡』という文字を見ていると、しっぽを生やしたままでも、明日まで暮らす方法はあるような気がしてきた。
「そういえば、配信の人、箱置けって言ったんだっけ」
三浦がクッションを見ながら聞いた。俺は頷き、最初に外せと言われたところから話す。あいつは途中で吹き出し、申し訳なさそうに口を押さえた。
「俺も写真だけだったら、それ言ったと思う」
「だろうな。でも、外せないって言ったら、そのまま相談乗ってくれた」
「じゃあ、いい人だったんだな」
その言い方が妙に嬉しくて、俺はもう少し詳しく説明した。箱に座るなと先回りされたこと、立つときの注意まで教えてくれたこと。三浦はまた笑いながら、しっぽを乗せたクッションの端を整えた。
「そういう相談なら、またしてもいいのかな」
小さく口にすると、三浦は手を止めた。
「俺に聞く?」
「ほかに誰に聞くんだよ」
「……まあ、顔とか、この部屋の場所が分かるものとかは、今は出さないほうがいいと思う。俺も、何が起きてんのか分かんないし」
俺は頷いた。初めての配信は、困りすぎて始めたようなものだった。助かったのは確かだが、もう少し考えてから続けたほうがよさそうだ。
「でも、椅子の置き方とか、服の直し方とかなら、聞ける人もいるだろ。俺、裁縫とか全然できないし」
「俺もできない」
「そこは知ってる」
三浦が笑った拍子に、しっぽの先が動いた。クッションから少しはみ出した毛を眺めていたあいつが、躊躇いながらこちらを見た。
「……一回だけ、触ってもいい?」
何となく、いつか聞かれる気はしていた。嫌かどうか自分でも考えてみてから、毛の表面だけなら、と答える。根元は痛むから触らないように言うと、三浦は真面目な顔で頷いた。
指先がしっぽの途中を撫でた途端、俺の肩に力が入った。自分で触るのとは違って、どこを触られるか分からない。くすぐったくて身体をずらすと、三浦はすぐに手を引いた。
「悪い。痛かった?」
「痛くない。なんか、落ち着かない」
「分かった。もう触らない」
あいつはそのまま両手を膝へ戻した。あまりにも律儀だったので、俺のほうが少し困ってしまった。
「で、どうだったんだよ」
「何が?」
「しっぽ」
「……めちゃくちゃ、ふわふわだった」
正直な感想に、俺は笑ってしまった。三浦も少しだけ笑い、今度は目を逸らさずに俺を見た。
弁当を買ってきてくれた友達が、俺のしっぽに感心している。朝だったら想像もできなかった光景だ。それでも、この部屋で三浦と過ごしていることには、少しずつ慣れてきた。
壁の時計を見てから、午後の電話まで少し横になることにした。三浦が来てくれた安心からか、眠気が戻ってきている。
クッションをベッドへ運び、横向きになってしっぽの下へ差し込むと、今度は落ち着く位置が見つかった。身体に余計な力を入れずに済んで、目を閉じた途端、思っていたより疲れていることが分かる。
「ちょっと寝る。二十分くらいで起こして」
「了解。俺、こっちで課題やってる」
床に置いた鞄から、三浦がノートを出す音がした。椅子の脇には、しっぽの支えがなくなった段ボールが残っている。
「三浦」
「ん?」
「その箱、まだ畳むなよ。起きたら使うから」
返事の代わりに小さな笑い声がして、ペンを動かす音が続いた。俺はその音を聞きながら、今度こそ眠れそうだと思った。




